ブロックを壊す女


 新しいアパートから学校まで歩いて三十分かかる。

 運動するのには丁度よい距離感だ。


 新しい靴は履き心地が良い。……穴、空いてねえもんな。25センチの靴はいつの間にか29センチに成長していた。

 自分の事だけど、優太の事を考えると胸が苦しくなる。なんだってこんなに我慢していたんだ?


 メモは全部読んで頭に叩き込んだ。百科事典じゃねえからそんなに時間は必要ない。


 やっぱあれか、幼稚園を卒業して突然みんなの前か消えちまったから負い目を感じてたのか。


 それにしても記憶を無くすって不思議な感覚だ。

 小学校から突然気がついたら高校生になっていて、知らない喫茶店にいて、知らない女の子と一緒にいた。


 優太のメモで記憶の補完はある程度できたけど、自分が生きている世界じゃないみたいだ。

 ……これ、年取って記憶を無くしたら、そうとうショックだろうな。

 ガキだったのが、全部すっ飛ばしておっさんになってるなんてさ。


 だから、俺は堂島に会えてほっとした。

 自分を知っている人間だからだ。





 昨日、繁華街で買い物をしていると色んな人に声をかけられた。

 どうやら優太と知り合いだったらしく、笑みを浮かべながら近づいてくる。

 その中にはクラスメイトもいた。


『おーい、優太、こんな時間に珍しいな? お茶でもしようぜ』

『優太、この前はありがと! 助かったよ』

『優太君、今日もカッコいいね! あっ、彼女さんは一緒じゃないんだ』

『あらあら、荷物一杯ね。私も持とうか?』

『おう、優太、教室では悪かったな……。またカラオケ行こうぜ』


 嫌な視線じゃない。好意的な目で俺を見ている。

 いや、俺ではない。前の優太の事を見ている。


 俺は戸惑ってしまい適当な返事しかできなかった。

 俺の態度に不思議そうな顔をする者、少し悲しそうな顔をする者。


 ……そんな顔を見ても赤の他人にしか見えないから何も感じない。


 優太、嫌ってないヤツもいたんじゃねえか。……俺とは大違いだ。


 これじゃあ俺が嫌なヤツじゃねえのか?



 ****



「しかし今日は誰もいねえな……。ん? まて、今日って何曜日だ?」


 校門に着いても生徒の人っ子一人見かけない。もしかして……。


 スマホをチェックすると、今日は日曜日であった……


「休みじゃねえかよ!? 俺の馬鹿!! ……あー、学校来て損した。てか堂島と会えねえじゃねかよ。……あいつの動きを予測して探すか。っていうか、あいつも『またあした』とか言ってたよな」


 休日の学校は部活動の生徒しかいない。

 多分、堂島が学校に来ることはない。

 あいつも少しボケたところがあるから間違えたんだろ。


 校門の前でしばし考える。

 そもそも俺はこの学校の地形を把握していない。

 一応何かあった時のために逃走ルートでも確認しておくか。

 流石にこんな学校じゃ何も起こらないけどな。




 誰もいない校舎の中は新鮮で気持ちよかった。なんだろう、本来の学校の雰囲気を感じられる。


 相変わらずスマホがブルブル鳴っている。通知には――

 ……『妹』『エリちゃん』『サエさん』『瞳さん』『後輩ちゃん』『みどり先輩』『生徒会長』『後輩ちゃん』『後輩ちゃん』『後輩ちゃん』


 てか女の子ばっかりだな。

 通知を切ればいい話だが、必要な連絡もあるから難しい。


 あっ、ブロックすりゃいいのか。

 俺は手早くスマホを操作してよくわからない人たちをブロックした。


「よし、これでうるさくねえ。……ん? なんだ?」


 中庭のベンチにジャージ姿の女の子たちが固まって騒いでいた。

 一人の女の子と目があった。



「ああああーーーー!! 先輩だ!!! ちょっとなんで無視するんすかーー!!」


 また知り合いかよ。……いい加減面倒くさくなってきた。


 立ち去ろうとしたが、思いの外の素早さで俺の正面に回り込んだ。

 ちょ、お前もあの小学校卒業生? 見たことねし違うか。


「先輩、先輩! ブレイキングアップ勝利おめでとうございます! 一番の後輩としても鼻が高いっす」


「……お前の名前なんていうんだ」


「ほえ? 私の名前? 澤田瞳子っすよ?」


 鼻息が荒い澤田と距離を取ってメモをチェックする。


 澤田瞳子。女子ボクシング部に所属。明るくて楽しい女の子。迷子の犬を一緒に探したときに知り合った。嫌われ度は多分低い。


 ……判断がつかねえ。

 こいつのメモはあてにならないときもある。

 なんかこのやり取りも面倒になってきた。


 そもそも優太はこの世界に絶望して死にたいって言っていたんだ。味方なんていなかっただろ?

 こいつもどうでもいい。知らない女の子なんだから。


「あのさ、澤田。俺がもしも死にたいって言ったらどうする」


「え……? そ、そんな、私……、ひぐ、ひぐっ……絶対嫌っす。殴ってでも全力で阻止します」


「え?」

「ほえ?」


 なんでこいついきなり泣き出したんだ? ていうか、冗談言うなって返されると思っていたのに予想と違う返答が来た。


 正直戸惑ってしまう。

 だが、そんな事では俺の感情は何も動かない。


「俺が有名になって嬉しいか?」


「ほええ? ムカつく選手をぶちのめしてくれたのは嬉しいっすけど、別にそれはどうでもいいっす。ていうか、その強さにちょっとムカつくっす。あっ、ただの嫉妬です」


「……なんだコイツは」


「ちょ、可愛い後輩に向かって『コイツ』はやめるっす!」


「や、すまん。てかさおれ記憶無いんだわ。中学から一昨日までの記憶。だからお前の事わかんねえんだよ」


 後輩は真顔になり俺を見つめていた。

 時間にしてほんの数秒。

 俺にとって長い時間に感じられた。






「……匂い」


「は?」


「匂いがいつもと違うっす。雰囲気も違うっす。嘘言ってないっす。先輩、理由とかは聞かないっす。そういう時もあるっす」


「いや、お前の事知らねえし、どうでもいいと思ってんだぞ? これからもお前と関わるつもりはねえし」


「や、それは嘘っす。……えへへ、先輩が記憶なくなってもそれはそれでいいじゃないっすか。またイチから仲良くなれるっすね! あっ、自己紹介しなきゃいけないっすね。私、澤田瞳子っす! 先輩の後輩で迷子のわんこを探しているときに知り合ったっす!」


 この時、俺は全身に鳥肌が立った。

 初めて覚えた感情かも知れない。――恐怖というものだろうか。


 いや、なんだこれ。昨日、堂島と喋っていた時と同じ感覚だ。

 何か熱いものが腹の奥底でうごめいている。


「ああ、もう先輩泣いちゃだめっすよ。これ使うっす」


 後輩がハンカチを俺に押し付ける。ハンカチは子供が使うようなアニメのキャラクターが描かれてあった。



「それ先輩がプレゼントしてくれたんすよ!」


「覚えてねえよ」


 思い出は全部消えちまったんだよ。なのに、そのハンカチを見たら心臓がドクンと高鳴った。

 冷静なのが俺の取り柄だ。心を乱されるな。


「先輩は忘れててもいいっす。だって私が覚えているっすから」


「お前の事なんて知らねえよ。ただの赤の他人だ」


「だから、またイチから友達になればいいっすよ! ……ちょっと待ってて下さい!」


 後輩はベンチに戻り他の女子をなにやら話している。

 聞くつもりがなくても聞こえてしまう。


『やっ、私は今日部活をサボるね! えへへごめんね』

『ん、先輩の体調が悪そうだから付きそうよ。――やや、調子良くなったら戻るね』

『こら、変な邪推しないの。私は先輩を尊敬してるんだから!』

『ちゃんと練習するんだよ。では澤田瞳子、行ってきます!』


 後輩は荷物を抱えて駆け足で俺のところに戻ってきた。


「じゃあ行きますか!」


「え、どこにだ」


 動こうとしない俺の手を掴む。


 自分の感情がわからない。俺は、記憶に無い奴らなんてどうでもいいと思っているのに――


「病院って言いたいところっすけど、とりまサイゲに行きますか!」


 サイゲってなんだ? 俺はあの小学校にいたからこの世界の事がよくわからないんだ。

 だから頑なに人を拒絶する。俺にとってメモに書いてある事が全てだ。


「ミラノドリア食べたら泣き止みますよ!」


「別に泣いてない」


「うんうん、そうですね〜」


「なんだお前は」


「お前じゃないっす! 澤田瞳子っす! 馬鹿だけど元気だけが取り柄っす」





 結局、俺は澤田に手を引っ張られながら校門へと向かう。


 校門の前には一人の少女が佇んでいた。

 何やらショックを受けた顔をしている。

 昨日とは全然雰囲気も髪型も違うから一瞬分からなかったが、そこには堂島が立っていた。


「……日曜日? まさかの失態……、あっ、優太……!? ……女の子?」


 堂島は俺と後輩が繋いでいる手を見つめていた。

 そして再び驚愕の表情になり――


「そっか……、やっぱり私……」


 学校から背を向けて走り出した堂島。

 ふと、俺の手から温かさが消えた。……なんであいつ逃げるんだ? 待ってくれよ。俺の前からいなくならないでくれよ。

 寂しいのは嫌なんだ。


 何故か足が動かなかった。

 小学校の頃の思い出が走馬灯のように流れる。

 成熟しているようで未成熟な俺たちの精神。


 堂島が走り去って――




「ちょ、絶対誤解してるっすね!! 待ちなさいこら!! ちゃんと話をするっす!!」


 驚くべき速さで堂島を追いかける後輩。

 俺は展開がよく分からなくて呆然としていた。



「んだ、これ? ていうか、一瞬で追いつきやがった。あいつ……なんか能力あんのか?」


 澤田は堂島を逃さないように抱きつきながら必死で語っていた。


『誤解しないで下さい! わたし誤解されるの大嫌いなんです! 誤解される女で有名なのは返上したいっす!』


『べ、別に誤解してないし。優太が誰と仲良くしようが関係ないし』


『ああもう、泣いてるじゃないっすか!? 馬鹿なんですか? 先輩は記憶ないし、この子は逃げるし』


『……優太の記憶の事、信じてるの?』


『当たり前っす! 先輩は嘘付かないっす。ささ、一緒にご飯食べて話しましょ!』


『ご飯……、うん。食べる』


『ほら、先輩が笑ってるっすよ』


『……あっ、珍し』



 俺が笑ってる? そんな事はない。

 そう思っていたが、顔を触ってみると確かに笑っている。


 なんだろう、すごく清々しい気分だ。こんな風に笑うのって……いつ以来なんだろうか。





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