恋人に何度も冗談で別れを告げられて限界に達した俺は記憶を消去した。
うさこ
失くした記憶
「もういい! あんたと別れる! 死んじゃえばいいの!」
これで何度目なんだ? 俺、
付き合うと言っても、こいつの遊びから始まった事だ。
『ねえ、罰ゲームであんたと付き合う事にしたから今日からよろしくね』
意味がわからなかった。その頃の俺はエリの事が好きで正直うれしかったけど、この三年間は最悪だった。
あれだ、惚れた弱みって言うやつだ。
『ふんっ、私はいつでも別れていいのよ! あんた私の言う事聞きなさいよ!』
『はっ? なんで他の女子と話してんのよ! あんたは私とだけいればいいのよ!』
『あんた私に惚れてんでしょ? もういい、別れるわよ!』
喧嘩する度に別れを切り出される。正直心がもう限界だった。
別れてやる、何度もそう思った。
でも、あの時のこいつの顔を思い出すと強い態度を取れない。
俺は小学校の頃の記憶が全くない。
幼稚園の頃の記憶は残っていて、エリといつも遊んでいたんだ。
気がついたらボロボロの身体でベッドから目覚め、エリは泣きながら俺にしがみついてきた。
あれが俺の新しい記憶の始まりだ。
あの時のエリは可愛かった。本当に可愛くて毎日一緒にいられて幸せだった。中学一年から高校二年になった現在――
喫茶店で向かい合う俺たち。
「だからもう別れてやるわよ。あんたなんか何も取り柄がないしダサいしキモいし、死んじゃえばいいのよ! てか私、隣のクラスの斎藤くんに告白されたのよ。あのイケメンの斎藤くんに!」
もうあの時の優しいエリはいないんだ。
キモいと言われる度に嫌な気持ちが湧き上がる。
好きな人から罵声を受けるのは心が痛む。
「そっか、なら別れよっか」
「ふ、ふん、馬鹿! 別れるのは冗談よ! どうせあんたは私の事が好きだから別れられないでしょ! 罰としてあんたは週末のデート全部おごりね」
「いや、記憶を消せば恋心も消えるだろ。うん、そうしようぜ。もう痛いのは嫌なんだよ。斎藤君と仲良くやってくれや」
「はっ?」
嫌な記憶は消せばいい。大切な思い出なんてただの記憶だ。覚えていなければ存在しない。
記憶なんて消せるわけがない。なのに今ならできそうな気がした。
そう思ったら心臓の鼓動が早くなってきた。胸の痛みが尋常じゃない。針で心臓を刺されているようだ。
頭が破裂しそうになる。嫌な気持ちがどんどん湧き上がる。この数年間溜め込んだ想い。エリから受けた悪気、クラスメイトから受けた悪意、家族から受けた悪意――
頭の痛みが限界だ……。
自分が作り変えられるような感覚。お人好しで泣き虫で感情的な自分の心が消えていく。
そして残ったのは――
俺は飲みかけのアイスコーヒーを見つめた。砂糖もミルクも入っていない苦いコーヒー。それは自分を写しているようであった。
「…………冗談じゃねよ。そもそも罰ゲームでいやいや付き合ったならいつかは終わりを迎えるはずだ。今日がその日なだけだっての」
「え……、ちょ、マジトーンやめてよ。ま、まってよ! あんたどうしたのよ? そこはあんたが泣いて謝るところでしょ!? あんた泣いてるじゃん!」
俺はエリに向かって丁寧に頭を下げる。
「冗談でもいままでありがとうな。こんな俺と付き合ってくれてありがとな。……病院のベッドから目覚めてお前がいたのは本当に嬉しかった。俺は本気でエリの事好きだったんだ、エリは遊びだったけどさ。……エリはこれからは自由に生きてくれ。あばよ――」
「え、え、な、なに言ってんのよ!? あんた――」
一瞬視界が揺らいだ。
忘れていた小学校の頃の記憶が洪水のように流れ込んでくる。
さっきとは違う痛みが俺の心に食い込む。
頭の中で冷静に分析する。
断片的な記憶を頼りに、俺は自分を再構成する。
――俺は記憶を失くした。
眼の前に呆然とした顔の女の子がいる。もう名前もわからない。
ならもう関わらない方がいい。
ふと、自分の目元が濡れている事に気がついた。泣いていたのだろうか? もう記憶がなくてわからない。
記憶とともに自分の感情のあり方がよく分からなくなっていた。
俺の記憶は小学校卒業で止まっていた。地獄はまだ続いているんだ。
……小学校卒業以降の記憶が全くない。
とにかく家に帰ろう。まずは持ち物の確認をしなくては。
そういえばこの子は幼稚園の頃に仲が良かった女の子にそっくりだ。……どうでもいいか。
「すいません……、ちょっとここどこですか?」
「ちょっと、あんた待ってよ!! 何ふざけてんのよ!?」
「え、っと、誰ですか? もしかして知り合いですか? すいません、さっき頭痛があってなんか何も思い出せなくて……」
俺たちに何があったのか記憶にない。
「ゆ、うた? 冗談って言ってよ。……まさか本当に」
彼女は自分の身体を抱きしめていた。震える身体を抑えているようにも見える。
知らない人だからあんまり見ちゃ駄目だ。
……俺はこんなところで何をしていたんだ? 状況を確認しよう。
俺は呆然としている女の子を置いて家に帰る事にした。
なんだか心が空っぽになった気がした。
****
「兄貴、てめえはブレイキングアップの撮影今日だろ?」
「……ブレイキン? ちょっとまって」
俺は几帳面な性格だったらしく、行動を事細かくメモを取っていた。
ポケットに入っていた手帳には直近の予定が書いてあった。
どうやら今日はクラスメイトが冗談で勝手に応募した、ブレイキングアップという素人が喧嘩をする配信番組にでる予定みだいた。
俺は暴力が嫌いだ。
「んだよ、てめえ忘れてんのかよ。はぁ、マジで使えねえ兄貴だな」
……この子は俺の妹だ。多分高校生くらいに見える。かろうじて幼稚園の頃の面影がある。
正直、そんな事をしている暇はない。理由はわからんが俺は記憶を失くした。ポケットに入っていた保険証を頼りにこの家までなんとかたどり着いた。
これから自分の部屋で状況の整理をしなければならない。
「早く用意しろや。出場して馬鹿にしたクラスメイトや彼女を見返すんだろ?」
「や、別に俺は……」
幼稚園の頃、俺は妹に嫌われていた。弱々しくて意気地なしで馬鹿にされている俺の事を兄だと思えなかったらしい。
多分今も嫌われてんだろう? 家族から疎まれているのがよく分かる。
……記憶がなくなったのをバレたら面倒そうだ。この用事を済ませてから調べればいいか。
「了解、会場まで案内してくれよ」
「はっ? 兄貴の分際でなに命令口調なんだよ。マジで死にてえのかよ?」
「いいから早く案内してくれよ。場所よくわかんねえだよ」
「……ちっ、仕方ねえな。ていうかエリはどうしたんだよ、一緒に行くんだろ?」
「エリ? 誰だそれ? ああ幼稚園の頃の近所の女の子か」
妹は衝撃を受けたような顔をしていた。手に持っていたアイスを落としても拾おうとしない。
俺はアイスを拾ってシンクの水道で軽くすすぐ。まだ食べれるだろう。
「あ、兄貴? あんたまさか……また」
「ほれ、洗ったからまだ食べれるだろ。食べたら行くぞ」
「う、うん……。あ、あたしの事覚えている?」
「あん? 何いってんだよ。お前は俺の妹だろ?」
多分、そうだろ? いまいち自信ないけどよ。
何故か妹は素直に頷いてアイスを受け取ってくれた。そして俺たちはブレイキングアップなる大会に向かう事にした。
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