二章

サティの夜明け

 硝子の不協和音が耳障りだった。軒下の一箇所にいくつもの風鈴を一緒に吊るしているからだと文句を言おうにも、この音を不快に思っているのは俺だけらしい。もう二週間も吊るしっぱなしになっているのがいい証拠だ。仮に文句を言ったところで、笑って聞き流され、同じ不協和音が鳴り続けるだろう。

 普通、この硝子の音というのは、涼を感じさせる風物詩のひとつらしい。澄んだ音は、どれかひとつだけを取り出してみれば、確かに冷たさが心地良い、涼の音色をしているのかもしれないが、寄り集まって一緒に鳴り始めた途端、如何な調性も感じさせない、握りつぶされ圧縮した、不快な和音にしか聞こえなくなる。

 寝返りを打って、座布団に右耳を押し付ける。天井に向いた左耳はまだ風鈴の音を聞いていて、それらの鳴らす音はやはり、居心地が悪い。左耳も塞いでしまおうと、周囲を手探りしてみるも、手にぶつかるのは机の脚か、畳の目かといったところで、使えそうなものは見つからない。仕方なく、頭の位置をずらして、座布団が右耳だけでなく左耳も覆うように、自分の頭を座布団が挟み込むように、滑らかな布地を引っ張る。耳の上から、厚みのある柔らかな素材を押し付ければ、少しは音が遠ざかったような気がした。

 音が遠くなれば、そこへ見えている景色もまた、遠くなったような気がする。毎日通っている廊下、毎日腰掛けている縁側、毎日眺めている庭であるのは確かなのに、そこへあるものが自分とは縁遠いように感じられる。親しんでいるもののはずなのに、親しみが感じられなくなる、ということは、遠くなった不協和音は、自分が気付かぬ間に、日々の生活の中へ必要なものになっていた、と言うことが出来るのだろうか。あまり、認めたくはない。硝子の音色が催させる、爪先から染み入るような不快感が、自分の日々に必須になっているらしいということは、認めてしまえば、いつかはこの風鈴の音色をよしとしなければならなくなるのだろう。

 ため息をついて、目を閉じる。眠たいわけでもないのに、視界が暗く、音も遠いのだから、このまま意識が遠のいていきそうだ。そうして無為に過ごすのも良いかと思う。夏の空気は暑く蒸されていて、動けば動くほどに体力を奪っていく。動かないでいても肌の上に汗が湿っていくが、体を動かして流れる汗とはまた性質が違うと思う。少なくとも、大量に流れて一挙に体力を奪っていくようなものではない。ほんのわずかな風を受けて、涼しさを感じさせるためのものかもしれない。思考を続けるのがまどろっこしくなって、微かな心地よさに身を任せてしまいたくなる。風鈴の音は聞こえない。そのくせ、さっきまではなかった蝉の声がする。燦々たる夏の声だ。きっと、外の日射しにはお似合いだ。

「昌浩くん」

 風鈴の音より、蝉の鳴く声より近くで、高い男の声が俺を呼んだ。背中の側だ。上から声が降ってきた。座布団なぞなんの役にも立ちはしなかった。蝉の声が遠くなり、風鈴の音はまたやかましくなる。苛立ちとも失望ともとれそうな腹の虫の騒ぎをこらえながら、座布団を押し付けていた手を離す。柔らかい綿を詰め込んだ平たい布袋が、畳の上で平らに戻る音がした。

 膝を立てながら体を起こし、畳に片手をついて、体の正面を後ろへ向ける。さっき俺を呼んだ声の主が、腕組みをしてそこへ立っていた。普段着としているらしい濃紺の浴衣を、いっさいの乱れなく着こなしている。浴衣の襟元にも、首筋にも、汗ひとつかいていないようだ。見下ろしてくる顔のとる表情も至って平静で、暑さを微塵も感じさせない。涼しい顔に、一層腹立たしさが募る。

「なっちゃんがどこ行ったか、知らない? 家の中に居ないみたいなんだけど」

 ささやかな疑問に、首を横に振って答える。たとえ知っていても教えてやるいわれなどないというのが本心だが、生憎、本当に知らなかった。ふたりで暮らすには些か広すぎる家であるから、通り一遍、探しただけでは見逃しているということもあり得るだろうが、首を捻りながら「三周はしたんだが、おかしいなあ」と宣ったので、どうもその間違いはないらしい。家の外へ行ったのだろう、と言ってやれば「それがどこへ行ったかなんだがなあ」と、後ろ頭をかきながら、腰に手を当ててうなだれた。

 なんだ、そんなに急なのか。尋ねれば、「うん、まあね」と曖昧な返事をする。俯いたまま、その場へ膝をついてしゃがみ、脚を折り畳んで正座をする。背筋はまっすぐに伸び、居住まいはきちんとかたく整っているのに、俯いた顔のとる表情が、不釣り合いに暗くよどんでいる。

「昼ご飯が用意されてないんだ」

 それが吐き出した言葉が、あまりにくだらない用件だったものだから、さきの一瞬、こいつのことを芯から心配し、何か慰める手だてでも用意してやろうかと考えたことが阿呆らしくなって、困って眉尻を下げているのをきつく睨みつけながら、馬鹿か、と一言投げかけ、畳の上へ仰向けに寝転がった。電灯の紐が、ゆら、ゆら、わずかに風に揺れている。風鈴の音が鳴り止んだ。

「腹が空かないかい、昌浩くん」

 知るか、と返してはみるものの、言われてみれば、腹の虫が騒いでいるのは、そのせいである気もしてくる。今が何時かは知れない。朝方からのんべんだらりと過ごしていたが、そろそろ正午を回っているのかもしれない。那智が準備していった昼食をとるのは、いつも正午過ぎのことだった。

 腹に力を込めて体を起こし、何か食うか、と尋ねるのに、間髪入れず笑顔を見せて「昌浩くんが作ってくれるなら」と答える。お前も手伝え、和孝。働かざるもの、「食うべからず」。言葉が重なるのは、いつもいつも聞いているからだろう。

「僕より昌浩くんの方が、働かざるものな気がする」

 笑顔のまま、確かに事実であることを述べる口元が小憎らしくて睨みつけるものの、それにすら笑顔を返されてしまえば、これ以上気を張っているのも面倒くさくなる。ため息を吐きながら立ち上がって、組んだ手を天井へ向けながら伸びをしていれば、「スパゲッティが食べたいなあ」と呑気な声が宣っている。腕を下ろすのと一緒に視線を向ければ、何が楽しいのかも分からないが一点の曇りもない笑顔が「宜しく」と自分の意思を押し付けてくる。それを突っぱねるのも面倒だったので、頷きはせずに、台所の冷蔵庫の中身を思い浮かべた。


 ケチャップの赤色が皿と言わず机の上にもべとりと跳ねる。食い方が下手なのだ。フォークの持ち方が、柄をただ四本の指で握ると言うだけなのだから、細かい動作が出来るはずもなく、長いスパゲッティをすする羽目になっている。麺に絡まったケチャップや、細かく切った具材が、口の中に入らずに、唇を汚してぼとぼと下へ落ちるのはそのせいだった。しかし、自分の着ている浴衣には全く染みひとつつけていないというのが、不思議である。妙な器用さというのか、それはわざとなのか偶然なのか。溜まった呆れが口をついて出るより先に、和孝は「食べづらいな」と、皿の上のナポリタンスパゲッティが半分ほどになっているのに、ようやく、フォークを下ろす。ケチャップのついた先を皿の端へ引っ掛けて、細い柄を机に置いた。

「箸が使いたいよ」

 自分でとってこい、と言えば「うん」と素直に頷いて、立ち上がる。「昌浩くんは良いかい?」と聞いてくるのへ首を横に振れば、和孝は「分かった」と返事をして、部屋を台所の方へ出て行った。偶然なのか、和孝の背中がふすまの向こうへ見えなくなるのと同時に、風鈴がまた不協和音を奏でる。その向こう側に、玄関の戸が引かれる音がした。続いてただいま、と言う那智の声が、それに応えるお帰り、と言う和孝の声がする。どんなタイミングで帰ってくるんだ。昼食はふたり分しか用意していない、追加で作る分の手間なぞは気にしないが、那智に、ふたりだけおいしいものを食べて、と冗談でもってからかわれるのが目に見えている。

 足音が動き回っているのは、和孝が台所と玄関を行き来しているのだろうか。忙しなく走り回るほどこの家は広くないと思うが、気持ちが急くのであろうか。「なっちゃん、持つよ」と軽やかに声が跳ねている。それへの返事は聞こえなかったが、 足音に混じって荷物の受け渡しらしい、ビニール袋が擦れるような音が聞こえる。それらの音が風鈴の音よりも近くになって、ふすまの陰から、紺色の浴衣の袖が見える。白い腕は、まっ白いビニール袋を提げている。中身が黒く透けて見えている。てっきり昼食どきの買い物でもしてきたのだろうと思っていたから、透けて見えたその色が予想外で、眉根が寄る。袖だけでなく全身が見えた和孝の、後ろへ続いて部屋に入ってきた那智は予想通り笑っているが、那智へ手を引かれて、見知らぬ、痩せぎすの子どもが無表情にそこへ立っている。この暑いのに長袖のシャツを着て、長ズボンを履いている。子どもの目は、部屋の天井をちらりと見た後、俺へ向いた。その子どものまなざしは怯えや戸惑いすら感じさせない、凪いだ海を思わせる静けさで、じっと、俺から逸らされることもない。これは本当に子どもだろうかという馬鹿げた問いが浮かび上がって、喉の奥に引っかかってくる。子どもの背丈は、手をつないだ那智の腰を少し越したぐらいなもので、成長途上であるのは明らかだというのに。

「ただいま、昌浩くん」

 まったくいつも通り、那智は俺へ挨拶を投げかけて、ぱちぱちと瞬きをしたかと思うと、机の上へ視線を落とす。食べかけのスパゲッティ・ナポリタンが二皿と、ガラスのコップと麦茶のポット。そのどれに興味を引かれたものか、おそらくは赤い色の二皿になのだろうが、那智は机の上を眺めたままで「おいしそうなもの、食べてたのね」と可笑しそうにつぶやいた。

「私たちだけ仲間はずれ」

「なっちゃんが帰ってこないからだよ。遅かったから」

 和孝が、笑い混じりなのに文句めいた那智の呟きへそう答えて、もとの座布団の上へ座り込む。いつ持ってきたのか、右手には茶色い箸が握られている。ビニール袋はどうしたのかと視線をさまよわせると、部屋の隅へ、黒色が透けて見えるビニール袋が放り出されている。それのことはもう忘れたようで、和孝は妙な真剣さでもって箸の一本を麺の下へ入れ、赤く染まったスパゲッティの束をつかむと、大きく開けた口へそれを運び、入りきらなかった残りをすする。また、唇の周りが赤く汚れた。何もかも、フォークでも箸でも大差ないように見えた。

「私たちも食べたいわね」

 那智がその場へしゃがみながらそう言い、手をつないで立ったままの痩せぎすの子どもを見上げて「ねえ?」と笑顔で同意を求める。子どもは那智を無表情でじっと見つめたまま、口を開かない。首も動かさなければ、座り込もうともしない。本当にこれは子どもだろうかという疑問がまた、喉の奥まで浮かび上がってくる。しかし那智は「そうよね、食べたいわよね。お腹、空いたものね」と、あたかも子どもが那智へ返事をしたかのように、子どもの顔を下から覗き込みながら言って、それから、俺と和孝を交互に見た。和孝が、赤く汚れた箸先で俺を指す。行儀が悪いと苦言を呈するよりも早く、「昌浩くんが作ってくれるのね」と、那智が俺を見る。笑顔でもってそう頼まれれば、俺には断ることは出来ない。分かった、分かったとうなずきながら立ち上がれば、「ありがとう」と那智から声がかけられて、きっと次も断れないのだろうなと思う。

 子どもはまだ無表情に、那智に手を握られながら突っ立っている。痩せぎすなだけでなく、顔色が青白くも見えた。あまりたくさんは食べられないかもしれないが、作りすぎても食べられる人間は三人もいるから、とりあえずさっきと同じふたり分を作れば良いだろう。少し待ってろ、と言うと「はあい」と那智が返事をして、その横の子どもが小さく頷く。はじめて子どもが見せた動きに驚いたのに、和孝がまた麺をすする音がしたので、すぐに呆れが勝って、ため息が出た。


 蛇口から流れる水が食器についた洗剤の泡を洗い流す音に声を食われながら「しばらくうちで預かるのよ、あの子」と、那智が言う。視線は泡の切れた食器に落とされていて、那智の日焼けした手はそれらを水切りかごへきれいに並べていく。よどみない動作は、言葉の内容とはまったく無関係なようだった。

「一応、私の遠い親戚ね。名前は慧。苗字は……別に良いでしょう、呼ぶこともないし」

 スポンジで赤い油汚れを拭った泡だらけの皿を、那智へ手渡す。目が合うと、申し訳なさそうに笑って「でも、可愛いでしょう」と小さく言って、皿を蛇口の水へかざす。それは丁度、さっきの子どもの前へ置かれた皿だった。大人の一人前の半分ほどの量だったが、子どもには充分の量だったらしく、食べ残しもなければおかわりの要求もなかった。それができるほどここへ慣れていないといえば、それもそうなのだろうが。

 しばらくはいつまでだ。そう聞いてみたのへ「昌浩くんよりは、長くよ」と、目を合わせないままで悪戯っぽい笑いが返る。自分とは関係がないこと、単純な興味から尋ねたことであるのに、予想外に自分の進退とからめた返事をされて、思わず眉間に皺が寄る。それでも手を動かすのを止めないでいられるのは、食器を洗う動作が、何も考えなくても出来るほど、自分の手先へ染みついているものだからだろう。ガラスのコップをスポンジでこすって、シンクの中へ積み重ねる。がちゃがちゃと水切りかごを整理していた那智が、重ねた一番上のコップを手にとった。

「だって昌浩くんが居るのは、夏の間だけでしょう。あなた、来たときにそう言ったんだから」

 ガラスのコップの縁に蛇口の水があたって跳ねる。外側へ広がり、波打った縁の形のせいで、水は、俺と那智の方へ跳ねる。泡の混じった水が服の胸の下かかったが、それを気にするよりも、那智の言ったのへ反論を考えるのが先に立つ。反論をしようと、ここへ来たとき自分の言ったことを思い返す。

 暑さが暮れるまで、置いてくれ。

 残念ながら、那智の言った解釈で間違いはなかった。食ってかかって訂正を求め、呑ませることは出来なくはないだろうが、得られるものとかける労力が釣り合わないだろう。そもそも、那智の口が立つのか、俺の口下手が過ぎるのか、言葉の上で那智に勝てた試しがない。苦々しい思いで奥歯を噛みしめ、目を細める。汚れを落とすべき食器はもうなくなっていた。那智が白い泡まみれになった食器を次々と水へかざして、泡を落としていく。手際の良い流れに俺が入る隙間はなさそうだったので、スポンジを置いて、洗い桶の水に手をひたして泡を落としてから、後ろに下がる。食器棚がすぐ背中にぶつかった。

 口を閉ざせば、勝手口が近いからか、蝉の声がやかましい。外の風が止んだのか、風鈴の音は鳴っていない。蝉も風鈴も、理由は違えど、どちらも耳障りには違いないが、まだ、蝉の声の方が耐えうるように思われる。それは、蝉がやかましく鳴くことは蝉が蝉であるが故に仕様のないことだと、納得できるからなのだろう。蝉に鳴く声を控えろと言うことは、死んでしまえと言っていることと同義だ。地面へ腹を上にしてひっくり返り、次第に乾いていく六本脚の昆虫のからだ。どこか不気味な想像は、如何なる音も伴ってはいなかったので、やはり、声を上げて鳴くことは生きているということとほとんどぴたりと重なるだろう。対して、風鈴の不協和音はといえば、あれは原因の音を取り除くことが出来るものだ。音と音とが混じり合わない別の場所へ、ぶつかった一音を移動させるだけで良い。それだけで解消されると分かっているのに、いい加減自分は何故耐え続けているのだろうと、振り返ってみて嫌になる。

「すごい顔ね、昌浩くん」

 那智が、いつの間にやらこちらを振り向いて、瞬きをしながら俺を見ている。まだ濡れている指先を眉間に当てると「ここの皺が、大変なことになってるわよ」と可笑しそうに言う。食器はすべて片付け終わって、流し場へ流された洗い桶の水が、ゆっくり渦巻いて排水口へ吸い込まれていっている。那智を真似ることはしなかったが、意識して眉間の間を伸ばすように、ゆっくり目を閉じては開けるのを、繰り返す。

「考え事は、なあに?」

 お前には関係ない、というのは通用しない。言い返しづらい反論がくるのが分かっているので、風鈴の音が気色悪い、と正直なところを告げる。初めて言ったことでもないし、聞いたことでもなかろうに、那智は大げさなぐらいに、不思議そうに目を丸くすると、その目を閉じながら首を傾げて見せる。頬の上に浮かんだ汗が、顎まで伝って流れ落ちた。

「私の範疇じゃないことね」

 だから、困ってるんだ。

 言い返したが、目を閉じたままの那智には聞こえていない。わざとそうしているのだろうと思う。こと、那智はこの件について、俺の味方をしはしない。この家へ居場所を置いてくれているだけ良しとすべきで、感謝こそすれ非難など、する気にもなれないので、口を噤む。見計らったように那智が目を開けて「向こうで、和孝くんと慧と、遊んであげて」と、庭の方を示しながら言う。そこはまた、風鈴の音が近いところであって、那智とて当然知っているのだろうが、俺へその音の近くへ行けと言う。何も言えなくなりながら、俺は那智に背を向けて、台所を出た。


 一階の廊下を無意味に三周ほど歩き回ってから、ふたりが居るであろう部屋へと向かう。俺が無駄足を踏んでいる間に外に出てくれないだろうかという仄かな期待を寄せていたのだが、敢えなく潰えたようだ。甘やかすようなゆっくりとして、低い声音が何かを語りかけている。聞こえてくる声はそのひとつきりだった。

 角を曲がれば、風鈴を吊した下に、大きな背と小さな背が並んで腰かけている。手前の子どもに専ら、紺色の浴衣を着た和孝が話しかけているようで、子どもは和孝が言うのへいちいち、声を出さずに応じているようだ。よく、そんな面倒くさいやりとりができる。

 半ば呆れた気持ちでそれを眺めていると、ふと視線をあげた和孝が、俺に気づいて「あ」と声をあげる。俺を見上げたまま「昌浩くん」と、片手をあげて呼びかけてくる。和孝へつられたのだろう。子どもの方も、俺をぐるりと振り向いた。表情の感じられない、静かなまなざしは、じっと俺を見つめるばかりだ。やはり、子どもらしからぬ。これまでこの家で過ごしてきた限り、自分の持つ子どもの像というものは、世間一般と大きくはずれていないようだから、異質なのは俺ではなく、子どもの方なのではないかと思う。子ども――先ほど、那智は「慧」と名前を言っていた。

「慧くんと喋ってたんだ。昌浩くんも入るかい?」

 どうやってだ。なんの計算もせずに言っているらしいのへ言い返せば、和孝は「あれ」と首を傾げ「そういえば、そうだね」と、間抜けな答えを言い言い、頷く。その間も、子どものまなざしはじっと俺を見つめている。何だ、と尋ねてみようにも子どもに俺の言うのは聞こえないだろうから、黙って見つめ返す。「睨めっこでも始めるつもりかい」と和孝が可笑しそうにするのにはなんとなく腹が立つが、感じるがままに言い返すのも癪で、そちらを向かないことにする。代わりに、庭の方を向く。視界の端に映る風鈴は、短冊が風を受けてゆらゆら揺れている。聞かないようにしていた硝子の音が、目を逸らすよりも先に、耳に飛び込んでくる。五つもが同時に鳴るための不協和音は、心地良くない、耳障りなものなのだ。それよりも、子どもと和孝の話している声を聞く方が、よっぽどましだった。

「座るかい、昌浩くん」

 和孝が自分の隣の床を叩く。機嫌良く笑っている。きっと他意はないのだろうと思わせる声だった。明るく真っ直ぐにしている。わざわざその裏を読むのも面倒だから、もう言われた通りにしてやろうかとも思うが、場所が悪い。風鈴の群の真下など、どうして座り込む気になれるのか。

 風鈴を外した後なら座る。そう言えば、和孝の顔からすっと表情が消える。横の子どもは俺が言うのを見て和孝の方へ視線をやっていたから、その変化に驚いたのか、目を丸くしている。笑うと人好きのする相貌だが、そうでないとき、何の感情も顔に表していないときの和孝の顔付きは、まるで冷たい。元より整っているからというのもひとつの理由だろう。しかしそれが理由となる以上に、無機質な冷たさ、人形を思わせる素っ気なさが際立つ。いつも通り笑みを浮かべている間との落差といったら、子どももわずかに後退りして当然だろう。そうする子どもの目はまだ丸く見開かれたままである。

 冷たい眼差しが真っ直ぐに俺を射抜く。口元だけがにいっと笑みを象った。背筋を悪寒が走り、全身の産毛が逆立つのが分かる。笑顔ではあるが笑顔ではないそれから、しかし目を逸らせない。逸らしたところで後でもっとひどいことになるだけだと分かっている。

「嫌だよ。昌浩くんがこんなに嫌がるのに」

 和孝の言う理由がこの通りなのがその良い証拠だ。こいつは分かっていながら、敢えて風鈴の群をここへ吊るし続けているのであって、俺の訴えはいつも、こいつを喜ばせる結果になるだけなのだ。もう何回目かの挑戦は、またあえなく失敗に終わった。諦めの気分とともにため息をつく。和孝が目元までにいっと笑みを作った。口元も笑みを作ったままであり、数度瞬きをすれば、いつもどおりの、人好きのする笑みになる。そうして笑いながら、自分の横の空いた床を叩くのへ、逆らう理由も今はもうなかった。ため息をつきながら、子どもと反対側へまわり、ゆっくりとしゃがみ込む。腰を下ろした板張りの床は、軒がちゃんと日除けになっていたのか、少しひやりとして心地がよい。

 子どもが和孝の体の陰から顔を覗かせて、「まさひろさん」と俺を呼ぶ。何だ、と言い返せば、子どもは分かっていない風で、まばたきをして俺の口元を見ている。「どうしておはなししないの?」子どもはそう尋ねて、首を傾げる。また、自分の眉間に皺が寄るのが分かった。どうして那智も和孝も、こんな子どもにちゃんと説明をしていないのか。しかしそのことを責めても俺が望むような反応は返って来ず、ほとんどからかわれて終わりになるだろうことは目に見えていた。

 ため息をつき、子どもに向けてゆっくりと言う。話しても、お前に聞こえないだけだ。それでも子どもにはまだ分からない。俺の言っていることが分からない様子で、子どもはこてんと首を傾げ、助けを求めるようなまなざしを和孝へ向けた。それは、さっき、食卓を囲んでいたときからは考えもつかないような仕草だ。そうして子どもに縋られた和孝は、いつもの人好きのする笑みを浮かべながら、口を開く。

「昌浩くん、話せなくても口笛は得意だよ。ねえ?」

 しかしそれがまた、わざわざ俺へ動くのを求めるようなもので、眉間に寄った皺が深くなる。ちゃんとした説明というものを和孝に求める方が間違っていたというわけで、少しでもそれを期待していたということは、俺はまだ、こいつに甘いのか、よく分かっていないのかもしれない。

 子どものまなざしはいつの間にか和孝から俺へ向けられている。そわそわしながらと何かを楽しみにしているような、仄かな期待のにじんでいるような、まっすぐに飛び込んでくるまなざしだ。それへ答えずにそっぽを向くことは容易いが、子どもから目を逸らして空を向き、唇を尖らせる、渋々のつもりでそうする俺は、端から見れば、ただ単に子どもにも和孝にも甘いだけなのだろう。

 狭く、細長くした唇の隙間から、勢いよく息を流す。Cの音を長く引っ張る。横目に見えた子どもが目を丸くして、今にも身を乗り出さんばかりの勢いで、俺の口笛を見ている。その反応は少し気分が良かった。得意げにその場で腕を組む和孝への怒りを、忘れてしまうほど。

 一旦、Cの音を止める。それから、短く音を切りながら、口笛を吹く。那智ならきっとこう数えるだろう、「ド・ド・ソ・ソ・ラ・ラ・ソ」。わずか、体を左右に揺らしながら、和孝が俺の笛に合わせて口ずさむ、「き・ら・き・ら・ひ・か・る」。子どもの口がはくはくと動いて、言葉を探しているようだ。

 次の音を吹く、「ファ・ファ・ミ・ミ・レ・レ・ド」。子どもが小さく歌うのは、「お、そ、ら、の、ほ、し、よ」。あどけない、さっき俺へ素朴に尋ねてきたのと、同じ声だった。和孝は口を閉じて、にこにこと満足げに笑っている。風鈴の音は、聞こえてこない。


 子どもが駆け回る軽快な足音が聞こえる。その音は何の迷いもなく俺のいる部屋の方へ向かってきて、勢いよくふすまを開ける。「まさひろさん」と呼ぶ声には、遠慮の欠片もない。俺が何も言わずに目を逸らすと、慧は俺のそばまで走ってきて、「かいもの、いこう!」と言う。半袖のTシャツの袖口から、いつの間にか日焼けした細い腕が伸びて、俺の肩を引っ張る。腕の内側には、まだ鮮やかに残っている青あざが、ひとつ、ふたつ、それ以上に数えられる。膝より上の丈しかないズボンから伸びて畳を踏みしめている脚も同じなのだろう。しかし慧は、長袖も長ズボンも着なくなった。那智が着せなかったというのが正しいか。

 まだだめだ、と首を横に振る。慧は、唇を読んだわけでもないだろうに、俺の言うのを分かったのか、肩を引っ張る力を緩めて「どうして?」と聞いてくる。それは明らかに、はいかいいえの一言で済む質問ではなかった。

 机の隅には、裏が白いチラシが重ねて置いてある。最近ずっと、当たり前のようにここへ置いてある束を引き寄せて、その一番上に、黒のサインペンでもって、大きめに文字を書く。慧が読めるのはひらがなと、漢字がほんのわずかだけらしかった。年を聞いてもはっきり分からないし、学校に行っていたかも定かでない。そんな子どもが字を読めるということに、何か、底知れぬ貪欲さを感じる。自分にも同じものが備わっているような気がした。

「しごとちゅうだから、だめ」

 慧が、俺の書いたものを読み上げて、不思議そうに俺の手元をのぞき込む。慧に見せた紙束の下には、音符の踊った五線譜が敷き詰められている。それが何を表すものかは知らなくとも、俺の「仕事」とこれとはしっかり結びついているらしい慧は、まばたきをしてその場へ座り込む。誰に習ったものか、膝を合わせて正座をしている。

「じゃあ、おわるまでまってます」

 慧は行儀良く背筋を伸ばして見せるが、それがそう長くは続かないことを、俺はもう身をもって知っている。幾らか特殊な環境にはあったようだが、これも子どもだということだ。しばらくすれば、楽譜を読んで黙り込む俺の背中に、やかましい問いが飛んでくるに違いなかった。それに答えるには首を振るだけでなく、いちいち、 振り返って文字を書いて見せなければならないことも、容易に想像がつく。

 この仕事は後に回しても良い。手元に置いたままの紙の束に一言、書き付けて、慧に見せてやる。「さきにでかけるか」と、 慧はまたそれを読み上げて、ぱっと顔を明るくした。


 黄色いかごに、キュウリが三本放り込まれる。薄手のビニール袋から飛び出しかけている濃い緑色を押し込み直して、前を向けば、白いメモを片手に握りしめた慧が、今度はトマトの棚を見上げている。小難しい顔をしながら赤い野菜をじっと睨み、軽く背伸びをしながら、山の手前の方のパックを手にとる。それをまた、上から下から左右から、じっくりと眺め回して、満足げにうなずくと、俺の方まで駆け寄ってくる。かごにぶつかる手前で立ち止まって、俺にトマトが三つ入ったパックを差し出し、「トマト、これでいい?」と尋ねてくる慧から透明なパックを受け取り、上から下から左右から、眺め回す。野菜の良し悪しなぞ分からないが、傷みやきずがないのはこうして見れば分かる。何も言わずにカゴへトマトを入れれば、慧がうれしそうに頷いた。

「トマトのつぎは、つぎは、トーフ」

 それからさっと手元のメモへ視線を移し、上から順にだろう、品名を読み上げる。那智が書いて置いていったメモはすべてひらがなで書かれているので、慧でも簡単に内容が分かる。食材の名前ごときに、そんなに難しい字も使われないと思うのだが。

 トーフ、トーフ、と三回目をつぶやいて、慧はひとり、ほとんど走っているような速さで歩き出す。待て、迷惑だ、迷子になるぞ、そう言いたくなるが、残念ながらそのどれも、俺は慧に聞かせることが出来ない。仕方なし、ため息をついて慧の後を追う。ここへ来るのは今日がはじめてではないのだから、ひとりで先先行っても迷うことはないだろう、 と楽観視しながら。慧は実際、俺の思った通りの通路の角で曲がって、姿が見えなくなる。まっすぐ慧を追うのではなく、先回りする方の通路を選んで進む。保冷棚の冷気が足元に這いだしていて、慣れる前の一瞬、鳥肌が立つ。角を曲がったその一瞬に立ち止まると、ひそめた話し声が聞こえた。

 ――ドウイウ関係……、痣ガアッタ……

 ――警察ヨリ……ノ方ガ……

 小さな声でささやきあっているのだから、全ては聞き取れない。しかし、聞こえてくる部分だけで、自分が何か、あらぬ疑いをかけられていることは分かる。証拠がひとつに、その声の主たちの視線は、途切れ途切れな一瞬で、俺へ向けられている。

 面倒ごとはごめんだ。しかし、わざわざ近付いて説明をして疑いを晴らす、という気にはならないし、それがうまくいくとも思えない。どうにか説明が出来たところで「居候先の女が預かっている親戚の子ども」という迂遠な関係であるし、その関係は説明したところでにわかには信じてもらえないだろう。唯一の望みは慧自身からの説明だが、年端もいかぬ子どもの言葉は、果たしてどれほどの論拠となるだろうか。

 色々を鑑みれば、早く用を切り上げてとっとと帰ってしまうのが、もっとも効率的だと思われる。

 慧は、保冷棚の端の前に立って、棚につけられた値札へぎりぎりまで顔を近づけている。つま先立ちのかかとを下ろすと、その場で首を左右へ傾ぐ。見てはみたものの、何が書いてあるかは読めなかったのだろう。那智がひらがなでメモを書いたのは相応だったということだ。カゴを提げたまま慧へ近付いていけば、後少しのところで慧が俺を振り向く。「まさひろさん」と、驚いたのか、軽く見開いた目をぱちぱちと瞬かせて、続いて、眉尻を下げて困ったような顔をする。

「トーフ、いっぱいある。どれかうかわかんない……」

 なるほど、慧の言うことはもっともで、 棚には何種類もの豆腐が並んでいて、一部の例外を除けば、見た目は一様に白い塊である。種類はパッケージにも書いてあるが、それが示されていても、慧には種類の違いなど分からないだろう。手がかりもない中で正解を当てろというのは、確かにむちゃな話だ。

 寄越せ、と一応口にしながら、右手を慧へ差し出す。慧はまた目を瞬かせて、しばらくじっと、俺の指先を見つめているようだったが、おずおずと、手に握りしめたメモを俺の手へと渡してくる。「どうぞ……?」とまだ不思議そうな、不安そうな声色に、合っている、とありがとう、のふたつの意味を込めて頷いて見せると、強ばっていた肩の緊張がとれたようだった。

 メモに書かれている品名を眺める。慧に持たせたきり、自分で見るのはこれが初めてだ。はじめにナス、キュウリ、ピーマンにトマトと、夏野菜の名前が並び、その後に豆腐や鶏肉と、雑多に品が続いている。メモだけで食事の内容が察せられるようなものではない。ならどうせ、冷や奴にでもするのだろうと当たりをつけて、一番安い値のつけられた絹ごし豆腐のパックを手にとる。パックの表面に、「きぬごし」とひらがなで書いてあった。それを、俺の手元をじっとうかがったままの慧へと見せてから、買い物かごの隅に寄せて置く。「きぬごし、きぬごし」と慧が繰り返すのは、次は忘れないようにするためか。

 受け取ったメモを突き返せば、慧はそれをさっと受け取り、紙面へすばやく目を走らす。「きぬごしとうふは終わり」とつぶやいて、メモ用紙を指差しながら、「つぎは、とりみんち」と並びの順に読み上げる。すぐに俺へ背を向けて駆け出すのを、どうやって止めようがあるだろう。さっき来たのとは別な角を曲がって、慧の背中は見えなくなる。このまま帰ってしまいたくなる衝動の代わりに、ため息をついて拳を握りしめる。小さな背を追いかけるのに駆け出そうと一歩を踏み出すと、かごの中の豆腐のパックが、キュウリのビニール袋が、トマトのパックが、滑ってずれて、ぶつかった。


 今日も、風鈴は不協和音を鳴らしている。蝉はなきやんでしまって、むしろ家の中の方がうるさい夕暮れだ。台所の方から、那智と慧のやりとりするのが聞こえてくる。夕飯の支度をしているに違いない。というのは、和孝が俺の隣へ座り込んでいるのでも知れた。

「そうめんだって、夕飯」

 後ろへ逸らしていた背を戻しながら、和孝は言う。思い出したように「あと、冷や奴」と付け加えると、胡座をかいたまま、背なをうんと伸ばす。首を左右に曲げた後はゆっくりぐるりと回して見せて、言うには「そうめん、苦手だなあ」と些か拗ねた調子だった。

「すぐに手が汚れるんだ」

 それはお前が不器用だからだろう、と我ながらの正論を返すと、和孝はじっと俺の顔を見つめ、不満そうに眉根を寄せる。怖くも可愛らしくもない表情を見ているのも癪で目を逸らすと、風鈴の短冊が揺れているのが目の端に映る。とっさに目を瞑る。風鈴の音が余計にうるさくなった気がして、すぐに目を開け、視線を俯かせる。ほとんど日の落ちた夕暮れ時に、何の影もはっきりとはしない。ただ、庭の土の色は昼間よりも濃い。

「不器用って、昌浩くんと比べれば誰だってそうだろう」

 粘つく声が言葉以上のものをざわつかせながら言って、聞き覚えのあるリズムで、指先が床を叩く音がする。視線をゆっくり横にずらすと、和孝の右手の五指が、ばらばらに板張りの床を叩いて、小さな、かすかな音が鳴っている。その小さな音に集中していれば、風鈴の音が遠くなった。

 和孝の指の音は、聞き覚えのあるリズムをなぞっていく。しかし、右手だけでたどられるそれは決定的に音を欠いていて、もどかしい。自分がそこへ音を付け加えることは容易だが、それもまた和孝の思惑通りでないかという考えがすぐに浮かび、動かしかけた左手を握りしめる。握り込めた左手を床へぐっと押しつけていれば、指が床を叩く抜けた音はゆっくりと、途切れ途切れになり、止まる。息を吐く声の後に「昌浩くんはやさしいなあ」と和孝の声が言う。ゆっくりと顔を上げれば、薄い唇が確かに笑んでいるのと、眉間に皺が寄っているのと、眉尻が下がっているのが見える。まるで子どもみたいな顔をしている。呆れたことだ。そう思うのとは裏腹に、和孝に向けて、何か弾くか、と尋ねている。やはり俺は、和孝にも甘いのだろう。

「サティが聞きたい」

 ほんの少し目元を緩ませ、和孝が言う。その代わり、自分の目元が険しくなるのが分かった。和孝がサティと言えば、それは一曲を指すものでしかない。その一曲を弾けと強請られることはこれが初めてではないが、決まって、断りづらいときだ。そうでもなければ俺が断ることは分かっていて、和孝はサティをと言うのだろう。今回はどこから仕組まれていたのかと、疑念に眉間の皺は深くなる。しかし幾ら疑っても、俺が今からサティを弾くことに代わりはなかった。早くあの冷たい鍵盤に触れさせろと、もう体が騒いでいる。

 了承の返事をする代わりに、床に手をついてゆっくりと立ち上がる。すれば、和孝が目の端を輝かせながら、俺に続いて立ち上がる。いつの間にか風が止んで、風鈴は黙り込んでいた。

 庭の側のふすまを開け放した居間を抜けて、台所と逆へ行く。すぐに、中途半端にふすまの空いた薄暗い部屋、俺が間借りしている部屋がある。ゆっくりとふすまを開ければ、部屋を出る前のまま、五線譜は机と床に散らばっていたし、古いアップライトピアノは蓋が開いていて、白い鍵盤はぼんやりした暗がりにも充分映えていた。

 まっすぐピアノの前へ向かい、鍵盤の下から黒い椅子を引っ張り出す。座面が横長でクッションになっているこの椅子は、あちこちでピアノとセットになって置かれているのを見かける。ここ以外でも、似たような椅子に腰掛けてピアノを弾くことはあった。だが、ここの椅子以上に落ち着いて腰掛けられる椅子はない。このピアノ以上に俺に弾かれることを待っているピアノがないということと、同じ意味だ。

 椅子を引いて浅く腰掛け、ペダルに右足を乗せる。椅子の高さを調節する必要はない。真ん中のAの音に右手の人差し指を乗せ、鍵盤を押さえるのと同時にペダルを踏む。芯のある素直な、透明感のある音が、暑い空気を震わせて、部屋に響いている。

「いい音だね」

 和孝が言う。振り向きながらペダルを離せば、Aの音は、すぐに吸い込まれて消えた。

 毎日思ってるが、少し低い。そう告げると和孝は首を傾げ「そうかな。分からないけど」と言いながら、畳の上へ腰を下ろして、あぐらをかく。にこにこと、人を寄せ付けない笑みでもって俺を見上げながら続けて言うには、「しかし、昌浩くんが言うなら、本当なのだろうなあ 」と、小刻みに頷いてみせている。これ以上会話を続けている意味はない気がして、ピアノに向き直る。

 はじめの音に、右手の中指を乗せる。深く息を吸って、左手の指は最初の和音の形をとる。エリック・サティ、遠くの国で死んだ、奇妙で奇矯な作曲家。いつも、今にもひしゃげてつぶれそうな彼の自画像を思い出しながら、俺は最初のE音を鳴らす。ペダルを踏み込んで次の音へ旋律を繋げながら、左手で和音を添える。濁りが混じらないように注意しながら、続きの旋律を紡ぐ。

 ――この曲を弾くときに考えること(もしかすると、考えにすらなっていないかもしれないが)はただひとつ、dolceでうたうこと。決して楽譜通りではないが、この曲はそう弾かざるを得ない。旋律を、和音を、ひたすら甘やかに響かせる。それは感情ではなく、徹底的に技術の問題だ。そうとは分かっているが、曲を弾きながら、「お前が欲しい」とうたわされてしまう。俺は、この曲が大好きで大嫌いだ。サティは、自分が頼まれて書いた単なる流行歌が、こんなにも人を悩ませるなどと思っていただろうか。この曲を弾くごとに、心臓を握りつぶされそうになるほどの息苦しさが、胸を覆って仕方がない。

 はじめてこの曲を弾いたときだ。那智がそれを聞いていた。余韻が部屋から消えた後、笑って、拍手をして「いい曲ね」と呟いた。この部屋で、畳の上に白いスカートの裾を広げて座りながら、俺を見上げる瞳は鮮やかに濡れて、きら、と一条の光がさしていた。那智はこの曲の名前を知らなかった。今もきっと知らないだろう。それでも、はじめに弾いたとき、那智が「いい」と言ったことは、消えない爪痕を俺の中のこの曲に残した。聞かせる相手が自分の他に必要だったのはいつまでだろうか。最早この曲は、いつ演奏してもたったひとりのための音色を持ってしまっている。手遅れだった。恐ろしいほどに、なにもかもを取り戻せないところまでやってきてしまった。

 甘えてじゃれつくような中間部は、テンポを揺らし、ことさらに音を跳ねさせる。冷たいものが不意に空いた胸へ染み込んでくるのを、無視しながら指を動かす。背中で受け止める視線のせいだ。和孝は、責めるようなまなざしで俺の背中を睨みつけているに違いない。このメロディーは自問自答、尋ねる行為の自己円環であるから、感づいて聞いている方としたらたまったものではない、ということだろうか。だが、「お前が欲しい」などと臆面もなくうたう心情は、そういうナルシスティックな行為を通じて、何か熱くて暗いものを燻らせながらと育まれていくようにも思う。

 しかし、和孝はすべて知っていて、サティを弾けと強請っているはずなのだ。俺の独りよがりをもっとも目の当たりにしているのは、俺でもなく那智でもなく、和孝だ。今更、何を責めながら、俺がこの曲を弾くのを聴こうとするのか。仄かな怒りが脳裏をかすめる。その一瞬が、指先の和音を濁らせた。あ、と驚いたような声がする。その声を聞いて、指先からすうっと力が抜けるのが分かった。

 鍵盤から指を離す。ペダルを踏み込んでいた足を、床へ置く。静まりかえった暑い空気の中に遠く、風鈴が鳴っている。不協和音がざわめいている。

「止めるのかい」

 風鈴の音色を背後に、和孝が尋ねてくる。無視することも出来るが、それをさせまいとする圧力が声色の端々に感じられる。いや、サティを弾けと言ったときから、そうだったのか。体ごとゆっくり後ろを向けば、胡座をかいた和孝はまっすぐに俺を見上げている。茶鼠の浴衣の襟ぐりは大きく開けて、汗が幾筋も、首を伝って白い肌の上へ流れている。部屋は暗いのに、汗の粒はいやに眩しかった。

 ああ、と頷く。和孝は「そうかい」と言って頷き、俯いてため息をついた。俺の背中を睨めつけていたまなざしの強さは、霧散してしまっている。やはり、和孝は不器用だ。

「昌浩くんは、俺にこの曲を最後まで聴かせてくれたことがないね」

 和孝が俯いたまま呟いた。はたしてそうだったろうか。首をひねってみるものの、もう何年付き合いがあるのやら、すべての場面をひとつひとつ思い出せるわけではなく、和孝の言うことが本当かどうかは定かにならない。確かめられたところで、和孝の思い込みはどうせ修正されないのだから、必死に思い出すだけ無駄だ。

 ゆっくり顔を上げた和孝が、主人を待っている犬のような目で、俺を見た。それへ素直に何か言い返してやるのは癪だったし、もう俺は和孝の我がままを聞いてやっている。途中で弾くのを止めたといっても、その事実に変わりはない。

 何も言わずに和孝へ背を向けて、ピアノの黒い蓋を閉める。慧が何かをはしゃぐ声が、遠い風鈴の音をかき消した。


 ピアノの前へ座って、Aの音を鳴らしてみる。やはり、幾分か低い。三度と五度をそれぞれ一緒に鳴らしてみるが、そのつもりで聴けば、望まないうねりが響きの中に聞き取れる。確かめなければそのまま聞き流せたろうが、一旦、気がついてしまえば、無視しておくことは難しい。

 ただ、自分で調律をしようにも、手元に道具がなかった。自分の家の部屋の片隅で、ケースごと、積み重なった楽譜の山に押しつぶされそうになっているはずだ。最後に使ったのが梅雨の頭、幾つか依頼を受けて家をまわったときだから、もう二ヶ月ほど、ハンマーもヤスリも使っていないことになる。あれを使っていたときには、ここへ来ることなど、微塵も考えていなかった。いや、考えないように努めていたのだ。そうでなければ、このピアノの音がこんなになるまで放ってはおかなかった。

 オクターブでC音を押さえる。静かすぎるほどの二音のぶつかり合いへ耳を澄ます。二音がすうと溶けて消えてから、手遊びに、右手を鍵盤の上で跳ねさせる。CからG、A、Gへ。

「お、そ、ら、の、ほ、し、よ」

 後ろで、ほんのわずかに低い音程がそう歌う。鍵盤から手を離して振り向けば、那智がそこで笑っている。胸の前へ、小さなトレイを持っている。トレイの上には、麦茶の注がれたガラスのコップと、茶菓子が乗った小皿が並んでいる。

「机に置いておくわね。気が向いたら食べて」

 そう言って、那智は机の前へしゃがみ込む。机の端へトレイの端を乗せてバランスをとりながら、俺が好き勝手にものを広げている机の上に、トレイが乗るスペースを生み出そうと、紙を端へ寄せたり、積み上げたりする。それらは書きかけの五線譜であったり、赤色が入った縦書きの原稿用紙であったり、裏の白いチラシをホチキスで留めただけのものであったりする。あるいは、黒のサインペンや、赤鉛筆や、太めの軸の万年筆である。すべてを家に置いてきたわけではなく、ここへ一緒に持ってきた仕事道具は、今のところ、那智に整理されている机の上に押し込められている。それらが幾分か雑に扱われている様子を見ても、那智を咎める気は起こらない。それよりも、ピアノの音をこんなになるまで放っておいた自分が腹立たしかったし、これへ気がつかなかったふたりに、自分でも理不尽だと思うような怒りが込み上げてくるような気がする。妥当な理由のない、ただの八つ当たりだ。表に出してしまうことははばかられ、言葉の代わりにゆっくりと細く息を吐く。乾いた音がした。那智が両手を膝の上へ重ねて、机の前に足を崩して座り込み、俺を見上げている。

「あついね、昌浩くん」

 そうだな、と短く返す。那智は、にこにこと笑みを絶やさず、俺を見上げている。「休憩も必要よ」と言って、ほんの少し視線を横へずらすのは、さっき机へ置いたトレイを示すつもりなのだろう。気が向いたら、だの、良かったら、だの、言葉を付け足し、付け足しするくせに、俺が那智のすすめた通りにしなければ、咎めるような視線を向けてくるのだろう。そうされるのも悪くはないと思うが、那智はずるい、と考えるのが先に立つ。那智、と席を立たないで呼びかけたのは、不意に脳裏を掠めた、那智の見守るような笑みへの反抗心がきっかけだったかもしれない。

「なあに」

 那智が首を傾げる。そのまま折れてしまえと一瞬念じる自分がある。そうして転げた首を銀の盆に載せて掲げれば、和孝は満足するのだろうか。考えても詮のない空想は思考の端へと追いやって、いつの間にかまっすぐに戻っている那智の笑顔を見つめる。深く息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出して、空になった肺に自然と空気が送り込まれてから、口を開く。

 結婚、おめでとう。

 殊更、はっきりと口を動かしてそう言えば、那智の目がゆっくりと、丸く、大きくなる。見開かれた目が二度、三度と瞬いて、それでもまだ、黒い目は吃驚したままで俺を見上げている。しかし、次第に目の表が潤んできているように見えるのは、きっと気のせいだろう。那智がゆっくり目を閉じて、俯きながら手の甲で目元を拭う。肩が動くほど大きく深く呼吸をして顔を上げ、俺を見上げるまなざしは、もう笑みをたたえている。それでも一瞬は、凪いだ笑みを崩すことが出来たのだ。思わず笑い出してしまいそうになる歓喜は、しかしどこか仄暗い。自覚はしているから、口を噤んだ。

「春の話なのに、ずいぶんとのんびりしたお祝いだ」

 那智は肩をすくめ、笑みを深くして、文句のような言葉へ続けて、「ありがとう、昌浩くん」とぎこちない声で言う。俺が首を横に振って見せれば、那智はそこへ座っていられないようで、ゆっくりと立ち上がる。淡い黄色のワンピースの裾が一瞬広がって、すぐに落ちる。今度は俺が那智を見上げる。たぶん笑っているのだと思うが、俺がそう思いたいだけなのかもしれなかった。

「和孝くんは、良い人よ。私のこと、ちっとも好きじゃないくせに、大事にしようとしてくれてるわ」

 淡々と那智が言うのへ、反論はなかった。なっちゃん、と呼ぶ和孝の声に、一切の翳りはなかったように思う。きっと那智の言うとおり、和孝なりに那智を大事にしているのだ。それが好意からでなく、そもそも他のどんな種類の感情からでもなくとも、事実だけは変えようがない。

 ただ、それはお前もだろう、と言い返せば、那智は何も言わずに、唇で描く弧を歪にして、さっきと逆に首を傾ぐ。言葉が返ってこないのは肯定の証拠だ。和孝も那智も、左手の薬指を彩る何かは持っていない。ふたりとも前と変わらぬ手のままで日々を過ごしている。決定的に何かが変わるということはなく、けれども少しずつ確実に、何かは変化していて、きっと気が付く頃にはもう手遅れなのだろう。ピアノの音の狂いと一緒だ。――俺は、あまりにも放っておきすぎた、それほど、恐ろしかったのだ。

「きっと、こう言うわ」

 那智が唐突に口を開く。俺の方をまっすぐ見ているまなざしが俺をとらえているようにはとても見えなかったが、声は確かに俺へと向けられている。言葉が途切れた隙に、好き勝手に鳴る風鈴が聞こえてくる。よどんだ空気が動いていることを先ず耳で知って、次いで肌で感じる。それがもたらすのは心地よさではなく、肌の粟立つような嫌悪だったが。

「あなたが私を見てくれれば良かったのに、って」

 その上、那智の恨み言にしか聞こえない言葉が覆い被さってくれば、吐き気も催そうというものだ。身勝手でしかない声がこうも振り払えないのは、それの指す意味を理解して、俺が、同じものを向けたいと思うからだ。那智は果たしてその矛先を誰に向けたかったのか、それが未だに分からない。ただ、同じものを自分の喉元に突きつけられる日が来るとは思っていないのだろう。確かに、俺には出来ない話だったし、他の誰かがそうすることは、想像もしたくない。

 那智がふいに俺から目を逸らす。向こうから小さな足音が近づいてきている。聞こえてくる音の間隔は短く、どうやら、走ってきているようだった。

「まさひろさん!」

 勢い良く俺を呼ぶ声とともに、慧が畳の上へと駆け込んできて、立ち止まる。すぐに目を丸くして、まばたきを繰り返すのは、那智がそこに立って慧を振り向いているからだろう。当の那智が、慧を見ながらおかしがっている気配がした。

「どうしたの、慧。ずいぶん慌てん坊ね」

 笑いを含んだ声で言いながら、那智はその場へしゃがむ。目の前の慧と目線の高さをそろえるか、慧より低くするためだろう。淡い黄色が畳の上に折り重なる。慧の目が、那智の頭越しに俺を見て、それからすぐそばの那智を見て、また俺を見上げる。何をなのか、眉尻を下げて、戸惑っているように見えた。

「……なちせんせいには、ひみつ」

 俺からも那智からも視線を逸らして、慧はそう言う。那智が目を丸くして「あら、あらあら」と、驚きのままに意味のない音の羅列を発する。それからすぐに立ち上がると、可笑しそうに慧と、俺とを見て、息の多い声で笑う。

「じゃあ、私は退散しようかしらね」

 そう言って、那智は速やかに、俺と慧に背を向ける。そのまま部屋を出て、廊下を歩いていったのか、淡い黄色はすぐに見えなくなった。深いため息を吐く。知らず知らずのうちに、相当緊張していたらしい。肩からも一挙に力が抜けた。

 慧が俺の足元へ駆け寄ってくる。椅子の側へとしゃがみかけたが、急に丸く目を見開くと、トレイの置かれたテーブルの方を振り向いて、そちらへと駆け寄った。小さな手で、机の上をがさごそと探っている。しばらくして両手を頭の上へ掲げたが、その手には紙の束とサインペンが、それぞれ握られているようだった。そのふたつを抱えて、慧は再び、俺の足元へ駆け寄ってきて、今度こそその場にしゃがみ込む。両手を目一杯伸ばして、紙束とサインペンを俺へ差し出してくるのを受け取って、膝の上へ置く。

 今日も、練習か。

 なるべくゆっくり、文節の間を少し長めにとってそう言えば、じっと俺を見上げたままの慧は、しばらく目を細めた後、少し首を傾げながら頷く。なんとも自信なさげな様子であるから、サインペンの蓋をとって、白い紙に今さっき言った内容を書き付ける。

 きょうも、れんしゅうか。

 それを見て、慧はあからさまに表情を明るくした。「あってた」と、うれしそうに言って、胸の前に拳を握りながら俺を見上げている。期待している。次に紡がれる言葉を、であることは間違いがないようである。

 慧が那智に言った秘密とは、おそらくこのやりとりのことだった。まだ俺の言うことが分からない慧が、それを分かるようになるための練習。俺が話し、慧がそれを聞いて、言っているのを理解するか、諦めるかしたら答え合わせをする。普段の、紙の上の文字を介したやりとりに、いくつか余分なプロセスが加わっただけのことだ。

「なちせんせいには、ひみつね」

 膝を抱えてさっきと同じことをくり返す慧へ頷いてやるものの、ひみつ、というその言葉がやけに引っかかり始める。はじめから、他の誰かに見られないように、とそういう体ではあったから、慧がこのことを知られたくないのだということはうすうす察しては居たが、明確に、慧の口から実際にそうだということが語られたのは、今日がはじめてのことだ。答え合わせが成され、安堵出来てようやく、その中身を検討し始めることができる。何故、慧はこのやりとりを秘密にしておきたいのか。

 それを尋ねるための言葉を用意するのは容易であっても、慧にそれを聞き取ってもらえるのかが分からない。筆談でも出来るのだが、それでは意味のないような気がする。

 学校には行くのか。

 さっきまで考えていたのとは全く別なことを尋ねてみれば、慧は身を乗り出して、俺の口元をじっと見つめている。まっすぐ見つめて動かない視線は、真剣そのものだった。

「がっこう、いくよ」

 たっぷりと考えてから慧がひねり出した答えに頷いてやれば、今度は照れくさそうに笑う。頬が赤くなっているのかどうかが分かりにくいほど、いつの間にか、慧は肌が小麦色になるぐらいの日焼けをしていた。夏とはこういうものだったか。きっと、縁側に腰掛けて風鈴の音に顔をしかめながら過ごすものではないとは思っていたが。

「このうちからかようんだ。おれ、しゅくだいしてないけど、いいんだって」

 宿題?

「さんすうとかんじとか、えにっきとか……いっぱい。でも、おれいっこももってない。そしたら、なちせんせいがやらなくていいよー、だって」

 ラッキーだな。宿題、やらずに済んで。

 俺が言い終えてもまだ、慧は俺の口元を見つめている。眉間に深く皺の寄った顔は、慧の懸命さを反映しているようだ。その難しげな表情のまま、慧はすこし首を傾げる。

「らっき……い?」

 語尾を上げるのとほとんど同時、念押すように、首を傾げる角度が大きくなる。一番最初の単語の正解へ頷いてやれば、慧は表情を緩める。一番上を丁寧に千切って横に置くと、キャップを外したサインペンを、新たの一番上になったまっさらな紙へさらさらと走らせる。大きくて不揃いで、斜めになった字が、慧の聞いたものを綴っていく。書き終えたのか、サインペンのキャップを閉めて、紙束を持ち上げると、書いた文字を俺へ向ける。

「しゅくだいやらないで、らっきー」

 言い終わってから、白い歯を見せて明るく笑う。それが本当に、欠片も曇りなくあどけないものだったら、目を逸らすだけで済んだのかもしれないが、慧の腕にはまだ、変色した痣の跡が残っている。やがて消えてしまうだろうが、まだ確かに見て取れるほど。慧はそんなものなぞ微塵も気にしない様子で笑っていて、おそらくそれが一番正しかった。

「まさひろさん?」

 慧が不思議そうな声で言う。俺の顔をのぞき込む目はわずかに細められて、眉根が寄せられ、眉尻が大きく下がっている。「まさひろさん、だいじょうぶ?」と続けて慧の声が言うから、自分の顔はそんなにひどいのかと思って、両手で顔を覆う。指先が眉間の皺に触れたし、口元はひどく強ばっていた。それを慧に指摘されるまで気が付かなかった自分に呆れ、また、腹立たしさが募る。指先と手のひらの付け根で、かたくなった自分の顔面をぐいぐいと解して、深呼吸をする。暗くなった視界に、那智とのやりとりが思い出された。おめでとう、と確かに俺はそう言った。そう言ったのだ。

 顔を覆っていた手をはずし、慧と目を合わせる。大丈夫だ、と言うのにうまく笑えた自信はなかったが、慧がほっとしたように肩の力を抜いて「よかったあ」とつぶやいたから、きっと大丈夫だったろうと思う。確かめるように、改めて、笑みを作るつもりで顔の筋肉を動かしてみれば、慧が、俺に少し遅れて笑った。間違いようもなく、笑った。


 うとうとと夕暮れの部屋で微睡んでいると、ふいに、まぶたの外が暗くなった。カラスの声よりもつくつく法師の方がうるさくて、それよりももっと、風鈴の不協和音の方がうるさい。しかしもう、それに文句を言おうとは思わない。

 ゆっくり目を開けると、何かの影が自分へかかっている。西日を遮ってくれるその影に、だから眩しくなくなったのかと納得をしていると「昌浩くん」と落ちついた声が影の根元から這い寄ってくる。振り払うことも出来なくはないがそうした後を考えると面倒であり、相手をした方がまだましだと、体を起こすことにする。めまいを起こさないようにと気をつけていると、動作がひどくゆっくりになった。肘で畳を押しながら重心を尻に乗せ、背筋を一度伸ばしてから、普段の通りに背を丸める。そこから見上げると、西日を背中に受けて、和孝がそこへ立っている。見事な逆光で、顔はよく見えない。浴衣を着て、足を肩幅に開いて立っているのは分かった。

「おはよう、よく寝てたね」

 お前、仕事は。

「もう六時だよ。帰ってきた」

 おかえり。

「ただいま」

 単純なやりとりが続く。起き抜けのせいかもしれないが、和孝との会話なのに、居心地の悪さは覚えない。目をこすって瞬きをすると、和孝が小さく笑うのに、それを聞いても嫌な気分にはならなかった。

 和孝がその場へしゃがむ。俺の向かいへ胡座をかいて座り込む。その背中の後ろから西日がまた差し込んできて、眩しいから目を逸らす。ピアノの蓋の曲面が、夕日を受けて光っている。

「なっちゃんから聞いた」

 少し顔を俯けたままで、和孝の方へ顔を向ける。西日が目に眩しくないぎりぎりのところまで顔をあげて、何を、と尋ねると、和孝の口元が笑う。それが素直な笑みとは思えず、しかし、確認のために顔を上げるのもためらわれた。さっきの夕日はあまりに眩しかった。

「昌浩くんがお祝いをくれたって、もう夏なのにって笑ってたよ」

 声だけを聞きながら想像するに、和孝はとても笑みとは思えないような苦しそうな表情をしているのだろう。眉根を寄せて、目を眇めながら、いま、こうして口元だけで笑っているのだろう。確かめはしないが、きっと間違いはないだろうと思う。和孝の声は、息が声になるぎりぎりのところをさまよっているような、頼りなさを伴っている。

 それが、どうかしたか。

 抑えた声で尋ねれば、和孝の口元が一瞬ひるむ。笑みが消えて、唇同士がきつく合わされて、もしかすると、唇の内側の肉を噛んでもいるのかもしれない。緊張して、強張った様子のまま、ゆっくりと唇が開かれる。

「僕はそんなものなくたって良かったんだ」

 そうだろうな、とか、知ってる、だとか、自分を偽らずにかけてやれそうな言葉は、すぐにいくつか思いつくのに、結局そのどれも口に出すことはできずに、和孝が「絶対にないと、思ってたのになあ」と言うのを聞いている。少し緩んだ声はひどく悔しそうで、しかし幾らかの笑いも含んでいる。

 絶対、なんてあるか。

 俺はそうとだけ、和孝に向けて言う。今さら、起こってしまったことは何も変えられないが、それを見つめるまなざしの方は変えられるだろうと思う。和孝が間抜けに口を開けている。頬の力が抜けていた。きっと、目も丸く見開かれているのだろうと思うが、また確認はしない。まだ西日が眩しい。

「確かに、昌浩くんの言う通りかもしれないね。

 ……でも、僕はあの風鈴は絶対に外さない。だって、昌浩くんがとても嫌そうな顔をするんだもの。それも絶対に、変わらないだろう?」

 見透かしたように和孝が言う。拗ねたような声だった。俺は、さあどうだろうな、ととぼけてみせてから、ゆっくりと顔をあげる。流石にもう逃げてもいられないかと観念した。射し込む西日の眩しさに、一度目をつぶってから、薄くまぶたを開く。結局、和孝の顔は逆光でよく見えなかったが、それでも分かるほどに、和孝は何か、思いつめて俺を睨んでいる。白目が細くなっている。

 泣くのか。

「泣かないよ、子どもじゃあるまいし」

 俺が尋ねると、まなざしの険は薄らぐ。続いた言葉の内容は、到底そうは思えないことであっても、言う声の方は幾分か落ち着いている。きっとこのまま話を終えれば、何事もなかったように平気な顔をして、夕飯の席に着くのだろう。そういう面は確かに、子どもではなかったが、風鈴を外さない意固地さは、やはり子どものものだと思う。それだから、俺は和孝に甘くなる。

「けどさ、俺が好きなのは昌浩くんで、それだってずっと変わりやしないんだ」

 そう言っていきなり照れくさそうに笑う、そのやり方だってまるで子どもだった。何もてらわずに、誤魔化しもせずに、真っ直ぐにそう言葉をぶつけられて、戸惑っていたのはもう昔のことだ。今は、平静を装って和孝を睨み返すことは容易に出来る。和孝の反応はといえば、はじめ、俺が動揺をしていた頃と変わらない、妙に柔らかく優しい笑みを、俺へ向けるのだ。俺は何も伝え返していない。そのくせして、妙にうれしそうにしてみせるのだ。だから結局、和孝へ甘くなる。思い出したようにまた吹いてきた夕風に、風鈴が揺れて、ガラスの不協和音が聞こえてきても、あれを吊した和孝に文句を言おうとは思えない。硬質に透き通った風鈴の音の向こうには、つくつく法師の声がする。那智の声が「夕飯よ」と、和孝を、俺を、呼んでいる。


 隣を歩く慧が、那智の書いたメモを掲げて読み上げる。

「マグロとハマチとイカと……おいしそうなら、おさかな、なんでも」

 そこで読むのを止めて、首を傾げ、また逆に傾げてから、慧は俺を見上げる。何故だか、それが不思議そうな、どこかが腑に落ちないような、そんな表情をしている。

「なんでも、だって、まさひろさん」

 どうやら、慧が引っかかっているのはそこらしい。なんでも、という言葉は随分と過ぎた信頼を示していて、確かにそれへ戸惑いそうにはなる。しかし、慧の感じているのは果たして俺と同じ意味なのか。

 それで、何か困るのか。

 俺が言うと、慧は何かが落ち着かない様子のまま、前を向き、すこし俯く。角度のせいかもしれないが、いやに沈んだ表情に見えた。そちらを向かれると声のかけようもないので黙って見ているが、歩く調子さえどこか落ち込んでいる。急のことであったし、原因もいまいちはっきり分からないから、気にかかりはするものの、それ以上はしようがない。他の買い物客と慧がぶつからないように、つないだ手を軽く引くのが関の山である。駅前の商店街の夕暮れどきときたら、人とすれ違うたびに肩がぶつかりそうになるほどだった。

 魚屋の前に来ても、慧はそれに気が付かずないのか、そのまま通り過ぎようとする。立ち止まって、慧の手を少し強めに握り、後ろへ引いてやればようやく、その場へ立ち止まった。まずは俺を振り向いて、それから、ここがどこかを確かめるように、辺りを見回す。店の様子を見て、ようやく合点がいったようだった。俺を見上げた顔には、少し活気が戻っている。

「まさひろさん、おさかな」

 そうだな。

「どれがいい?」

 お前が選んで、言え。

 そう伝えると、慧はまた神妙な顔付きになって、魚の置いてある平台の近くへ寄る。威勢の良い声がまったく聞こえていないかのように、じっと魚たちを見下ろしている。フィルムのかかったサクもあれば、一尾物もあった。どちらも適当に混ぜて買って帰るのが良いか。慧の様子を見ながら算段を考えていると、「らっしゃい、お兄さん」と、うるさいぐらいの声がすぐ近くで言う。タオルを首に巻き、エプロンをつけた壮年の男性だった。気の良さそうな笑みを浮かべているが、「何にしやしょう?」とすかさず聞いてくる辺り、抜け目がない。しかし俺には答えるすべもないので、ポケットから紙切れを取り出して、それを男へ提示する。

 私は声が出せません。筆談をお願いできますか。

 と、書いてあるだけなのだが、すぐに目を通したらしい男は、丸く目を見開いた後、一瞬、不審がるようなまなざしで俺をのぞきこみ、しかしまたすぐに、応対用と思われる笑みを浮かべて見せる。こういう変化は外で人と会えば良くあることだったが、ひさしぶりに目の当たりにするものだったので、妙に引っかかりを覚える。甘々と接されることに慣れすぎたせいだろうか。

 黙り込んで考えていると、次第、目の前の男も焦ってくるようだった。紙とペンを持ってくる、ということを思いつかないのか、最初からする気がないのか、どちらでも構わないが、すぐ前でそう分かるように動揺されると、こちらも居心地が悪い。俺のそういう気配を察したのか、男は俺から視線を逸らすように体を傾けると、視線を少し遠くにやって、「あれ」と怪訝そうな声を発する。表情をそのままに、男はこちらを向く。

「兄さん、あんた、連れの小っちぇえのは?」

 男の言うのに、慌てて自分の後ろを振り向く。そこには、俺が手を引いて連れてきた小さな影はなく、ただひとひとり分だけ、空間が空いていた。確かにここで、魚を見ていたはずだ。

「おうい、ここに居た坊主、どこ行ったか見てたか?」

「え? そこにいた男の子? さっき駅の方に走ってったよ」

 男が店の奥へ大声で言えば、怒鳴り返すような勢いで言葉が返ってくる。やりとりの勢いこそ、耳をふさぎたくなるようなものだったが、内容は有用だった。男は俺に目を合わせて「だってよ、兄さん」と真剣な声で言う。その声へ頷き返し、軽く礼をすれば、「急ぎなよ、お兄さん」と、店の奥からも檄のある声が飛んでくる。俺はまたそれへ頷いて、踵を返し、走り出すべく駅の方へ足を踏み出した。


 そう大きな駅ではないと言ったって、子どもひとりを探し回るには十二分すぎるほどの広さだ。何より、俺には声がない。探される側にそうと分かってもらう手段もなく走り回っているのは、あてもなく探し回っているというのとほとんど同じだ。

 階段を上ったところで一度立ち止まり、階段の下を見渡す。子どもがひとりで歩いていれば目立つだろうが、そんな姿はどこへも見あたらない。浅くなった呼吸を努めて落ち着かせながら、もう一往復、二往復と視線を走らせるが、同じことだった。

 駅の方と言われてまっすぐ駅に来たが、それが見当はずれだったろうか。いや、そうは思わない。慧が駅に来ているというのに、根拠はないが疑いもなかった。那智に手を引かれ家にやってきた慧が、果たして本当にどこからやってきたのか、俺は知りはしないが、この場所は通過しているはずだという考えがある。犯人は犯行現場に戻る、というのではないが、慧がわざわざ戻ってくるならここで良いだろうと思う。

 ひとりで探しても見つからないのであれば、何かに頼るほかない。駅には迷子だけを集める場所なぞないだろうから、可能性があるとすれば駅員の居るあたりか。今し方のぼってきた階段を、三段飛ばしずつ駆け下りる。凹凸のあるブロックを蹴って、改札の方へ向かう。この駅の改札は一カ所だけだ。

 すぐに見えた改札所には多くの人が行き交っているが、すぐに見回した限り、子どもひとりの姿というのはない。大人と手を繋いでいるか、あるいは後を着いていく様子の子どもの姿はあったが、子どもひとりで切符を手にしている姿はなかった。そもそも、慧は切符を買えないのではないか。財布なんて持っていないのだから。とすれば、ますます、慧は駅員につれられているのではないか、という考えが強くなる。

 改札の奥に、駅員の詰め所らしき場所がある。その窓の方へ真っ直ぐ近付いていけば、老人の応対を終えたらしい駅員が、こちらを向いて瞬きした。改札を出入りする人波を避けながら、駅員の居る窓の前までたどり着き、足を止める。「どうかされましたか?」と首を傾げて来られるのへ、ポケットを探り、さっき魚屋で見せたのと同じメモを広げて見せる。駅員は、さっきの魚屋の反応とはずいぶんと違って、すぐに合点がいったような表情を見せると、「ああ、はい、はい」と視線を落として手元を何か探っている。白手袋が差し出してきたのは、小さな画板に挟まれた白紙と、鉛筆だった。それを受け取って、鉛筆で紙の中央に走り書きする。

 小学校低学年ぐらいの子どもが、ひとりでうろうろしているのを、見かけませんでしたか。

 画板を反対へ向けて、駅員にその文字列を見せると、しばらくじっと眺めていたかと思ったら、俺の顔を覗き込んだ。

「えー、あなたはその子どもを探しているのかな 」

 問いかけにうなずく。駅員はまたじっと紙の上の文字列を眺めてから、俺の顔を覗き込む。二往復、三往復と続けてから、軽く首を傾げ、帽子をかぶった後ろ頭をぽりぽり掻いている。何か悩んでいるらしい、声がうーんと間延びした。

「居るには居るんだけどねえ……あなたとこの子と、どういう関係になるのかな」

 問われて、今度は俺が思い悩む。俺と慧の、関係。なんと言い表せば良いものか。俺と慧の接点といえば、あの家へ、意図的かそうでないかは別にせよ、那智を頼りにして転がり込んだということ、ただそれだけだ。そこでたまたま行き遭わせて、互いに時間が余ったもの同士だから、一緒に過ごしていた。そのやりとりにもはじめは、那智が介在していた。しかし、それがどうした。結局、俺と慧の関係を言い表すのに、那智のことを持ち出すのは迂遠であるし、適当でないように思う。かといって、何か別のきっかけが思いついたわけではない。

 黙り込んだままじっと悩んでいれば、目前に立つ駅員のまなざしの色は、ますます疑念に満ちたものになっていく。いつか、ひそめた声で囁かれたことが脳裏を過ぎった。警察に通報を。それは困る。俺がどうというのではなく、那智に迷惑がかかるということで。それでもまだ、書くべき言葉は見つからない。そもそもからして、俺と那智の関係も、また、俺と和孝の関係すら、言葉では言い表しがたいものであるようなのに、それを縁に繋がったもの同士のことをどうやって、言いようがあるだろう。

 それでも何かを言わなければならないのだろうと思って、鉛筆を握る。鋭くとがった芯の先を紙につけて、無駄に一本、横線を引く。

 鉛筆を紙から離すより先に、腰にあたりに衝撃が走った。小さな手のひらが、腹の前に回されている。後ろを向けば、肩で息をしている制帽を被った若い駅員が、軽く会釈をしている。そのまま視線を下へとずらせば、見慣れたつむじがそこにあった。俺の背中へ顔を押しつけている子どもの頭を数度撫でてやる。撫でた分だけ、顔を押しつけてくるのが強くなったようだった。

 自然と息が漏れた。安堵のためであるように思う。肩の力も抜ければ、指先も鉛筆を握っておれなくなる。紙の上に鉛筆が転がって、乾いた音がした。白紙だった上には、真っ直ぐに引かれた横線の後、大きくうねった自由な描線が残っている。

 もう一度、一旦取り落とした鉛筆を手にとる。自由な線に阻まれない場所を選んで、小さめに書き付ける。

 見つかりました。お世話になりました。

 そうすれば、いつの間にか疑念をどこかへやってしまった駅員が、愛想良く笑いながら、俺を見て、紙の上を見て、頷いている。

「良かったねえ、お兄さん」

 きっとその後にも言葉が続くのだろうと思った。どんな嫌みか皮肉かを言われるのかと身構えていたが、駅員は俺の前で、ただただ愛想良く笑っていた。しばらくしても駅員は笑顔のままであったので、あれでやりとりは終わりだったらしい。少し浅めに礼をする。

 後ろでは「もう迷子になっちゃだめだよ」と、若い声が慧に対する注意を告げている。背中からゆっくりと、重たい温みが離れるのが分かった。小さな手はまだ、俺の体の前へ回されたままだったので、慧が首を揺するたびにその手も揺れて、慧も頷いているらしいというのが分かった。その間、慧の声はまったく、聞かれなかった。


 結局、夕飯の買い物は出来なかった。あり合わせで済ませてもらうしかないだろうし、それを告げたときの那智の反応が少し怖くもある。しかし、こうして手をつなぎながら家路を帰れることの方が、後から受けるだろう説教の中身よりは、大切である。

 慧は俯いたままで、俺に手を引かれながら歩いている。ゆっくり、ゆっくりと歩いているから、俺もそれへ付き合って歩調を緩めていく。今にも立ち止まってしまいそうに感じるほどだったが、ゆっくりでも確実に、前へ前へと歩いている。

「……まさひろさん、ごめんなさい」

 俯いたまま、慧が言う。答えてやりたくても、慧が顔を上げなければ何を言うことも出来ない。俺の手を握る小さな手の力が、わずかに強くなる。「ごめんなさい」と繰り返されるのが同時だった。その手を握り返しながら、どうしたものかと考える。慧はまだ、足元を見ながら歩いている。

「めいわくかけて、ごめんなさい」

 しかしいよいよ、慧の足が止まった。そう口にした後に、鼻をすする音が続く。俺と繋いでいない方の手は、目元を強く擦っているようである。それでもまだ、さっきと同じ、鼻をすする音が続くし、今度はしゃくりあげる音まで聞こえてくる。慧の手のひらから力が抜けて、俺の手の中から滑り落ちた。その手もまた、顔を擦るのに使われ始める。

 何をどうしてやるのが正解かなど分からない。まず、慧が何故泣いているかすら、俺には分からないのだ。だからといって、泣いている慧をこのままにしておくことなど出来るだろうか。

 慧の正面に回って、しゃがみこみ、見上げる。俯いていた慧と、ようやく目が合った。 すぐに逸らされるが、その目は赤くなっている。泣き始めて間もないのに、あっという間に変わるものだ。俺がまっすぐに慧を見上げ続けていれば、根負けしたように、慧がゆっくりと、こちらに視線を寄越す。目元を強く拭って、両手は体の横へ下ろされている。

 深く息を吸って、考える。さあ、何と言ってやったら良いか。

 帰るぞ、家(うち)に。

 何を言っても的外れでないかだとか、あまり複雑な言葉はまだ伝わらないだろうとか、そういうことを考えた末に、結局、そんな当たり前のことだけを口にする。慧は懸命に俺の唇を読んでいたようで、「おうちに、かえる」と、全くの正解を口にする。俺が頷いて示してやれば、まじまじと俺の顔を見つめた後、慧が頷く。まだ不安げで、涙をこらえてもいるようだったが、それら色々に耐えながら、俺を見つめている。俺は、もう一度だけ頷きを返して、ゆっくりと立ち上がる。さっきまで繋いでいた手を、慧に差し向ける。慧はまだ顔は上げない。だが、おそるおそるといった様子ではあっても、俺の手に自分の小さな手を向けてくる。手のひらに触れた細い指先は、いつの間にかひどく冷たくなっている。全体的に強張ってしまってもいる手を、自分の手の中へと握り込む。

 まだ慧は顔を上げないから、このままではまた、何を言ってやることも出来ない。それでも、俺の手の中の小さな手のひらは、だんだんと温かく、柔らかくなる。そして、俺の手のひらを握りしめてくる。握られた手を引いて一歩踏み出せば、慧もそれについて歩き出す。ゆっくりと、一歩一歩、家への道を。半袖から伸びた腕は、小麦色に日焼けしている。その上にあったはずの痣は、もう、消えていた。


 硝子の不協和音はやはり耳障りなままだった。軒下にまとめて吊るした風鈴は、まだしばらく、残暑の続くうちは吊るされたままだろう。それへ文句を言う気はもう起こりはしなかったが、来年もこれが聞こえてくるだろうことを思えば、少しは憂鬱になる。

 ため息をついて、顔を上げる。ピアノの鍵盤は、きれいに磨き上げられている。せめてこれぐらいはしておかねば可哀想だろう、とやり始めれば案外と時間はかかるもので、ピアノにかかる日差しは、橙色を帯びている。鍵盤を人差し指で押さえれば、まだ若干低いままのAの音がする。これを直せるのはまだ先の話になるだろう。俺の仕事道具の多くは、ここではない場所にある。

 鍵盤を押さえていた指を離せば、すぐに音は聞こえなくなる。十本の指を広げて、それぞれを鍵盤の上に置く。ペダルに足を乗せる。何を弾こうか、と考えるのは長くは続かずに、すぐにひとつの曲に絞り込まれる。呪いか何かのようにも思えるが、俺はこの曲に縛られ、或いは振り回されていたのだ。

 最初の二音を勿体ぶって弾いて、ペダルを押さえる。押さえた鍵盤が和音を奏でて、それが旋律を繋いでいく。意識することは、ただひたすらにdolceでうたうという、それだけのこと。楽譜の本来の指示とは、異なるかもしれないが、俺にはそう弾くことしかできない。お前が欲しい、とうたうことしか出来ない。はじめて弾いたときからいつの間にかそういうものに変わってしまった曲は、またいずれ何か別な声を託すものに変わっていくだろうか。しかしそれもまた、本当に聞かせたかった相手に伝わるかどうかは分からない。それでも良い、と諦めきることは俺にはまだ難しく、とすれば、俺はまた弾き続けるしかないし、そういうことを選ぶ。そういう風にしかできないし、そういう風になっている。

 後ろで物音がする、それに気を取られて、違う鍵盤を押さえてしまう。濁った和音に思わず顔をしかめ、両手も足も持ち上げれば、すぐに和音は聞こえなくなる。風鈴の不協和音よりよっぽど耐え難かったのは、音の性質のせいというより、自分で鳴らしてしまったという事実のせいだ。しかし、鳴らしてしまったものは仕方がない。ため息をつきつつ、後ろを振り向くと、片手にビニール袋を提げた和孝が、決まり悪そうな様子で、敷居を踏んで立っている。目が合うと、いかにも不満そうに眉根を寄せながら、笑った。

「やっぱり、最後まで聞かせてくれないね」

 和孝の声はまるで拗ねた子どものようだったが、それでいて、すべて諦めがついている老人の声のようでもあった。言葉こそ俺に続きを促すようだが、部屋に入って来ながらビニール袋に手を突っ込み、また乾いた物音をさせているのだから、曲の続きを聞く気ではいないのだろうと思われた。

 和孝が俺の正面の畳へ座り込む。ビニール袋から、棒付きのアイスクリームを取り出すと、俺へ差し出してきた。また目があったのを確認して、口を開く。

 来年があるだろう。

 差し出されたアイスクリームを受け取る。銀紙を巻かれたアイスクリームは、そこらの駄菓子屋で安く売られているものだ。手軽に涼をとるには丁度良い。「嘘つき」と、和孝の声が言ったのでそちらを見れば、和孝はいつもの笑みを浮かべながら、もう一本のアイスを取り出している。

「じゃあ、このアイスは貸しだ」

 何の貸しだ。

「昌浩くんが決めたらいいさ。それより、はやく食べないと、ふたりが帰ってくるよ。この二本しか買ってないんだから」

 些か早い口調でまくし立てると、最後に悪戯っぽく笑い、和孝は口を閉じる。それから、自分のアイスクリームの銀紙を剥き、白いアイスに大きく口をあけてかぶりつく。少し顔をしかめているのは、あまりに冷たいからだろうか。

 貸しといわれても心当たりはない上に、それを問い詰めて、借りを返すには時間が足りないと思われた。明日の朝にはここを発つのに、これから帰ってくる慧と、那智の相手もしながら、借りの正体を探って耳を揃えて返してやるのは、荷が重い。つまりそれもまた、来年に持ち越しということだ。仕方がない。

 手渡されたアイスクリームの銀紙を剥いて丸め、和孝の手元のビニール袋に向けて放り投げる。そのゴミはちゃんと、乾いた音をさせながら、ビニール袋の中へ収まった。棒に刺さった白いアイスクリームの塊は、どうやらもう溶け始めているようで、角は幾分か曖昧になっている。それを、てっぺんから頬張る。冷たいのと同時に、ただひたすらに甘い。和孝へ文句を言おうと、アイスを口から離しかけた瞬間、風鈴の音の向こうに、ドアの開く音がした。次いで、ただいまと元気のいい声が、軽い足音が、続く。足音は考えるまでもなくこちらに向かってきている。早く口の中のものを食べてしまわなければいけない。慌ててアイスを頬張り、棒だけを引き抜けば「あたり」の文字が焼き印されている。これで借りは返せないだろうか、そんなことを考えながら、口の中の詰めたい甘ったるさを飲み込む。一気に冷えがきて頭が痛み出しそうだ。

 顔を上げて、座り込んだ和孝の向こう、開けっ放しのふすまの方を見れば、小さな影が走ってやってきて、立ち止まる。

「ただいま、まさひろさん!」

 お帰り、慧。

 ただの帰りの挨拶にうれしそうにする慧へ、お決まりの挨拶を返すと、またいっそう、うれしそうにする。自然と自分の表情も緩む気がした。アイスの当たりは、やっぱり慧にやってしまおう。そう決めて、右手に持ったアイスの棒をそっと後ろに隠し、左手で慧を招き寄せる。

 和孝が可笑しそうに「どうしたの、昌浩くん」と言うし、慧は不思議そうに首をひねりながら、けれども俺の方へと歩いて、近付いてくる。その後ろからはきっと、ゆっくり那智が歩いてきている。

 ふと視線を向けた先、部屋の外、静かに近付いてくるの足音より向こう側、風鈴の音はまだ、ひしゃげた不協和音を奏でている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る