きらきら星
きらきらひかる、おそらのほしよ。
頼りない不安定な音程で、女の声がそう口ずさむ。かすれたハスキーヴォイスは、本当ならどちらかといえば彼の好みではないのだが、不思議と、今聞こえている声に対してだけは、それを言う気にはなれなかった。嘘っぱちのような音程でメロディーを口ずさむ声は、彼をひどく安心させるものだった。
何故にそんなことを感じるのか、を考えた結果、彼がたどり着いたのは幼い頃の記憶だ。彼の母親は、酒に焼けた喉から発せられるかすれた声で、彼をあやすのに、子守歌や童謡を、あるいは時のヒットソングを口ずさんでいた。彼はその声を覚えている。背中越しに見た台所の炊事の風景とともに、その声を覚えている。
今聞こえてくるハスキーヴォイスは、彼の母親のそれとはまた趣を別にしたものだった。第一に、彼女の喉は酒に焼けたわけではない、ということを彼は知っている。第二に、彼女は少し音痴のきらいがあるが、彼の母親はとても正確に音を鳴らしていた。そして最後に、彼女は彼の母親ではない。決して、それがどんな形であったとしても、彼に無償の愛情を与えてくれる、度し難い「母」という存在ではなかった。
彼は、鍵盤を叩く手を止める。「あら、終わり」と彼女の声が言った。彼がそちらを向けば、畳に座り込んで、自分の周りに何冊も本を広げながら、そのうちの一冊を膝の上に立てて置いて、彼女が彼を見上げていた。「早いのね」と可笑しそうに言う彼女へ、彼は頭を振ってじとりと目を細める。手を止めたのは、彼に言わせれば、彼女のせいだった。そうであるのに彼女に笑われるというのは、何となく不愉快であった。
彼はピアノの椅子から立ち上がって、床の上へ胡座をかいて座る。彼女が少し腰を浮かせて、体をずらそうとするのを、腕をつかんで引き止める。彼女はゆっくり、大きく瞬きをして、彼を見た。丸くなっていた目はすぐに、三日月と同じ形に細められた。
「さびしいわ。昌浩君が遠くへ行ったら、このピアノを弾く人も居ないのね」
——お前、自分で弾くだろう。
「さあ、それはどうだろう」
彼の、声がない問いに、彼女はこてんと首を傾げる。にこりと笑んだ口元に、なんだか噛みつきたい気分だった。さっきと同じくうずりと伸びそうになる右手を、左手で脚の上へと押さえつける。彼の両手はここで、ピアノを弾くことだけを許されている。本当なら、そうだった。今日が最後だから、彼女も自分に甘いのだろうと彼は考えた。
「ピアノだけは、最後までうまく弾けずじまいね。他はちょっとは様になったけど」
——子ども好きだからな、お前は。
「ええ。大好きよ」
頷いた彼女の笑みは輝いていて、一点の曇りもなかった。どきりとしたのは、その笑顔に見惚れただけではない。彼女の言葉に、その笑みに、彼は「母」というものを重ねた。そうしてみて分かったやるせなさに、ため息を殺して、拳の手のひらに爪を立てた。
彼の母は彼を置いて遠くへ行ってしまったが、今度は彼が彼女を置いて遠くへ行く番だった。そういう考えへ彼が到ったのは、遠くへ行くことを決めて随分と経ってから、彼女へ報告をするときであって、だから自分は彼女へ知らせるのをこんなにも遅らせたのだろうか、と彼は思った。家を引き払う手続きをして、ピアノを部屋から送り出して、もうほとんど準備も終わった夕暮れのことだった。
彼は彼女を度し難い何かだとは思っていなかった。思っていなかったが、愛そうと考えたし愛されたいと願ったりした。そのどちらも、一度として口に出さないまま、彼は遠くへ行く。彼女のピアノがどこにもない、遠くの港町へ行く。
彼はゆっくり立ち上がって、再びピアノの椅子へ腰かける。白と黒、はっきりと二色の鍵盤の上へ十指を置いて、彼は深く呼吸をした。軽く目をつむって、ゆっくりと開く。息を止めて、指先で鍵盤を押し込む。
楽譜の指示とは異なるかもしれない、ゆっくりとしたテンポ、しつこいほどのレガート、くどいぐらいのドルチェで、彼はその曲を奏でる。どこだったかの言葉で「お前が欲しい」と題のつけられた、言葉のないラブソングを。彼は彼の出来る限りの声で弾く。それでも彼女には届かないだろうと分かっていたし、届かないからこそこうまで思いきって奏でていた。
背中の後ろで彼女の立ち上がる気配がした。いつものように自分を放っておいてどこかへ行くのだろう、と彼は考えたが、その予想に反して、彼女はその場へ立ち止まった。どころか、彼の方へ一歩近づいて、彼の手元、鍵盤を叩く彼の手元を、覗き込む。
「そんな曲も良いけれど」と、彼女が言う。彼は思わず手を止める。鍵盤から指を離して振り返れば、彼女がにこりと笑って、ゆるく首を傾げている。
「わたし、やっぱりきらきら星が聞きたいわ」
彼女はそう、強請る。いつものように、今日、彼がここを訪れたときのように、強請る。そうすれば、彼にそれへ逆らう理由はなかったし、中断させられたラブソングにはもう、諦めがついた。
ド、の音に右の親指を、左手の小指を置いて、彼は鍵盤を叩き始める。耳慣れたメロディーを、彼は奏で始める。それにあわせて、彼女が鼻歌を、次いで、ハスキーヴォイスが、踏み外しそうな音程で、言葉を歌う。
きらきら光る、お空の星よ。
彼は目を閉じて、もうすぐ思い出になるだろう掠れた声を聞きながら、きらきら星を弾き続ける。
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