真夏のラプソディ・イン・ブルー

 知らない子どもが、客間に広げた布団の上で末の弟ふたりを抱えて眠っていた。子どもと弟の下に押し潰されている敷布団は俺にも見覚えがある客用の、薄っぺらな布団で、押し入れの奥の奥に押し込められていたはずなのに、この子どものために引っ張り出したんだろうか。

 ただ、子どものことを知らないのは多分、俺だけなのだろう。末の弟ふたりは、白いカッターシャツの半袖から伸びる知らない子どもの白い腕を枕代わりにして、すうすうとかすかな寝息を立てている。このふたりは知らない相手の腕を枕にして眠ったりしない。きっと俺が知らない間に、ここで知り合ったのだろう。

 軒下に吊した風鈴が高く涼やかな音を鳴らす。それとはまったく質の違うがさりと耳障りな音が、片手に提げたビニール袋の中から聞こえた。来る途中のスーパーで適当に選んで買った色々な種類のアイスクリームを積み上げていたのが、袋の中で崩れたらしい。

「アイス、足りるかな」

 那智。啓介。しずく。紗耶。空に、明良に、理人。それから、自分の分。と、余分はなくて、八つだけ。那智はミントのアイスは嫌いだし、しずくと紗耶はかぶりつくような形のアイスを嫌がる。逆に、明良と理人はスプーンを持ってすこしずつすくうカップのアイスが苦手なのだし、空はどんな種類を食べていても、溶けたアイスで右手をべたべたに汚した。手がかからないのは、啓介ぐらいだ。

 どん、と腰に衝撃がある。細っこい腕が俺の腰にめいっぱい回されている。背中のくぼみにぐいぐいと鼻を押しつけて、さながら、乳房を探す子豚のようだった。こないだ教養の授業で見せられたビデオのせいだろうか。

「空」

 名前を呼ぶと、腕の力を緩めて俺から少し体を離す。ゆっくり俺を見上げて、見せつけてくるのは「満面の笑み」。裏の意図なんて読み取れそうもない。それを見ていると、知らない子どもに怯えを感じて、縁側に座り込むことも出来ずに立っていた自分が、馬鹿みたいに思えてくる。

「けーちゃん、おはよう」

「もう昼前だけどなあ。那智は?」

「なち先生はだいどころ! けーちゃん、それアイス?」

「そうそう、アイスクリーム。八つしかないんだけど、足りるかな?」

「足りないよお、春ちゃんがいるもん」

 空が俺の空いた左手をぐいぐいと引っ張る。逆らわずにその力についていけば、連れて行かれるのは勝手口の方だった。この家の子どもはみんな、玄関から家に入らない。理由は特にないのだろうけど、自分自身からしてそうだった。間口の狭い、一人が通るのがやっとの勝手口は台所に通じているのだけど、無用心なことにそこの鍵がかけられていることは終ぞなかった。家の主である那智は、家にいる間はほとんど、そこで座っているのだから、鍵をかけてある必要なんてないのだろう。金属で出来たノブを引けば、おかえり、と声がある。そうして、まな板の上で包丁を動かしているか、新聞を読んでいるか、縫い仕事をしているかする那智の姿が見えるのだ。

 空が背伸びをして金属のノブを掴む。蝶番の油が足りていないのか、きいきいと軋む音がして、弱い力で引かれた扉はゆっくりと開く。せんせい、と舌っ足らずに呼びながら、今にも鼻緒の切れそうなビーチサンダルを脱ぎ捨てて、空はうちの中へあがる。

「あら、おかえり、空」

 やわらかな声は、今日は台所に置かれた机の方から聞こえた。手元には新聞が広げてある。いつの間にかかけるようになった丸い眼鏡、銀縁の眼鏡は、皺の寄り始めた目元になんだかとても似合っている。その奥の黒い目は、まったく昔と変わらないような気がするのに。

「と、慧も。それ、アイスクリーム?」

「そう。人数分、のつもりだったけど……それだと一個」

「足りないわね、春が居るから」

 春。さっき空の口からも聞かれた、聞き覚えのない名前。それが、さっき客間で寝転がっていた子どもの名前だということはすぐに分かる。白いシャツを着て、腕を弟たちの枕代わりに敷布団の上に投げ出していた子ども。夏にやってきたのに、春というのか、あの子どもは。

「誰?」

「さあ、誰でしょうねえ。私より、啓介の方が知ってるわ。連れてきたのも啓介だもの」

「また……猫とか犬と同じように連れてきたのか、啓介、あいつ」

「猫も、犬も、いつもちゃんと、飼い主を見つけるまで、っていう約束だったでしょう。それが、人だもの、そうはいかないから」

 冷凍庫の中身は、買い置きの薄切り肉や、挽肉がラップにくるまれている。アイスクリームを買って来たのは正解だった、甘い氷菓子は一つもここに入っていない。

「もう一つ、買ってきた方が良いな」

「おれも行くーっ!」

「はいはい、ちゃんと麦わら帽子被ってな」

「水筒も提げていってね、短い距離なのは分かってるけど」

 冷凍庫の扉を閉じる。冷気が扉の隙間から漏れて、涼しい風が頬をくすぐった。橙色の光が見えなくなる、その瞬間まで冷凍庫をのぞきこもうと背伸びをしていた空は、俺が頭を撫でると、踵をおろして、アイスクリーム、と小さい声で呟いた。

 ばたばたと、足音が近付いてくる、そちらを見ると台所の入り口ののれんが揺れて、俺よりは小さい人影が台所に飛び込んできた。学校では怒られっぱなしだという明るい色のポニーテールが、項を隠して揺れる。左右でわずかだけ色の違う二つの緑の目は、俺を見つけて、ぱちぱちと瞬いた。

「慧!」

 行き過ぎて、振り返る、額から汗が飛び散る。もともと、血管の色が透けて見えるぐらいに白いはずの肌が、火傷したように赤く染まっているから、今、外から帰ってきたんだろう。

「慧がいるって、あれ? 今日、日曜日?」

「日曜日だ。珍しいな、お前が朝から出かけなんて」

「イチが、自由研究。日時計作ってるんだ、学校の屋上で。それの写真撮りに行ってた」

「凝ったことするなあ……自由研究って、俺、何やったっけ?」

 じゃれてくる空を、自分の胸の前に引っ張り上げる。抱き上げる体は、数年前から変わっていないんじゃないかと思ってしまうぐらい、軽くて小さい。手のひらは熱く、汗で蒸れていて、それがシャツを強く握るから、きっとシワになってしまっている。そうしながら、那智に問いかけてみれば、シンクでガラスのコップに水を汲んでいる啓介が、急いでこちらを振り返る。その顔は、興味津々、といった様子に輝いていた。手に持ったコップの縁から、水が溢れている、それも、気に留めないで。

「朝顔の観察日記」

「……流石に、小学生のときの話だろ」

「いーえ。そんな覚え間違い、あるもんですか。間違いなく、中学生の、一年生のときの話よ。二年生のときは、ひまわりの観察日記……そこの庭の隅に咲いてるでしょう。三年生のときはねえ、出してなかったわねえ」

 思い出しながら、よっぽど可笑しかったらしい、那智は新聞を閉じて、眼鏡がずれるのも気にしないまま、声をあげて笑う。案外、粗忽者だったのよねえ、慧は。那智へ言い返せなくて、開きかけた口を閉じる。空が汗ばんだ手で俺の頬を触ってくるのは、黙り込んだ俺が不機嫌そうだったからか。その空の頭を撫でながら、思い浮かべるのは自分の住むアパートの一室、机の上に積み上げたまま出てきた、参考書の山と書きかけのレポート。それらにかまけて、放りっぱなしのありとあらゆる他の家事。

「じゃあ、俺も慧の真似しよっかなー。先生達もさすがに覚えてないだろうし、怒られないよね、必要以上には」

「駄目だ、ちゃんとやれ」

「なんで」

「ろくな大人にならないぞ、俺みたいに」

「慧みたいに?」

 空のコップに水を注ぎながら啓介がそんなことを言うので、眉間に寄った皺を自覚しながら、諭すような言葉を吐く。かつての自分の行いがひどかったことを自覚しての、兄としての勤めだ。その、勤めとしての言葉をして、啓介はわざとらしいほど目を丸く、驚いた表情を作って、瞬きを繰り返す。それから、シンクの水栓を閉じて、ガラスのコップに入れた水を、ぼたぼたと口の周りに零しながら飲み干すと、空になったそれを洗い桶に浮かべてから、首を傾げた。

「なら、良いじゃん」

 本当に、何の疑いもないように口にする啓介の様子は、さっきの空の笑顔を思い出させて、言葉に詰まって、代わりに、ため息をつく。新聞のページをめくった那智だけが、違いないわねえと可笑しそうに笑って、空もそれにつられて笑っていた。


「小泉春、です。どうぞ、よろしく」

 そう言った子どもの声は体格から想像していたのよりも随分と低く、発音される単語の一つ一つのアクセントには、この辺りでは耳慣れない癖があった。テレビや、それから、大学の構内でたまに聞く、西の方の言葉と同じものだ。

「出身は、関西?」

「そうです。神戸の東の方で」

「……まだ高校生だろう、その格好じゃあ。ここまでは、どうやって来たんだ? ひとりなのか?」

 縁側に、少し距離をとって並んで座る、それで次々に質問を投げかければ、なんとなく、こちらが悪いことをしているような気になる。問い詰めているわけでもないのに、相手の、小泉春と、そう名乗った子どもの、どことなく気まずそうな雰囲気のせいだろうか。えーと、それは、と答えあぐねている様子の小泉をじっと見つめていると、俺の背中に衝撃が走る。後ろを振り向けば、明良が狭い肩を張って、仁王立ちをしていた。

「けーにーちゃん、はるのこといじめちゃ、だめだかんなっ」

「いーじーめーてーないっ」

 言葉と一緒に、からだごと後ろを振り向いて、立ち上がるついで、明良の体をひょいと持ち上げる。わっと驚いた声をあげた後、明良はうれしそうにたかい、と笑う。その体は、やっぱり随分と軽い。

「いじめてるように見えたか?」

「だって、けーにーちゃんのこえがこわかったー」

「ああ、そういうつもりじゃないんだけどな……なんか、こういうときには、つい、癖で」

 明良に答えながら、最後の方は縁側に座る小泉に向けて言う。明良を地面におろしてやれば、さっき俺にしたのと同じように、小泉の背中へと伸ばした両手をぶつけにいった。それでも微動だにせず、小泉はじっと俺のことを、それこそ訝しがっている表情で、見つめている。動かない小泉を不思議に思ったのか、明良もまた、首を傾げ、また逆に傾げ、はるー、と舌っ足らずにその名前を呼んでいる。

「お兄さんこそ、なにもんですか」

 丁寧にしようとしたのだろうけれど、なりきれなかった言葉遣いに気が付いたのか、言い終えた後、小泉ははっと口を塞ぐ。まるで漫画で見るような反応だと可笑しくなって笑ってみれば、しくじったとでも言いたげに、小泉の表情がどこか怯えている風になった。

「……怒ってはないぞ」

「けーにーちゃん、おこったらもっとこわいかんなー」

「あ、はい」

「素直なやつだなあと思って。可笑しくて……類は友を呼ぶって言うのか、俺の近くにはあんまり、こんなやつはいないから」

「なんや失礼なこと言うてませんか?」

「ああ、そうだなあ……俺は、本城慧。ここの、長兄だよ」

 不満そうに唇を尖らしている小泉の隣に、改めて腰を下ろす。その背中にとりついたままの明良に、「昼飯の手伝い、してこいよ」と言えば、これまた素直に頷いて、走り出す。といっても、昼飯は素麺だから、箸を並べるぐらいしか出来ることもないだろう。

 小さな背中が見えなくなって、軽い足音が聞こえなくなった後、ため息をついてりいんと鳴る風鈴を見上げる。青い空。眩しい太陽は、今が盛夏だと存分に思い知らせてくれる。顎の下を伝う汗を拭う。日陰にいてもなお、汗が流れるほどの気温だった。風があるのだけが、救いだ。

「啓介に連れてこられたんだって」

「……ああ、はい。啓介……なんや、年下連中には、ちしゃって呼ばれてるみたいでしたけど……」

「ああ、苗字のせいだよ。椋、っていってな、あいつの苗字……木偏に、京都の京の字」

 かがみ込んで、庭の砂に指を這わせる。深くつけた溝はちゃんと「椋」という字に読み取れた。

「で、この字を漢和辞典で引くと「ちしゃ」という木を指す、という説明が出て来る。啓介が小学生の頃、それを面白がったあいつの同級生がからかいがてら呼んでたのが、空から広まって、至る、今」

「ふうん……そんな理由やったんや」

 もっと、深い理由があるんかと思った。腿に肘をついてつぶやく小泉の言葉の裏には、そんな声が聞こえた気がした。深い理由、そんなものがあだ名をつけるのにあるだろうか。少なくとも、俺の周りには要らなかったように思うけれど。

「こっちには、神戸からどうやって」

「鈍行を乗り継いで、乗り継いで……それでも、二日はかからんかったですよ、下調べもなんもしてなかったけど。でも、途中で路銀すられてしもたみたいで、切符だけは無事やったから、とりあえず気付いた駅で降りて、交番探さな思うてぼーっとしとったら、啓介に声かけられて」

「それは……ずいぶんと、大変だったみたいだが、警察にはちゃんと届けられたのか?」

「はい、啓介がちゃんと交番に連れて行ってくれたから。でも、そこでの説明が大変で……僕はまだ高校生やし、住所は神戸やしで、おまわりさんも色々と、そこら辺気にしとってで、家に連絡とられそうになって、そしたら、啓介がいきなり、この人は俺のイトコのにーちゃんです! なんて、叫ぶもんやから」

 話ながら思い出して、よほど可笑しかったのだろう。くっくと声をあげて笑う様子は、ようやく俺には制服相応の年齢に見えた。さっきまで、子どもと言いつつ、その判断の正しさを迷っていたのだけれども、どうもこれは、子どもの笑い方であるように思う。小泉はその子どもの笑みを浮かべたまま、笑い声を引っ込めて、話を続ける。

「あれよあれよというままに、ここに電話することになって、那智さんが俺のおばさんっていう話になって、無事、盗難届は出せまして、それからここに世話になってます」

「何日前から」

「……五日前?」

 指折り数えて、それでもまだ首を傾げながら言う小泉の様子は、確かに、可笑しかった。出会って初っぱなにそんなにインパクトのあることをされちゃあ、それ以外の色々の記憶が霞むのも、仕方がないのかもしれない。自分にも、覚えがある。

「空も、明良も理人もよく懐いてるみたいで。その様子だと、しずくと紗耶もだろ?」

「いやー……女の子は、なんやろ、うまくいきません。怖いんかなあ、僕」

「まだ、慣れてないだけだ。もうちょっと経てば、うまくいく。俺たちはみんな、さみしがりだから」

 俺が言い終えるのと同時に、風鈴の音がりいんと鳴った。小泉の表情をうかがうよりも、その音の鳴った方を見上げる。短冊が、金属の棒が、透明なガラスの下でゆらゆらと揺れている。寄る辺なさげに揺れている。

「ハーの音」

 小さな声で小泉が呟いた。見れば、小泉もまた、今、音を鳴らした風鈴を見上げている。ハー。her。彼女の音? 自分の中での解釈は訳の分からないところに落ち着いて、首を傾げそうになったところに、小泉が急に俺を見て、笑みを作った。それは、子どもの笑みじゃなかった。

「僕も、さみしがりなんです」

 何か他に言いたいことがありそうな、笑みだった。

 それを聞き返してみるより先に、昼食を告げる啓介の声が奥から聞こえてくる。早く行かなければ、ペナルティ。それをもう理解しているのか、小泉は大きな声で啓介に返事をして、縁側にさっと両足をあげた。それから立ち上がって、さっさと家の奥へと、居間の方へと進んでいく。あっという間にふすまの影に消えた影に、思わずため息が零れた。

 そして、縁側に脚を上げながら、思い出す。アイスクリームの好きな味、聞くの、忘れていた。



++++



「どうして関西から、わざわざこっちに来たんだ」

 俺が尋ねると、春は手元の地図のページをめくるのを止めて、こちらを見た。その表情は、なんとも名状しがたい。驚いているようでも、戸惑っているようでも、また、呆れているようでもある。俺からも春からも直角にあたる机の辺に座っている啓介は、宿題の数学のドリルを解く手を止めて、俺と春とを交互に見ている。

「今になって、ようやくですか」

「だって、聞く必要もなかったし、なあ」

「せやったら余計、なんで今?」

「刑法第二二四条、未成年者略取及び誘拐」

 啓介の宿題を見る合間、暇つぶし代わりに眺めていた六法のあるページを開いて、見せる。啓介まで一緒になって、俺が開いたページをのぞきこむが、二人の眉間には揃って深い皺が刻まれて、唇はきつく引き結ばれていた。

「を、読んでいたら、そういえば確認していなかったなあと、ふと思い出した」

「……まあ、別に隠してるわけちゃいますけど」

 眉間の皺をそのままに、春は乗り出していた姿勢をもとの通りに戻す。座布団の上にきちんと正座をしているのは、あちらでの育ちが良かったことを示しているように思われた。もう今日だって、一時間はこうして机を囲んでいるというのに、脚を崩していない。啓介と俺ははじめから諦めて胡座を組んでいる。

「俺、知ってるよ。行きたい大学があるから!」

 啓介がページの開いたままの六法を俺の方へと押しながら、自信ありげにそう言った。へえ、と相槌を打ちながら春の方を見ると、その通りと言わんばかりの納得した顔で、うんうんと頷いている。啓介もそれを見たのか、どこか自慢げに胸を張っていた。

「そのために家出まがいのことを? ちゃんと、親御さんに話して出てくれば良かったんじゃないか」

「話して、分かるようやったら良かったんですけどね。聞く耳持たん人らやから」

 そう言って、春は苦く笑う。声と言葉に力がなく、どこか躊躇した様子なのは、俺たちの事情に遠慮をしているのだろうか、と考える。俺たちは誰も彼も、生みの親が居ないか、捨てられたか、見棄てられたかした、そんな成り行きの持ち主ばかりだから。そのせいだろうか。俺や、那智と弟、妹たちが戯れているのを眺める春は、ときどき、ひどく苦しそうな顔をする。だから俺は、春を割と好きだった。

「……子どもも親を選べないからな、そういうこともあるだろう」

 俺が言ったところで慰めになるだろうかと迷いながら伝えれば、春はまだ少し戸惑った様子ではあるが、そうですね、と微笑んだ。その手前、啓介が表情を殺して微動だにせず、俺たちのやりとりを聞いている。軽く息を吐いてその肩を叩けば、ひょいと小さく肩が跳ねて、気まずそうに啓介が俺を睨んだ。その反応には、苦笑するしかない。

「ところで、大学っていうのは、どんな大学だ?」

 当然のこととして俺が尋ねると、今度は春が表情を殺して、黙り込む。地図の上に置いてあった自分の両手を、手のひらを上に向けてじっと見つめたかと思うと、ひっくり返して指を立てる。そうしてまた、手のひらを上に向けて、軽く指を曲げ伸ばしした。男なのに、さして大きい体をしているでもないのに、細くて長い、そして白い指だった。

「…………音大」

 自分の指先を見つめたまま、春はそう答える。おんだい。音大。漢字に変換することが遅くなったのは、自分の周りにそういう道を歩んでいる人間が居なかったからだろう。そうして、意味が理解できてからじっと考えていれば、なるほど、春の答えというのは、とても納得がいくものだった。

 それにしても、なんでわざわざここいらの大学なんぞに。そう、続けようとしたところで、ぱたぱたといっそう軽い足音が近付いてくる。ふすまが開けられるのもまた、軽い音しかしなかった。

「春ちゃん!」

 水色のワンピースの裾が、膝の上でひらりと揺れる。同じように、肩より上で切り揃えた艶のある黒髪の先が、ひらりと肩の上で揺れた。片手に握りしめているのは、多分宿題ではない。啓介と同じ量の宿題が出されているはずなのに、もう終わったと自慢げに報告してきたのは、先週の話だ。そして、ここに来て声をかける相手が俺でなく、春であることが、しずくがやってきた目的が宿題を終わらせるためでないことを、示している。

「なんやの、しずく」

「楽譜、見つけた!これで弾けるでしょう?」

 たったと走ってきて、振り向いた春の隣にしゃがみ込んで、しずくは持ってきた紙を春へと差し出す。楽譜、としずくが言ったそれを受け取って、春はしばらく、眉間に皺を寄せて目の前の者の正体を確かめかねるような目つきをしていたが、ああ、と合点がいったのか明るい声をあげて、しずくを見た。

「キラキラ星変奏曲やん。これやったら、僕、見いひんでも弾けるけど」

「えーっ! そんなの聞いてない!」

「あー、何聞きたいんか、先に聞いとかんかった僕が悪かったな、ごめんごめん」

 一生懸命探したのに、とぶつくさ文句を言い出しそうなしずくに謝って、受け取った楽譜を返しながら、春は立ち上がる。一度、両手を頭の上で組んで大きく背伸びをすると、しずくの背中を押しながら、歩き始めた。きっと、ピアノのある部屋に行くのだろう。それを察したのか啓介が、こちらを向く。まさに言葉よりも雄弁に、その目は自分も行きたい、と主張していた。

「休憩がてら、な」

 無言の主張に言葉で返してやれば、啓介は勢い良く返事をして立ち上がり、しずくと春とを追いかけていく。俺もまた、開いていた六法を閉じて、三人を追いかけることにした。はじめからあぐらを掻いていたから、脚が痺れる訳もなく、すんなり立ち上がって三人の後を追う。庭に面した廊下へ出て、奥へ、ピアノのある部屋へ。啓介の日焼けした腕が消えていくのが見えた。

 春がピアノを触っているという話は那智から聞いていたが、まさかその方向に進学したいだなんていう大それた話のためだとは、思っていなかった。居着いて一週間ほど、その間にどうここで過ごすのか、について、春と那智がどんな約束をしたのか、俺が知る由もない。もうここへ住んでいるわけでも何でもない俺に出来るのは、何日かに一度、この家の様子を覗きに来ることぐらいだ。そのわずかな時間だけでは、とても春だけと向き合うわけにもいかないので、俺は、春がどうやらこの「家」へ害を為すような存在でないことが、ようやく見えてきた、ぐらいのところだった。

 ポーンと、ピアノの音が鳴る。啓介たちに少し遅れて部屋に入れば、春がピアノの前へ座っている。アップライトピアノ、というらしい、折り紙でつくるピアノをそのまま、形にしてみたような姿のピアノ。俺がここへ暮らしていた頃からずっと部屋にあるのだから、二十年は経つのじゃないだろうか。そう思えば古いものだけれども、ピアノの表面は綺麗に磨かれて、黒く艶めいている。誰が弾いているのを聞いた覚えもないが、那智のことだから、掃除の一環として手入れをしていたのだろう。背の低い椅子へ腰掛けて鍵盤の上に手を置いた春の両脇に、啓介としずくが膝立ちになっている。うずうずとして落ち着いていない様子が、後ろから見てもよく分かった。しずくが手に持ったままの楽譜が、ひらひらと揺れている。

「それじゃ、弾くよ」

 春がそう言って、鍵盤の上の手を置き直す。鍵盤を押さえるためにだろう、指を曲げて、指先だけが鍵盤に触れるように。——何故だか、冷たい風の吹いた気がする。

 春の指が動き、ピアノをならし始める。右手の指がたどるメロディーには聞き覚えがあった。啓介としずくもそうだったようで、しずくは音に合わせて体を揺らしているし、啓介はまったく小さな声で、ピアノの音に合わせて歌詞をつぶやいている。

 ——Twinkle, twinkle, little star, How I wonder what you are!

 きらきらひかる、おそらのほしよ、なんて日本語に訳されている詩だ。英語のままでつぶやいている、発音は滑らかで、とても日本の中学生が学校で習っただけのものとは思えない。だが啓介の外見からすれば、その方がよっぽど似合っていた。

 ——Up above the world so high,

Like a diamond in the sky.

 みんなのことを、そらからみてる。日本語だとそう続くが、英語の詩とは似ても似つかない。共通点はせいぜい、星が空高くにあることぐらいだ。それを見上げているか、それに見られているかは、大きく違う。

 ——Twinkle, twinkle, little star, How I wonder what you are!

 同じフレーズを繰り返して、歌詞は終わり。啓介はやりきった、とばかりに春の顔を覗き込む。春はそれへ顔を見合わせて笑い、けれども、手を止めない。指は、止まらない。白い鍵盤を爪弾いて、音を鳴らしている。

 知ったメロディーなのに、知らない曲。その不可思議さにだろうか、首を傾げた啓介が、静かに俺を振り向く。俺は啓介に答えるよう、首を横に振ってみせる。啓介はわずか、眉根を寄せて、再び春の弾き鳴らすピアノの方を向く。

 しずくはいつの間にか体を揺らすのをやめて、じっとピアノに聴き入っているようだった。楽譜を持つ手もいつの間にやらじっとして、止まっている。薄い冊子の表紙には、確かに、さきほどしずくと春が言い交わしていた題名が記してある。「きらきら星変奏曲」。いったい、誰が弾いていたものなのだろう。那智だろうか。それとも、俺が知らない誰かだろうか。俺は弟、妹たちが戯れに触っているの以外に、このピアノの音を聴いたことがないから、誰が弾いていたとしても、少なくとも、俺がここへ来る以前のことだろう。

 注意して聴いていれば、はじめのよく知ったメロディーが、ちゃんと曲の中に聞こえてくる。変奏曲、とはこのことを指すのだろう。まるでかくれんぼみたいだ。きらきら星を捕まえようとして、捕まえ損ねている。それが楽しくなってくるのは、ピアノの音がひどく楽しげに、聞こえるからだろうか。

 啓介としずくは驚くほど静かに、春の隣へ佇んでいる。ちょっとでも動けばゲームオーバーとでも勘違いをしているんじゃないだろうか。それとも、動きを忘れるほど、春のピアノに聴き入っているんだろうか。生ぬるい風が吹く、向こうの軒下で風鈴の鳴る音がする。それらにも、ふたりは無頓着であるようだった。

 春の鳴らす音が次第に大きくなる。ああ、終わりが近づいているんだと思った。終わってしまうのが名残惜しい気がする。もう少しだけ聴いていたい、と思ってしまう。そんな、俺の感じていることとは関係なしに、春の両手はいっそう大きくピアノを鳴らして、鍵盤から離れた。まだ、ピアノの音が残っている。部屋の暑い空気の中に、響いている。残った音が小さくなるのと同時に、次第に、蝉の鳴き声が聞こえてくる。ああ、今は夏で、昼間だったと、思い出す。時差ボケのような奇妙な感覚に瞬きをしていれば、啓介としずくが、胸の前で精一杯、拍手を始める。本気で賞賛を送る、きらきらとしたまなざしは当然、春に向けられている。春は自分の両隣を見て、困ったような、戸惑ったような表情を一瞬見せた後、微笑んで「ありがとう」と口にする。それから、しずくが持ったままの薄い楽譜を、ひょいと取り上げた。あ、としずくが、楽譜へ手を伸ばす。その指が再び楽譜へ触れようとしたとき、「おやつ休憩にしましょうか」という声が俺の後ろから聞こえた。思わず、大きく肩を跳ねさせる。那智が、団扇を片手にそこへ立っていた。

「今日はわらび餅よー」

「わらび餅! 好き!」

「俺も!」

 那智の言葉に、しずくも啓介もぱっと立ち上がる。我先を争うように、俺と那智の横を通って部屋を出て行って、向かうのは多分台所だ。おやつはそこに用意がされるものと、決まっている。那智はあらあら、とふたり見送った後、俺と春とを見て、首を傾げる。

「お兄ちゃんたちには、先におつかいをお願い出来るかしら?」と、笑顔で尋ねられては、断ることが出来ない。先に頷いておいてから、春を見る。きらきら星が聞こえなくなった部屋の中で、ピアノの椅子に小さく座ってこちらを見ている。その手には、古くて薄い楽譜が握りしめられていた。


 遣いの内容のメモを見て、今入れたエコバッグの中身とつき合わせる。間違いや、買い漏れがないことを確かめて、エコバッグの上部のファスナーを留める。横からエコバッグをのぞき込んでいた春が、はあとため息をついた。

「むっちゃ、買うたやん。すごいね」

「今日はまだましだぞ。なまものがないから」

「そうなん?」

 まだ驚いているのか目を大きくしたまま、春が言って、首を傾げる。それへ頷いておいて、エコバッグを持ち上げる。手のひらに細い紐が食い込むほどの重さだった。

「何人だ、ひい、ふう、みい……それとお前で、八人分の買い出しだぞ。一気になんでもかんでも買おうと思ってたら、腕が足りない」

「ふうん……荷物、分けてもらえたら持つけど」

「いや、いい」

 俺が肩に掛けたエコバッグを指差しながら、春が聞いてくるので首を横に振る。春は不満そうに唇をとがらせたが、俺が歩き出すと大人しく横をついてくる。

「何で。重そうやん」

「重いけど、いつものことだし。それに、お前の指に負担かけるのは気が進まない」

 そう言って春を横目で見やればぽかんとした表情でこちらを見ている。鳩が豆鉄砲を食らったような、という例えがあるが、まさにそのような顔。こちらは可笑しくなってしまって笑うのだが、またそれが気に食わないのか、春は唇を尖らすのに加えて肩も怒らせて、大股で俺の前を歩いていく。そのまま出入り口の自動ドアをくぐって、そこで立ち止まって、こちらを振り向いた。それがまた、可笑しい。

 自動ドアをくぐって、春の横に立つ。店の中の過剰な冷房の後の一瞬は心地よい、外の湿って暑く、重たい空気がもたらすものは、すぐに不快感へと変わる。目を細めて見るまぶしい陽射しの青空も、どこかで鳴く蝉の声も、夏のものだ。くしゃみが出そうだ。

 スーパーから「家」までは、どうせ十分もかからない。折角の春と二人になる時間をもう終わらせてしまうのは、もったいないよう気がする。

 店の前の横断歩道を渡って左へ曲がろうとする春を「ストップ、春」と呼び止める。春は素直に足を止めて「何?」と首を傾げた。

「寄り道しよう」

「……寄り道?」

 「家」へ帰るのとは逆、右へと曲がって歩けば、春が後ろをついてくる。軽い足音がすぐそばに聞こえるので、そちらを見なくても春がついてきているのは分かった。

 はじめの電信柱を左へ折れて、路地へとはいる。道の両側には一戸建てが並んでいて、足元はアスファルトから、砂利まじりの地面になった。時間帯のおかげか、うまい具合に影の下を歩くことが出来て、はあと息を吐く。日差しを避ければ、まだ暑さが緩んだ気がした。それでもまだ汗は流れるので、手の甲でもって顎の下を拭う。街路樹なんて見当たらないのに、まだ、蝉の鳴く声が聞こえる。

「どこ行くの」

「かき氷、好きか」

「嫌いか好きかいうたら好きやけど……かき氷食べにくん?」

「まあ、そうだなあ」

 別に、売っているのはかき氷だけではないので、それ以外を食べても構わないのだが、行く先を選んだ理由はかき氷に違いなかったので、頷いておく。二つ目の電信柱を越えてすぐの軒の下に、「氷」の布が揺れているのが見えた。紺色の瓦、緩い傾斜の屋根。煙草の自動販売機が置いてある、その手前へは、朝顔の植木鉢がひとつ、ぽつねんと置かれている。支柱に巻き付いたつるのところどころに、しぼんだつぼみがついている。朝顔だから昼にしぼむのは当然だが、それを見つけた途端、気怠いやるせなさが、胸の端から少しずつ染み入ってくる。覚えていない中学生の頃の自由研究の間に、俺は毎日飽きもせず、こんな気分を覚えていたんだろうか。それとも、そんなことへ気づけるだけの余裕は、どこにもなかっただろうか。覚えていないし、思い出しても詮ないことだが、自分が何を思って、朝顔の観察者をしていたのかは、ただただ不思議だ。首を捻る代わりにエコバッグを肩へかけ直して、植木鉢を横目に見ながら通り過ぎ、開きっぱなしのガラスの戸の中をのぞいた。

 小さな白熱電球が吊してあるだけの薄暗い、狭い部屋の壁沿いには、金属の棚がぎっしり並んでいて、駄菓子が所狭しと並べられている。奥に畳の小上がりがあって、卓袱台が置かれ、座布団が積み上げられている。その手前の番台に、作務衣を着た禿頭のご老人が、煙草をふかしながら頬杖をついている。険のあるまなざしが天井をたどってから、俺を向いた。

「……ご無沙汰です、昌浩(まさひろ)さん」

 言って目礼をすれば、彼は俺を招くように頭を振る。不機嫌そうな表情は変わらないが、実際にはそうでもないのだろう。わざわざ、煙草を灰皿にねじ込んで、俺たちを迎え入れているのだから。

 春はおそるおそるという様子で、俺の後ろをついてきているようだった。足音がずいぶんと大人しい。昌浩さんの前で立ち止まって春の方を見ると、店の中をきょろきょろと見回して、動作こそ落ち着いているが、棚の中身やらが、気になって仕方がない様子だ。俺の隣へ立ち止まってもまだ、春は店の中の様子を興味深げに見回し、体を傾けて奥の小上がりまでのぞき込んでいた。

 こつこつとかたい音がする。机の上には皺の刻まれた無骨な手が載っていて、人差し指だけが 、俺を指すように伸ばされている。爪が深爪になってしまっている、人差し指。そんな指先から、昌浩さんの顔へと視線を移す。

——新入りか。

 声なく、唇がしゃべる。その唇の動きから、言葉を読みとって「ええ、そうです、多分」と、答える。昌浩さんが可笑しそうに、頬をゆるめる。

——多分って、なんだそりゃ。

「だって、春には家がある」

——お前にもあるだろう。

「分かっててからかわんでくださいよ」

 思わず苦笑気味にそう言えば、昌浩さんはいよいよ、おかしがって大仰に笑う。皺の刻まれた大きな手が互いに打ちつけられる、乾いた音がした。

 手を打つのをやめた後、昌浩さんが俺の後ろ辺りにか、じとりと視線を向ける。俺も振り向けば、

春が、今度は昌浩さんをじっと見つめている。聞いた年齢よりもやや幼く感じられるまなざしが、丸く、どこも逃がさないようにと神経を尖らせながら、番台に鎮座する老人の姿をとらえている、ようだった。

 体を半身にして、昌浩さんと春が真っ直ぐに向かい合えるようにする。両者を交互に見た後、まずは春の方へ体の正面を向ける。手のひらは、昌浩さんの方へと向けた。

「春、こちら昌浩さん。那智の知己で、俺たちによくしてくれる」

 説明のどこがおかしかったのか、笑おうとして短く息をもらす音が数度、聞こえる。春はそんな昌浩さんの様子に怯むこともなく、まだまじまじと、昌浩さんを見つめている。

 今度は昌浩さんに体を向けて、手のひらで春を示す。

「昌浩さん、こいつ、小泉春。関西から来たって」

——同郷か。

「それは知らない。昌浩さんがどこに居たか知らないし」

——神戸だよ。こ、う、べ。

「ああ……じゃあ、一緒だ」

 つぶやいてから、春を見る。当然春は、俺と昌浩さんが何を話していたのか知る由もない。俺と昌浩さん、ふたり分の視線を受けて、一瞬肩を大きく跳ねさせる。まばたきが落ち着いたのを見計らって「昌浩さんも神戸に居たんだと」と話を振れば、「ほんまですか」と春がまた目を見開いて、でもどこか安心もしているような調子で言い、番台へと近づく。椅子に腰かけた昌浩さんと春がほとんど同じ身長だった。

「僕は、灘なんです」

 緊張しているのか、やや固い声で春がそう言う。昌浩さんは春をじろじろと無遠慮に眺めている。春が言ったのにまばたきを繰り返して、片側の眉をあげてみせた。唇を開き、何か言いたげに見えたが、口元はそれ以上動くことなく、視線も春から俺に向けられる。何をしにきたんだ、と急に苛立っているのがありありと読みとれた。

「氷を食べに」

——早く言え。

 舌打ちの後、昌浩さんは屈んで、机の下から手書きのメニューを取り出し、机の上へ置く。角張った大きな字で、かき氷のシロップの味が羅列してある。みぞれ、いちご、メロン、ブルーハワイ、レモン、抹茶。練乳がけは五十円値上がりで、それでも二百五十円なのだから、安い方だと思う。

「春、どれにする」

「ええと……じゃあ、ブルーハワイで」

「後、みぞれの練乳がけひとつ」

 人差し指を立てながら話しかけると、昌浩さんは数回浅く頷いて、番台に手をつき、ゆっくり立ち上がる。番台の奥に、氷を削る大きな機械が台に置かれている。昌浩さんはその前へ屈んで、下の小さな冷凍庫らしきものの戸を開けた。氷の塊をその中から取り出すと、機械の上部へセットする。横のねじを回して、ぎりぎりと氷を固定する。それからまた屈んで、冷凍庫から、ガラスの容器をふたつ取り出す。深さのある器は縁が波打って、銀箔押しになっている。そのうちひとつを、機械のアーチ状になっている部分の下へ置いて、もうひとつは番台の上へ置いた。

 昌浩さんが、ハンドルを回して氷を削り始める。ハンドルをまわす音と、氷を削る刃の音が、薄暗い室内にこもっている。気付けば顎の下に汗が伝うほどの暑さなのに、昌浩さんは今日も涼しい顔だった。

「きれいな器やんね」

 春が言う。見れば、番台の前に屈んで、ガラスの器と目線の高さを同じにしていた。大きな目がゆっくり瞬きをする。おそらくは感心しているのだろう、それともガラスの反射を受けてだろうか、黒い目はきら、きらと輝いている。

 ある程度まで氷を削ると、昌浩さんは一度、ハンドルをまわす手をとめる。ふんわり広がった氷を、無骨な両手で包み込んで、軽く押さえつける。容器の上に出来上がった氷の山へ、機械の横に置いてあるボトルから、青色のシロップをたっぷりとふりかける。青く染まった山を機械の下へ戻して、また、氷を削っていく。山は薄い氷に覆われて、また白く積み重なっていく。

 さっきのシロップの色がすっかり見えなくなったところで、昌浩さんはまた手を止めて、白い氷を上から軽く押さえる。それからまた、青いシロップを、山のてっぺんが崩れそうになるほどたっぷりとふりかけた。屈んで冷凍庫の扉を開け、銀色のスプーンを取り出すと、青い山肌へ突き刺す。出来上がった青い氷の器を片手で悠々と持ち上げると、番台の上へ置いた。固く重たい音に、まだしゃがみ込んだままだった春が大きく肩を跳ねさせる。見上げた視線が昌浩さんをとらえると「ありがとうございます」と、まだ緊張しているらしい強張った声が言う。至って普段通り、険のあるまなざしを春へ向けた昌浩さんは、軽く頷いてみせるともう一方、まだ空の器を手にとって、こちらへ背を向けた。器は機械の下へ置かれ、すぐに、氷の削られる軽い音がする。ゆっくりと立ち上がる春を見ていると、そんな昌浩さんの動作を、熱心に見つめているようだった。

「奥で座って食べたらどうだ」

「……そうします」

 うなずいて、春は氷の器へ手を伸ばす。そっと、大きな器の下へ両手の平を入れ、持ち上げる。足音をほとんど立てない早足で奥の小上がりまで行って、畳の縁に腰かけると、真っ先に氷を机へ置いた。

 どん、と荒っぽい音がする。音の方を向けば、昌浩さんがこちらを向いていて、番台の上、すでに白い氷が置かれていた。乳白色の練乳が、崩れた山のてっぺんからたっぷりとかかっている。銀色のスプーンが、白熱球に鈍く光っていた。

「……手、抜いてません?」

——抜いとらん。

 さっきと比べてあまりに素早い提供に疑いの目を向けてみるが、昌浩さんはおかしそうに笑って、俺の疑問へ即座に否定を返す。

「シロップ二度がけしましたか」

——ありゃあ、新入りへのサービスだ。

「新入りを連れてきた俺へのサービスは」

 無言で、みぞれの練乳がけのかき氷を俺の方へ押し出してくる昌浩さんは、やっぱりおかしそうな顔をしている。笑われるのは面白くなくて顔をしかめるのは逆効果、いっそう可笑しそうにされるだけなので、もうため息をつくしかない。重たくなった器を両手で支えて、春の居る小上がりの方を向く。手のひらにずしりと乗る昔馴染み冷たさを、今から全部、ひとりで腹の中に収めることを思うと、すぐに頬が緩むから、自分は易いなあと呆れるしかなかった。

 氷を机に置いて、春の隣へ腰かける。春が脱いだはずの草履がきちんと揃えて置いてあるのだから、「里が知れる」。その横へ、自分のサンダルを脱いだままにしておいて、畳の上へ素足を載せた。薄べったい座布団がすでに用意されているのをありがたく思いながら、その上へ腰を落ち着ける。春は上から崩して、氷を食べ進めている様子だった。

「うまいか?」

「嫌いなあじ」

 短く答えて、春は口を開き、舌を出してみせる。ざらざらした舌は、シロップのせいだろう、青く染まっている。「真っ青だ」と感想を言えば、春は眉間に皺を寄せ、険しい表情をしてみせる。けれどもスプーンを手にとって、青い氷を突き崩し、口へと運んでいる。

「嫌いなら、頼まなきゃいいのに」

 正直なところを言えば、春はかき氷をすくうスプーンを止める。もごもごと口を動かし、ごくんと喉を鳴らした後、青い山を見つめながら、「そうなんやけど、青色は好きやから」と言う。

「青色の食べ物ってそうないから、かき氷、いっつも頼んでまうねん、ブルーハワイ。ほんま、味は苦手やから、いっつも後悔すんのになあ」

「分かってるのに頼んじまうほど、青色が好きなのか」

 俺の問いに、数度目を瞬かせた後、春は目を伏せ、「……うん、まあ」と呟きながら、スプーンを手にとる。青い氷をすくって、スプーンを目線より高く持ち上げて、じっと見上げる。氷はスプーンの上であっという間に溶けて、青いしずくがスプーンの背へ伝ってくる。声をあげる間もなく、青いしずくはぽたりと春のシャツの胸元へと落ちて、染みになる。あ、と思わず漏れた声に春が俺を見て、それから自分の手元と、胸元を見て「やってもうた」と苦い顔をする。青い水を飲み込んで、スプーンを口に咥えたまま、汚したシャツを引っ張って、うーんと低く唸っている。眉間に皺が寄っている。

「それぐらいの汚れなら落とせるぞ」

 俺が言うと、春はばっと顔をあげて、スプーンを口の中から出す。「ほんま」と勢いよく尋ねてくるのへ、軽く頷いて見せれば、ほっとしたように息を吐いて、スプーンを机の上へ下ろした。

「良かったあ……シャツ、二枚しかないから。着れんなったらどーしよ思うた」

「そうなったら俺のをやるよ」

「いや、それは悪いし」

 ぶんぶんと首を横に振って、右手も同じように振って、春は断りの意志を示す。別に、仮定の話だから、俺も「そうか」と頷くだけだ。本当にそうなれば、無理にでも押しつけていただろう。いつまでになるかはわからないが、「家」に居る間、ずっと一枚のシャツで過ごすなんて、不便も不潔もきわまりなかったし、それをどうにかしようったって、春に渡せる服を持っているのは俺ぐらいだろうから。

 俺もスプーンを手に、練乳のかかった透明な氷をすくい、口へ運ぶ。さっぱりとした甘みの後に、コクのある、ねっとりとした甘みが感じられる。同じ甘さでもこうも違うのか、と感心をしながら食べ進める。一気に続けて食べると頭が痛くなるから、そうはならないように探りつつ、氷が溶けないようになるべく早く。口の中に入れた氷は素早くほぐれて、小さな粒が舌の上で溶ける。噛みしめる間もなく溶けた氷を飲み干して、スプーンを器の縁へ戻す。

「理由はあるのか?」

 さっき聞きそびれたことを春に尋ねれば「え?」と気の抜けた声が返ってくる。また青い氷をすくって、口に運ぶ途中だったらしい。タイミングが悪い。その氷が口の中へ消えてから、俺はもう一度口を開く。

「青色が好きな理由。何かあるのかと思ったんだけど」

「その話、続いとったん……理由、理由なあ。大したことやないんやけど」

 春もまた、スプーンを器の縁へ戻しながら言う。口元は笑っているが、眉尻が下がって、眉間に少し皺が寄っているから、苦笑い、さもなくばひどく困ったという表情になる。頬にやっていた手を下ろし、机の上に置いて、指を曲げる。両手分、十本の指がばらばらに机を叩く。その指の動きには見覚えがあった。さっき、ピアノを奏でていた指と、同じだった。

 ここには鍵盤がないから、当然、正しい音が鳴るわけではない。木を叩くリズムと音の強弱だけがある。大きく指を広げ、あるいは細かく手首を使いながら、春が弾いているのがいったいなんであるのか、俺にはわからない。ただ、春が心底楽しみながら弾いているのでないことは分かった。さっき、ふたりに挟まれながら弾いていたときと、雰囲気がまるで違う。何かを悩んで、苦しんで、これ以上どうすれば良いのかも分からずに、喘いでいるように見える。この曲のせいなのか、それとも、この場所のせいなのか、ともかくも、春の指はめいっぱい、机の上を動き回っている。声の代わりのようだと思った。

 ひゅう、と高い音がする。口笛だ。見れば、昌浩さんが、唇をとがらせて、口笛を吹いている。はじめて見る光景にぱち、ぱち、まばたきをしてみても口笛は止まない。高い音がさえずり響いている。高さを変えて、強弱を変えて、何か楽器を奏でているように、音をつなげている。何故か、さっきピアノを弾いていた春の姿を思い出した。

「そう、その曲です」

 春が、少し高い声で言う。目を丸く、大きくして、興奮しているのか、うわずり気味の声で。

「よく、分かりましたね」

 春がそう言うが、昌浩さんは何かそれに応じるわけでもなく、まだ、口笛を吹いている。高く、ひゅうひゅうと鳴る口笛を。春はじっと、口笛を吹く昌浩さんを見つめている。ほんの小さな子どもが、おもちゃに夢中になったときのようだった。そんなとき、自分に何が出来るかを、俺はよく知っている。

 氷の器から冷たい銀のスプーンを手にとって、透明なままの氷をすくい、口へ運ぶ。夏とは程遠い冷たさが、すぐ、口の中いっぱいに広がった。



++++



 週末に気の早い台風が上陸するらしい、ということを、早口に騒ぎ立てるアナウンサーの声が、携帯ラジオから流れてくる。どうやら、この時期には珍しく(というのが本当なのかに疑いの余地は残るが)関東に上陸する恐れが高い、ということのようだった。それで、いつもより余計に大きくまくし立てているのだろう。

 しかし今日、金曜日の昼の空は、そんなことを微塵も感じさせない快晴だ。濃い青色と雲の白のコントラストがひどくはっきりしていて、眩しい。下り坂の途中、見上げていた視線を足元に落とせば、まだ続くコンクリートの道に、逃げ水が浮かんでいる。じわ、じわとうるさい蝉の声が、逃げ水をよけい遠くにやっているように思われた。いくら行っても、地面の水を捉えることが出来ないのだから。

 坂の終わりをしばらく行ったところに、「家」がある。木製の表札には「春海」の二文字だけが毛筆でかかれていて、ここが何なのか、正確なところを示す何かはどこにもない。その方が便利だからそうしているのかもしれない。鍵のかかっていない木の門を押し開けて、中に入る。イヤホンを外して、ラジオと同じズボンのポケットにねじ込めば、ピアノの音が聞こえてくる。全然、聞いたこともない曲だった。

「慧」

 足音と一緒に声がする方を向けば、啓介が両手を振りながらこちらへ寄ってくる。カットソーと半ズボンから伸びる腕も、脚も、たっぷりと日の光を浴びているはずなのに白いままで、ところどころ、かぶれのように赤くなっている。どうしても、啓介の肌は日光には弱いらしい。ただ、本人はその赤い腫れも、そこにあるはずの痛みも気にしていないように、笑っている。

「宿題は終わったか?」

「今日の分は終わったって。それより、台風だ、台風。準備しなきゃ」

「那智がそう言ってたか?」

「うん。俺にはうんと手伝ってもらうって。慧も呼んで来なきゃって言ってたけど、それは要らなかったね」

「そんなことだろうと思って、来たからな」

「さっすがあ」

 言って、啓介は両手を掲げて手のひらを俺へ向ける。求められていることがわかって、唇の端で笑いながら、自分の両手を啓介のそれへ打ちつけた。ぱあんと、小気味のよい音がする。少しひりひりと痛みが残るのは、ご愛嬌といったところか。手首から先をぶらぶらさせる仕草を並んでやりながら、おかしさがこみ上げる。自分の手のひらを見てみれば、わずかに赤みがさしている。啓介のそれらよりも、ずっと仄かな赤さだった。

 縁側にはすでに廃材が立てかけられていて、台風への備えのための準備は万端のようだ。その板の影に、隠れきれていない小さな背中が見え隠れする。ひとつ、ふたつ、みっつ。小さく動き回るその姿がおかしい。

「空、明良、理人。遊んじゃ駄目だって、那智先生に怒られるだろー」

 啓介が、ずいぶんと賢い様子でそう呼びかけながら、小さな三人へ近付いていく。早足と怒り肩のその後ろ姿もまた、俺にとっては可笑しいものだった。だって、それはかつて俺が啓介や、しずくにしたのと、全く同じことだから。

 はあい、と聞き分けの良い返事をして、三人はそろって、廃材の影から出て、縁側に並んで腰かける。年齢の小さい順に、頭の天辺が階段になるように。三人とも、膝より上の丈のズボンを履いていて、カットソーの柄はバラバラだったが、どれも、着ている本人たちよりも若干大きめのようだった。

「けーちゃんだ、けーちゃん」

「けーにーちゃん」

「けーにー」

 三人が同じように指をさして、ばらばらの呼び方を口にする。啓介が「指で人指すな!」といささか難しい注意をしているが、今度は、人差し指の先が啓介を向いて、また「ちいちゃん」「ちーにーちゃん」「ちーにー」と、ばらばらの呼び方を言われるだけだった。啓介は、分かってない、とつぶやいて項垂れる。髪を避けた耳たぶに、真新しいピアスが光っている。それに瞬きをしている間に、ピアノの音が聞こえなくなった。

「春は、またピアノの練習か?」

「そー、れんしゅう。——はるちゃんは、いそがしいんだねえ」

 空が後ろ、ピアノの置いてある客間の方を振り向いて、それからまた俺の方を向いて、眉尻を下げた残念そうな表情で言う。明良と理人が黙り込んだのも、空が残念そうにしている理由と同じなのだろう。明良なんか、脚をばたばたさせながら何度も後ろを振り向いて、誰かを探しているようにきょろきょろ首を動かしている。いじらしい様子に思わず、口の端から小さく笑いが漏れた。

「もう、降りてくるかもなあ。練習は終わったみたいだから」

「ほんと?」

 もう一度後ろを向いていた空が、勢いよく前を向いて、尋ねる。きらきらと期待に輝く目で見つめられるのは、こちらとしてもいささか面映ゆいものがあった。あとの二対の目も同じようにこちらを見つめるから、なおのこと。「ほんとだよ」と、なるべく落ち着かせた声で言えば、「だから三人とも大人しく待ってろよ、頼むから!」と啓介が勢い込んで口にする。はあい、ときれいに三人分そろった声へ、本当に分かっているんだろうな、と問いたげに啓介の目は細められて、大きいため息を吐いた。

 そうしてうなだれた啓介が顔を上げるより先、足音が近づいてくる。それは、台所の方から聞こえてくるのでも、奥の居間の方から聞こえてくるのでもなかった。気付いたのか気付いていないのか、理人だけが、きょとんとした表情でぱちぱちと瞬きをしている。あ、と口を開いた啓介が、縁側に膝をついて、前傾になりながら、廊下の奥を覗いている。

「春」

 と、言い終えるが早いか、啓介の亜麻色の髪が、白い手にくしゃりとかき回された。その手がぽん、と頭を叩くと、啓介はバランスを崩して、前後に体を揺らした後、前のめりに倒れて、よく磨かれた板張りの床に手をつく。「何やっとおん」と白々しい問いかけと笑い声の後、白い手が揺れながら、啓介の背中を飛び越した。

「春ちゃん」「はるー」「はる」と、また、三人が三人別な呼び方を口にする。今日もまた白いシャツにスラックスという制服めいた姿の春は、機嫌良さげに三人へ向けてひらひら手を振って、立ち止まり、自分の後ろ、四つん這いのような姿勢でうなだれたままの啓介を振り向き「ごめん、ごめん」と笑って謝る。それに啓介が答える前に、振り向いていた姿勢を戻す、顔が正面を向くより先に、俺と目が合う。

「あれ、慧」

 まるで全く初めて会ったみたいに、大げさなぐらい目を丸くして、春が俺を呼ぶ。瞬きをしながら首まで傾げるのだから、これは本当に自分が知っている春だろうか、と不安になってくる。しかし、「なんで居るん、金曜日やんに」と、続けて尋ねてくる内容が、親しげな声色が、三日前かに会った春とこの春が同じだと、教えてくれているようで安心する。

「台風だからな、準備を手伝いに」

「台風? 来るとは言いよったけど、準備?」

「雨戸打ち付けたり、屋根瓦の補修したり、色々あるんだよ」

「ぼろ家(や)だもん、うち」

 体を起こしながら啓介が言うのへ、春が瞬きをする。縁側の側へ置いてあるサンダルを足に引っかけると、サイズのあっていないためか、変なステップでも踏むように、前へ進んで、後ろ、家の方を振り返る。日差しが眩しいからだろう、手を眉毛の上にかざして、屋根を見上げているようだった。

「……どこが、ぼろ家なんやか」

「築年数はけっこう経ってると思うけどな。中古の家を買ったんだって那智は言ってたし」

「台風の準備って、僕も手伝ってええ?」

 かざしていた手をおろして、春が俺を向いて聞く。何したらええのんか、分かってへんやろけど、と付け加えた後、春は家の方を見る。立て掛けられた廃材と、その横に並んだ小さい三人と、大きいひとりをざっと見てから、また俺を向く。

「啓介ぐらいやん、戦力。僕もやるよ」

「身長俺とかわんないじゃん、春」

「気にしてること言うなや、啓介!」

 言い終えるが早いか、春は、可笑しそうに言った啓介の前まで躍り出ると、両手で啓介の頭を押さえつける。かなり力を込めながら、腹からの声で「縮め!」と叫んでいる。啓介は怒っているというよりは可笑しそうに、春の手首を受け止めて「無理だよ、無理!」と笑っている。その横から、空と明良理人が三人そろって、ふたりのじゃれ合いめいたやりとりをのぞきこんで、空が「なかよしさんだねえ」と言うのに、明良と理人が首を傾げている。

 しかし、春は戦力と言ったが、果たしてどうだろう。そう勘定して良いものか。さっきまで聞こえていた風にピアノを弾く手に、釘を持たせて、トンカチを握らせて、万が一のことがあったらどうしようか。

「もー、そんなに縮めばっか言うんだったら、今度からは春が俺の代わりにやれよ!」

「おお、おお。今度からと言わずに、今日からやったるわ!」

 勢い良い言葉の応酬が、俺の考えていたことへ答えを出す。啓介の頭から両手を離して、振り向いて「慧、トンカチ貸して。この板、どこぞに打つんやろ」と、その勢いのまま、口にする春の様子は、もう止めるとか、聞いてみるとか、悠長なことを言ってられる様子じゃなかった。早くふたつを渡さないと、今度は俺が飛びかかられて、頭を押さえつけられかねない。

「……すぐ持ってくるから、大人しく待ってろ」

「啓介が何も言わんかったらね」

「言わない!」

 さっき、空たちが啓介にしたように、今度は啓介が良い返事をする。それを聞いて春が、さあどうだか、とでもいいたげな表情で、圭介を軽く睨んでいる。本当に、随分と仲良くなったもんだと、思わず苦笑した。


 閉め切った雨戸の上から、廃材が釘で打ちつけられている。いやに几帳面に平行に、隙間無くびっしりと雨戸を塞いでいる。鈍く光る釘の間隔までが等しいようで、これを打った人間の性格が透けて見えるようだった。

 しかし、「ほら、出来るやん」と、俺の隣でトンカチを片手に胸を張る春の普段の様子は、むしろそんな様子とは正反対に思われるのだから、分からないものだ。西の方の方言というのが影響しているのか、軽妙な言い合いを、春やしずくとしているのが、一番よく見かける光景だ。そして、俺が春という人間を思い浮かべる一番最初は、そうしているときの悪戯っぽい笑顔なので、やはり、この板の打ち付けられ方は、不思議に思われた。

 庭の隅でじっとそれを見守っていた啓介が、立ち上がってこちらに寄る。春の隣に立つと、なるほど、変わらない高さか、啓介の方がほんの少し大きいようだった。まだそこへ座り込んだままのしずくを一緒に並べれば、少しは大きく見えるかもしれないが、こうしてふたりだけを並べると、残念ながら春には「小さい」という評価を与えざるを得ない。

「ありがと、春。これでどんな台風が来ても大丈夫」

「おーおー、感謝しやりー。言うて、そんな台風ひどいん?」

「たいへーよー側だから? 春ん家はそんなことなかったの?」

「それこそ、瀬戸内海やも。太平洋側の、海沿い県が上陸やなんや騒ぎよっても、こっちは音沙汰なしなんてようあるわ」

「へえ、そんなんなんだ」

 啓介が、本当に感心しているように相槌を打った。まだ明るい夕日を受けているためだけでなく、きらきらと輝く目が、抑えきれない好奇心を透かせて、春を見つめている。春のいう瀬戸内海を、啓介は知らないからだろう。

 対して、啓介に「うん」と頷く春の返事はどこか鈍い。トンカチを握ったままの手の甲で、口元の、それから顎の汗を拭って、水浴びの後の犬のように勢いよく首を振れば、一瞬見えた憂いのような表情はどこかへ行ってしまって、「そんなんやね、毎年」と次ぐ言葉も、普段通りに少し疲れを滲ませたぐらいのものになっているから、気のせいだったのかもしれない。遠い、陸に囲まれ凪いだ海は、やはり春の思いを引くのだろうという考えをすべてぬぐい去ることはできないにしても。

「せやから、季節はずれも何も台風自体がそんなに来やん感じがする」

「ウソだあ。毎年、あんなにたくさん来てるんだから、ちょっとぐらいかするでしょ」

「その、ちょっとかするぐらいは、来たうちに入らんやん」

「贅沢言い過ぎ! 学校休みになるようなのだけが、台風って思ってる?」

「に、近いかもなあ」

 啓介の問いかけに、春は笑って答える。聞いた啓介の方が、不満げに眉を顰めて、春を睨んでいる。

「慧、慧」

 後ろから、そんな声と一緒にシャツの裾を引かれる。振り向けば、いつの間に立ち上がってこちらへ寄っていたのか、しずくが、首を傾げながら俺を見上げている。

 どうした、と聞くよりも早く、しずくは「ラジオは何て言ってるの?」と尋ねてくる。そう問いながら、膨らんでいる俺のズボンのポケットを指さしている。確かにしずくの指差す先には、ここへ入る前にねじ込んだ携帯ラジオとイヤホンが未だ押し込まれている。

 膨らんだポケットに右手を突っ込んで、イヤホンのコードをつかんでラジオごと引っ張り出す。黒い、手の中に収まるほどの大きさのそれの電源を入れてから、イヤホンを引き抜く。それから、音量のつまみをゆっくり右へと回していけば、ノイズ混じりの、詰まったような声が聞こえてくる。春も啓介も寄ってきて、三人が顔を寄せ合って、俺が握ったラジオの音に耳を傾けている。暑くならないか、と問いたくなるような距離だった。

 ラジオの聞きづらい声が言うことを、春が復唱する。「朝方には警戒域から暴風域に入るでしょう。その後昼過ぎまでは強い風と雨が続き」と、そこで言葉を止めて、俺を見る。

「やって、慧。早ようやっといて良かったね」

 自分の仕事を言っているのだろう春へ、そうだなあと頷く。日が落ちてしまってからでは作業が出来ない、かといって、明日の夜が明けてからでは遅過ぎる。この今日の午後という時間がぎりぎり、間に合うときだったのだろう。

「絶対来るのかな、台風」

「来るでしょ。夏休みだけど」

「うん、学校も、もう休みだもんなあ」

 少しばかり潜めた声で、ふたりがそう話して、目配せしている。口で言うのと別なことを、そうして目と目で交わしているのかもしれない。それとも、宿題が終わったかどうかでも探りを入れているんだろうか。残り期間はもう二週間を切ってしまっているから、しずくは心配いらないにしても、啓介はさあ、どうだろう。分からない。

「来るんか、台風」

 俺に辛うじて聞き取れるぐらいの小さな声で春が呟く。そして、西を見上げた。橙色の空の終わりに、真っ赤な太陽が沈んでいくのが見える。太陽から滲み出しただいだいっぽい赤色が、青い空を染め上げている。橙から濃い青への自然なグラデーションが、白い雲の後ろ側へ映っている。春の目も、その色の変化を辿ったようだった。青い空の上へ視線を留め置いて、春は唇を尖らせる。ひゅう、と息を吸ったかと思うと、口笛の音を鳴らした。さして大きくないがはっきりと聞こえる口笛は、覚えのあるメロディーをなぞっていく。そう、丁度、昌浩さんのところで、昌浩さんが吹いて聞かせたのと同じもの。俺はなんという曲か知らない。しかし、春が身を乗り出す勢いながら聞いていた曲だ。

 天気予報を告げるノイズ混じりのラジオの声に乗せて、高い口笛の音が響いている。


 風が窓を揺する音ががたがたとうるさい。見上げた窓の外、空は濃く重たい灰色で、辺りはひたすら暗いばかりだ。いつ雨が降ってくるのか分からない。それは分からないけれど、確実に降ってくるだろう。机の上へ置いたラジオは、やはりひどいノイズ混じりの声で、淡々と台風の進路を告げている。

それは、この辺りを確実に台風の通過するだろうことを教えていた。

 アパートの部屋に雨戸なんてついているはずもなく、雨風が直接、透明なガラスの窓を揺するのに、まだどこか慣れないでいる。風がごうごうと窓に吹き付ける度にガラスが割れるんじゃないかとひやりとするし、雨粒が叩きつける音が続くと、それが全く別な音に聞こえてきて、びくりとする。とかく、未だ慣れていない、ということだ。台風といえば、雨戸を閉め切った家の真ん中で、肩を寄せ合いながら、ひそひそとおしゃべりを続けるものだった。

 なにぶんにも落ち着かないために、文字を書く手が止まりがちになる。レポート用紙はようやく半分が過ぎたところなのに、もう正午をまわってしまった。天気予報も、これで午後の予報を終わります引き続き、なんて言っている。まだ台風の情報は続くらしい。風は少しずつ、ひどくなっているように思われた。青いインクのボールペンを、机の上へ放り投げて、背中側、床の上へ倒れ込む。天井と、電灯が見えた。風の音と一緒に建物が揺れるのが、よく分かる。

 家の方は大丈夫だろうか。雨戸を閉め切って板まで打ち付けた家の中で、何の心配もなく過ごしてくれているだろうか。空と、明良と理人は、いつもとちがう家の様子に、逆に落ち着かなくて走り回ったりしているかもしれない。暗くて狭い場所を、何で子どもはあんなにも好むんだろうか。

 自分は果たしてどうだったろう。確かに、狭くて暗い場所を好んでいた気はする。たとえば、押し入れの中。台所のシンクの下の戸棚の中。子どもだから入れるような暗くて狭い場所を、好んで使っていたような気はする。決して楽しんではいなくて、息を殺して気配を潜めていたのだし、そもそも、ひとりぼっちで膝を抱えているだけだった。それでも、寂しさより不安より、此処は安全だという気持ちが勝っていたように、覚えている。

 春は、どうだろう。

 ふと思ったと同時に、黒電話がりりりと鳴った。

 無精をして、寝転がったまま、手を電話の方へ伸ばす。受話器をつかんでもちあげると、慧、と焦った声が自分を呼ぶ。

「那智? どうしたんだよ、そんなに焦って」

「春、そっちに行っていない? 家の中に居ないの、さっき、気付いたんだけど」

「居ない?」

 意味もなく那智の言葉を繰り返す。遅れて届いた言葉の意味に、遠ざかっていた思考が一気に引き寄せられる。春が家の中に居ない、ということはこの強い風と雨の、台風の上陸している最中をどこかへ出歩いている、ということだ。那智が焦っているのも当然だった。いくら、もう二週間ほども居着いているからといっても、ここは春にとってよく知った街とは言い難い。台風というだけでも危険なのに、そんなところをうろついて、もし、何かあったら。何か、事故でもあったら。

 自分の頭から、手先から、血の気が引いていくのが分かった。体の中心が冷え冷えとする。心臓の音が一瞬、大きくどきりと跳ねた。それらを静めるために、ゆっくりと、深く呼吸をする。

「——ちょっと、探してみる。一時間経っても連絡なかったら、次の手を考えて」

 それでも、那智に答える声はまだ少し焦っていた。もつれそうになりながらなんとか言い切って、那智の返事を聞き終える前に、受話器を置く。ちん、という音が鳴ったかと思うと、ガラスの窓が大きくがたんと揺れた。思わず肩が跳ねる。窓の外を見ながらゆっくりと立ち上がる。スラックスとシャツだけでは、この中を出て行くのには少し心細いような気がしたが、仕方がない。せめて、まくり上げているシャツの袖を降ろしておく。歩きながら、肘の腕までまくっていた袖をずらしていく。他にどうしようもなく窓を閉め切っている部屋は、それなりに暑いのだということを、しばらくぶりに思い出させられる。

 靴も、長靴なんて持っていないから、普通の運動靴を履いて行かざるを得ない。玄関に出しっぱなしの自分の運動靴を履いて、戸の鍵を開ける。押し下げて引っ張らないと外れないチェーンが、もどかしい。ノブをひねって戸を外へ押せば、体が引っ張られそうな勢いで戸が開く。踏みとどまりながら外へ出て、自分の全体重をかけながら戸を閉める。それでもゆっくりとしか戸は動かない。風が強くて雨は横殴りだった。屋根はあっても、容赦なく、雨粒が頬に叩きつけてくる。

 ようやく、がちゃんと戸が閉まったので、ポケットの中の鍵で再び戸の錠をする。ノブを回して戸を引いても開かないことを確かめてから、風に背中を押されながら、その場から離れた。


 春と一緒に行った場所。そう、多くはない。買い物に行ったスーパー、コンビニエンスストア。本を借りに行った図書館。音大とやらの最寄り駅に行くための乗換駅。ただ、この荒天の中をひとりで探せる範囲はそう広くはない。せいぜいが、歩いて行けるコンビニとスーパーまでだ。

 風のせいでよろめきそうになるのを、ゆっくり、しっかりと地面を踏みしめることでぐっとこらえる。歩幅がひどく狭くなってしまって、なかなか先へ進むことが出来ていない、ように思う。那智に伝えた時間の内どれほどを使ったのか、雨とはまた別な、湿った土気混じりの匂いがして、ようやく川の近くまでは来たのだと分かった。

 川、にも確かに、春と一緒に来た。それは買い物帰りの、ほんの寄り道程度のことだったが、一緒に来たことには違いがない。しっかりした川やねえ、と言いながら、まるではじめて川というものを見るように、流れる静かな川面を眺めていた。今日は、そんな様子の川ではとてもあり得ないだろう。

 道路から、土が積んであって一段、高くなっている。川沿いの遊歩道へ、手すりをしっかりと握りながら、階段をのぼる。風が吹く度に階段を踏み外しそうになるし、手すりだって雨で濡れていて、滑って手を話してしまいそうになる。それもこれも、台風のためだ。春は、台風のことも珍しがっているようだった。遠い、どこか西の街では、この秋の風物詩は滅多にやって来なかったとぼやいていたが、そうであるなら、春にとって今回の台風はどのようなものだったんだろう。遠足みたいなものだっただろうか。前日になるとそわそわと落ち着かなくて、眠れなくなるもの。どこへ行くのか何をするのかも分からないで、ただ状況についてまわるだけで、次々と新たな刺激が現れて、それを喜んでいる。

「本当に喜んでだったら、まったく困ったもんだな」

 そう独り言をこぼせば、その隙に容赦なく、雨粒が口の中にも入り込んでくる。真水だから、味はしない。それが当然だが、飲み込むとき、なにか「ああこれはやはり雨なのだ」と納得させられる匂いがした。

 階段を上りきって、遊歩道に出る。手すりを離さないまま左右を見やれば、ひとつ、人影が見えた。川への斜面を転げ落ちる寸前で、両脚を開いて、両腕を広げて、立っている。全身で風を受け止めようともくろんでいるかのように。白いシャツと、黒のスラックスの組み合わせで、よくある学生の夏制服が、雨に濡れて重たそうだ。

「春」

 風の音に負けないように、精一杯叫ぶ。腹の底から力の限りに声を出しているのに、呼びかけた相手がこちらへ気付く様子はない。遠すぎるのだろうか。そう考えて、ゆっくりと足を前へと踏み出す。さっきまでよりも風を強く感じるのは、川縁だからだろうか、それとも本当に、風が強くなったのだろうか。台風が近づいてきたために。

 少し上を見れば、低いところの暗い雲は、ものすごい速さで流れている。風の強さも雨粒の大きさも、あの雲のせいだと思えば納得がいった。一方向に流れている雲は、上から見下ろせばきっと渦を巻いているのだろう。

 一歩一歩、しっかりと地面を踏みしめなければ前へ進めない。ちょっとでも気を抜けば、風に足を取られて、転んでしまいそうだ。或いは、雨でぬかるんだ砂利道で、滑ってしまいそうだった。

「春!」

 先ほどよりも近づいたところで、もう一度名前を叫ぶ。それでもまだ、春はこちらを向かないで、川の方を向いている。泥の色に濁った水が勢いよく流れていく、荒れた川面を向いている。手のひらは川の方へ向けられて、指先までぴいんと伸びて、大きく広げられている。

 一際強い風が、ごうと鳴って頬を殴る。とっさに腕を持ち上げて、目をつむって顔をかばう。低い風の音は鳴り止まない。仕方なしに恐る恐る目を開ければ、春はさっきまでと寸分違わぬ姿勢でそこに立っていた。背中を強く風が押して、踏みとどまれずに前へと踏み出す。その勢いのままに、転げるように、自分の意志と風の力が半々で走って、手を伸ばす。春の肩を掴んで、自分の方へ引く。

 春の顔がこちらを向く。「慧」と動いた唇も、爛々と俺を見つめる目も、確かに、笑っている。予想の外のその顔に、一瞬呆気にとられて、手の力が緩む。そうすると、俺の手を払って、春はまた川の方を向く。

「すごいなあ、台風って」

 そう言う声はひどく嬉しそうで、さきほどの表情も、目の輝きも、納得がいくというものだった。春は心から台風を楽しんでいるのだと、否応なく理解させられる。だから、叱るべきだと分かっているのに言葉に詰まった。その隙に春がまた、川の方へ一歩を踏み出す。思わず手を伸ばして、その体を引き止める。春、と俺が呼びかけるよりも先に、口を開けて大きく、春は笑う。台風の風にも負けない、よく通る張った声で笑っている。そして、声をあげるのを止めたかと思うと、くるりと俺を振り向いた。

「これなら、すぐに死ねそうやん」

 そう言う春は、まだ確かに笑っている。俺は、春のからだを自分の方へ強く引き寄せて、小さいからだを自分の腕の中へ、しっかりと抱きしめた。春の目はまだぎらぎらと光って、泥に濁った川面を見つめている。しかしもう、俺の腕を振りほどいて川の方へ駆け出そうとは、しなかった。


 店の中は、薄暗いというより、もういっそ暗いほどだった。昌浩さんは不機嫌そうに顔をしかめながら、二階と一階とを何度も往復している。二階から一階に降りてくる度に、小上がりにものが増えていく。まっさらな着替えの次は、タオルケット。擦り切れてところどころが薄くなったそれを、畳の上に寝転がっている春にかけてやる。春は身動ぎもせずに、突っ伏して眠っている。最初に会ったときよりもくだけたその様子に、安心して息を吐く。ことりと音がしたかと思って横を向けば、昌浩さんが、湯気の立つ湯のみを机の上へ置いて、そして自分も、小上がりへとのぼったところだった。

「ごめん、昌浩さん」

——謝るぐらいなら最初からするな。

「俺じゃなくって、春に言ってくれ」

 そう返せば、昌浩さんはもう不機嫌そうな表情を更に不機嫌そうに歪めて、春の上のタオルケットを、頭を覆ってしまうところまで乱暴に引き上げた。

 俺は、昌浩さんの置いてくれた湯飲みに手を伸ばす。熱い側面を両手で包み込んで、ゆっくりと口元へ近づける。息を吹きかけると、緑色の濁った水面から立ちのぼる湯気が、押しのけられて薄くなり、消える。

——那智に連絡は。

「さっき、した。良かったって、安心してた」

——そりゃあ、そうだ。

 昌浩さんは深く、一度だけ頷く。それからため息を吐いて、タオルケットをかぶった春をしばらく見つめた後、今度は俺を見る。何故だか、痛々しいものでも見ているかのように、眉を顰めて眉間には深い皺が寄っている。

「……どうしたの、昌浩さん」

——お前も大概不器用だと思うが、こいつも大概だった。

 言いながら昌浩さんは、視線と顎で俺の腹を示す。昌浩さんが本当に示したいものに検討がついて、俺も顔を歪めざるを得なかった。青あざが治りかけて、黄色や緑になる。その過程の様々の段階が白い腹の上で入り混じって、グロテスクな様相を呈しているのは、さっき俺も自分で確認した。毎日見ているものだから、自分ではさしたる驚きはない。ただ、それを見られてしまうことにはまだ、抵抗があった。

「これなら楽に死ねる、みたいな」

——死ぬ気なんてないだろう。お前らは、そう言いながらぎりぎりのとこを楽しんでいるだけだろうに。

「さあ、それはどうだろう。案外本気でそう思ってるかもしれない。今回は俺の邪魔が入ったから未遂だったけど、何もなかったら本当に、飛び込んでたかも」

——お前はそう思うのか。

「うん……多分。危ないところだったかもしれない。でもやっぱり、何てことなかったかもしれない。分からない。分かるのは、今回はたまたま平気だったってことぐらいだ」

——全部、結果論だろうが。

「こればっかりは、分からないだろう。誰がどうやって、生きて死ぬかなんて、全部終わってみなきゃ……終わった後でだって、分かるかどうか」

——そいつは死にたかったのか。

「死にたくない奴なんて居ない。意識してるかしてないかだけの違いだよ。そのふたつなら、春は意識してそうなんだろうな」

——お前と同じで。

「ああ……俺は、死なないって決めたけど」

 腹の上の痣が痛む気がして、そこを押さえる。雨がしみたから本当に痛んでいるのかもしれないが、今話したこととどちらのせいか、分からなかった。

 日常が簡単にひっくり返ることを、俺たちは多分、他の人よりも少しだけ、よく知っている。たとえば、部屋のカーテンを閉め切って暗くした布団の上で、あるいは、火傷しそうな熱湯を満たした湯船のそばで、誰かの拳に怯えて丸くなっている瞬間は、いきなり部屋に割り込んでくるチャイムの音で、いとも簡単に解かれるのだ。自分自身の意志でそうなることは恐ろしく稀で、だから俺たちはいつも、誰かを待っているのかもしれない。唯一自分でどうにか出来る、自分で自分を殺そうとしているときにだって。

 タオルケットの下、春はまだ身動ぎすらせずに眠っている。手を伸ばして、薄いタオル地の上から頭を撫でてやっても、ぴくりとも動かない。眠っているのではなく死んでるのだったら、どんなに昌浩さんが怒るだろう、悲しむだろう。

「春、結構遊びに来てたのか?」

——ああ、ふつかにいっぺんぐらい。

「多いな、仲良いんだ」

 感想と一緒に笑えば、昌浩さんは折角元に戻っていた表情を、またぐぐっと歪めた。俺の言ったどちらの言葉に反応したのか分からないが、きっと、春がこの様子を見ていたら腹を立てて喧しくするのだろうと思う。

——変に、懐かれた。まだほとんど話も出来ないのに、自分のことだけ一方的にしゃべって帰りやがる。

「ふうん。自分のことって」

——こいつぁ、音楽か、ピアノのことしか話さねえ。それでもって、口笛を吹けときやがる。

「口笛?」

 俺が聞き返すと、昌浩さんは億劫そうに頷く。それから、唇を丸く、前へ突き出して、ひゅう、と口笛を鳴らす。その音には聞き覚えがあった。春と一緒に、はじめてここを訪れたときに、昌浩さんが春に向けて吹いていた曲だった。俺は知らない、でも、春はよく知っている風だった曲。

 外から聞こえる風の音に負けないほど、口笛の音は店の中によく響いている。口笛の音が、細く、高いせいかもしれない。或いは、昌浩さんが春に向けて吹いているからかもしれない。

 俺が手を置いた下、春の頭がぴくりと動く。もぞもぞと肩が動いたかと思うと、そこから持ち上がって、タオルケットが体の上からずり落ちる。俺は自分の手を、机の上へと引っ込め、湯飲みへと伸ばした。半分以上お茶の入った湯飲みはまだ、温かい。ゆっくりと体を起こした春は、眠たそうに閉じかけた目で、自分のまわりをぼんやりと見回すと、目元を擦る。そうしながら、小さく何かを呟くのが見えた、俺には何も聞こえなかった。昌浩さんにはそうではなかったようで、あぐらを掻いたまま春をみて、軽く頷いて見せる。

 春はうつむいたまま、自分の顔へやっていた手を、畳の上へついた。十本の指をく、と折り曲げて、とん、とんとばらばらに動かす。指が畳をたたく音と、昌浩さんの吹く口笛の音が、同じリズムになる。昌浩さんが春へ合わせているのか、その逆なのか、何となく前者であるような気がする。その方がずっと、自然であるような気がした。

 しばらくそうして、口笛の音を従えながら畳を指で弾いていた春が、いきなり、指を動かすのを止める。どうしたのかと見ていれば、止めた手をまた、自分の顔へやっていた。さっききれいに拭いたはずの頬が、何故かまた、濡れているのが見えた。それを自分の手で拭っているのだとは、すぐに分かった。

 ひとしきりそうして濡れた頬を拭って、ず、と鼻を啜ると、春はまた、両手を畳の上へ下ろす。十本の指を曲げて、畳を、口笛の音にあわせて弾き始める。そこに鍵盤があるかのように、まっすぐに迷いない様子だった。春はもう、笑っていない。真剣に畳の上を見つめながら、俺の知らない曲を弾いていた。



 雲ひとつない空の眩しさに目を細めながら、台風一過だ、と言えば、お母さんはどこなん、とふざけた合いの手が入る。全てわかって言っているんだろう。春は、俺が呆れて口を開く前に、けらけらと笑って、早足になった。背中に、キルト生地の古いリュックサックが揺れている。俺が昔、小学校かの授業で縫ったものだ。那智がそれをどこにしまっていて、どこから引っ張り出したのかは俺だって分からない。よくとってあるもんだと言ってみれば、だって捨てられないじゃない、と寂しそうな笑顔で言われるので、それ以上はもう何も言えなかった。

「関西人やも、ボケとツッコミは基本やねん」

「お前しか居ないしなあ、関西人の知り合い」

「嘘やん。学校の友だちは?」

「ほぼ居ない」

 そう答えれば、春はこちらをくるりと振り向く。丸くした目でぱちぱちと瞬きをしてから、小さく吹き出して可笑しそうに手を打つ。

「なんや、分かる気ぃするわ。慧が友だち居らん、て」

「そうか?」

「うん。僕も、友だち居らんやも」

 悪戯っぽく口元と、目元とで思いきり笑みを作って、春が言う。広げた両手を俺へ向けながら「ずうっと、ピアノだけ弾いとったから」と呟いて、また、くるりと俺へ背を向けた。もうすぐそこが、路地を抜けた、駅へ続く大通りだ。

 春へ続いて通りへ踏み出せば、照りつける日差しがいっそうひどくなった気がした。体感気温が上がっているせいかもしれない。俺と春の他に人通りのなかった路地と、一定の歩調が出来上がるぐらいの人並みのある通りとでは、ずいぶんと違うのは道理かもしれない。俺を待ってくれていた春と横に並んで歩く。その間にも、きつい日差しを受けているせいで汗が流れて仕方なかった。台風がすぎても相変わらず蝉の声は喧しいし、夏の盛りはまだまだ、長く続くようだ。

「ほんまは、もっと色々言いたいこととか、やっときたいこととか、あってんけどなあ。短いわ、夏休み」

「高校生は大変だな」

「……早よ大学生になりたい」

「音大生には休み、ないんじゃないか?」

「弾くんは、息吸うて吐くのと同じようなもんやから、別にええけど」

 そう言ってまた、中空で指を動かしている。そこにある、 見えないピアノを爪弾いているように。ようやくずいぶんと見慣れたその姿を、またしばらく見られなくなるのだと考えると、淋しい気がした。

「受かったらまた来るわ。それまで、あのピアノ置いといてな」

「ああ。楽しみにしてる」

「言うて、一年で来られるかは分からんけど、きっとまた、来るから、待っとって」

「分かった」

 頷けば、春が照れくさそうに笑って、早足になる。背中に、いくつかの楽譜と数枚のシャツと替えの下着だけ入れた軽いリュックを揺らしながら、駅舎の屋根の下へと駆けていく。切符売り場には立ち寄らずにまっすぐに改札の方へ歩いていくのは、切符がそのまま送られてきたためだろう。それでどんなやりとりがあったのかまでは知らないが、那智が春から封筒に入った手紙を受け取って、淋しそうに笑っていた。

 春に少し遅れて屋根の影へ入ると、日差しの下よりは幾分か暑さが和らぐ。少し湿った埃っぽい空気が、ひやりと肌を撫でた。まだ蝉の声は聞こえるが、かすかに吹く風は空気と同じ、日差しの下よりもひんやりとしていて、ほっとする。

 春は、俺の方を向いて脚をそろえて立っている。白いシャツと黒のスラックスとスニーカー。着ているものは変わらないが、シャツの袖から伸びる腕ははじめに会ったときよりも日に焼けて黒くなっている。ここで、家で過ごした時間が、確かに春の体に刻まれている。すぐに腕は白く戻ってしまうだろうが。

「ほな、また」

 そう言って笑う春に「ああ、また」と返す。春はポケットの中を手で探ると、大きな一枚の切符を取り出す。それを改札機に通せば、春は西へ帰ることが出来る。俺がしに来たのは見送りなのだから、それで良い。良いことは分かっているのに、どうにも拭いがたい寂しさがついて回る。

「那智先生にも、啓介たちにも、それから、昌浩さんにもよろしゅう。昌浩さんには特にほんまに、言いたいこと色々と、あんねやけど、またこっち来たら言いに行くわ」

「そうだな。電話は、モールス信号で手間だしな」

「ほんまやわ、面倒くさい」

 けらけらと笑う春に、右手を差し出す。春はすぐに俺の意図を察したようで、自分の右手を俺の手に重ねた。俺のよりも一回りは大きい、温かい手をしっかりと握る。握り替えしてくる春の手の力の方が強い。流石、だなあと思う。

 遠くに鳴く蝉の声を聞きながら、どれくらい手を握っていたのか、互いの手のひらがすっかり汗ばんでしまってようやく、手をほどく。春は何も言わずに、片手を掲げて振りながら俺へ背を向けて、歩き出す。俺もそれに倣って、春に向けて手を振った。

 その背中の向こうから、口笛が聞こえる。昌浩さんが吹いて、春が爪弾いていた、あの曲。俺が知らないあの曲だ。春はその曲を吹きながら、改札に切符を通して、歩いていく。切符を受け取った春が立ち止まらずに、振り返らずに遠ざかっていっても、まだ口笛だけが聞こえているような気がする。

 次、春に会ったら、この曲のタイトルを聞こう。そう決めて、俺は、手を振るのを止める。ゆっくりと、長いため息をついて、気がついたら、もう聞こえるのは、蝉の声だけだった。

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