蝸牛の螺子巻き

 机の上に、蝸牛の殻が整然と並べられていた。縦に七列、横に五列、かけあわせての三十五つ。には一つ足りない。一番真ん中の場所にだけ、何故だか、殻が置かれていない。殻の大きさは色々だが、すべて殻の下を机へつけて置かれている。何か、小学生に九九を教えるときの教材みたいな様子だった。残念ながら、七の段も五の段も、最後までは教えられないが。

「……真島、お前、いじめられてたのか」

 一緒に教室へ入ってきた津守が、俺の机の上を見てそう言ったのは道理だろう。こんなこと、嫌がらせか、さもなくば常人には到底理解できない儀式であるのでなければ、起ころうはずもないのだ。

 椅子を引く。その座面の上には何も乗っていないことを確かめて、背負ってきたリュックサックを置いた。それから、一番左の列の一番下の蝸牛をひょい、と持ち上げてみる。机は汚れていないようだった。手の中の蝸牛の殻を見てみれば、それも汚れていない、どころか濡れてすらいない。開口部を見てみると、殻の内側までが乾燥して、中身はすでに空っぽだった。今が梅雨時とはいえおかしな話だった。殻の中身がないということは、この蝸牛は時間をかけて集められたということだ。殻が外の天気で濡れたり、破損したりしないような場所へ丁寧に。計画的犯行、という言葉が脳裏に浮かぶ。

「そんな覚えはなかったんだが、俺はいじめられているんだろうか」

「俺に聞くなよ、自分のことだろ」

「なら、俺はいじめられていない」

「じゃあ、このカタツムリ、一体なんだ?」

 津守の問いへ、俺は一度は取り上げた蝸牛の殻をもとの位置へ戻す。開口部を左下へ向けて、机の上へ寝かせて置く。何なんだと聞かれたところで、俺にも答えようがなかった。本当に訳が分からないじゃないか。朝、学校へ来てみたら自分の机の上へ乾燥した蝸牛が並んでいました。繰り返してみても、訳が分からない。

「……あ」

 津守が何やらいきなり間抜けな声を出した。蝸牛の列を並べるのをやめてそちらを見ると、まるで漫画のように手を打って、ひらめいた、とでも言いたげな表情をしている。

「このカタツムリの行列、この教室の机の並びと一緒なんじゃないか」

 どうせろくでもないことだろう、と思っていたら、津守が言うことはなかなかに有益そうなアイデアだった。確かに、この教室の机は縦に七つの横五つ、掛け合わせて三十五つに並んでいる。それと蝸牛を対応させて考えるというのは、面白いアイデアかもしれない。しかし、その場合にはどうしても気になることがあった。

「俺の席だけ、殻が置いてないじゃないか」

 ということだ。

 教室のど真ん中、横から三列縦から四列の席が俺の席、隅から無理矢理座標をつけるならば(3,4)となる席、今、蝸牛の殻が並べられている机の席、蝸牛の殻が一つだけ置かれていないのに対応する位置の席だった。理由は分からなくても、なんとなく気分が悪い。人間は集団から疎外されると、本能的に嫌悪感を覚えるらしいということがよく分かった。

「やっぱり、いじめられてるんじゃないか、真島」

「馬鹿言うな。本人が気付かないいじめなんぞあるか」

「そう言われると否定できない」

 けけっと笑って、津守が蝸牛の殻を幾つも手に取る。ぽーん、ぽーんと宙へ放り投げて、受け止めてはまた投げる。お手玉のように手遊びをしている。これは、生きている蝸牛であったなら目を回してしまうだろうなあと考えたところで、はたと、蝸牛に目はあるんだろうか、という疑問がわいてきた。つのだせやりだせめだまだせ。あ、あった。良かった。

 教室前方のスピーカーから、寮生の登校許可を告げる録音の鐘の音が流れ出す。ということは、そろそろ人も増えてくるはずだった。そうなる前に机の上を片付けてしまわないと、騒ぎになってしまう。面倒事はごめんだった。

「津守、手伝え」

 リュックサックの口を開けて、中のポケットからビニール袋を取り出す。広げるときにがさごそと、薄いプラスチックの擦れる独特の乾いた音がする。津守が蝸牛のお手玉を止めて、自分の手元を見ているのが分かった。

「カバンからスーパーのビニール袋が出てくるとか、お前は主婦か」

「兄に帰り道での買い物を頼まれた。ほら、手の中の物をここに入れろ」

 袋の口を開けて津守の方へ向けると、眉を寄せてうへえと呟いた。そろりと伸びてきた両手の平から、蝸牛の殻が袋の中目がけて落とされる。かしゃかしゃという軽い音、こつこつというかたい音と一緒に、袋を広げる自分の手へ重みが加わった。

「買い物は食材関係とみたがカタツムリ入れてた袋に入れんの」

「……言わなければ、ばれない」

 そして、ばれたところで、あまり怒られたり、或いは拒否されたりすることはないだろうと思う。ナメクジがついてたようなものと思えばいい、などと言ってくれるだろう。

 ちょっと考えた後、確かな自信とともにそう答えたのに、津守は相変わらず渋い顔をしていたので、とりあえず、皺の寄った眉間へと、一発、指をはじいて攻撃をお見舞いした。


「それは、随分と面白いことがあったんだねえ」

 朝の騒動を一通りしゃべり終えると、ベッドの端に腰掛けた空は、そう言いながら微笑んで、右の膝を曲げて、ベッドへ足を乗せた。

「カタツムリとおんなじ袋に入った野菜で夕飯だったとは」

「そっちか」

「うん」

 意外な方を挙げられたので、少し拍子抜け。あぐらをかいた脚を今一度組み直してもう一度見上げるも、空の表情は変わらない。にこにこと、笑っているだけだった。最近、空の表情をこの一つしか見ていない気がするのは気のせいだろうか。

「今の理人の話だと、なあんにも分からなくって、面白いより前に不思議だもの。どうして、誰がそんなことをしたの?」

「……分からない」

「ほらあ」

 くすくす、小さく笑いながら、空は左の膝も曲げる。膝を抱えるように腕を前へ回して、ベッドの端で三角座りをする格好。バランスを崩しやしないかと見ていて不安になるように、前へ後ろへ体を揺らしている。

「でも、今話したのから少しだけ進展はあったよ」

「へえ、どんな風に?」

「蝸牛の殻には、二種類あったんだ」

 俺がそういうと、空はからだを揺らすのをやめて、目をぱちくりとさせた大きく開いた黒い目は、驚きよりも、どちらかといえば、きょとんと、当然のことを問い直されて不思議にしている風だった。

「二種類だけなの、もっと一杯じゃなくって」

「うん。というか、二種類しか選択肢がない」

 空の問いを受けて、右手を顔の横に掲げる。人差し指と中指の二本を立てて、後の指を手の平の方へ折り曲げた。

「巻きが右か、左か」

 拳を膝の上におろす。空は首を傾げながら、自分の指で空中に渦巻きを描いていた。くるくると右巻きに、その次はまた、くるくると左巻きに。それでも何か納得がいかないように、首を傾げたままきゅっと眉を寄せている。どうしたの、と問う代わりに、俺も自分の首を傾げる。

「それこそ、普通のことじゃない? 人も左利きと右利きがいるんだもの、だから、カタツムリにだって」

「そうかも、しれないけど」

 自分では大きいと思った発見へ、水を差されたようで、面白くない。声音へそれが出てしまって、言葉尻を飲み込むようになってしまう。空は俺のそんな様子に気づく風もなく、眉を寄せたまま、人差し指をくるくると、回していた。

 こんこん、と部屋の戸がノックされる。時計を見上げると、ちょうど九時になったところだった。もうこんな時間だったのか。立ち上がって、机の椅子へ置いた学校の鞄を持ち上げ、肩に掛ける。

「勉強?」

「うん。亜子さんに宿題見てもらう約束してるから」

「そっかあ。頑張って」

 空が表情を和らげてそう言い、渦を描いていた手を止め、手のひらを広げてひらりと振った。俺もそれへ手を振り返してから、ノックされたドアの前へ向かう。

 内開きのドアのノブを手前へ引くと、そこには亜子さんが立っていた。眼鏡の奥の黒い目がぱちぱちと瞬いた後、薄い唇が開く。

「居間でいい? 場所」

「大丈夫です」

「そう。じゃあ、行こっか」

 歩き出す亜子さんに続いて、部屋を出る。後ろ手でドアを閉めて、空っぽの自分の部屋を離れた。


 関数のグラフで埋まった紙の上へ定規とシャープペンシルが置いてある。休憩、と亜子さんが宣言したので、俺が置いたものだった。

 その休憩はさっきから延びに延びて、もうそろそろ十分を超えようとしている。亜子さんにせがまれるがまま、今朝、自分へ起こったことを話していると、そうなったのだった。

 俺がようやく話をし終えて口を閉じると、亜子さんはむうと、口元へ手をやって何かを考え始める。眼鏡の上の眉がきゅっと寄って、真剣な表情だった。

 しばらくそうしていたかと思うと、亜子さんはシャープペンシルを手にとって、新しい紙の上へぐるぐると、渦巻きを書き始める。机の上へシャープペンシルの先を押し付けて芯を収めると、その紙を俺の方へと滑らせた。

「その渦巻きは、どちら巻きだろう」

 亜子さんは短く問う。俺は紙の上、細い線で描かれた薄い渦巻きをじっと見つめる。内側から描き始められたのだろうそれは、外側の部分が閉じずに開いている。中心から時計回り、つまり右巻きの渦だ。

「右です」

「うん、そうだね。じゃあ、こうしたら、どうだろうか」

 俺の答えを受けて亜子さんは頷く。頷いて、シャープペンシルを握ったままの手で、紙を裏返す。そのままだと薄い渦巻きはまったく、見えなかった。けれども、想像することなら出来る。亜子さんの描線が、今、透けて見えているとしたら。

「渦は、左巻きですね」

「そうだね。巻いているものを裏返すことが出来るときは、巻きの向きはまったく問題にならない。つまり、巻きの軸と垂直に、物体が対称性を保っているとき、かな。例えば渦巻き銀河とか……生物でいうなら、オウムガイなんかは、そうだね」

 喋りながら、亜子さんはシャープペンシルを紙の上へと滑らせた。渦を描いた周りを黒く塗って、星の集まりを、その横へ、ぐるりと渦を描いた先からうじゃうじゃと脚の生えているオウムガイを、薄い線で描いた。

「そうはならないもの、には、そうはならない理由があるんだし、だからこそ巻きの向きには理由があるんだろうね。理人くんに身近なところなら、ネジとか」

「ネジ、ですか」

 俺が聞き返すと、亜子さんはまたシャープペンシルを動かす。細かい動きをつなげながら、次に紙の上へ描かれたのは、見慣れた一つの道具の姿だった。ドーム状の頭の下から円筒状の棒が伸び、棒の側面には螺旋状の溝がつけてある。何の変哲もない、一本の螺子。

「日常、よく使われているのは右ねじばかりだね。これは、何でだろう。どちら巻きでも、機能としては変わらないはずなのに」

「……どっちも混ざってると間違える人が居て困るから、じゃないでしょうか」

「うん。それも一つの理由だろうね」

 亜子さんがシャープペンシルを持つ手を自分の方へと引っ込めた。逆の手で、紙をひっくり返し、再び、大きな渦巻きを表へ向けた。

「人のつくったものでも理由があって偏るんだから、自然のものが偏るのにも、もっともらしい理由があるんだろうなあと、今、思ったんだ。……そう、カタツムリは、ほとんど、九割以上だったかが右巻きだって、聞いたことがある」

「そうなんですか」

「うん。だから、左巻きのカタツムリって、その殻を自分で集めたなら、見つけるのは苦労しただろうね」

 やわらかく微笑み、ゆるく首を傾げながら、亜子さんはそう言った。まだ何か問いたげである視線を受けながら、ビニール袋へ詰めた蝸牛の殻の巻きの向きを思い出す。確か、三つ。三つが、左巻きの殻だった。割合にしておよそ、一割弱。母集団から何も考えずに取り出したなら、今の亜子さんの話を鑑みれば、妥当な割合だった。

 すべてが不可解なこの出来事の中で、今、これらの会話を通して浮き上がってきたひとつの疑問はこうだった。

「何を意図してふたつの巻きの殻をわざわざ準備して、それを一つひとつ、並べたんでしょうね」

 津守の仮説に従うのならば、教室の、座席に対応させて。右巻きと左巻きを用意して、置き分けている。そこには、理由があって然るべきだと思われた。もう一つ、加えるならば、俺の席へあたる部分に殻が置かれなかったことにも。

 亜子さんが首を横に振る。俺も同じ気持ちだった。分からない。情報は色々と集まったような気がするけれど、分からないことだらけだった。なんとなく何かが引っかかる、靴の踵を踏みっぱなしであるような落ち着かない気分は、しばらく続きそうな予感がした。


「犯人についての有力情報、入手したぞ」

 選択授業の後、教室に戻ってきて弁当を広げていると、別な教室から戻ってきた津守がそう言いながら、弁当を片手に俺の前の席の椅子へ座った。背もたれを抱えるようにしながらこちらを向いて、机の上へ置いた弁当の包みの結び目を解く。

「……今日は誰が作った弁当だ、それ」

「すぐ上の兄貴。絶対炊き込みご飯になるんだよな」

「おお……うまそうじゃん。その玉子焼きとか」

「やらない。うまいけど」

 津守の指した弁当の中の玉子焼きの一切れを、箸でつまんで口の中へ入れる。一時、関西で暮らしていた兄が作る玉子焼きは、甘くないだし巻きだ。他のきょうだいが作る甘い玉子焼きも嫌いじゃないけれど、この兄の手製が一番好きだ。

 同じように、煮付けやおひたしなら慧が作るのが好きだし、外国の料理ならやっぱりちしゃが作るのが良い。お菓子だったら紗耶が作ってくれるのが一番美味しい。みんながみんな、違う味のものを作るから、毎日の弁当や食事が本当に楽しみだ。時々、自分の作ったのも含むひどい失敗作だってあるけれども、それはご愛敬、というやつだろう。

 箸を持って手を合わせていただきますを言う。津守も、一番最初に箸を伸ばしたのは玉子焼きだった。青のりが入っているらしく、黄色の中に緑色が見えた。もぐ、もぐと口を動かしてから、ごくんと飲み込む。

「選択授業で一緒の奴に、昨日の朝変な奴見なかったか聞いてみたらな、この教室から出て来るやつ見たってよ。あ、言ってたのは一人じゃなくて、部活の朝練行くところだった三人組だぜ」

「三人ともが見たって言ってるのか……津守がかつがれてるんじゃなかったら、信用に足るな」

「なんで俺がかつがれなきゃいけねーんだよ。お前の代わりに聞いてやっただけなのに」

「頼んでない。……でも、ありがとう」

 どうにも、真っ直ぐに言うのはむずがゆかったので、少し小さめの声でそう告げれば、津守はさして気にした風もなくおお、と短く返事をして、次はほうれん草のおひたしのアルミカップに箸を伸ばした。聞いてやった、なんていう言葉を使う割に、こちらへかぶせるところが少ない。津守のそういうところはとても気持ちが良いと思う。

 もぐもぐと、津守の口元は動きっぱなしなので、自分も弁当へ手を付けることにする。玉子焼きの次は、きんぴらごぼうだ。冷凍してあったのをそのままいれたのだが、丁度良い具合に解凍されているようだった。塊になっているのを箸でほぐして、ばらばらになったささがきのごぼうをつまみ、口へ入れる。最後に振りかけたごまの味が、よく効いていた。

「で、会いに行くか、そいつ」

「……わかってんのか」

「おお。お前と同じで、服装に特徴ある奴だから、特定出来たってよ」

 唇の端に白い米粒をつけ、右手にもった箸の先を天井へ向けながら、津守は失礼なことを口にする。いや、それを失礼と思うのは、俺の方に問題があるんだろう。自分の服装がある意味人目を引くのは、自覚済みのことだ。ただ、それで人にとやかくを言われたくはないというのは、やっぱり、俺のちょっとしたわがままだ。ひそひそとした噂話ぐらいは、堪忍しなくてはいけない。うまく人とやっていくためには、そういうことだって必要だ。

「特徴って、なんだよ」

「制服ねえのに学ラン着てる、真面目に校章つけてる、学年一緒。専攻が建築らしいし、授業は被ってないんじゃねえか。体育以外」

「ふうん。……見覚え、ないな」

「そりゃ、お前、周りに無関心だからだろ。まあ、俺も知らなかったけど。離れてるしなー、教室」

「だろう。建築だから……行こうと思わないと行かない。そして、行く用事がない」

「もっともだ。……って、同好会の先輩後輩はどうなんだよ」

「同じだよ。機械科。新入部員はゼロだ」

「またか……部への昇格は厳しいな、お前のところも」

「別に、良いけど。二人だと楽だし」

「そういうもんかねー」

 うーんと首をひねっている津守を放っておいて、自分の弁当を食べ進める。今日の炊き込みご飯の具は、白身魚と刻み葱とショウガのみじん切り。あっさりしているが、魚の脂のコクがあっておいしい。ただ、欲を言うなら温かくして食べたいところだ。水筒のお茶は熱いし、いっそお茶漬けにでもしてしまおうか。

「真島、眉間に皺」

「ああ。……そいつには放課後会いに行くから、昼休みはもうその話題出すなよ」

「りょーかい。飯は美味しく食いたいもんな」

「全くだ」

 津守の言葉へ頷いておいて、水筒の蓋をひねって開ける。口をつけてみると、中のほうじ茶は一気に飲んでしまうにはやや熱いぐらいの温度をしていた。多分、お茶漬けにするには丁度良いか、若干ぬるいぐらいだろう。まあ、これも美味しく食べるためだ。多分、冷たいまま食べるよりはこの方が美味い。

 二段の弁当箱の下の段につまった炊き込みご飯を、箱の深さの半分ぐらいが残るまで食べ進めて、それから、水筒を傾けて中のお茶をかける。なみなみと、透明な茶色のお茶で箱が満たされていく。八分目ぐらいになったところでお茶を注ぐのを止めて、弁当箱を持ち上げた。たぷんと水面が揺れる。中のご飯の塊を箸先でほぐしてから、弁当箱の縁へ口をつけて、お茶ごとかきこむ。……ほうじ茶の香ばしさと、薄く付いた醤油の味は合っているような気もするが、やや、お茶の味がご飯の味に勝ってしまっている。これでは、本当に茶漬けだ。食べられないということは、まったくないのだが。

「……真島見てるとあきねーわー」

「そうか、そりゃあ良かったな」

「おお、眉間の皺すげえぞ」

「ご親切にどうも……」

 一度、弁当箱を机の上へ置く。はじめ、まったく透明だったお茶は、米粒のでんぷんのせいか、それとも魚の脂のせいか、少し濁ってしまっている。思いつきで作った即席の茶漬けは、まだ半分以上が残っていた。これを片付けて、少し津守と話して、午後の課題の確認をしていれば、あっという間に昼休みは終わるだろう。だから、蝸牛を置いていったという同級生へ会いに行くのはやっぱり放課後が妥当だ。

 そう、段取りをつけてから、大きく息を吐いた。


 建築科の教室はやっぱり遠かった。どれほど遠いかと言えば、校舎の四階から二階へ下って渡り廊下を渡り、更にそこから講堂の外周を通り抜けて、別棟へ入って、もう一度階段を四階までのぼらなくてはいけなかった。校舎内の移動だけなのに、五、六分はかかっただろうか。

 丁度、終礼が終わったところらしい。廊下に掃除をしている人影はなく、ちらほらと、教室から出て来る人間が見かけられる。用事がある、と担任へ言い置いて、終礼を抜けさせてもらった甲斐があった。

 一学年に一クラス。四階にかためられた建築科の教室の中から、三年生の表示を探す。丁度、校舎のドアをくぐってから三つ目の教室の扉の上に、「三年建築」という小さな表示板が掲げられていた。その表示板の下を、次から次へと、色とりどりの洋服を着た同じ学年の生徒達が、通り過ぎていった。

 どうやって目当ての人物へ声をかけよう。そんなことを考える暇もなく、俺が立ち止まったのと同じタイミングで、教室から、黒い学ランを着た生徒が出て来る。手に持っている薄くて広い四角の鞄は、革の、所謂、学生鞄というやつだろうか。普通の、他の制服のある学校ならばともかく、確かにこの中に居ては目立つだろう。

「ちょっと」

 その、学ランに向かって声をかける。目当て以外の人物をちらりとこちらを向いたが、すぐにそっぽを向いた。ただ、目当ての、学ランを着た生徒だけが、俺の方をしっかりと向いたまま、銀色の縁の眼鏡の奥の目を丸くして、立ち止まっている。後ろから出てきた急いでいる様子のユニフォーム姿の男子生徒が、彼の背中をぐいと押しのけて廊下を走っていった。学ランの彼は、それへ踏みとどまることが出来ずに、俺の方へとよろめいてくる。踏みとどまったところで顔をあげたのと、ぴたりと視線が合った。

 驚いているようだが、それだけのようだった。逃げようとする素振りや、怯えのような色が見られない。少し意外だった。あんな質の悪い悪戯めいたことをするぐらいだから、俺本人が行けば、少しぐらいの罪悪感なりを見せるかと思ったのに。

「……俺が誰だか分かるか」

 自意識過剰のように聞こえる言葉を呟けば、正面の学ラン姿の同級生は、一度頷く。

「真島理人。三年機械科一組、出席番号は三十二番。教室の席はど真ん中」

「そこまで分かってるんだったら、なんで俺が来たのかも分かるよな」

「ああ。場所を変えよう、ここじゃ邪魔になるみたいだから」

「賛成だ」

 俺が言えば、相手はついてこいとでも言いたげな視線をこちらへ寄越しながら、体を俺が来たのと逆の方へ向ける。俺は、その後ろをついて歩き出した。もう掃除の始まっている四年の教室、まだ終礼の途中らしい五年の教室の横を通り過ぎて、階段の前に来る。彼はそこで左へ折れて、階段をのぼり始めた。四階が最上階のはずだ。不思議に思いながら、彼の後へ付いて、階段をのぼる。踊り場を踏んでから、続きをのぼろうと見上げると、階段の幅がいきなり細くなっていて、壁側には、使われている様子のないロッカーが並んでいた。細い階段の奥には、金属製の重たそうな扉が見える。この位置からして、きっと、屋上へ続いているのだろう。

 建築科の方にもこんな場所があるんだなあと感心していると、学ラン姿の同級生が、細い階段の真ん中辺りへ腰を下ろす。それでもまだ、相手の視線の方がやや高い位置にあった。

「座らないか」

「……結構」

「そう。……多分、人は来ないから大丈夫だと思うけど」

 彼は鞄をおろして、うーんと伸びをする。その様子は、まるで仲の良い友人と今から歓談をするかのように、緊張の欠片も見られなかった。悪戯がばれて、悪戯の相手に連行されているような人物の態度とは思えない。俺の方に怒る気がない、というのに相手も気付いている、というのが一因にしても、何か、見ていて腑に落ちない感じのする相手の様子だった。

 しかして、何から尋ねよう。こうも素直に来られると、逆にこちらが戸惑ってしまう。どうやって尋ねてみれば、一番楽に、自分が聞きたかったことを聞き出せるだろう。

「——人の、頭の上に」

 そう、俺が迷いながら黙ったままでいると、階段に座り込んだ彼が、そう口火を切った。低い声は、小さい音量でもよく通る声をしている。頭の上、とそう言った視線は丁度俺の頭の上辺りに向いていて、その声は、本当に俺に向けられているのだろうかと、一瞬、疑問に思う。間違いなく、俺の眉は相手へ分かるぐらいに動いたと思うし、相手にも見えているはずなのに、彼はすぐに、言葉を続けたから。

「大きな螺子が見えるんだ。昔から、ずっと。頭の丸い螺子のこともあった、木で出来た螺子のこともあった、それが最近は、カタツムリの殻が頭に乗っているように見えるんだ」

「……俺は、お前の幻覚の話を聞きにきたわけじゃないんだけど」

「きっと、そうなんだろうな。そうに違いないんだ、自分の頭の上を触ったって、そこに螺子なんてないんだから」

 彼が、自分の頭上へ手をやり、そのあたりを撫でるような動作をする。その手はまったく、宙をかくだけだった。何にも触れなかった手を下ろして、肩を落として、乾いた声で笑う。

「でもな、誰かに知ってほしかったんだ。俺がこんなものを見てるって」

「……あの訳の分からない悪戯はその為だったのか。回りくどいというか、訳が分からない」

「ああ……なんだ、じゃあ、お前にもやっぱり見えてないんだ」

 笑いを浮かべたままの唇と対照的に、眉尻が下がって、両目が細められる。どうして勝手に期待をされて、勝手に失望されて、そんなに残念そうな表情を見せつけられなければいけないんだろう。自分の顔がまた、いっそうしかめ面になるのが分かった。津守がここへいれば、俺の眉間の皺を指摘して笑うだろう。

「むしろ、なんで俺にはお前と同じものが見えていると思ったんだ」

「同じものが見えているとは思っちゃいなかった、っていうと嘘になるけど、そう期待はしてなかったさ。でも、何か見えてるんじゃないかって思ってた」

「……その、根拠は」

 俺が問うと、彼は先ほど、自分の頭上へやっていた右手を、再び持ち上げる。その腕を俺の方へと伸ばすと、ずっとその視線を向けている、俺の頭上へ向けて、人差し指を立てた。

「だって、真島の頭の上には、何も見えないんだ」

 人差し指を立てたまま、彼はそう言った。何も、見えない。それは、俺が彼の幻覚の対象外ということなのか、それとも、対象内にあってなお、俺には何も見えないということなのか。そう考えること自体が、相手の土俵に乗っているということで、非常に気分が悪いが、既に考えてしまったものは仕方がない。

「螺子ったって、全員に同じのが見えてたわけじゃない。錆びてるのも、螺子頭がつぶれてるのだってあった。時々、左に巻く螺子だって、見えた」

「それが、蝸牛の殻の巻きの違いか」

「ああ、そうだ。集めるのが、大変だったなあ……休みが全部、つぶれちまった。カタツムリにも左巻きって、少ないんだな」

「にも?」

「だって、螺子にも左向きは少なかったから」

 すうと、人差し指の先がおろされる。その指先は、今度は、俺の胸の辺りへと向けられていた。

「でも、真島には、左向きの螺子すら見えない。何にも、見えない」

 指先がおりてくるのと一緒に、その視線も下へとおりてきていた。何度目か、視線が合う。

「お前にも、何か見えているんじゃないのか」

 眼鏡の奥にあるのは、ただの目だ。黒い色の、何の変哲もない普通の目。誰が彼の目をのぞき込んだって、彼が「人の頭の上に螺子を見る」だなんて、思いもしないだろう。けれども、彼にはそれが見えるという。見えると言った上で、俺にも同じようなことを期待している。静かに感情を殺しながら、それでも殺しきれなかった部分で、確かに期待している。じっと逸らされない視線が、その証拠だ。

 その期待はもはや、縋っているのと一緒だった。だから、せめてもの誠意として、彼の視線を真っ直ぐに受け止めたまま、返事をするために、息を吸う。

「——いい病院なら紹介する。きっと、すぐにでも病院へ行った方が良い」

「いい、病院」

「俺がずっと、子どもの頃からかかってるところだよ。……喘息、で。精神科、評判は悪くないから」

 瞬いて、彼の目がぎゅっと細められた。唇の真ん中に力が入って、持ち上がっている。下唇の下に、縦の皺が寄っていた。

「お前も、俺を病気扱いするのか」

「お前が見てるのと同じものが、俺にもし万が一見えてたとしても、俺は同じように勧めたよ。病気扱いしてるわけじゃない。同じ種類の人間が居たとしても、お前のその状態は普通にはならないってだけだ。その、普通じゃないのに困ってるんだったら、専門家へかかるのは自然な選択肢だ。これからもちゃんと、生きていくために」

 俺なりに、誠実に返したのに、彼は表情を変えないまま、立ち上がった。革の鞄を持ち上げると、階段を駆け下りてくる。俺とぶつかるすれすれのところを曲がると、鞄の角を俺の腿へとぶつけて、そのまま、振り返りもせずに、階段を駆け下りていった。さすが、革の鞄。じんじんと、ぶつけられた場所が痛む。これは、きっと青あざになるだろう。

 全く、とんだ奴だった。今になってどっと肩が重たくなる。ふう、と息を吐くと、徒労感が一層強くなったようだった。

「……帰ろう」

 掃除が始まっているのだろう。下から聞こえてくるざわめきに紛れるぐらいの声で呟いて、外を見ると、さっきまでは降っていなかったのに、糸のような雨がさあさあと、降りしきっていた。


「それは、災難だったねえ」

 いつもの定位置、ベッドの端へ腰かけて、空はそう言い笑う。床へ胡座をかいた俺は、そんな空の様子に思わずむうと唇を尖らせた。それを見てだろう、空がまた、笑う。

「ごめん、ごめん。茶化すつもりはなかったよ。アザ、ひどくなかった?」

「うん、それは。風呂で見たけど、思ったより」

 ジャージの上から、アザの出来た位置へ手を乗せる。軽く押さえてみるけれども、ほとんど痛みはなかった。その程度のものだった。きっと、三日もすれば消えるだろう。それで、この出来事は終わり、一件落着というやつだ。

「一応、解決と言っていいのかなあ。ねえ、理人」

「うん、もう、終わりで良い」

「そっか」

 小首を傾げて微笑み、空はぶらぶらと遊ばせていた足をベッドの端へと乗せる。背中を丸めて、膝を抱えるように腕を前へと回した。

「理人には何も見えないって言われて、ショックだった?」

 空の問いに、俺もまた首を傾げる。ショックを受けたか、いや、そんなことはなかった。思い出すと、相手のペースにのせられていた自分が、気持ち悪くはあるが。

 故に、首を横へ振る。空はまた、そっか、と短く呟いて、眉をハの字にして唇の端を緩くつり上げる。困ったような笑み、というやつだ。

「理人は、強いね」

「……どうだろう。俺には、空の方がよっぽど強く見えたよ」

「それこそ、どうなんだろう、ね」

 息を吐きながら小さく笑い、空は抱えていた膝を伸ばした。また、ぶらぶらと足を揺らす。近くへ座った俺へあたるのをまったく気にしていないその動作に文句を言おうとしたところで、自分の後ろ、扉をノックする音がした。

 きっと、亜子さんだ。時計を見ると、もう九時になる。いつもの、勉強を見てもらう時間だった。

「あっちゃん?」

「多分。……あ、見てもらう準備、してない」

「じゃあ、先にそれを言った方が良いね。待たせちゃうから」

「そうする」

「がんばって、理人」

 立ち上がる俺に、空が片手をあげてひらりと振る。それへ笑みだけを返して、俺はノックされた扉を開けに向かった。

 ノブを手前へ引いて、隙間からのぞけば、亜子さんがそこに立っている。胸の前で、教科書や筆記用具を抱えていた。

「ごめん、今日は理人くんの部屋でもいいかな。居間にちしゃさんのお客が来てるから」

「……分かりました。今日の課題の準備がまだなので、床ですけど、座って、待っててもらえますか」

「うん、分かったよ」

 扉をさっきまでよりも大きく開けて、亜子さんを部屋の中へ招き入れる。特に疚しいことはないけれど、扉は開けたままにしておいた。白と黒の大きな市松模様のカーペットの上へ、亜子さんが腰を下ろすのを視界の端にとらえながら、椅子へおいた鞄から、今日の課題を探す。クリアファイルへ入れておいたプリントは、すぐに見つけることが出来た。

「理人くんは、今もよく床に座るんだね」

 亜子さんがそう言うので、クリアファイルを手に持って、体を亜子さんの方へ向けた。亜子さんの視線は、さっきまで俺が座っていたベッドのそば、くしゃりと置かれたジャージの上着を見ているようだった。俺は、それに苦笑した。そのそばのベッドの端には、もう誰も腰かけていない。朝、出るときに直したまま、シーツに一つの乱れもなかった。

「……癖です。よく、空とそこで話をしてたから」

「うん、覚えてる。空がベッドに座って、理人くんが床に座って……扉を開けたら、よく空と目があったなあ」

「そう、でしたね」

 昔はよくあったことを思い出す。ほら、あっちゃんが来たよ。ノックの後、開いた扉の向こうを見て、空がそう言うのだった。もう、聞けない言葉だ。

 ベッドの端に座る空は、俺にしか見えない。俺以外が居ると、空は現れない。だから、亜子さんがあの空に会うことはもう、ない。毎日同じ服で、同じようにベッドの端へ腰かけて、同じように笑う空に、亜子さんが会うことは、もうない。

 仕方がない。未だに空を見る俺の方が、きっと、おかしいんだから。

「……今日も勉強、教えてください」

「うん、僕に出来る範囲だけど。今日は、工業物理?」

「はい、課題がこれで、教科書がこっちです」

 鞄から教科書を取り出して、クリアファイルと一緒に抱えながら、亜子さんのそばへ腰を下ろす。教科書を下ろすときに青あざの部分にあたったのか、さっき自分で押さえたときよりも強い痛みに、思わず顔をしかめる。

 だいじょうぶ? そう、笑う声が聞こえた気がして顔をあげて、ベッドの方を見たけれど、まだそこには、誰も座っていなかった。

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