砂山
物心ついた頃から、白色が嫌いだった。原因はおそらく病院。持病のせいで毎週のように連れてこられていた病院のせい。俺は注射や、得体の知れない検査をさせられる病院が怖かった。そのせいで、病院を連想させる白色が嫌いになったのだろう。きっと同じ理由で、淡いパステルカラーも俺は好かない。
だからといって、全身を黒で包むのは、反動が過ぎるとは、自分でも思う。ただ、白と淡い色をのぞいたとき、制服として許されそうなシャツの色にはもうだいぶ限りがあって。その中で一番まともにみられたのが、黒色だったのだ。だから、学校に行くとき黒ずくめになるのは仕方がない。
そして、もう一つ。この黒色は、喪の象徴だ。
「真島さん、真島理人さん」
自分の名前を呼ばれ、窓口に向かう。とうに顔見知りになった事務員の女性は、説明を省いて「いつものですよ」とだけ言い、笑顔で薬袋と手帳を差し出してくる。俺も愛想笑いを返して、それらを受け取った。会釈をして、出口に向かおうと振り返る。
振り返ると、そこにはよく見知った顔があった。眼鏡の奥の目が、楽しげに細められている。わずかに見下ろされるのが悔しいと、思ったり。
「りーひーと。帰ろーぜ」
言いながら、首を右腕でしっかりホールドされるものだから、息苦しい。ついでに、少し恥ずかしい。振り払ったりするのは面倒だから何もしないけど、ため息はつく。
「……兄貴はなにで病院まで来たの」
「徒歩。リハビリっつーか練習っつーか、そんなもんだと思えば辛くはないな」
「そう」
引きずられるようにして歩きながら、自動ドアをくぐり、駐輪場の方へ向かう。俺のバイクはそこにとめてあるので、進路に間違いはない。ヘルメットも……何となく予測できたから、二つ用意してある。問題は、俺の寄り道に付き合ってくれる気があるか、ということ。
「寄り道するけど良い?」
「別に構わんけど。ちなみにどこ?」
「海」
しばしの沈黙の後の兄の返事は、ふーんという気の抜けたものだった。そのまま、会話もなしにプランターで両脇を飾った道を歩く。時折好奇の目を向けられるのがうっとうしい。地域では一番の総合病院、人の出入りは、夕方ということもあってか、それなりに多い。
駐輪場の前までやってきて、兄が首に回していた腕を放す。自由になった首を数度回してのびをして、自分のバイクに近づいた。バイクも黒一色、少しだけ蛍光塗料でペイントしてあるが。ヘルメットも同じ。さすがに命の危険があるから、黒一色というわけにはいかない。
バイクを押して車道までだし、兄にヘルメットを手渡す。俺は、肩にかけていた鞄と薬をシートの下に放り込み、代わりにジャケットとグローブを取り出した。制服の上にそれらを着込み、ヘルメットをかぶる。さすがに少し暑い。
車体をまっすぐにしてスタンドを外し、シートにまたがってから、兄に後ろに乗るように促す。ヘルメットをかぶった兄は、なれた様子で後ろのシートにまたがった。キーをさしこみ、エンジンをかける。
「ちゃんとつかまっててよ」
「了解」
慣れてるから大丈夫だとは思うけど、一応声をかけ、その返事を確認してから、クラッチを握った。
この町の海はどうも荒涼としている、と思う。
端を岩場に挟まれ、広がる白い砂浜。時々流されてきたいろいろなものがうち捨てられている。流木、何かのボール、果ては紙の入った小瓶。ロマンチストもいたもんだと笑いたくなる。
肝心の海はといえば、実は流れが速くて遊泳禁止。……になったのは数年前だから、もっと別の理由があったんじゃないかと疑いたくなる。たとえば、ほんとにたとえば、何かの祟りとか。そのせいでもう使われなくなった海の家の土台だけが、何カ所か残っている。
そういったものが目につくところにたくさんあるから、一瞬、この海に対して「荒れ果てている」という印象を持ってしまうんだろう。
バイクを堤防の手前に止め、そう高くもない堤防を乗り越えて砂浜に足を踏み入れ、ある程度海に近くなったところで、俺は砂浜に腰を下ろした。空は鼠色。おかげで、海も鼠色だ。本当は関係ないけどね。
後ろからついてきていた兄は、俺の横で立ち止まって、大きな欠伸をした。
「よく来るのか?」
上から、声が降ってくる。それにうなずいてから、兄から見えていないことを思い出し、わざわざ
うん、と声を出して答えた。兄は、また気の抜けた返事をして、俺の隣にどかりと腰を下ろした。
「懐かしいな……昔、先生たちと来たよな。その頃はまだ泳げた」
「うん。ちぃ兄が飛び込んで、空兄がそれを追っかけて、けい兄が追っかけるのを止めてた」
「で、その隙を見て俺とお前が海に突撃して、波でぬれて泣いたな。しず姉が泣き止ませるのに必死だった」
「……ほんとに覚えてるんだ」
「お前だって覚えてるだろ。海に来たのは……あれ一回きりだ」
兄の言うとおりだった。自分が幼かった頃ただ一度だけ「家族」で海に来た記憶は、ひどく鮮やかだ。今日みたいに灰色じゃない、抜けるような青空が頭上に広がる日だった。海は今見るのよりずっと広く、果てしなく思えた。でもその向こうに何かがあるなんて思ってなくて、水平線を海の終わりだと思っていた。
子どもらしく兄や姉たちとはしゃいで、遊んで、先生は少し離れたところからそれを見守っていた。拾ったきれいな貝殻を持って行くと、ありがとうと言って微笑んでくれたっけ。兄たちと3人で作った砂の城をひどく気に入って、何枚も写真を撮っていた。
俺がこの海によく来るのは、その優しい思い出を鮮やかに保つためだった。来るたびにあの日を思い出して、どっぷりと記憶の海に沈む。それが「今」だと錯覚してしまうほどに、深く。忘れたくない、消してしまいたくないから。
未だ、あの日より美しい青空を、この場所で見たことがない。
「病院から意外と近くてさ、バイクで十五分くらい。家までは、五分少し。だから結構、病院帰りには寄ってる」
「だから病院の日の帰りがやけに遅かったんだな……けい兄にも言ってないだろ」
「……何となく、言いづらくて」
その目的も相まって。今のけい兄に、何もかも言ってしまっていいものかと迷ってしまって。
俺の心中を察してか、兄はため息をついて頭をかく。
「気遣いで心配させてちゃ意味ねえぞ。せめて遅くなるの一報だけでも入れとくよーに」
「じゃあ、今日は兄貴がよろしく」
「……今日だけな」
間髪入れずに返した俺に、兄貴は多少不満そうだ。でもちょっと表情を変えただけで、それ以上文句は言わず、ズボンのポケットから携帯をとりだして、メールを打ち始めた。
折りにつけて、自分の家族は年下に甘い、と思う。それは、弟妹に限らず、だ。出かけたときなんかにそれは顕著で。例えば迷子を見つけたら、全員が、十回中十回、面倒を見ると断言できる。実際、買い物に出たときに何度それで用事が中断されたことだろう。
みんながみんな、そうなってしまった理由は、何となく想像がついた。要するに、「自分と同じ思いはさせたくない」のだ。小さいものは、弱いものは、守られなければいけない。そんな刷り込みが俺たちには均等になされている。それを、年下への甘やかしに直結させるのは、飛躍が過ぎるかもしれない、けど。
幼少期に傷つけられた子どもは、自分の子どもを傷つける、という話がある。
俺たちは誰も、そんなことをしたくない。
……これも、飛躍しているか。
携帯を閉じる音がしたので横を見ると、兄が閉じたそれを砂の上に放り投げていた。……故障するぞ、と教えた方が良いだろうか。まあいいか。防水だと言っていた気がするし、きっと砂も大丈夫だろう。
「理人、砂の山作ろうぜ、山」
「城じゃなくて?」
「時間かかるからな、城は。山作って、トンネル掘って、水流して遊ぶぞ」
「けい兄になんて連絡したの……」
何となく疲れを感じて、ため息が出る。兄がそんな俺を見て笑って、立ち上がり、波打ち際に向かって歩き出した。俺も仕方なく立ち上がって、兄を追いかけた。
まったく、どっちが来たかったんだろう。
波が来るか来ないかぎりぎりのところに、砂を盛り上げて山を作る。日差しはないのに砂は温かくて、じんわりと汗が滲む。
盛り上げた砂の山の裾に、両側から穴を掘って、トンネルを造る。ぼろぼろ崩れてくるのはご愛敬。崩れたらまた固めて、を繰り返す。
山の真ん中で手と手が出会って、トンネル開通。後は、そこから溝を作って、うまく海の水が引けるようにすれば、小さなダムの完成、だけど、そううまくはいかず。
ざぶん、とひときわ大きな波に、山の半分を持って行かれる。
「……おー、三回目。さすがに俺は飽きたな」
「早くない?」
俺がため息をつくと、兄はからからと笑って、言った。
「もう子どもじゃないからな」
嘘つけ。思ったけど、口にはしない。ただ、立ち上がって服の砂を払う兄に、眇めた視線を送っておいた。兄はそれに気づいているの気づいていないのか、海を眺めていた。もうそろそろ、星が出る。
「ほんとは、三人が良かったな」
ぽつりと兄が言う。言葉の真意が測れなくて、俺は何も言わず、ただ兄を見つめる。
深く息を吸う音の後、兄がこちらを向いて、ほほえみながら口を開いた。
「空兄と俺と理人の三人で、来れたら楽しかったな」
笑っている目の端に涙がたまっているのは見ないふり。言葉の後ろに行くにつれて、声が震えているのも聞かないふりで、俺はさっきまで作っていた砂の山に、視線を戻す。
昔は三人で作ったんだ。家族の仲で、一番小さかった俺たち三人で、砂の城を。
「バイク、二人までしか乗れないし」
「俺がどっかから借りてきて、空兄にはどっちかの後ろに乗ってもらえば良かったろ。空兄、俺たちは平気だったんだから」
話していることの全てが仮定。なのにあるのは期待ではなく、後悔ばかりだ。だから、やりとりする声がだんだんと、小さくなっていく。声にならない声に紛れて、消えていく。目と鼻の奥が熱くなって、のどが詰まる。
「そんなことだって、出来たのになあ」
なんとか絞り出したような声で、兄が言った。言った後、ふらっと、砂の上に仰向けに倒れる。顔を腕で覆って、唇をかみしめている。
俺は、砂の山の残骸を、ぎゅっと握りしめた。漏れ出そうになる嗚咽を、こらえるために。
こんな山より簡単に、全部消えてしまうぐらいなら、と、消えてしまってから後悔をする。思い出よりもっと、大切にすべきものがあったんだと。
先生は死んだ。空兄も……もう居ない。三人で作った砂の城を喜んでもらうことは、もう、ない。
聞こえてきた鳥の声に、思わず空を見上げる。端の方はもうすっかり濃紺に染まっていた。ああ、星が出る。
とっぷり日が暮れて、星どころか月が高く昇る時間になってから家に帰り着くと、湯上がりの着流しに着替えたけい兄が、玄関の前に仁王立ちで待っていた。バイクから降りて、ヘルメットを外した俺たちに、一発ずつ拳骨を落として、何も言わずに家の中に戻っていった。
俺と兄は顔を見合わせて苦笑して、痛む頭を押さえながら、門をくぐった。
庭の隅のいつもの場所にバイクを押していって、スタンドを立てる。荷物を取り出して、ヘルメットをしまい、庭木に引っかけてあるカバーを被せた。
カバンを持ち上げて、ふと兄の方を見ると、家の二階の方を眺めていた。その視線をたどると、白いカーテンの窓にぶつかった。ずっとそのままにしてある、空兄の部屋。
うちには先生の仏壇がある。家族みんながそれはもう大切にしていて、花も供え物も絶やしたことがない。墓の場所も全員が知っていて、彼岸と盆と年末には、必ず全員でお参りに行く。
でも、空兄のものは、どちらもない。遺言も何もなかったけど、その方が良いだろうと、けい兄が判断した。俺たちのだれも、それに異論はなかった。実際のところ、俺たちのだれも、神も仏も信じちゃいないし。代わりに残してあるのがあの部屋だ。
兄が見上げるのをやめて、首を横に振った。
「……腹へった。夕飯なんだろーな」
頭の後ろで手を組みながら、兄がそう言って歩き出す。俺も、カバンを肩にかけ、歩き出した。少し先を行く兄の目が、まだ真っ赤なのは、見ないふり。見上げている間に、涙が目の端にたまっているのも、見ないふりだ。兄もきっと、俺の同じところを、見ないふりをしているだろう。
何があったって、いつも通りを装って、前を向いて歩いていく。子どもっぽい強がりだけど、そうすることで自分を保てるなら、構わないと思う。
「ちぃ兄の当番の日だから、何か凝ったものじゃない?」
「やっぱり?食えるものなら良いんだけど、たまにとんでもないもんが出るからな……」
「そこは、あきらめが肝心」
「ひもじい思いすることがなきゃな。ただいまー」
「ただいま」
家の中に入って、引き戸を閉める。兄はさっさと革靴を脱いで、廊下の奥に歩いていった。
玄関に一人になって、いつ帰っても迎えてくれた「おかえり」の声がもうないことが、やけに胸に引っかかる。下を向いて息を深く吸って、細く息を吐いて、こぼれそうになる涙とか声とかを飲み込んで。黒色のスニーカーを脱いで、もう騒がしくなっている居間に向かった。
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