さよならを教えて
久方ぶりに家に帰ると、家族が一人減っていた。
……と、簡単に言ってみるけど、実際はそんなもんじゃなかった。
門をくぐって、玄関の戸を開け、現れた兄貴にまず頬をビンタされ。急かされながら靴を脱ぐと、服の襟を捕まれてずるずると廊下を引きずられ(荷物だけで20kgはあったと思うんだけど、あれが火事場の馬鹿力というやつか)。放り込まれた仏間には、俺の知ってる仏壇の他に、見知らぬ小さい机が増えていた。
はじめに目についたのは、そこに置かれた青い青い鳥の絵。次に、弟の笑顔の写真がいれられた写真立て。それが、死んだ弟の墓代わりだとは、すぐには分からなかった。兄貴に机の前に正座をさせられ、肩を掴まれて、正面から目を見据えられて、言われるまで。
ああ、今でも思い出したくない——「空が死んだ」と、兄貴が俺に告げるまでは。
我が家の朝は早い。職人勤めが一人と学生が三人、社会人が二人、半分が通勤通学に一時間以上かかる。そんなわけで、大抵朝日が昇る頃には、だいたいみんな起き始める。……一人は、週のうち半分ぐらい、他と入れ替わりに眠り始めるけど。
みんなの朝食を作るのは、とりあえず俺の仕事。なぜなら、今のところ自由業だから……いやはや、悲しいかな。朝日が差し込むので目が覚めて、布団から這い出て、寝間着から家着にしている着流しに着替えて、手洗い場に。その間に手櫛で髪を整えて、後ろで一つに結う。そろそろ髪を切りたいところ。
手洗い場には先客がいた。シンプルな白色のカットソーとサブリナパンツに着替えた、ふわふわの栗色の髪の妹だ。
「さや、おはよー」
「んん……ちぃくんかあ、お早う」
洗顔を終えて髪をとかしていたらしい紗耶は、赤いブラシを片手にこちらを振り返る。目覚めの良い紗耶は、ぱっちり目を開いて、穏やかに微笑んでいた。体をどかして水道を譲ってくれたので、ありがたく使わせてもらうことにする。蛇口をひねって出てくる冷たい水を手ですくい、顔を洗う。
タオルで顔を拭いて、鏡を見ると、後ろの紗耶の髪がいつのまにかお団子になっていた。女の子って器用だよなあ。
「ちいくんの髪もおそろいにしてあげよっか?」
「謹んでお断り申し上げます」
笑顔で言われたので、こちらも笑顔で返した。紗耶は笑顔のまま、残念、と言って、洗面所を出て行った。去り際に、だし巻きはネギが良い、とリクエストされた。頷く代わりに、ひらりと手を振る。
鏡の横の棚に手を伸ばして、コンタクトケースをとる。手を洗ってから、中のレンズを人差し指に載せ、鏡に顔を近づけて、右目にレンズをいれた。度の入っていないカラーコンタクトは、両目の色をそろえるためのもの。鏡に映る自分の両目は、今はどちらも濃い亜麻色だ。家の中にいるなら別に気にしなくても良いんだけど、来客の対応とかも全部俺がやんなきゃだから、しとくにこしたことはない。正直面倒だ。旅の最中は、気にしたことなかったしな。
ケースを元の位置に戻して、洗面所を出る。縁側を吹き抜ける風に、思わず身震いした。若干春めいてきているけれど、風はまだまだ冷たい。
台所に向かおうと角を曲がると、亜子があくびをしながら、こちらに歩いてきていた。
「亜子、今日はおやすみ?」
「はい、おやすみなさいです、ちしゃさん」
そう言って、亜子はまたあくびをする。眼鏡の奥の目は確かに眠たそうに細まっていて、抱えた本やらを今にも取り落としそうで、ひやひやする。俺の心配などいざ知らず、亜子は裸足のままぺたぺたと、俺の横を通り過ぎていった。……よく見たら上もシャツ一枚だ。これで一晩外にいて、よく風邪引かないな。
「兄貴起こすのは任せたよー」
「分かりました。……すんなり起きてくれると良いんですけどね」
はあ、とため息。毎朝の苦労が忍ばれて、俺は苦笑する。後ろに遠ざかっていく亜子の足音を聞きながら、俺は台所に足を踏み入れた。
そこにも先客がいて、制服の上に白いエプロンを着けて、コンロに向かっていた。
「あ、ちぃ兄。はよ」
俺の方に一瞬顔を向けて、すぐにコンロの方に戻す。ぱちぱち、油のはぜる音がしている。揚げ物中か、そりゃ目も離せないや。
「おはよ、あき。弁当当番だっけ」
「イエスイエス。唐揚げいま揚げてて、ポテトサラダとブロッコリーと、冷凍の金平もらった。まだ寒いから大丈夫だと思うんだけど、っと」
菜箸で唐揚げを引き上げて、天ぷら紙の上に置いていく。全部引き上げ終わったら、また衣をつけた肉を油にいれる。また、じゅわっといい音がした。何とも食欲をそそる匂いと音だ。昼用だから今すぐに食べられないのが残念だ。
俺は、冷凍庫から小口切りのネギを、冷蔵庫から卵のパックを出して、机の上に置く。それから、めざしとアジのみりん干し。味噌汁の具は豆腐と、タマネギが半分残ってるからそれにしよう。
それから、しゃもじを持って、もう保温になってる炊飯器のふたを開ける。白い湯気がたちのぼって、ゴボウの良い匂いがした。今日は、ゴボウと鶏そぼろの炊き込みご飯だ。具が全体に行き渡るように底から混ぜっ返すと、お焦げが出来てるのが見えた。ここがおいしいんだよね。……あれ、弁当のメニュー、ゴボウかぶってるじゃん。
タマネギと豆腐を持ってシンクの前に立ち、まな板と包丁を出しながら横の明良にそれを言うと、唇をとがらせながら、反論してくる。
「俺がゴボウ好きだから良いんだよ。うまいじゃん、ゴボウ」
「うん、ゴボウはおいしい。金平は特に最高」
「だから問題なし。バランスとか知らね」
「はは。兄貴とかはともかく、しずくに怒られるんじゃない?」
「しず姉、今日は休みだって」
「え」
思わず動きが止まる。そんな俺を、明良はどこか憐れむような視線で見てきた。……いやそこまで嫌なわけじゃないよ、うん。ただ、あいつと二人っきりってとってもとっても久しぶりな気がして、ちょっと怖いだけ……ちょっとだけ。
ため息をついてから、気合いを入れ直すのにふるふると首を横に振って、包丁を握った。ラップをはいだタマネギを、くし切りにした後、長さを半分に切る。それを、下から出したボウルに放り込む。豆腐はふたを取って手のひらの上にのせ、さいの目に切ってから、パックに戻した。
「あきー、隣ごめんよ」
「どーぞ。味噌汁タマネギ?俺好きー」
「あきは好きな食べ物が多いね、良い子良い子」
煮干しを一晩つけてた鍋を火にかけてから、明良の頭をよしよしと撫でると、若干上目遣いで睨まれた。悪気はないんだから許して欲しい。……それにしても、明良は背が伸びた。出国前最後に会ったときは、見上げる角度がもっときつかった気がする。成長期ってすごいね。そういや俺も、このぐらいの頃は、日本に帰るたびに兄貴と先生に「本当に啓介か」って疑われたな。あまりに見た目が変わりすぎて。
「んー、懐かしいなあ」
「は? 何が」
怪訝そうな表情で聞き返す明良に、秘密、と返して、一人でくすりと思い出し笑いをした。
食事の後の日課は、着流しにたすきを掛けて、家の掃除。二階と一階を、一日ごとにそれぞれ掃除する。今日は一階の掃除の日。
驚くべきことに掃除機のない我が家では、箒とちりとりと雑巾が、掃除の主力選手だ。セオリー通り、上方から下方に、順番に掃除をする。
だいたい部屋の掃除を済ませたら、次にやるのは廊下の雑巾がけ。俺はこの作業が結構好きだ。何か、運動した気になれるし。廊下の隅に置いたバケツの水で濡らした雑巾を固く絞って廊下に広げ、押さえながら、廊下の端から端まで一気に走る。逆側からも同じように。それを三回ほど繰り返してから、立ち上がって額の汗を拭いた。振り返って見る廊下は、綺麗になっている、と思う。
「毎日こんなことやってんの?」
すぐ側の部屋から声が聞こえたのでそちらを見ると、寝転がってこちらを見ているしずくと目があった。丈の短いワンピースから伸びる脚を、宙でぶらぶらさせているが、パンツ見えるぞ。
「やってますとも。……空がやってたことだから」
「190cmある男がたすき掛けまでして健気に雑巾がけとか、似合わん。空か、亜子ちゃんならともかく」
ばっさり切り捨てた同い年の姉は、もう居ない弟と、寝ているだろう兄貴のお嫁さんの名前を口にした後、嘆息する。似合わなくて悪かったな。と口にするのも面倒で、汚れた雑巾を洗うために、バケツの横にしゃがんだ。手を入れた水は冷たい。いつの間にか出来ていたあかぎれに、冷たい水はしみた。
……今気付いたけど、非番ならしずく暇なんじゃないの。一緒に掃除とかするべきでは。と考えて一瞬手が止まる。でも、それを言った後のしずくの反論(毎日家にいる暫定自由業と外に勤めに出てる社会人の家でくつろげる時間の重さを一緒にすんじゃない馬鹿)が簡単に想像できたので、実行するのはやめて、再び手を動かし始めた。だって面倒くさい。ごめん。
洗い終わった雑巾をバケツの縁にかける。水はだいぶ濁っている。最後の部屋を掃除する前にくみ直すか。バケツを持って立ち上がり、縁側から庭に出る。バケツの水を、庭木と塀の根元にやってから、庭の隅の水道で水をくむ。それから、縁側に戻るのに庭の真ん中を横切る。地面には、まだ新しい焦げ跡があった。何日前だったか、ここで火を焚いた。空のものを、全て燃やしてしまうために。
兄貴が、俺が帰ってくるのを待っていた、なんていうもんだから、その提案に反対することなんて出来なかった。他の兄弟たちも、反論なんてないようだった。
空はもう居ない。
もう戻ってこない。
「最後、仏間の掃除ね?」
「yes」
「私も手伝う」
そう言ってしずくは立ち上がり、俺の隣に並んだ。どういう風の吹き回しだ、と思いながらバケツを片手に部屋に向かう。
縁側に面した部屋のふすまを開けると、張り替えたばかりだという畳の、い草の良い匂いがした。
「じゃあ、俺が畳掃除するから、しずくは仏壇よろしく」
「任せられた」
しずくは雑巾を持って、仏壇の前に向かう。俺は部屋の押し入れから箒とちりとりを出して、部屋の隅から掃き掃除を始めた。畳の目に沿って箒を動かす。箒の柄が短いから、腰を曲げてかがまないといけない。あんまり長い時間はいやな姿勢だ。
だいたい、この家は俺にはいささか不親切な部分が多い。古い家だから仕方ないけど、意識しないとドアをくぐるときとか、鴨居の下を通るときに、頭をぶつけてしまう。そんなこと気にせずに走り回っていた時期があるのが信じられない。誰にでも子どもの頃はあるからなあ。後は、細かな家具とか。まあ、ほとんどこの家にいなかった俺を基準に考えることなんてないから、これも仕方ない。自分が我慢すれば済むことだ。
一枚分ずつ区切って掃除していって、最後に残るのは、仏壇と机を置いている部分。でも……ここは良いか、と考えて、箒とちりとりを元の場所に戻す。座布団に座ってるしずくも、動きそうになかったし。
しずくの背中に自分の背中をあわせるような形で、畳に正座した。
「……啓介は、大きくなったね」
「190cmだからなー。しずくは、昔から変わらない」
「十六歳で身長止まったもん。ああ……私、寮生だったもんな。あの頃は全然会ってなかったか」
「俺も、よく日本飛び出してたし」
十六歳。この「家」を出て、兄貴のアパートに転がり込んだ年のこと。寝る暇なんかないぐらいバイトで働いて、お金が貯まったら海外旅行するのが目標だった。こんなこと、中学卒業してすぐでよく考えついたと思うし、兄貴も先生も、よく止めなかったもんだと思う。そして、同じ年に「家」を出たしずくは、この県からちょっと離れた全寮制の女子校に、特待生扱いで入学したんだった。
それで、俺は今も似たような生活を繰り返している。しずくはいつの間にか大学に入学して、気がついたら卒業して国家試験もクリアしてて。あーこれでお医者さんか、と思ってたら、法医学者とかいうものになっていた。難しいことは分からないけど、要するに死体相手のお医者さんらしい。何で、と聞くと、意味深に笑うだけで理由は決して口にしなかった。きっと、自分で考えろとでも言いたかったに違いい。今聞いても、同じだろうな。
「空が死んだって、実感ある?」
しずくの問いかけに、俺は首を横に振る。見えてないのは分かってるけど、きっと、しずくは答えが分かってて聞いているに違いない。背中越しに聞こえたため息が、それを証明している。
「私も、ない。死体も見たし、っていうか、解剖したの、私だし。それなのに、何でかね」
「解剖?」
「……そ。状況が不自然だったからね。自力じゃ出られないはずの部屋から一人で出て、鍵のかかってたはずの屋上から飛び降りた、なんて、事故を疑われても仕方がない」
淡々と紡がれる言葉は、きっとほとんどが建前だろう。同じ状況だったら、俺も同じだろう。こんなこと本心から考えるはずがない。だって、空だ。俺たちの大切な弟、人間がどうしても嫌いだった、でも俺たち家族のために生きていた。どうして、空が自分から以外の動機で死ぬだろう。
でも、空が自分で自分を殺せた、ということは。
「——兄貴?」
「やめてよ。私も考えないようにしてるんだ……でも、やっぱりそうだよな。それしか、考えられんよな」
そうだ、ね。実質、空を生かしたのは兄貴だ。はじめは、一番はじめは、多分俺だった。でも、決定打は兄貴だろう。兄貴は空に名前をあげた。兄貴は空に帰る場所を教えた。兄貴は空が楽に呼吸できる場所を作った。そう、まさに……兄貴は、空にとって神様みたいなものだっただろう。いや、それ自体は、俺たちにだって言えることだけど。空ほど、それを絶対視はしていない。
兄貴に言われれば、自分が嫌なことでも、空は自ら実行するだろう。じゃあ、もし兄貴が「もういい」と言ったら?もし、許されたなら、空はどうするだろう。
「……やりきれんなあ」
しずくが、呟いた。全くだ、と心の中で吐き捨てる。どうしようもなさに吐き気がしそうだ。
じゃあ、兄貴はどうして空に許したんだろう。側にいなかった俺には、想像も出来ないけど。側にいたとしたって、何の助けにもならなかったろうけど。
ただ、間違いないのは、空にそれを許したとしても、兄貴は、空に生きていて欲しかっただろうということ。空を思ってじゃなくて、自分のために、家族のより大きな幸福のために。そんなエゴを押し通せないほど、空は……もう、疲れ切っていたのかな。本当に、やりきれない。
「私にとって、死体は尊重すべきもので、大切なペイシェントだ」
「うん。死体相手のお医者さんだ、って言ってたもんな」
「自分でも、驚いたのは」
そこで、しずくが唐突に言葉を切る。息を深く吸って、ゆっくり吐く音がする。若干、震えているのは気のせいだろうか。いや、きっと気のせいじゃない。しずくは、涙を堪えている。
「空でさえ、まったく同じだったことだ。他とまったく同じ、冷たくかたくなって、もう言葉も発しない……ただのモノに、思えたことだ。なあ、啓介。死ぬことは簡単すぎて、死が平等なのを、それを自分が不文律にしていることを、こんなに恨んだのは、私は、初めてだよ」
一気に言ったしずくの声は、全く震えていなかった。淡々と、しずしずと、感情を吐露する言葉は、逆に真実味を帯びていた。——きっと、しずくは空の亡骸の前で、泣きたかったのだ。
しずくの感情にあてられたのか、やけに速くなっている鼓動を、深呼吸で静める。拳をゆっくり握って開いて、なるべく遠くの空を見上げた。まだ、冬の空だ。
「頑張って、空の代わりを務めてるけど」
空を見上げながら、俺は口を開く。後ろのしずくが、びくっと身じろぎしたのが分かった。
「それでようやく、ああ、空は居ないんだって、思えた。でも、それだけなんだよな。こうしてたって、空が居ないことは分かるけど、空がもう戻ってこないことは、分からない……」
喪の儀式に参加していないから? 棺に入った真っ白な空をみていないから? 白煙の下で空の燃え残りを待つことも、なかったからだろうか。
あの、人が嫌いなくせに人懐っこく笑う弟は、今はこの家にいない。でも、俺が食事を作っているときに、勝手口からひょっこり顔を出すんじゃないかと。掃除をしている最中に、後ろから肩をたたくんじゃないかと。そんなことを、まだ考えてしまう。……起こりっこないと、理解できていないんだ。
いつになれば俺は、身を切るような痛みを得られるだろう。
「空が死んだなんて、嘘みたいだ」
それは、願望。
「……そうだね」
切に刹那に、願うこと。
叶わないと分かっていたとて、願わずにはいられないこと。
お前の帰る場所はここにあるよ、お前の生きる場所はここにあるよ。戻ってきたなら、俺はいつだってこの場所を、明け渡すから。だから、だから。戻ってきてくれないか、なんて、考えるだけ無駄だけど。
——無駄なら、考える必要はない、のになあ。
俺は立ち上がり、伸びをした。背後のしずくは、動く気配がない。別にもたれかかられていたわけじゃないしな。じっとしたままの背中に、声をかけた。
「昼飯どうしましょ」
「……私が作るよ」
「じゃあ、待ってる」
俺が言うと、しずくはこちらを見上げて、にこりと笑った。やっぱり涙を堪えていたらしい。目が潤んで、綺麗だった。
立ち上がり、台所に向かうしずくを視線で見送ってから、俺は仏壇の前に正座する。線香は上げずに、鐘を鳴らすだけで、手を合わせた。念仏も唱えないし、お題目を頭の中で反復することもしない。ただ、手を合わせるだけだ。無宗教だったのは、先生も同じ。だから構わないだろう。
昔は、喪の儀式全般に意味を見いだせなかった。最近は少しずつ、その認識が変わってきているのを感じる。きっと、あちこちで、色々な「死」の形を、目の当たりにしてきたせいだ。節目節目の儀式は、生者の中の「死」をちゃんと昇華するために、行われている。そう、考えるようになった。
しずくが置きっぱなしだった雑巾をもって、立ち上がる。廊下に出て、バケツを持ち上げて、もう一度中庭に降りた。見上げた空だけじゃなく、吹く風もやっぱりまだ冬のもので、からからに乾ききって、痛いくらいだった。
チャイムが鳴ったので、玄関扉の鍵を開けに行く。着流しにもこもこのスリッパという、なかなかミスマッチな組み合わせだ。温かいんだから仕方がない。
昔ながらの引き戸の昔ながらの簡素な鍵をあけると、すぐさま戸がスライドした。入ってくるのは、全身黒づくめでオールバックに眼鏡、家にいるときとは全く違う格好の、兄貴だ。仕事場では流石にスーツで、それにあわせての髪型と眼鏡らしい。まあ確かに、はまっている。よく似合っている。
「お帰り、兄貴」
「ただいま。……飯は」
「台所に置いてるから、適当に温めて食べて。俺は流石にもう寝るよー」
「分かった」
しゃがんで靴を脱ぎながら、兄貴は頷く。よし、伝えるべきことは伝えた。俺ももう寝よう……だってもう、日付変わる直前だ。こんな時間まで起きててまだ元気なのなんて、亜子ぐらいのもんだ、きっと。しかも亜子は昼間に寝てるしな……。
伸びをしていると思わずあくびが出て、それがまた「自分は眠いんだ」ということを意識させ、眠気がいっそう強くなる。早く、自分の部屋の暖かい布団に潜り込みたい。そう考えてまた出そうになるあくびを、かみ殺す。兄貴に、お休みなさい、と声をかけた。靴を脱ぎ終えていた兄貴は、ああ、と短く応じた。
眠たい目をこすりながら、階段の方へ歩く。その後ろを兄貴がついてくるのは、階段と台所が、玄関から見て同じ方向にあるから。ただ、階段の方が台所より手前にある。
俺は、階段の前で一度立ち止まり、兄貴の方を見た。兄貴も、ぴたりと足を止める。
「……お休み、兄貴」
「お休み。……今日も、ありがとう」
微笑みながら兄貴が言うから、俺も笑いかえした。そして、兄貴に背を向けて、階段をのぼる。兄貴もすぐに歩き始めたようで、背後で足音と、それに続いて台所の戸を引く音がした。
ありがとう、なんて面と向かって言われると、なかなか気恥ずかしい。兄貴はもしかして、毎日空に言ってたんだろうか。……っていうか、空は毎日ちゃんと兄貴の帰りを待っていたんだろうか。もしそうなら、本当にすごいと、尊敬せざるを得ない。俺には無理。眠たくなったら眠りたいもの。いつまでも待つなんていう根気はない。
明かりのついたままの自分の部屋に入って、すぐに明かりを豆電球にする。薄明るい中を静かに進んで、中央に敷いたもふもふの布団の中に、潜り込んだ。温かい布団って、本当に安心する。こうやって、安らいで眠れる場所があるってのは、本当に幸せだと思う。……時々、旅してるだけの俺ですら、それがままならない場所も、あったから。
目を閉じて、今日一日を振り返る。今日も、いつも通りの平和な日だった。居なかった人間がひょっこり帰ってくる—俺がいつもするみたいに—なんていう、劇的な事件は、今日も起こらなかった。きっと、もうずっと起こらないに違いない。俺がまた旅に出ない限り。
でも、もしかしたら明日は。そんな期待を抱いてしまう自分に、嫌な笑いが漏れた。起こりっこないって、いい加減理解しなくちゃ、いけないのに、それなのに。
一度、寝返りを打つ。目を閉じた真っ暗闇に、弟の笑顔がちらついて、消えない。
……お休みなさい、せめて、良い夢を。
それじゃ、また明日。
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