エッセー「楽に寄す」

 この春、久しぶりに生家に帰った。

 僕は、実際に僕と会ったことのある相手や、コンサートやライブを聴きにきた人には知れていることと思うが、西の方の出身だ。そのことは、いくら取り繕っても、ふとしたときの言葉ですぐに分かってしまうらしい。

 ただ、一口に関西弁と言うのにも実際は色々と種類があって、そのごちゃごちゃとした中で細々とした争いが起こっていたりする。僕はその中のどれかひとつにはっきりと属しているというのではなく、あちらのもこちらのも取り入れた、所謂ハイブリッドなところに属している。それがもしかすると、「関西弁」と人が言うときにイメージするのと、一番近いのかもしれないが。

 なぜ僕がそのような言葉を使うにいたったかといえば、偏に、父親が転勤族であったためであろう。転勤族といっても関西一円の中のみだったから、地方をまたいで色々なところへ行ったことのある人たちからすれば、僕の体験談なんて全然、同類のそれじゃなかったりするだろうが、生まれて二年は箕面、次の四年は舞鶴、小学校の三年生の途中までが姫路にいて、次へ和歌山の加太に移ったのだから、それなりには厄介を経験したと自分では思うのだ。僕が色々なところの言葉を吸収したのはその頃、小学生までだったかと思う。進学して、中学生になってからは、母親が、主に僕の学業面でのことを心配して、父親だけが単身赴任であちこちを飛び回る、ということになったので。

 この、中学生になってから移り住んだ家、というのが僕の生家であって、今では両親がふたりきりで暮らしている。場所は、兵庫県の神戸市の東。海原を臨む山の斜面に立つ、こぢんまりとした洋館風の、中古の一軒家。小さいながらも出窓や、屋根裏部屋があって、はじめて行ったときにはそれらのしかけに俄然、うれしくなったのを覚えている。

 というのに、僕がそこへ暮らすようになって一番はじめに覚えたのは、家の一階の、海を臨む側の部屋へ置いてあった、グランドピアノを弾くことだった。おそらく普通ではないことだと思うのだが、僕が移り住んだその家には、どんな理由でか前の住人が置いていった、グランドピアノがあったのである。

 狭い六角形の部屋の大半を占めて置かれていた黒いグランドピアノを一番はじめに見つけたとき、自分が何を感じ、考えたのか、僕は既に覚えていない。覚えていないが、気が付いたときには、何をさておいてもピアノを弾くことが一番になっていたのだから、きっと、性に合っていたのだろう。そうでなければ、長じて、この年なってまで弾き続けてはいないと思う。ましてや、生業にしようだなんて、少なくとも僕には、決心の付けようがなかったと思うのだ。


 僕がピアノを弾き、音楽に向き会い続けている理由のほとんどは、多分そういうことだ。気が付いたら、どうしようもなくなっていた。それなしで居ることが考えられなくなっていた。そういう「どうしようもなさ」は、ある人に言わせれば「依存症」のそれと同じだそうだ。コントロールが出来ない欲求を抱える病気と同じだと言うのである。

 なるほど、そう言われればそうと、頷くしか僕にはあり得ない。才能がどうとか、努力の必要がとか、そんなことよりももっと前の話だ。いっそある種の惰性と言ってしまった方が、実際に近いのかもしれない。僕はピアノという楽器からも、曲を作るという行いからも、音楽という得体の知れない巨大な偶像からも、自由にはなれそうもない。


 そんな僕でも、ピアノが弾けなくなったことがある。なんとか片手で足りるぐらいだが、そういうことがある。このたび生家に帰って、家の南側の、仄明るい六角形の部屋の扉を開けて、そうであったときのことを思い出した。


 僕の生家のグランドピアノの蓋には、たくさんの傷が付いている。割れたガラスを浴びたためについた、無数のひっかき傷。土地の名前を出しているのだから言うまでもないことかもしれないが、あの冬の、地震でついたものだ。

 地震の前の日の夕方、僕は例のごとくピアノを弾いていた。当然のように音大への進学を考えていた僕にとって、ピアノを弾くことは日課以上の何かだった。暖房はなく、電気ストーブだけで辛うじて暖められた部屋の床に丸まって眠ってしまうことも度々で、その日も丁度、そうだった。練習を終えた心地よい気だるさに任せて、僕は床にへたり込み、目を閉じて、眠ってしまっていた。そして、地響きで目を覚ました。地面が低く唸って、小刻みに、次いで大きく長く揺れた。

 収まるどころか酷くなっていく揺れに、僕は頭を抱えて、ピアノの下から動けずにうずくまっていた。恐ろしく大きな、なにもかもがしっちゃかめっちゃかにひっくり返されていく音が聞こえた。食器棚が、冷蔵庫が、電子レンジと炊飯器の棚が、倒れて床に打ち付けられる音。食器が床に落ちて、粉々に砕け散る音。それから、すぐ近くでガラスの割れる音。そのときはとてもひとつひとつを認識することなど出来なくて、今から思い起こせばそれらが混じり合っていたとなんとか言えるけれども、地響きと一緒に通り過ぎていった大きな音に、僕は気付けば震えていた。

 先ほどまでの喧騒が嘘のように静まりかえったのを聞きながら、僕は恐る恐るピアノの下から這い出した。真冬の早朝のことだったからまだ外は暗く、朝日の気配すら感じさせなかった。それでも、何故だろうか、床の上の細かなガラスの破片がきら、きらと光っているのはよく見えた。それを踏まないように床へ手をつくのが難しいほど、部屋の床には満遍なく、砕け散ったガラスが散らばっていた。

 仕方がなく、僕はピアノの脚を持ちながらその場へ立ち上がったのだけど、思った通り、そこにあるはずの窓のガラスが、割れていた。砕け散っていた。冷たい風が直接、部屋の中を吹き抜けていた。潮のにおいは不思議と感じなかったように思う。海はあんなにも暗く、向こう側で波打っていたのに。風が冷たくて凍えそうだったので、僕は自分の肩を抱いていた。ふと視線をやったグランドピアノの蓋に、白いひっかき傷が、数え上げるにはあんまりにもたくさんついていた。

 それから、僕はピアノが弾けなくなった。本当にはたりと、弾けなくなった。家の中の整理がつかなかったとか、街が大変であったとか、そういった事情をまるっきり抜きにしても、僕はすっかりピアノを弾かなくなっていったし、それはピアノが弾けなくなったからだった。そのことには色々と理由がつけられるのだと思う。ピアノが傷ついたことによって僕自身も傷ついただとか、地震による環境の変化が及ぼしたストレスだとか。そのどれであっても恐らく他の誰かを喜ばすことが出来ると思うのだが、本当に正しいことを見つけるのは難しいような気がする。

 それに、あのときの自分がなにを感じ考えていたのかも、その正確なところを今、想起するのは困難で、ただ、ひとつ、確実と思われるのは、「ほっとしていた」ということだ。僕は自分がピアノを弾けなくなったことに、ほっとしていた。鍵盤に向かい合って形のつかめない音を捕らえようとする行いが出来なくなっていた自分自身に、ほっとしていた。

 そのくせして、自分自身を音楽以外のことをするようには仕向けなくって、ピアノを弾けないまま、僕は夏を迎えることになる。


 その夏の話というのもなかなか、短いあいだであったのに短くは語り尽くせないようなことではあるのだが、それはまたの機会にしようと思う。僕がまたピアノを弾けるようになったという、まったく別な話であるわけだから。


 ただ、その夏のことをも含めた色々を経ての結果を見てみれば、僕はまたピアノを弾いているのだし、音楽を生業にしている。結局のところ、僕にはそれしかしようがなかった、仕方がなかったのだが、時折、考えないわけではない。ピアノが弾けないまま生き続ける自分、というのを。しかしその想像は何時も、どうにも現実味を欠いていて、結局のところ僕は、どれだけの回り道をしても、迷子になっても、音楽をして生きるというこの場所へ行き着かざるを得なかったのだろうなあと、思う。


 それを踏まえて今回のアルバムの音づくりを振り返れば、ここに込められているのはそんな僕の業だ。音へする以外に表し方を知らない、僕のエゴだ、あがきだ。——いや、いつだって僕の書く音はそうなのだ。

 だから、許してほしい。この「requiem」が、ただひとりのために書かれたものであることを。この曲はいつまでも、ただひとりに向けて、演奏されることを。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る