式日を待つ

一.

 古谷立花(ふるやりっか)が同居人と暮らす1LDKのマンションのさして広くもない居間の西側の壁には、大きなカレンダーが掛かっている。学生が持ち歩くのにごくごく一般的なサイズのクリアファイルを四つ集めた大きさの紙を縦長に置いたときの、横の幅めいっぱいの正方形を区切って、一月分のカレンダーが印刷されている。紙の上部の大きな余白には、「11月 November」というサンセリフ体の活字が中央に大きく印刷されていて、その両脇には、前後の月のカレンダーがこぢんまりとおさまっているのだった。カレンダーはもとから日焼けしたような黄色味がかった白色をしていて、それと違和感がないような少しくすんだ青色と赤色が、土曜日や祝日の表示に使われている。月曜日で始まって日曜日で終わる並びのカレンダーの先頭の列に赤色がはみ出しているのは、今月は二週分だった。そのうちの一つ、くすんだ赤色で印刷された「24」という日付には、鮮やかな赤色でもって何重にも丸印がつけられている。それと同じ色で、「1」から「3」までの数字には、思い切りの良いバツ印がつけられていた。

 風呂上がりの濡れた髪をバスタオルで拭きながら、立花はカレンダーの前に立つ。短い髪から充分に水気を取るのにそう時間はかからなくて、濡れて重たくなったバスタオルを裸の肩へとかけてから、ジャージのポケットへ放り込んだ赤い油性ペンを取り出した。大学の生協で九十七円で売っているこの油性ペンは以外と使い勝手が良く、主に、研究室の冷蔵庫へ自分の食糧を放り込む前に記名をするために広まっている。結露したプラスチックの表面にも、このペンは文字が書きやすい。その使い勝手で選んだのはもちろんだが、立花にとって重要なのは、生協に行けば九十七円ぽっちでいつでもこのペンが手に入るということだった。これならば、何度彼の同居人がペンをゴミ箱へ放り込んで素知らぬふりをしたところで、買い直してきて見せつければ良いだけであるし、そうするのに懐もあまり痛まない。けれども、ここのところ毎日、ペンの不法投棄が続いているから、そろそろ原因の方をどうにかした方が良いのだろうなと、立花も考え始めたところである。

「消しますからね、薄明(はくめい)さん」

 赤い油性ペンを手の中でまわしながら、立花は後ろを振り向いた。ふたり掛けのソファの上で拗ねた子どものように膝を抱えて座る同居人に呼びかけてみても、彼が立花の方を振り向く様子はない。濡れた髪もそのままに、暗いテレビの画面を見つめている、そういう首の角度である。これであの画面に何かが見えているなんて言いだしたら、いよいよ、ミイラ取りがミイラになった、この人を病院まで連れて行かなければならない。起こり得ないことを考えながら、立花はため息をついて、体ごとソファの方を振り向いた。そのまま静かに歩を進めて、同居人の真後ろへと気配を殺して立ち止まる。

「ねえ、薄明さん」

 真上から覆い被さるように同居人の顔をのぞき込めば、彼は驚いたのか、大きく肩を跳ねさせた。目が大きく見開かれて、瞳孔も開いている。勢い良く息を吸いこんで、彼の喉が鳴るのも聞こえる。そこまでを間近で観察してから、立花は倒していた上体を起こした。同居人がすぐさま自分の方を振り向くことが、分かっていたからだった。

「驚かすんじゃねえよ」

「俺はさっきも呼びました、薄明さんが返事しないから」

「沈黙は肯定」

「じゃあ、カレンダーに、消し込みしますね」

 堂々と同居人が言い切ったので、即座に立花も言い返すのだが、十二分に間をとった後、その返事代わり、今にも泣き出しそうなしかめ面をつくって、彼は頷いた。大の大人がみっともない、なんて立花には考えることは出来なかった。彼は立花よりも年上だったけれども、色んな部分で、立花よりもずっと子どもだった。

 立花は必要以上に力強く赤いペンのキャップを外して、そのペン先をカレンダーの紙面に押しつけ、ペン先の繊維と紙が擦れるあまり心地良くない音をさせながら、「4」という数字の上に、まずは一本斜めの線を引いた。それに直角に交差するように、同じ長さの線を引いていく。やはりあまり心地良くない音を聞きながら、立花は同居人の目が自分の手の動きを追っていることを、確かめるまでもなく知っていた。だからなるべくゆっくりと、線と線とを交差させて、ペン先を紙から離してペンのキャップを閉めるときにも、はじめよりも数倍時間をかけてその動作を行った。

 ペンのキャップを閉めてしまってから、立花がソファの方を振り向けば、同居人はもう、立花の手元を見てはいなかった。彼のまなざしは立花を通り過ぎて、そのすぐ後ろ、カレンダーの上の数字へ向けられている。きっと、今までにバツがついたところから丸がついているところまでの日数を数えているんだろうなと考えると、胸の底が焼け焦げているような、苦い気持ちが湧き起こった。それを一緒におさめてしまうよう、赤いペンを再びジャージへのポケットへとしまって、立花はゆっくりと、ソファの方へと歩を進めた。未だ自分を見ない同居人の前を横切って、肩が触れ合う距離で隣に座る。クッションと一緒にソファの座面が沈み込んだので、立花の同居人は、ようやく彼の方を向いた。

「寒くねえの、お前」

「家の中ですから、さほど。薄明さんこそ、髪、ちゃんと拭かないと風邪を引きますよ」

「そうだな」

 言葉では素直に答えながら、立花の同居人は、東(あずま)薄明という男は、またもぼんやりとしたまなざしを暗いままのテレビの画面へ向けるだけで、黒い髪は当然濡れたまま、雫がぽたりぽたりと落ちて、カットソーへ小さい染みを作る。立花はそれを見て嘆息し、自分の肩にかけてあったバスタオルをひょいと、薄明の頭にかぶせて、乱暴な手つきで濡れた髪から水分を拭き取っていく。痛い、痛いと騒ぐ抗議の声は、聞こえないことにしておいた。自分の声をさっき散々無視したのだから、これでお互い様だと、口にしないで考えるだけ考えた。

「おい、タチバナ」

「……俺の名前はそんな読み方じゃありませんし」

「なんだよ、拗ねたのか」

 薄明がそう言うので、立花はタオルごしに薄明の髪を大きく梳くように動かしていた手を止めた。拗ねたと、そう薄明に表現されてしまえば、立花の胸の中で焦げ付いていた嫌にざわめいた気持ちは、すとんとその言葉の中へと落ちていった。拗ねている。薄明が、カレンダーの数字にばかり気をとられて、他のことを蔑ろにしている様を、もうどれほど続いたか分からなくなりそうな程、長い間、毎日見ているような気がする。同じ様を今日もまた見せつけられて、確かに立花は拗ねていた。けれどもそれを目の前の、自分に髪を拭かれている年上の同居人へ素直に伝えることには、どうしたって悔しさが勝ったので、やっぱり、立花は薄明の声を無視しておくことにした。

「タチバナ」

 もう一度名前を呼ばれても、立花はそれに返事をすることも、その目をのぞき込むこともせずに、バスタオルで薄明の髪を拭いていた。立花の指先にかぶさるタオルの生地は、水を吸って、重たく冷たくなっている。男のふたり暮らしのアパートにはドライヤーなぞないので、だいたい水分をとれば後は放置して、乾くのを待つしかない。立花は満足して息を吐き、タオルを薄明の頭の上から取り去った。そして再び肩へとタオルをかけると、その湿った部分の冷たさに、背中がぞわりと粟立つ。体の火照りがとれたことを同時に自覚して、服を着なければいけないと立ち上がろうとする立花の手首を、薄明の手がとっさに握った。

「寒いんじゃねえか、やっぱり」

 数瞬前のやりとりを振り向くような言葉は、普段と変わらぬまなざしともに投げかけられて、なんの異変もてらいも見せない薄明に、立花は毒気を抜かれた。むしろ毒の一字が要らぬ様子でため息をつくと、浮かせかけていた腰を再びおろす。立花の体重分、ソファの座面がしっかりと沈み込んでから薄明が手首を離すので、立花はもう一度、ため息を吐いた。

「そう見えるんなら服、取りに行かせてください?」

「寒くもなるよな、もう十一月なんだし、小春日和もそうそうない。たとえ昼間がその陽気でも、日が沈んだ後じゃ関係ないし、本当に寒くなった」

「だから、何ですかそれが」

「服を買いに行きたい」

 薄明が短く言い切った内容へ、立花は瞬きして息を詰めた。服、を買いに。それこそ何でもないような、よくあるような話題であるのに、立花がそんな類のことを薄明から聞くのはこれがはじめてのことだった。そもそもが東薄明という男は生活そのものに関心が薄い人間で、ひどいときには生物として最低限の生命維持活動をさえ平気で放棄することがあるというのに、衣と住にまで手が回るはずがないのである。

 はく、とようやく息を吸って、一杯になった肺からゆっくりと空気を吐き出し、立花は薄明の方へ向き直る。薄明は立花の密かなためらいを知らぬよう、何も特別なことなど言っていない、という態度で、首を傾ぐ。

「そう驚かなくてもいいだろ」

「だって、はじめて聞いた。薄明さんから、こんなこと」

 今度は、薄明が目を瞬かせて、息を詰める番だった。大きくみはった目が普段通りの大きさへ戻るのと一緒にゆっくり息が吐き出され、薄明の視線は立花からそらされる。その黒い視線の向かう先は、さっき立花が赤い印をつけたカレンダーだ。

「……普段着るのは、どうだっていいけど」

 薄明の視線は殊更ゆっくりとカレンダーをなぞり、それが日数を数えているように、立花には思えてならなかった。涙を流したくなるような、追い詰められた悲しさが、立花の胸の中を塗りつぶしていく。表情にまで悲しさを塗り込めないようにと、立花は唇の内側の肉をきつく噛む。肉の繊維が断ち切れる鈍い感触の後、わずかに鉄の味がして、確かに傷が残ったのが分かる。立花が小さく顔をしかめたのにも、薄明は気付く様子はなかった。

「……そういう場所に着ていくなら、スーツでしょ」

「うん。どっかやった。捨てたかも」

「あんた、どんだけ馬鹿なんだ」

 立花が無理に笑顔を作って言うと、薄明はカレンダーに向けていた視線を立花へと向けた。何の気なしに向けられた風の、覇気のないまなざしは立花には随分と見慣れたものだった。ただ、彼の両手が伸びてきて、立花の肩にかかったタオルを頭の上へと引っ張り上げて、さっき立花がしたのをそのまま仕返すように、タオルの上から髪をかき回したので、立花は驚いて目を見開いた。見えるのは白いタオルの生地ばかりで、薄明がどんな表情でこんなことをしているのか、立花には分からない。驚きで跳ね上がった鼓動の速さが、変わらず速いままなのを頭の内側で聞きながら、ソファの座面に軽く爪を立てる。何を見ているのか立花には分からないが、薄明は小さく可笑しそうに笑った。

「お前が知ってるぐらいには、馬鹿だよ」

 まるで宥めるような調子で、薄明は立花の髪をタオルの上からかき回す。タオルの厚い布越しの手のひらの自分に触れてくる調子が、そんな風にひどく優しかったので、立花はもう一度唇の内側の肉を噛んだ。鉄の味が口の中へ広がっていく。先ほどよりもきつい、肉が押しつぶされる痛みにひとり顔をしかめながら、立花はぼうっと考えた。この白い布の向こうに居る人がどんな表情をしているかということと、どんな表情をしているにせよ、その原因になったに違いない居間の壁掛けカレンダーのことを。

 古谷立花はひとりの男と、1LDKの部屋に暮らしている。その部屋のさして広くもない居間の西の壁には、カレンダーが掛けられている。日焼けしたような黄色味がかった白色のカレンダーには、立花が生協で買ってくる赤色の油性ペンで、「24」の日付に何重にも丸がつけられている。その丸の内側、「24」の日付の下には、カレンダーの目の前まで近づかないと見えないぐらいの小さな文字で「亜子 結婚式」と書き込みがされている。その日まで残された日を数えるように、終わった日の上には赤いバツ印がつけられている。今日、「4」の日付へバツ印をつけたのは立花だった。その前の日も、前の前の日も、バツ印をつけたのは立花だった。けれども、はじめにこうして日を数えることを言い始めたのは、薄明の方ではなかっただろうか。

  なんで俺がこんなことをしているんだろうと考えて、立花はすんと鼻をすすった。タオルはまだ取り払われないし、薄明の手は立花の頭を宥めるように撫でている。

二.

 午前最後の講義の時間ともなれば、研究棟であっても流石に廊下に人影は少ない。センサー式の蛍光灯が、立花が廊下へ踏み入った一呼吸後になって点くのが良い証拠だった。しんと静かな廊下に自分の足音が響くのを聞いて、立花はどこか居心地の悪さを覚える。静かであることが決まりきって正しいとでも言わんばかりの、蛍光灯の明かりがまっすぐ続く廊下の、秩序を自分が乱しているような気がするからだった。

 白いドアの横のネームプレートを見ながら、立花は廊下を進む。ネームプレートの下には部屋の所属者が在室か外出かを示すための名表が貼ってあるところがほとんどだった。その表自体は立花にも覚えがあり、彼自身が所属する研究室でも似たようなシステムが採用されていて、今、立花の居場所を示すマグネットは「外出」になっているはずだった。今、会いに行くと中である相手に携帯電話で短いメールを送ってから、ドアの横の赤いマグネットを立花自身で動かして、自身の所属する研究室を離れたのだった。

 実際の部屋と、組織と、「研究室に所属する」と言うときの二重の意味がすこし可笑しくて、立花は口元に笑みを浮かべる。そう思って部屋のプレートの下の名表を眺めると、なるほど、部屋ごとにそれなりの個性があって、面白かった。立花が静かに立ち止まったドアの横の名表は、拍子抜けするほどシンプルなもので、一番左の列へ個々の名前が、一番上の行に「在室」「講義」といったそれぞれ状況が記されている。二番目より下の列には列にひとつずつマグネットが張りつけられていて、各々の場所へと動かされている。その列を一番右端までたどって、上へ視線をずらすと、一番上の行には「在室(宿泊)」と書いてあって、これがこの研究室の特徴といえばそうなのだろうと思った。

 立花は一番左の列から目当ての名前を探す。探すほどの時間もなく、上から三番目に「三室崎(みむろざき)」とその名前は記されていた。視線を右へずらし、黒いマグネットは、「講義」の列へ動かされている。この時間は講義はないと言っていたはずだけど、と首を捻りながら、立花はドアをノックした。はーい、と間延びした声が聞こえたので、それが誰かはともかく、在室者がいることは確認できた。せめて在室者が見知った顔であることを祈りながら、立花はドアを押し開ける。

「あれ、古谷(ふるや)じゃん」

 ドアを後ろ手で閉めながら、靴を脱ごうと顔を下へ向けていたところに、聞き覚えのある声がそう言う。脱いだ靴を揃えもせずに灰色のカーペットを踏んで、顔を上げる。入り口すぐのデスクに、確かに見知った顔が腰かけている。短髪に丸い眼鏡で、長袖のカッターシャツの上からでも分かるほど、やたらとがたいの良い男だ。

「おはよ、笹沼」

「おー、はよー。俺は今三十六時だけどな」

「なんだ、徹夜か?」

「写真撮ろうと思ったらどーしても」

 キャスター付きの椅子に腰かけている笹沼は、立花と挨拶を交わすとすぐにパソコンの画面へと向き直る。眼鏡を通して見る彼の目元には、立花が一見してすぐに分かる程濃い隈が出来ている。立花が彼の後ろへ近付いて机の上をのぞき込むと、床に置かれているパソコンの本体にはデジタルカメラがケーブルで接続されていて、机上のモニタには満天の星空を映した写真が表示されている。笹沼がしているのはその編集作業らしかった。立花には意味の預かり知れないごちゃごちゃとしたウインドウが、写真の周りに散らばっている。

「……宇宙物理には写真の技術も要るんだな」

「馬鹿。趣味だよ、趣味。まあ、星河(ほしかわ)先生も好きだけど……ムロ先輩は撮るのはからっきしだし」

 かち、かちとマウスをクリックしてひとつずつウインドウを消去して、写真の画面も消してしまってから、笹沼は椅子に腰かけたまま伸びをする。組んだ手を天井に向けて突き出すようにして両腕を頭の上へ伸ばしたまま、数度、首を左右に曲げて目を瞑り、組んでいた手を離した。腕が勢い良く降ろされたのと同時に立ち上がると、部屋の入り口の方へと歩き出す。封筒の積み上げられた長机の横を通り過ぎて、食器棚代わりに使われているらしいアルミ製の棚の前に立つと、笹沼は立花を振り返った。

「珈琲飲むか?」

「いや、いい。ちょっと話しに来ただけだし」

 立花が首を振って答えると、笹沼は「ふうん」とだけ気のない返事をして、棚のガラス戸を開けた。相当古いのか、何度か大きな音を立てて引っかかりながら、ガラス戸が開く。その二段目に置かれている同じ形で色違いのマグカップの中から、笹沼は一番手前のものを選び取った。次いで、棚の一段目の奥から、インスタントコーヒーの瓶を取り出す。器用に片手で蓋を開き、空いた瓶の口から直接、マグカップへコーヒーの粉を振り入れようとする。笹沼が手首を動かすと、ざっという音とともに、傍目から見ていても多すぎると思われる量の粉がマグカップの中へ入った。笹沼は顔をしかめてマグカップの底を見つめたが、やがて諦めたようにため息をついて、インスタントコーヒーの瓶の蓋を閉めた。その瓶を元の場所へ戻してから、がたつくガラス戸を閉める。

「ムロ先輩と? それ、ちょっとで済むのかな」

 マグカップを長机へ置くのに振り向きざま、笹沼が立花を見てそう言う。言われたことに、立花も心当たりがあったので、苦笑いを返して、笹沼の机の後ろの本棚の横板へともたれかかる。笹沼はそれ以上を追及する気はないようで、洗面台の横の電気ケトルへと手を伸ばしている。そのことへ安堵しながら、立花は、笹沼が「ムロ先輩」と呼ぶ人のことを考えようとした。

「あー、ムロ先輩って呼べるのも、あと少しか」

 しかし、立花の思考を邪魔するように、笹沼がそう口にする。笹沼からすればまったく思いついたことを適当に言っているだけなのだろうけれども、立花にとっては素通りの出来ない話だった。部屋のカレンダーに念入りにつけられた赤い丸印と、笹沼の言ったことは同じことを示している。

「……別に三室崎のままで良いって、言いそうだけど」

 針を刺したように微かに鋭く痛む胸を誤魔化すために、敢えて立花は笹沼のほんの独り言に言い返す。頭痛を誤魔化すために自分の手の甲を抓るような行いは、きっと他人から見れば滑稽なのだろうなと頭の隅で考えた。考えたことの可笑しさを全く表情へ出さないで組んだ腕を組み替えていると、笹沼は「それもそうだ」と笑って、長机のそばに放り出されてあるパイプ椅子へと腰かけた。

「まず、ムロ先輩が結婚するってだけで信じられなかったのに」

「それは、三室崎さんに失礼じゃないか。独り身には誰だって可能性はある話だろ」

「確率がさ、低いと思うじゃん。だってムロ先輩だ」

「その「だって」が失礼」

「いや、どうかな。案外本当に、本人が一番そう思ってるかも」

「案外、っていうか」

 その後に続ける言葉を見失って、立花はつと黙り込む。自分が考えていることを思い表すのにはどういう表現を使ったらいいかが、途端に分からなくなったのだ。脳裏には、「三室崎」という人の姿が浮かんでいる。けれども自分の浮かべているイメージが、本当に現実の「三室崎」に即しているものかどうか途端に不安になって、イメージから結んだ言葉を使うことが躊躇われたのだった。立花の動揺それ自体が、「三室崎」という人が此度起こした行動が、そのイメージとかけ離れていたという何よりの証拠なのかもしれなかった。

「……あ、ムロ先輩からメール」

 パイプ椅子に腰かけて、携帯電話を触っていた笹沼が言う。立花がそちらを見ると、笹沼はがっしりとした背中を丸めて、分厚い手のひらには不似合いの小さなキーボード付きの携帯電話を、両手で操作している。丸い眼鏡の奥の目は、狭い範囲を素早く、左右に行き来していた。

「先輩、イサリさんに捕まったってさ。で、立花にごめんって伝えてくれって」

「メールに?」

「書いてある」

「……出直してくる」

 はあ、とため息をついてもたれかかっていた本棚から背中を離す。笹沼は、「ドンマイ、再チャレンジ」と励ましらしき言葉を立花にかけてから、手のひらの中の携帯電話に再び視線を落とした。メールの返事を打っているのだろう、しっかりと太い指が、幅の狭いキーボードの上を動いている。電気ケトルの湯はまだ沸いていないようだった。コーヒーを頼まなくて良かったと思いながら、立花は脱ぎっぱなしのまま、揃えてもいなかった靴を履いて、ドアノブを掴んだ。


 昼休みに近付くに連れて構内を歩く人の数は増えるし、十二時を告げる鐘が鳴った後となれば人出は一層賑わうばかりだった。食堂の、ガラスの窓の側のカウンター席の一番端の席へ陣取って、頼んだ親子丼が冷めるのを待ちながら、立花は目の前を行き交う学生の群れをぼうっと眺めていた。ゆるく波打った明るい茶髪を一様になびかせながら、四人の女性グループが立花の目の前を横切っていく。彼女らは、ファッション雑誌に載っている服を着て、目元を強調するような化粧をしている。口紅を塗った唇を小さく開いてきゃらきゃらと高い声で笑うのだろう。そこまでを考えてから、「あの人とはずいぶん違う」と、立花は実際の声にも出して結論した。

 立花が脳裏に浮かべる「三室崎」という人は、その通り、今し方立花の目の前を通り過ぎた女性達とは何もかもが違っている。まず、髪は黒色だし、下手をすると立花よりも短く切り揃えられている。切り揃える、という言葉すら不適切で、刈り込まれている、とでも表現した方が適切かもしれないと思われるほど、一般に女性がする「ショートカット」よりも随分と短く、髪を整えている。化粧はしていない。平均的よりやや険があって、はっきりした目元をしているから、化粧をしていなくても目の印象は強烈だ。ただ、その視線の強さを誤魔化すように黒い縁の眼鏡をかけていることが多い。その眼鏡がその人へ「理知的である」という印象を付け加えていることに、本人はまったく頓着していない。自分の顔立ちの印象を薄くする小道具、という意味での眼鏡にしか、興味がないようだった。服にしても、流行廃りを全く知らないようだった。時代遅れのものを着ているという意味でなく、そういったものに左右されないような格好しか、少なくとも立花は、見たことがない。ベージュの綿パンに、ストライプのシャツを合わせて、毛糸のベストかセータを重ね着する。この時期ならば、もっともよく見るのはそんな格好だった。ベストやセーターが少し大きめなのは、胸元や腰回りを誤魔化すためなのだろうと思われた。足元も決まっていて、黒のスニーカーである。スニーカーは男女兼用のデザインのものだ。足が大きいから普通に探すと靴がない、と困っていたのを、立花も覚えている。「三室崎亜子(あこ)」とは、そんな人だった。「生物学的に女性であることは間違いない」と自分で言い、他人にも言わせながら、けれども徹底的に「女性的な記号」を自らの外見から排することに腐心している、立花はそう指摘したことがあるし、三室崎の方も笑って立花の指摘を肯定した。

 今に至るまでの彼女の来歴も、きっと辿れば興味深いものなのだろうと立花も思いはするが、今の関心はそこには向かない。「女性的な記号」を排した彼女の外見は、一見すると「男性」のそれとそう変わらないということが、問題だった。立花と三室崎が並んで立っていたところで、だれも、男女のカップルだとは思わないだろう。薄明と三室崎が、笹沼と三室崎が、と相手を変えて考えてみても、変わらない。背も高く、肩幅も広い。声だって、三室崎のそれは随分と低く、普通に話しているだけなら、高い声の男性と思われるだろう。

「じゃあどうして、俺じゃ駄目なんだろう」

 口に出して呟いたのは、昨日から繰り返し、繰り返し、立花が考えていることだった。どうして自分では駄目だったのだろうと、誰も眠っていない隣の布団の後、空っぽになった衣装ケースを見つけて、優に一時間は呆然と座り込んだ後ようやくまとまって考えついたのが、その問いだった。その問いに思考が着地してようやく、この人が持っていこうと考えるものはこれっぽっちしかなかったのかと、空っぽの衣装ケースの前に座り込みながら、あまりに可笑しくて声を出して笑ってしまった、その虚しさが胸の端に引っかかっている。ふと気を抜くと、その虚しさに心がとらわれて、足元が覚束ないような心地になる。

 今が丁度そうだった。俺じゃ駄目なんだろう、と答えてくれる相手のない問いを仕方なしに自分へ向けた途端、見えているものは全く正常で、聞こえているものもまったくいつもの通りなのに、それを処理する内側の回路が、不安定になってノイズを飛ばす。余計なフィルターをかけられて遠くなった外界は、余計に立花の注意の先を自分の内へ内へと向けさせる。そうしたところでまた同じ問いかけが繰り返されるだけで、言葉の渦に飲まれながらの酩酊感にも似た目眩に、慌てて机に肘をつく。がしゃんとトレイの上にのせたスプーンが鳴って、周囲がちらと立花に視線を寄越す。それらの視線が自分から外れたことが分かったので、遠のいていた外界が戻ってきたどうしようもない安心感に、立花ははあと息を吐いた。

 スプーンを手に取って親子丼をすくう。運ばれてきてすぐのものをそうしたときと違って湯気が見えないので、丁度良い具合に冷めていると判断して、立花はそれをそのまま口へ運んだ。思った通り、熱すぎもせず冷めすぎてもいない、立花には丁度良い温度の白飯と卵と、胸肉を、殊更にゆっくりと噛んで、飲み込む。もう一度、スプーンで親子丼をすくって、口へ運び、ゆっくりと噛んで飲み込む。同じ動作を繰り返すうちに、知らぬ間に跳ね上がっていた鼓動の速さが落ち着いていくのを立花は自覚した。鼓動がゆっくりするのと反比例するように、口の中へ入れたものを咀嚼するのは早くなっていく。味わうことなどするつもりはなかった。元より食事など、倒れないように体力を維持するための儀式めいた動作だ。

 あっという間に空になった丼の中にスプーンを預けて、立花はプラスチックのコップの中の冷水を一気に飲んだ。コップの表面の結露した水滴が熱くなった指先に心地良かったので、しばらく両手でコップを包み込んでいると、ズボンのポケットの中の携帯電話が震える。数秒経っても震えるのが止まらないので、これは電話だと判断して、立花はポケットから自分の黒い携帯電話を取りだした。蓋の上の小さなサブディスプレイに、着信している相手の名前が表示されている。「三室崎亜子」というその表示に一瞬息を詰めた後、唾を飲んで、携帯電話を開き、ボタンを押して耳に押し当てた。

「もしもし、古谷?」

 人混みの中に居るようなざわめきを背景にして、低い声がやや急いた調子で尋ねてくる。自分が約束を反故にしてしまったことに気を遣って、手が空いてすぐに連絡を寄越したのだろう、と想像が出来るから、立花は軽く眉根を寄せるしかなかった。

「ごめんね、今、どこ?」

「学食の……窓際の席にいます。今、食事をとり終わったところで」

「ああ、そう……昼からゼミだっけ。 すぐにつくからちょっと待ってて、ほんとに少ししか時間がとれなくて、申し訳ないけど」

「いえ、大丈夫です、お待ちしてるので」

「じゃあ、また後で」

 急いた三室崎の勢いのまま会話が終わって、電話は切られる。つーつーという電子音が、立花が耳に押し当てた携帯電話から聞こえてきた。30秒もなかった会話時間を画面の上で認めてから、携帯電話を折りたたんで、ポケットへとねじ込んだ。立花の隣の席は、立花がここへ座ってから空いたままだ。三室崎が来て座る場所を確保するために、立花はその席の前に自分のトレイをずらした。

 電話の向こうのざわつきからして、三室崎がいるのは建物の外、今、大勢が行き交っている構内のどこかだと思われた。場所を聞いて「すぐに行く」と言ったのだから、少なくとも三室崎は同じ構内にいるのだろう。博士課程後期の学生の平均的な一日の過ごし方を立花はよく知っているとは言えないが、三室崎や「イサリさん」という人について伝え聞く限りだと、自分と同じかそれ以上に、大学に居る時間自体は長いようだった。それは何も自分の研究だけでなく、TAやRAの仕事のためであったり、あるいは書類仕事のためであったりするらしい。そうして雑事をこなすために構内をあちらこちらへ歩き回っていれば、ひとりやふたりにつかまっても仕方がないのだろう。そう、すんなりと納得できるぐらいには三室崎の送る日々について知っているので、立花は午前の約束が反故になったことへ腹を立てたりはしていない。しかしながら、さっきの一瞬飲み込まれていた、自分ではどうにも御しがたい情動の波から抜け出すためのきっかけになるかもしれない相手へ会えることは、その先に待つはずの喜ばしい結果にも関わらず、立花の胸を無性にざわつかせた。また御しがたい波が荒くなりそうなのを察して、深呼吸を繰り返す。吸って吐く息の流れにだけ注意を向けていると、少しは胸が楽になったような気がした。

「古谷」

 さっき電話で聞いた急いた声が、すぐ後ろから聞こえる。何の同様もしていない風を装って後ろを振り向くと、肩を上下させるほど荒く呼吸をしながら、三室崎が申し訳なさそうな表情でそこに立っていた。額も耳も、首筋も露わになるほど短く切り揃えられた髪と、黒い縁が目立つ眼鏡は、いつもの通り。服装の方もいたって普段と変わりなく、今日は青と白のストライプのシャツの上へ、グレーのカーディガンを羽織っている。片手に抱えているのは授業の資料らしく、プリントの丸められた束が、本に挟まれつぶれている。

「早かったですね」

「本当に、すぐ側に居たんだ。生協でコーヒー買おうとしたら漁(いさり)先輩がね……となり、良い? それとも立って済ませた方が」

「どっちでも」

 立花が言うと、三室崎は「じゃあ」と断りを入れて、立花の隣の椅子を引く。立花がトレイを自分の前へと引き寄せて、空いたスペースに、三室崎は自分の抱えていた資料を置いた。更紙の上部には「基礎物理学」と印字がされている。本の方は洋書で、装飾の入った字体とデザインが相まって、立花にはタイトルが読み取れなかった。ただ、それが天体関係の本であることは、表紙のデザインですぐに分かった。何せ、オリオン座を中心にした夜空の写真が使われているのだから。

「で、薄明がどうかした?」

 立花が何か言う前に、三室崎は真っ先にそう問いかけてくる。立花がどう切り出そうか迷って言葉を詰めていたことを、躊躇なく口にして、首を傾げるでもなくまっすぐに、立花を見つめてくる。先ほど落ち着かせた情動がむくりと鎌首をもたげて、すぐに三室崎の言葉へ答えようと薄く開かれた立花の唇を、ぐいと引き結ばせる。胸がずんと重たくなって心臓が締め付けられる圧迫感に呼吸すら出来なくなりそうな意識を、口の中へじわりと広がる鉄の味が引き留める。知らずに噛みしめていた唇の内側の肉には、癒えない内に繰り返し噛みつかれて、腫れ上がった傷があるに違いなかった。

 舌先で傷口に触れようとしたのを引っ込めて、浅く呼吸をしてから、立花もまたまっすぐに三室崎を見つめ返す。

「居なくなりました、家(うち)から」

 ゆっくりはっきりと伝えた言葉に、三室崎の眼鏡の奥の目が大きく見開かれる。ぱちぱちと瞬きを繰り返す様は、年相応よりどこか幼く見える。けれどもそれ以外にさしたる動揺の色は見せず、三室崎は「居なくなった」と立花の言葉を繰り返した。低い声が自分の言葉を繰り返すのに、立花の胸はまた締め付けられる。三室崎の血色の薄い唇が薄く開かれたので、立花は肩を強ばらせて息を詰めたが、三室崎の唇もまた閉ざされて、彼女は机に頬杖をついた。立花に注意を払うのでもなく、外を見るのでもなく、ただ机の上に視線を落とすように、目を伏せている。とくとくと一定のリズムを刻む自分の鼓動を聞きながら、立花は三室崎のその横顔をじっと見つめた。

 三室崎のこの表情が「憂い」と称されるようなものであるのにも関わらず、彼女の外見からはやはり「女性らしさ」というものだけがごっそりこそげ落ちているように、立花には思えてならないので、果たして本当にそうなのかを確かめるために、頬骨のあたりからついと視線を下げる。シャツの襟からのぞく首筋は白く細いが、それは丸みを帯びた柔らかさとは無縁のもので、神経質な少年のものに近いように思われる。同じように、少年のものを思わせる華奢な肩幅の下、成熟した個体の証でもある、脂肪を詰め込んだ丸い乳房の存在が全くうかがい知れないほど、彼女の胸は平らで、薄く見えた。グレーのカーディガンは曲げられた肘の内側でたるみ、足りなくなった長さの分、腕の長さの八分でシャツに袖口がひっかかっている。柔らかなカフスの先から伸びて頬を支える手のひらは頼りなさげに小さく、けれども指は骨張って細く長かった。やっぱり、どこにもそんな面影はない。そう結論づけて、立花は声にならない声を飲み込み、そっと、トレイの上のプラスチックのコップを手に取った。口をつけて思い切り傾ければ、底にわずかだけ残っていた水がゆっくりと流れて、立花の喉をうるおした。しかしほんの少しだった水は喉のほんの一部しか潤わさず、残りの部分が救いを求めるように擦り合わされる。狭い隙間を息が通って咳になった軽い音へ、三室崎は大げさに肩を跳ねさせて、立花の方を向いた。

「大丈夫?」

 頬を支えていた手を離して、立花のまなざしをのぞき込みながら、三室崎がそう言うのへ「大丈夫に見えるんですか」と答えてしまいそうになるのをこらえて、頷きだけを返す。三室崎は立花の返事を疑っていないのか、「そう」とだけつぶやいて、また、机へ頬杖をついた。曲げられた肘の角度も、広がって頬を支える手のひらと指の形も、立花が咳をする前と寸分違わぬ様子で、立花の脳裏にするりと「形状記憶」という言葉が入り込んでくる。こんなときなのにそんな言葉がひらりとあらわれる自分の思考こそが今度は可笑しくて、立花は口元だけで笑った。三室崎は当然、立花の笑みになど気付かぬ様子で、目を伏せたまま口を閉ざし、静かに何事かを考えているようだった。

 何がこの人をそうさせたのだろう、とその横顔を見つめて立花は思う。「そう」というのへ託す内容はとても一つには決めかねられるが、まずもっては、今は立花ひとりの部屋の、今の壁に掛けられたカレンダーを彩る、赤い何重もの丸の理由、結婚ということだった。研究室を訪ねたときに、笹沼と交わした会話の最後、言葉が続かなくなった混乱の理由だった。どうにも、目の前の彼女とそれは結びつきようがない組み合わせだった。

 三室崎が結婚するということも、その結婚相手のことも、立花は伝え聞いて知っている。立花へそれらを話して聞かせたのは、他でもない薄明なのだったが、もう二ヶ月は前になるだろうはじめのその話題の報告の時には、薄明には何のかげりも見えなかった。むしろ喜ばしそうに三室崎の結婚についてを立花に聞かせていたものだから、立花は、今思えば何重もの意味合いを込めて、安堵していたのだ。カレンダーへ赤い油性ペンでぐるぐると丸を書いていた、どこか幼い後ろ姿を見て、笑っていたのだった。

 それが今、立花はひとりだった。部屋にひとりであるということ以上に、ひとりだった。手を伸ばせば他人へ簡単に手が触れる距離しか許されていないのに、立花はどうしようもなくひとりだった。「どうして、俺じゃ駄目なんだろう」と幾度目になるか分からない問いかけを自分へしながら、立花の脳裏には空っぽになった衣装ケースが思い浮かぶ。無理に体を丸めれば、自分自身だってどうにか入れるんじゃないかと考えた。薄明の携帯電話へはいくらかけても繋がらなかった。そうなれば、立花には三室崎の他に頼れるあてなどなかった。そもそも薄明自身が、立花がいくつものあてを思いつくほど、他人と関わっていないのだとも言えた。

 あの人は逃げたのだと、立花は少なくとも今はそう信じている。自分が感じる胸の痛みと同じものから、或いは全く別のものから、けれども、何かひどく恐ろしいものから、薄明は逃げたのだと、立花はそう信じている。次第に物憂げな表情の増えていった薄明がよくよく眺めていたのは居間の壁のカレンダーだったから、そのひどく恐ろしいものは、やはり三室崎の結婚なのだろうと、立花はそうも信じている。だからといって三室崎を責めることは筋違いであり、故がこそ、立花の唇の内側には傷が増えて、情動は御しがたい。故がこそ、きっと薄明は姿を消した。立花と顔を合わせるなり真っ先に「薄明」と名前を出した、三室崎はもしかすると、薄明がどう動くかをもまた、予想をしていたのかもしれなかった。とすれば、今考えているのは恐らく薄明の行き場所や彼の見つけ方なのであり、そんなことを考えられる三室崎へ、立花の感情はまた大きく傾いだ。自分には出来ないことをいくつも、三室崎はやってみせる。結婚だって、その一つだった。

「——ああ、古谷、時間」

 ふと三室崎が顔をあげてつぶやく。その言うことへ、立花が左腕のシャツの袖口を引っ張り上げて腕時計を見れば、昼休みの終わる二十分前を示していた。立花が授業を受けているのは今居るのとは別のキャンパスなので、すぐに移動をはじめても、授業の開始に間に合うかどうか、どちらとも言い切れない時間だった。

「続きを」

「後で連絡する」

 椅子から立ち上がりながらそう話す。三室崎のまなざしはやはり真っ直ぐに立花をとらえていて、立花は一瞬、自分の考えも感情もすべて、この人に見透かされているんじゃないだろうかと馬鹿げた想像をした。一度そのまなざしと目を合わせて、会釈をする。そうして伏せて、三室崎から逸らすことになった視線が、背中を起こすのと一緒に元の位置へと戻る前に、立花は彼女へ背を向けて、この場所から食堂の出口への最短の経路を考えた。


 離れていても、ふわりと香水の匂いが鼻をくすぐった。

 机を四つ固めた島の斜向かいなのだから、距離にすれば一番離れているはずなのに、それでも、甘ったるい香水の匂いがはっきりと立花には感じられる。自分でこうだから他の人にもさぞきつくこの匂いが感じられるのだろうと思いながら、立花は机の上の資料を読んでいたところから顔をあげて、甘ったるい匂いのもとである、斜向かいに腰かけている年下の女性へと目を向けた。

 明るすぎない茶色に染められた髪はゆるく波打っていて、ゼミの時間だからだろうか、耳の下で一つに結ばれている。化粧は派手すぎず、かといってしないのと何の変わりもないといった様子でもなく、彼女の顔のいくつかのパーツをほどよく際立たせているようだった。二重まぶたと長い睫に縁取られた目がそうであろうし、興奮して上気しているようにも見える頬の紅さがそうであろうと思われた。オフホワイトのセーターへ、膝上の丈のスカートを合わせているのを、彼女が椅子へ腰かける前に立花は見ている。足元は、高いヒールのパンプスを履いていた。昼休みに食堂で会っていた人とは何もかもが異なっている。そして彼女からは、香水の香りがした。

「じゃあ、手元の資料に沿って……前回の続きからはじめさせてもらいます」

 彼女が立花の不躾なまなざしへ気が付くのよりも先に、立花の同級生がそう言った。みなが一斉に、A4サイズの資料の横へ、分厚いハードカバーの本を開く。少し遅れて、立花も周囲と同じように本を開いて、ページをめくった。しおりを挟んであるからすぐに前回の続きからの場所が分かる。ごくごく基本的な、動物の細胞分裂の仕組みについて、詳細な図を挟みながら英語で記されているページだった。

 ページの内容を訳したものを、同級生が読み上げていく。その声は聞こえていたけれども、内容までは立花の頭に入ってこない。視線を落としている先の本のページにしても同じことで、確かに見えてはいるのに、内容はまったく立花の頭に入ってこなかった。次第に薄れてはいくけれどもそれでもまだ鼻につく、香水の匂いが、立花の不安定な思考をただ今、とらえている。それは「女性」というものの特徴について、外見でなく、物腰でなく、「匂いで答えよ」と例えば指示されたときに、大多数が「これが正解だ」と判断するであろうような、香水の匂いだった。

 三室崎亜子という人が、たとえば、自分の斜向かいに腰かけて香水の匂いをさせている、彼女のような姿をしているのだったら良かったのに、と立花は考える。そうであればはじめから、三室崎亜子という人と自分を較べたりなんかしないで済んだだろうと立花ははっきりと考えた。「どうして自分じゃ駄目なんだろう」と繰り返される問いを、もしもそうであったならばしなくて済んだ。仮に薄明が今と同じように、家を出て行っていたとしても、だ。

 立花がはじめて東(あずま)薄明という人のことを知ったのはまだほんの三年前のことだったけれども、その頃にはもう、薄明の隣には当たり前のように三室崎が立っていた。立花ははじめ、三室崎のことを男性だと思っていて、だからこそ、親しげなふたりの様子に、期待をして、同時に落胆した。立花はあっという間に、自分が薄明という人へ恋い焦がれたことを自覚したけれども、薄明と三室崎のあまり近すぎる距離は、立花にその恋を続けることを躊躇わせるには十分すぎるほどだった。躊躇いを覚えた時点で恋に溺れていたのだと、気が付いたのは随分と後、それこそ、薄明が立花と同じ部屋に暮らすようになってからのことだった。

 あのときの期待と落胆と躊躇いと、一瞬で揺れ動いた自分の感情と同じぐらいに大きな振れ幅で、今の立花の心は揺れ動きかねない。少しのきっかけで転覆してしまいかねないのを、自分の内側へ神経を研ぎ澄まさせることでどうにか保っているような状態だった。他へ自分の状態を悟られないようにしながらそうすることは難しかったが、どうやらうまくやれているようだと立花は自分を見つめて考える。けれどもここへ薄明が居たのならば、あっという間に見破られてしまうのだろうと、余計な考えがぽっと浮かんできて、立花の心はまたぐらりと傾いだ。

 薄明は何故だか、立花の感情の機微にひどく鋭く気付く。立花自身が自覚していない部分まで手を伸ばして、労ってくれる。それは立花にとってひどく心地良く、安らかな体験であるけれども、同時にときどき、ひどく恐ろしくなった。手のひらの上で遊ばされているだけなのではないかと考え込んでしまうからだったが、そんなときでさえ、薄明はたちまちに立花の感情を宥めてしまう。惚れた弱み、と言ってしまえばそうなのかもしれない。ならば自分も、薄明へ同じことが出来ればいいのにと、立花はそう少ない回数でなく、願ったことがある。ただ、立花がそう願うときに薄明の心をとらえているものは、いつもひとつに決まっていた。それが「三室崎亜子」という人だった。

 居間のカレンダーへ立花が赤いバツ印をつける度に、薄明はひどく苦しそうな顔をして、ふいと自分の内側へと閉じこもる。その度に立花はどうしようもないやるせなさを、胸の底が焼け焦げるような苦い気持ちを味わっている。薄明がすぐ側へ居ない今ですらそうなのだから、隣にいるときには一層ひどくなって、溺れそうになるのも仕方がない。

 周囲がページをめくる音につられて、立花もまたはらりと本のページをめくる。揺れ動いている自分の思考と感情を落ち着けようと深く息を吸ったが、さっきはあんなに甘く香っていた香水の匂いが、全く分からない。気が付いたことへ数度、目を瞬かせてから、立花はうっすらと口元へ笑みを浮かべる。はじめての香水の匂いにはいとも簡単に慣れて、鈍くなることが出来るのに、何度繰り返しても慣れない思考と感情が、悲しくて、可笑しかった。

三.

 二十三時にバス停で、とメールにあった指示通りに立花が三室崎を待っていれば、三室崎は立花に遅れて十分ほどで、バス停へと姿を見せた。昼間会ったときに加えて、首の周りへぐるりとチェック柄のマフラーを巻き付けていた。

 三室崎が「お待たせ」と言うが早いか、バスがやってきてふたりの前で停車する。ブザー音の後開いた扉から、三室崎がバスへ乗り込んだので、立花もそれに続く。ズボンの尻ポケットから取り出した財布の中のICカードで運賃を支払って、後ろへ進む三室崎の後を追った。バスの乗客は疎らだった。大学前に停車する、ほとんど通学専用と成りはてている路線だからかもしれなかった。三室崎はバスの一番後ろの座席の、右の奥へと詰めて座るので、立花は同じ座席の、左の奥へと詰めて座る。三室崎との間のスペースが勿体ないとは、立花は思わなかった。むしろこの距離ですら不十分なほどに感じられて、仕方がない。視線だけを動かして三室崎との距離を確かめて、立花は物憂げにため息をついた。

 聞き取りづらいアナウンスの後にドアが閉まって、がたんと車体が大きく揺れた後、バスは走り出す。バスになど滅多に乗らないので景色でも眺めていようと立花は窓の方を向いたが、ガラスはむしろバスの中の景色を反射して映し出していた。反対側に座る三室崎の姿が、ガラスの中に見える。明かりがついているとはいえ薄暗い車内だと、三室崎の容姿は一層、不明瞭さを伴った。膝の上へ置いたトートバッグから、昼間に会ったときに読んでいたのと同じ本を取り出すと、表紙から順にページをめくっていき、少ししたところでページを繰る手を止める。チノパンを履いた脚を組むと、トートバッグの上へ本を置き、左手で本を押し、ページを広げる。右手は座席の肘掛けに頬杖をついたようだった。窓側に向かって三室崎の体が少し傾く。ゆっくりとした、いっそ気怠げな様子の一連の仕草には、殺しきれない艶があった。彼女がどうやってどれほど腐心しても絶対に削り取れない、謂わば体の本能的な部分での動きが、こうして時折垣間見られるのだろうと思われた。そして、三室崎自身はそれへ、気が付いていない。気が付いていないからこそだろう、こうして彼女を分析するようにしか見ていない立花の視線ですら釘付けにするほど、三室崎が垣間見せた艶は強烈な色を伴っている。だからこの人はずるいのだと、ため息をついて、立花は正面を向くことにした。

 聞き取りづらいアナウンスが、次の停留所の名前を告げる。しばらく経っても、降車を知らせるボタンの押されたチャイムの音は、聞こえてこない。バスのフロントガラスの向こうへ、緑色の屋根付きの停留所が見えたが、その下へ並んでいる人影もない。バスはそれでもややスピードを緩めてから、無人のバス停の前を通り過ぎると、再び元の速度を取り戻した。舗装の悪い道へさしかかったのか、がたがたと車体が揺れる。何も考えずに揺れに体をまかせていると、短い座面を体が滑って、行儀の悪い浅い腰かけ方になる。立花は不満げに顔をしかめると、緑色のシートへ手を付いて体を浮かせ、座席へ深く腰かけなおした。そのときに横目で三室崎の様子をうかがえば、彼女は変わらず、窓の方へと体を傾けたまま、脚の上へ置いた本へ視線を落としているらしかった。

「……薄暗いし揺れるけど、本、読めるんですか」

 単純な疑問を立花がぽつりと口にする。三室崎はそれを聞き取ったようで、本へ落としていた視線を一瞬、立花の方へと向けて「読めなくはないよ」と短く答えて、すぐにまた本へと視線を戻した。

「目、悪くなったりとか気にしないんですか」

「んー……これまで悪くならなかったんだから、これぐらいじゃ悪くならないよ」

「あれ、眼鏡は……」

「ああ、これ?」

 立花が戸惑いながら指摘をするのへ、三室崎は本を閉じてカバンへしまい、脚を組換えながら立花の方を向く。左手を座席について体を支えながら、三室崎は右手で、黒い縁の眼鏡の弦を持ち、その位置を直した。

「伊達だよ。度、入ってない」

 言いながら、三室崎は口元へ笑みを浮かべる。右手で弦を持ったまま、目を瞑って頭を少し傾けて、眼鏡を外した。外した眼鏡を立花の方へと差し出してくるので、立花はゆっくりと深い呼吸をして、少しずつ、三室崎の方へ体を寄せた。伸ばされた三室崎の右手へ楽に自分の右手が届く位置へ体を落ち着けて、立花は差し出された眼鏡を受け取る。弦を持ったまま眼鏡のレンズを顔の前へ掲げて、透明なそれを通して車内を眺めてみても、景色に歪みは見られなかった。

「かけてみてもいいよ」

 三室崎がそう言うので、立花は勢い良く三室崎の方を見る。過剰なぐらいの立花の反応へ、しかし三室崎は驚いた様子もなく。ただ口元へ笑みを浮かべながら、もう一度「かけてみてもいいよ」と繰り返すだけだった。

 単純に面白がっているという様子でもない。押しつけがましいというわけでもない。見守っているというのが一番しっくり来るような三室崎の表情は、立花にとっては少し不服なものだったが、その言う内容、三室崎の伊達眼鏡をかけてみてもいいということは、とても魅力的だった。両手で左右それぞれの弦を持って、耳へとかける。鼻当てが顔へぶつかるまでしっかり弦を奥へとかけてから、弦のネジの部分を持って、眼鏡の位置を調整する。しかし、いくら位置を整えてみても、ああここだと納得のいく場所が見つからない。立花自身も目が悪いわけではなく、眼鏡の類をかけたことがないのだから、仕方のないことだった。諦めて両手を降ろし、脚の上で軽く拳を握ってから、ぎこちなく、三室崎の方を見る。三室崎は立花の顔を見るとうん、うんと頷いて、立花へ近い方の左手をごく自然な動作で、立花の頭へと伸ばした。白く骨張った細い指先が立花の髪をそっと撫でて、離れていく。その指先が思っていたよりもずっと温かかったのに驚いて、立花は眼鏡の奥の目を確と見開いた。

「驚いた?」

「……見ての通りで」

「ごめん、ごめんだよ。古谷が思ったより、僕の相手をしてくれたから、うれしくって、ついね」

 そう言ってから、三室崎は顔をほころばせて小さく笑った。眼鏡を通さないで見た三室崎の目元は、立花が知っていたのよりも睫が長いようで、目を伏せて瞬きをする仕草は、今まで見た彼女のどんな仕草よりも繊細だった。それを眺めている自分の心がひどく穏やかなのに気が付いて、立花は少し困惑しながら、落ち着かない眼鏡の位置をまた直す。メールを待っている間、バス停に立っている間、バスに乗り込んで座席に座る間、確かに自分は三室崎へ、どろりとした感情を抱いていたはずだった。敢えて三室崎へ自分から声をかけたのは、傷口を抉る行為自体で痛みを誤魔化そうとする、一種の自傷行為のようなものであったはずだ。それが今、立花は拍子抜けするほど普通に、ごくごく普通に、三室崎とバスの座席で隣同士に座りながら、話している。

「古谷は僕のことが嫌いなんだと思ってた、自意識過剰だけど」

 両腕を背もたれへ預けながら体の前面をへこませるように大きく息を吐いて、小さな声で三室崎が言う。もうずっとあきらめていたような調子で言われて、立花は改めて考えようとする。果たして自分は、このひとのことを嫌いなのだろうか、と。

 借りた眼鏡をかけたままで、三室崎の方を向く。彼女は座席に姿勢良く腰かけて、窓の外を眺めているようだった。もしかするとさっきの自分と同じように、窓越しに自分の姿を見つめているのかもしれないと、立花は考える。そうすると少し、落ち着かない気分になって、眼鏡の位置を直す仕草をした。

 女性らしさを削ぎ落とした彼女の姿を恨めしく思ったことは一度や二度ではないと、立花には断言できる。ただ、それが本当に恨めしさだったのかと問うてみると、そう単純に済みそうもなく、確かに薄明(はくめい)の隣へ立つ彼女を恨めしく思ったことはあったけれども、そもそも恨めしく思っていたのは、その先に立つものがあったからだった。羨ましかった。立花は三室崎というひとのことが、心底、羨ましかった。

 自分が恋い焦がれた相手の隣に立っているときから、ずっとそうだったのだろうと思う。自分と薄明が一緒に暮らし始めてからも、「友情」と片付けるにはやや異質に見える関係は変わらなかったし、薄明が三室崎の結婚でひどく動揺していることは、このふたりの間の並々ならぬ関係を示しているように、立花には思えてならなかった。三室崎と自分を較べて「どうして」と問いかけていたのは、自分が三室崎に敵わないということを、目の当たりにしたからだった。これがせめて、三室崎が華々しい女性であったなら、と現実とかけ離れたことを願ったのは、そうであったならば自分はもう少し楽に息が出来たと、そう考えるからだった。

 俺はこの人に嫉妬しているのだ、と立花ははっきりと自分に言い聞かせて、考え事をしながら閉じていた目を開けた。ゆっくりと瞬きを繰り返して、視界がはっきりしていることを確かめ、右隣を見る。丁度、三室崎も立花の方を向いたところらしかった。ぶつかった視線を逸らすことなく見つめ合って、立花は浅く呼吸をする。浅く息を吸いながら、また胸に圧迫感を覚えて、目を伏せた。自覚をしたところで、そう簡単に感情も体もコントロールが出来るわけではないということを、分かってはいるのに改めて思い知る。「古谷?」と三室崎がかけてくる声はあくまでも穏やかに、立花のことを心配している調子だったので、立花はまた、その声音が羨ましくなった。自分はこんなにも動揺して、不安定に喘いでいるのに、どうしてこの人はこんなにも落ち着いていられるのか。相手と一緒に積み重ねてきた年月が違う、築き上げてきた関係性が違う。理由はいくつも数えることが出来そうだったが、どれをとるにしても、立花は三室崎に及ばない自分を見つけて、歯がゆさを覚える。軽く首を横へ振ってから、眼鏡の弦をもって耳からはずし、弦をたたんで、三室崎へ差し出した。それを何も聞かずに受け取って、三室崎は元の通りに眼鏡をかける。黒い縁ばかりが目立つ眼鏡をかけて、彼女はまた窓の外を向いた。立花もつられて、同じ方を見る。窓ガラスから距離をとっているからか、今はちゃんと、窓ガラスの景色を見ることが出来た。

 街灯の明かりだけがぽつりぽつりと並んでいる。店の看板の類は見えないので、住宅地だろうかと立花は考える。ならば、このバスは大学のあるところから山の方へと向かっているのだろう。脳裏に大学近辺の地図を浮かべていると、ぼそぼそと聞き取りづらいアナウンスがこれから走る道は曲がり角が多いから吊革につかまっておくようにという旨を告げ、バスは一旦停止した。一呼吸おいてゆっくり動き出したバスは大きく右へ曲がったので、立花の体は左へ傾く。とっさに左手で椅子の上の持ち手を掴んで、体を支えた。三室崎は、窓の方へと体を傾けているようで、額とガラスが今にもひっつきそうなほど、窓へ顔を近づけている。

「このバスの終点がね、高校の前なんだ。僕と薄明が通ってた高校」

 立花の方を向かないまま、三室崎が言う。三室崎と薄明がであったのが高校であることは聞いていたけれども、こんなに近くにあるとは知らなかったし、何よりも突然そんなところへ連れて行かれているということに驚いて、立花は自分の目を見開き、瞬きをする。

「多分、古谷が僕のところへ来たのは薄明を探す手がかりが欲しかったんだろうって思ったんだけど……正直なところ、僕にもそんなの検討がつかないんだよ。それに、あいつがふらっとどっかに行ってふらっと帰ってくるのなんて、今に始まった話じゃないし、あんまり心配はしてないんだ、僕は。でも、それじゃあ古谷はおさまりがつかないかと思って……僕が古谷に出来ることは何かなって考えてたんだけど、まどろっこしいあれこれを考えるよりは、高校に連れて行こうかなって」

 三室崎が淡々と語った内容は、やはり、三室崎と薄明が重ねてきた年月の重みを如実に表しているように、立花には思われた。一緒に暮らしている相手、薄明がふらりと姿をくらますことなどはじめてだった。三室崎の今言ったことを聞いてようやく、なんで昼間の食堂で、あんなにも三室崎が冷静だったのかを、立花は理解した。ならばあのとき三室崎が冷静ながらも思案している様子だったのは、姿をくらました薄明ではなく、そのとき隣に座っていた立花をこそ、心配してに違いなかった。

「もう、二年ぐらいだっけ? 薄明と古谷が一緒に暮らし始めてから……だったら、古谷はすごいなあ」

 ため息をついて、三室崎は窓にもたれかからせていた体を真っ直ぐにする。組んでいた脚を解いて、足を前へ投げ出して座ると、小さく笑いながら首を傾げて、立花の方を向いた。彼女が浮かべている笑みが、照明の加減のせいなのか、どこか苦しそうに見えたので、立花は軽く目をみはって、彼女の唇が動くのを見ていた。

「薄明にはよっぽど、古谷の側が心地良かったんだね」

 思ってもみなかったことを言われて、立花はみはった目を数度瞬かせてから、目元を右の手のひらの付け根でごしごしと擦る。ぼやけた視界の真ん中で、三室崎はやっぱり、苦しそうに笑っていた。


 バスを降りてから、本当にその目の前だった学校名の掲げられた柱と、立派な校門の前を通り過ぎて、茂みとともに学校の敷地を囲っているらしい鉄柵の横を、立花は三室崎について歩く。ふたりの他に人影はなく、街灯すら疎らな道には自然と抑えられたふたり分の足音がひたひたと響いている。自分の左手側に

ある鉄柵のてっぺんを立花は見上げようと、思い切り首を曲げる。尖った先端が等間隔に並んで、茂みの枝葉を押さえ込んでいる。この内側をのぞき見ることは、少なくとも立花には難しく思われるし、中に入るなんてもってのほかであるように感じられる。

「ああ、もうそろそろ、満月だね。月が明るいや」

 三室崎が言うので、立花は鉄柵の先端をなぞっていた視線を横へずらして、夜空を見上げる。立花にはすでに真円になっているようにしか見えない白く明るい月が、空の遠いところへ浮かんでいる。月の周りの空も、白い絵の具が滲んだように明るく染まっていた。月明かりはこんなに明るかっただろうか、と疑問に思ったところで、立花は自分が今居る場所を思い出す。山の上の学校の周囲には、疎らな街灯以外に明かりはなく、遠く丸い月明かりだけが、際立って明るいのだった。周囲の様子が変わるだけで自分の感じ方もこんなにも変わるのかと感心して、立花はため息をつく。瞬きをしても月の明るさは変わらずに、そこへあるままだった。

「古谷、こっち」

 後ろから聞こえる声へ立花は立ち止まり、回れ右をして振り返る。鉄柵が途切れた、通用門と思しき小さな門の前に、三室崎が立ち止まっている。彼女の前を通り過ぎる自分はさぞ滑稽だったのだろうと考えて、立花は自分の顔が熱くなるのを感じた。近寄った先の三室崎は、心なしか苦い笑いを浮かべているようだった。

「ここからだったら、普通に入れるから」

「……普通に? こんな夜更けに学校に来るのが?」

 思わず立花の口をついて出た疑問へは答えようとせず、軽い笑い声を立てて、三室崎は目の前の門を押し開ける。油が足りない蝶番が耳障りに軋むのへ、立花は顔をしかめて肩をすくめる。三室崎はすぐに門の中へと入って、開けた門が閉まってしまわないように押さえながら、小さく立花を手招きした。立花はその誘いに前へ踏み出しそうになる足をその場へ踏み留めてから、一度ごくんと唾を飲む。自分でさっき口にした通り、あまり普通とは言い難い行いに、躊躇う気持ちが確かにあった。そんな立花の躊躇いへ気付いた様子もなく、三室崎は手招きを続けている。この向こうには楽しいことがあるのだよと誘惑でもするように、白い顔の口元へ笑みを浮かべている。その笑みの半分は、立花が想像の中で補完したものだったけれども、本当に現実にもそんな表情をしているのだという確証のない自信が立花にはあった。そんな表情で、それも自分の好きな相手の名前を出されて誘われたら、進まずにいられるはずがない。言い訳めいた考えを浮かべながら、立花はため息をついて、前へ一歩を踏み出した。

 しごく簡単に鉄製の枠を踏み越え、一瞬で小さな門をくぐって、立花は自分が通ったこともない学校の敷地へと足を踏み入れた。

 三室崎が門を閉める邪魔にならないように、彼女より二、三歩奥へ進んだところで立花は立ち止まった。自分の通っていた学校にもあったようなごく標準的な広さと姿の運動場を見ているだけなのに、立花の目尻には涙が浮かんでいた。鼻を啜って、シャツの袖口で涙を拭う。少しぼやけた視界の端に、丸い月が明るい。

「ようこそ、わが母校へ」

 きい、と門が軋む音を背景にして、冗談めかして三室崎が言った。母校、という言葉に立花の目尻にはまたも涙が溜まる。ここが本当に薄明が通っていた学校なのだと、改めて考えたからかもしれなかった。

「ナイター設備とか、ないんですか」

「ないねえ。勉強に力を入れてるって触れ込みで、あんまり部活って盛んじゃなかったみたいだし……」

 三室崎はそう言って、鉄柵と門を一度振り返ってから、歩き始める。運動場の向こうにある校舎へは、トラックをぐるりと囲む形にコンクリートの道がちゃんと造られているようであるのに、三室崎は校庭を真っ直ぐに横切るつもりらしかった。アスファルトの道を横断して、運動場の砂利へと足を進める。部活がないと三室崎は言ったが実際はどうであるのか分からないし、きっと整備されていただろう砂利の表面へ、正体不明の足跡を刻むことを立花は少し申し訳なく思ったが、違う道を行って下手に迷っても困るので、三室崎の後に続いて、砂利の上へと足を進めた。

 ざりざりと砂利を踏む足音は、当然ふたり分だった。白い月明かりに照らされて砂利の上へ伸びた影も、ふたり分だった。二つの影は間隔を変えないままで、のそのそと校舎へ近付いていく。ふと立ち止まって、立花が後ろを振り返りながら空を見上げると、白い月が周囲へ明かりを滲ませながら、中空に浮かんでいた。


 校舎の横には、金属製の非常階段が設置されている。相当に古いらしく、手すりを握ると、真っ先にサビのばざらつきが感じられた。三室崎の後に続いて立花も階段をのぼる、ふたりが段を踏みしめるタイミングが重なると、一層大きく階段が揺れた。

「一番上までのぼったら、校舎に入るドアが空いてるはずだから」

「その、はず、ってどういうことですか」

「お願いしたから、多分大丈夫だと思うんだけど……うん」

 乾いた笑いの後に首を傾げて、三室崎は立花を振り返る。当然、立花の方が低い段へ居るのだから、三室崎は立花を見下ろさなければいけなかったし、立花は三室崎を見上げなければいけなかった。同じ高さのところへ立っていれば、ふたりの身長にほとんど差はない。こんな角度で互いを見ることなどはじめてのことだったので、なんとなく立花は目を逸らしがたくなった。三室崎の方もそうだったのか、一呼吸も、二呼吸も置いた後にようやく、「閉まってたら、ごめん」とまだ必要かどうかも分からない謝罪を前借りしてから、階段をのぼり始めた。

 校舎は五階建てのようだった。非常階段へと出て来るためのドアの、立花の視線よりも少し低いぐらいの位置に「2/5」と記されていたので、見当がついた。校舎はこの棟だけでなく、渡り廊下で互いに繋がった別の校舎が、少なくともあと二つは建っているようだった。しかし、その中で一番背が高いのが、立花が今まさに非常階段をのぼっているこの校舎であるようだった。

 ふたりとも歩調は早いほうであるから、あっという間に階段をのぼり終え、立花は三室崎と並んで、「5/5」と記されたドアの前へ立つ。三室崎は一瞬、様子をうかがうように立花へ視線を寄越してから、すぐにドアノブへと手を伸ばした。左へひねって、腕を前へ引くと、きいきいと金属が軋む音と一緒にドアが開いた。今度ははっきりと自分へ寄越された三室崎の視線が「先に入って」と言いたげだったので、立花は急いでドアの向こうへ踏み込んだ。

 真っ暗な廊下の右手側の壁には、ずっと向こうまで、同じ間隔で白いドアが並んでいる。左手側の壁には窓がいくつか並んでいて、月の明かりがそこから差し込んでいる場所だけが、明るいようだった。

 再びきいきいと金属の軋む音がした後、ドアの閉まる重たい音がする。一瞬肩を跳ねさせた立花の横を、三室崎がするりとすり抜けて、立花の前へ立った。

「ほら、大丈夫だった」

「誰にお願いしたら、こんなことが大丈夫になるんですか」

「僕と薄明の担任をしてた人が、まだこの学校にいるんだよ。ちょっと理由を話したら、ここともう……二ヶ所かな、鍵を開けといてくれるってさ。後、今どき時代遅れだけど、この学校には宿直制度もあるからさ。その当番も、今日は交代してくれて、一応、僕らが居る間中は校舎内には居てくれるって」

「ただの先生なのに、随分と親切ですね」

「問題児だったからなあ、僕も薄明も」

 会話を切り上げるタイミングを見計らっていたように、言い終えてから三室崎は歩き始めた。立花もその後へと続いて歩く。月の明かりが窓から差し込んだ廊下を、三室崎の後ろへついて歩いていく。薄暗い廊下の端は見通せず、歩いていても両脇に見える景色にはほとんど変わりがないために、この月明かりだけが明るい廊下が、延々と、三室崎の向こう側まで続いているような気がした。錯覚でしかないその考えは、けれども不思議と立花の思考をとらえる。もし本当に、そんな風に廊下が続いているのだったら、どこまでだって自分と三室崎は歩いて行ってしまうだろう。どこかずっと遠くにある廊下の行き止まりへ、いつかはたどり着くのかもしれないし、あるいは、いくら行っても廊下には果てなどないのかもしれなかった。どちらにせよ、ここではないどこかへ行ってしまった自分たちふたりを、薄明は探しに来てくれるだろうか。そんなことを考えて、立花は自嘲を浮かべた。

 三室崎が立ち止まって、右へ曲がる。開けた正面の視界の奥に、なるほど、廊下の行き止まりが見えた。その手前に、教室のものらしいドアがぽつ、ぽつと二つ並んでいて、その更に手前には、女子トイレと男子トイレが並んでいる。さっきの想像とは随分違う、実在した廊下の果てに、立花は落胆しながら、三室崎の進んだ方へと体の向きを変えた。

 小さな階段があって、その先にはまた、ドアがある。この階が最上階であるから、そのドアは屋上へ続いているものなのだろうと、立花は想像した。ドアの手前に立つ三室崎は立花が近付いてくるのを待っていたようで、立花が前へ一歩踏み出すと、ドアを奥へ押し開けた。開いたドアの向こう側に、立花はてっきり夜空が見えるものだと思っていたのに、何故だかそこへ夜空は見えない。ただ、月明かりすら見えない真っ暗な空間が広がっているようだった。

 訝しげに眉を顰めながらも、立花は前へと進んで、わずか三段しかない小さな階段をのぼる。何かかちとスイッチを押す音がしたかと思うと、ドアの向こうの空間が白く眩くなる。突然の人工的な明かりの、目に染みるような明るさに、立花は思わず目を細める。二段目に足をかけたところで目を細めながら立ち止まっていると、黒い影がドアの向こうから姿をのぞかせて、立花を小さく手招いた。立花はぎゅっと強く目を瞑ってから、ゆっくり、ゆっくりと目を開けていく。数度瞬きをしてようやく、白い明かりに慣れることが出来たらしかった。三室崎がドアの向こうへ引っ込むのと一緒に、立花は残りの階段を一気にのぼった。その勢いのまま、ドアの向こうへの白く眩い明かりに照らされた空間へ飛び込む。

 そこへ広がっているのは、当然、夜空の下へ寒々と広がる屋上ではなかった。ドアのある以外の三方も壁で囲われて、頭上を天井で塞がれている、小さな部屋だった。ドアの脇にも、ドアのある壁の左右に伸びた壁にも、立花の腰程までの高さの本棚が、壁の幅いっぱいに並んでいる。左側の壁の本棚の上には、黒いカーテンが引かれている。きっとその向こうには窓があるのだろうと思われた。そして、立花の正面、ドアのある壁の正面の壁には、また、ドアがある。その向こうにまた部屋があったら笑い種だが、きっとそのドアこそが屋上へ通じているのだろうと納得して、立花は左へ少し、体をずらした。ずっと、ドアが閉まってしまわないようにその端を押さえていた三室崎が、ゆっくりとドアを閉める。かちゃりと音がするまでしっかりとドアを閉めてから、三室崎は床へトートバッグを投げ出して、その場へしゃがみ込んだ。

「ここがね、僕の城だったんだ」

 三室崎はそう言って、右手の人差し指で、立花の後ろ側の本棚を指さす。三段に仕切られたその本棚の段の中で、本がぎっしりと詰め込まれているのは一番下の段だけだった。一番上の段へは、小さなベニヤ板にペンキで描かれたらしい看板が飾られている。「天文部」と、太くしっかりとしたゴシック体が、紺色の上に白色で描かれている。天文部、という看板の内容へ、立花は三室崎の言ったことの意味を理解する。三室崎の今の専攻は宇宙物理学という、なんとも壮大なスケールの学問領域らしいのだが、そうでなくとも、三室崎が星というものに心惹かれてやまない人間であるということを、立花は伝え聞いて知っている。つまり、高校生の頃からそうであったということなのだろう。更に、さっき三室崎自身が言っていたように、部活動にさして熱心でない校風であり、かつ、天文部という、あまり多勢の興味を引かないであろう部活動ならば、少数の熱心な部員が部室を好きに使えることもあったのだろう。「僕の城」という三室崎の比喩は、なるほど、この部屋にはひどく馴染んでいるように思われた。

 立花は、看板の飾られている本棚へと近付く。看板のある下の段、真ん中の段にはいくつかの写真立てが置かれているようだったけれども、その写真が何を映したものであるかまでは、見えなかったからだ。本棚の前にしゃがんで、立花は手前の写真立てを手に取る。横長で、いくつかの写真を飾ることの出来る写真立てには、三枚の写真が挟まれている。写真立ての左半分を占める一番大きな写真には、濃紺の夜空に流れる天の川が映されている。右側の上半分の写真は、流星群の様子を映したものであるようで、その下の写真は、少しピンぼけしているものの、何の変哲もない夜空の写真であるように見えたが、写真の右下に付箋が貼ってあって、「当校屋上より」と鉛筆でメモが書いてあった。そして、立花が手に取って眺めているほかにも、もう一つ、写真立てが本棚の真ん中の段へ置いてあった。立花は今持っている写真立てを本棚の天板の上へと置いて、もう一つの写真立てを手に取った。それには、一枚の写真が挟まれている。それは、夜空の写真ではなかった。人がふたり、写っている。そのふたりが誰であるか、立花はすぐに分かった。多少の成長はしているけれども、面影は充分に残されている。毎日、顔をつきあわせて生活している相手と、今、同じ部屋の中に居る相手の顔を、小さな写真の中であっても、見間違うはずがなかった。薄明と三室崎が並んで写っているのだった。ふたりとも、この学校の制服なのだろう、チェックのスラックスと革靴を履いて、白いカッターシャツを着て臙脂色のネクタイを締めて、紺色のブレザーを羽織っている。胸の前に掲げている筒は、恐らくは卒業証書が入っているものだった。ふたりのうしろには木の幹が見えて、足元にはピンク色の花びらが散っているのがその証拠だ。薄明も三室崎も背筋を伸ばして、やや緊張した面持ちながらも、微笑みを浮かべている。薄明の髪は今と違って耳が見えるぐらいに短く、三室崎は黒い縁の眼鏡をかけていない。今、自分が知るふたりよりも幼い、写真の中のふたりの姿に、立花はああ、とため息をつく。写真の中の薄明の頭を右手の親指でそっと撫でて、立花はそっと、写真立てを元の位置へと戻した。

「一年の頃は、僕は薄明のことを知らなかったし、薄明もそうだったんだと思う。それが、二年の時に同じクラスになってね。年始めの自己紹介で、一応、部活動についても、言及したんだ。そしたら、この部屋が気になってたからって、押しかけてきたんだ。星に興味もないのにさ、同じクラスなんだから良いだろ、とか、よく分かんない理由つけて……結局、僕が何回誘ったって入部届出してくれなかったし。最後まで、部員は僕ひとりだった」

「だから、三室崎さんの城、ですか」

「うん。この部屋は天文部の部室で、僕の城。この本棚も全部、廃材もらってきて自分で作ったし、窓にひいてあるカーテンも、自分で縫った。看板も僕が描いたんだけど、結局何の役にも立たなかったなあ。薄明をこの部屋へ呼び寄せたの以外には」

 そこで低く落ち着いた声は途切れて、一拍置いた後、はあとため息をつくのが聞こえる。立花が三室崎を見ると、彼女は膝を抱えて床へ座り込みながら、じいっと、部屋の天井の一点を見つめているようだった。立花は数度、彼女と天井とを交互に見やる。けれども、三室崎の視線の先の天井に、特別な何かを見つけることは出来なかった。首を傾げながら、手に持って眺めていた写真立てを、本棚の奥へと戻す。天板の上に置いた横長の写真立ても、元の場所へと置き直した。

 元の場所へ戻した写真立ての中の写真を一瞥してから、立花はゆっくり立ち上がる。それから、三室崎の隣まで行くと、その場へ腰を下ろした。三室崎がしているのと同じように、膝を抱えてみる。背中を丸めながら三室崎の横顔を見て、彼女の視線を辿り、彼女が見つめているのと同じと思われる場所をじっと見つめた。やはり、特別な何かなど見つけられない。そこにはただ、くすんだクリーム色の天井があるだけだった。

「その頃は本当に、この場所は僕の城だと思ってたけど、それは、今あの頃のことを思い出して「この部屋は僕の城だ」って言うのとは、ちょっと意味が違うんだ、多分」

「どうして」

「主観と客観の違い、なのかな。あの頃のことを振り返って思うことって、結局、状況をひっくるめての評価になるのかなって。でも多分、その頃には自分のことしか見えてないから、自分を中心に考えてたんじゃないかって思うんだ。だから、今「この部屋は僕の城だった」って言うのは、僕がこの部屋を好きに使えていた、好きにものを置いて自分好みに改装も出来てたってことを指してる。でも、あの頃「この部屋は僕の城だ」って思ってたのは、この部屋の中でなら僕が正しくなれるから、だったんだろうなあって。例えばさ、制服のスカートの代わりにズボンを履くのなんて、今ならともかく僕の頃には前例もなかったし、学校の中でやって見つかったら、きっと反省文でも書かされたと思う。それが、この部屋の中だったら誰に文句を言われることもない。私、じゃなくって僕、って自分のことを話したって良かった。好きなだけ勉強が出来たし、大学の資料を並べてても、勝手に捨てられることもなかった。あの頃誰にも許してもらえなかったことを、この場所では自由に出来たんだ」

 三室崎が長くしゃべるので、彼女の言葉の途中で、立花は天井を見るのを止めて、三室崎の方を向いた。訥々と、この場所に通っていたときのことを語る彼女の横顔には、どんな表情もうかがえない。声音もまた一様に低く落ち着いている。しかし、言葉を途切れさせてすぐに、彼女は長く息を吐いたので、しゃべっている間、彼女は感情を殺していたのだと、立花は気が付かされた。それが正しいことのさらなる証拠のように、三室崎が小さく鼻を啜る。眼鏡の影になって見づらいが、彼女の長い睫の目の端には、確かに涙が浮かんでいた。

「……古谷には、薄明のことが気になるよね」

「気にならないと言えば、嘘になりますけど」

「正直に、気になりますって言えばいいのに」

 立花がもごもごと答えた後、間髪入れずに三室崎が言った。からかわれているように感じて、立花は眉根を寄せて三室崎を睨む。三室崎は可笑しそうに笑ってから「気になってるでしょ?」と、また同じことを繰り返した。つい先ほどまでと違って、三室崎の目はいきいきと輝きながら立花を見つめていたので、たぶん何を言っても通じないのだろうと観念して、立花は一度、深く頷いた。

「——と言ったものの、何を話そうかな。どんなことが聞きたい?」

 首を傾げながら問いかけられて、立花もまた首を傾げる。自分が直接は知らない薄明の昔が気にならないはずがなかったが、いざ、具体的に何を聞かせてもらおうかとなると、言葉にするのが難しい。頭の中にはいくらでも考えつくのに、いざ口にしようと構えると、そのどれも、自分が聞きたいことを的確に表しているとは思えなくて、言葉を呑み込んでしまう。抱えた膝の先の自分の爪先をぼうっと見つめながら、立花はまだ考える。目をつむって、浮かぶ言葉を一つずつ確かめて、首を横に振る。

 二十は言葉を数えたところで嫌になって、立花は目を開け、三室崎の方を向く。三室崎はすでに立花の方をじっと見つめていて、おそらく、立花が考えている間もずっと、同じ姿勢をしていたのだろうと思われた。

「いくつかになんて、決められないので、全部でお願いします」

 考えた末の結論を正直に伝えれば、三室崎は目を丸くした後に、くっと喉の奥で笑いを殺す。しかしすぐに、口元へ手を当てて、背中を丸めながら、抑えた声で笑い始めたので、よほど、立花の言葉が可笑しかったらしい。先ほどとは異なる種類の涙が、眼鏡の奥の目の端に浮かんでいるのが分かった。

「全部、って。めちゃくちゃ言うなあ!」

「そうでしょうか。至極、まっとうな要求かと」

「好きな相手の全部を知りたい、って? まあ、否定はしないよ、否定は。でも、それを本当に頼むなんて、やっぱりめちゃくちゃだよ」

「そうですか」

「そうだよ」

 何度か軽く頷いて、三室崎は右手で眼鏡を外す。左手を目元に伸ばして、どうやら涙を拭っているらしかった。自分はそこまでおかしなことを答えただろうか、と立花は自分の言葉を振り返ってみる。しかし、立花にはやはり、自分の言ったことがそう可笑しい考えであるとは思えなかった。

 眼鏡をかけ直した三室崎は、眼鏡を外す前の可笑しそうな表情とはまったく別な、真面目な表情をして、じっと立花を見つめる。

「全部なんて話しきれないし、僕が知ってる全部でも、古谷が知りたい全部には足りないと思う」

 ゆっくりと、血の気の薄い唇が動いて、はっきりと立花に向けて言い放った。立花はそれを聞きながら、自分の胸がずんと重たくなるのを感じる。この人ですら全部を知ってる、とは言わないのに、ならば自分が知っているあの人はどれくらいのものなんだろう。そんな疑問の答えに絶望的な数字を想像してしまったのだった。そんな立花の様子に気付いてか気付かずか、三室崎は続けて、口を開く。

「だから、期待に添えることは出来ないけど……ひとつだけ、話すよ、薄明のこと」

「ひとつ」

「うん、ひとつ。後は、本人にでも聞いてみれば良い。これからもずっと、一緒に居るんだろうしさ」

 確信めいた様子でそう言い切って、三室崎は勢い良く立ち上がる。回れ右をしてドアの方を向くと、立花の横を通り、ドアのすぐ側へと移動した。三室崎のすぐそばの壁には、電気のものと思われるスイッチのパネルがある。彼女は右手の人差し指をそのスイッチへ伸ばして、一度、天井を見上げた。何の変哲もない天井を見上げながら、もういいかな、と呟くと、立花の方を向く。

「古谷、天井見てて」

 短く伝えられた言葉は、立花には意味の分かりかねるものだった。さっき、三室崎の横に並んで座って見上げていたが、天井はただの天井で、なんの面白いところもなかった。わざわざそんな天井を見上げるのに面倒が勝りそうになるが、三室崎がするのは薄明の話だと言うことを考えて、気力を総動員して上を向く。そこにあるのはやはり、何の変哲もないクリーム色の天井だった。白い蛍光灯が狭い部屋を明るく照らしている。直接にその明かりを見るとやはり眩しくて、立花はゆっくりと瞬きを繰り返した。

「そのまま……そのまま、見上げてて」

 三室崎が後ろでそう言っているのが聞こえたので、立花はこくりと頷く。言われた通りにじっと、代わり映えのしない天井を見上げる。

 かちりと立花の後ろでスイッチを切る音がして、その音とともに蛍光灯の明かりは消え、狭い部屋は一瞬で真っ暗になった。

 そして、立花の見あげる先、何の変哲もないただのクリーム色の天井が塞いでいるだけだった頭上には、満天の星空が広がっている。立花は思わず、「えっ」と小さく声をあげて、ぱちぱちと瞬きをした。しかし、何度瞬きをしてみても、自分の目の前へはやはり、夜空が広がっている。真っ黒な空を背景にして、たくさんの星が光を放っている。まさしく、数え切れない星の数ほどの星が、いきなりあらわれた夜空に瞬いている。

「きれいだろ」

 後ろから聞こえた声に、立花はゆっくりとうなずいた。そうするとすぐに、後ろから軽い足音が近付いてきて、人の気配が立花の隣に立ち止まる。その気配はゆっくりと、立花の隣に腰を下ろした。部屋の中へはふたりしかいないのだから、隣へ座ったのが三室崎だというのは分かりきっている。けれども、姿が見えないと不安になるものだった。見えるはずのない顔をのぞき込もうと、立花がじっと隣へ視線を向けていると、隣に座った誰かはごそごそと居心地悪そうに身動きをしていたかと思うと、いきなり、仰向けに床へと寝転がった。

「三室崎さん」

 驚いて、名前を呼ぶ。「なあに」と間の抜けた返事は、さっきからずっと聞いている声と同じものだったので、立花はほっと胸を撫で下ろす。

「蓄光の絵の具で描いてあるんだ。だから、時間が経つと光が消えちゃうんだけどね。今は、さっきのちょっとの間しか明かりをつけてないから……きっと、すぐに消えるだろうな」

「これ、本当の夜空と同じなんですか。星座とか」

「まさか。違うよ。そういうこと分かってるやつが描いたんじゃないんだもの」

 立花の質問へ答えてから、三室崎がまた、ごそごそと体を動かす。少し慣れた目を暗闇に凝らして、動く気配にじっと注意を向けていれば、彼女が指先を天井へ向けたのだろうということを、おぼろげながら感じ取ることが出来た。

「あっちに、北斗七星が描いてあるんだ。それなのに別な……あっち側にも、同じのが描いてある。ほら。それしか、知らないんだろうなって、呆れちゃうよね。こっちは大丈夫かって心配するのに、俺が描いてやるっていばるから、任せたのに、できあがったのがこんな適当で……ほんと、笑っちゃった」

 思い出しても可笑しいのか、言い終えた後、三室崎は小さな声で笑った。立花は三室崎の言葉をたどりながら、想像する。さっきの写真に写っている高校生の頃の薄明が、三室崎にそう言い張っている姿を想像する。それを受けて諦めたようにため息をつく、高校生の頃の三室崎は、スカートをはいていて、本棚の上へ、膝を閉じて背筋を伸ばして座っている。

 制服を着た薄明は、ブレザーの袖を中のシャツごと肘の上までまくり上げた張り切った様子で、左手には蓋の開いた絵の具の缶を提げている。両腕をわずかに広げてバランスをとりながら、五段の脚立をゆっくりのぼっていく。片脚で脚立のてっぺんをまたいで、左右の足をそれぞれ、上から二段目の段に落ち着けて、脚立のてっぺんへ絵の具の缶を置く。缶の中の絵の具は透明だった。薄明はブレザーのポケットに入れていた筆を手に取ると、穂先を缶の中の透明な絵の具に浸した。缶の縁で余分な絵の具をしごいてから、筆をもった右手を上へ掲げた。筆先をたどるように、顔もあげていく。筆を持たない左手を天井へついて、後ろへひっくり返らないように気をつけながら、天井へ筆の先を押しつける。そうして一つ目の、明るい部屋の中では見えない星を無事に描いて、薄明は満足そうに微笑んだ。

 そんな作業に、どれくらいの時間をかけたのだろう。想像を止めて、立花は目を開き、天井を見あげる。薄明によって天井に散りばめられた星が、まだ、確かにそこへ光っている。大げさな感動が立花の胸を締め付けて、一瞬、息が出来なくなった。

「梅雨に入った頃だった。まだ、衣替えもしてない、本当に梅雨に入りたての頃。三年になって、また薄明と僕と、クラスが同じだった。相変わらずこの部室は僕の城だったし、薄明は天文部にも入らないで、この部屋に入り浸るだけ入り浸ってた。梅雨に入りたてだっていうのに、その年は天候が変わってたんだろうね、もう、一週間も雨が続いてた。まあ、正確に言えば雨が降ったり止んだりの日が続いてたんだけど、晴れ間が本当になくって。……雲が出てると、星が見えないんだ。当然のことだけど、だから僕は今でも梅雨が嫌いで、嫌いで。その日も部室に来て、適当に本棚の上に座って図鑑をめくりながら、薄明にそんなことを話してた。そうしたら「亜子は星空が見たいんだな」って突然言い出して、しかも僕が答える前に部屋を出てった。ようやく帰ってきたのは、僕が帰り支度を始めた頃で、蓄光絵の具の大きな缶と、たくさんの面相筆と、脚立を抱えてた。それで「星を描くぞ」なんて言い出したんだ。でも、こんな天井いっぱいを細かい星で埋めるのなんて、とても一日じゃ終わらなかったから、結局、三日はかかったんだったかな、ああ……懐かしい」

 三室崎が「ああ」とせつなそうなため息をつく。立花もつられて息を詰めて、ゆっくりと吐き出した。

「——放課後になったら、真っ先に部室に行って、蛍光灯の明かりをつける。それから、飽きるまで本を読んだり、勉強をしたり、しゃべったりして、そろそろ帰ろうかっていう段になったら、遮光カーテンを閉めるんだ。それから部屋の明かりを消して、今やってるのとおんなじ、ゆかにこうやって仰向けに寝転がる。それから、この星の光が消えるまでただ、空を眺めてるんだ。ひとりのときも、薄明が一緒の時もあった。薄明は寝転がりはしなかったよ。丁度、その辺りに、古谷みたいに膝を抱えて座ってた。僕が明かりを消したら、薄明はじっと黙って、僕も黙ったまんまだから、一言もしゃべらなかった。一言もしゃべらないまま、僕は寝転がって、薄明は膝を抱えて座って、そうやって隣同士で、薄明が描いた星を見上げてた。星の光が消えるまで」

 そうして、三室崎は口を閉じたようだった。今日はもう、星の光が消えて部屋の明かりをつけるまで、しゃべり出す気はないんだろうと、立花は思った。それでも、三室崎がすぐそこに居ることを感じることが出来る。三室崎にしても、立花がそこに居ることは、会話を交わさなくても分かっているだろう。薄明と三室崎も、これぐらいの距離で隣り合って、星を見上げていたんだろうかと考える。息を止めて見上げた満天の星空の中には、確かに二つの北斗七星が見つかった。それは、本当に無知故の過ちだったのだろうかと、ふと立花は疑問に思う。むしろ、構って欲しいが為の悪戯だったんじゃないかと、そんなことを思いつきながら、息を吐いた。他へ心を惹かれている誰かの気を引くために、わざと、分かりやすい間違いを残したんじゃないかと。

 その思いつきが可笑しくて、立花は思わず声をあげて笑いそうになった。すんでのところで声を呑み込んで、両手で顔を覆う。可笑しいのに、涙が出そうだった。顔が熱いのはそのせいに違いない。

 俺はやっぱりこの人が羨ましい。立花は顔を両手で覆った、より真っ暗闇の中、そう考えた。それなのに、もう、不思議と胸が締め付けられることはなかった。代わりに、あたたかな手のひらで心臓を握られているような、穏やかで甘やかな痛みを感じる。だから涙が出そうになるのだと納得しながら、立花は両手で顔を覆うのを止めた。それからゆっくりと、描かれた星空を見あげる。

「……本当に、きれいだ」

 立花が小さく呟くのへ、返事はない。何故ならば、まだ星は光っている。

 彼女の城を彩って、まだ、星が光っている。

四.

 玄関に、見覚えのある靴が、脱いだときのままなのだろう、そろえられもせずに置いてあった。

 それを見つけて、立花(りつか)はため息をついてから苦笑した。後ろ手にドアを閉め、鍵をかけて、自分の靴を脱いで部屋へと上がる。ドアの方へ体の正面を向け、その場にしゃがんで、自分の靴をそろえるのと一緒に、その靴を自分の靴の横へそろえて置いた。

 寝室代わりの、ベッドを置いてある部屋の扉は開けっ放しで、中へ人の居る気配はない。そして、居間の明かりはついたままである。腕時計を見れば、もうとっくに日付が変わっていて、短い針はそろそろ「1」を指そうとしている。果たしてどんなことになっているのか、考えようとするけれども、立花の頭はうまく働いてくれないようだった。瞼は重たいし、体温が上がっていることが分かる。眠たいと体温が上がるなんて子どもみたいだなあと、欠伸をしながら考えて、立花は居間の扉を開けた。

 扉を閉めてから、真っ直ぐにソファへと近付いていく。立花の思った通り、ソファの上で薄明(はくめい)が、うつぶせに寝転がっていた。額の下に手を重ねている。ゆっくり背中が上下しているのが、グレーに紺のボーダーのセーター越しにでも分かったけれども、それだけでは、薄明が眠っているのか、起きているのか、分からなかった。

 ソファの背もたれの後ろへ、立花は膝をついて座る。カバンをおろし、首に巻いていたマフラーをとって、マフラーを薄明の肩へとかけた。薄明は身動ぎ一つしない。本当に眠っているのかもしれない、と思いながら、立花は背もたれに胸をもたれかからせて身を乗り出し、マフラーの形を整えた。

「おかえり、薄明さん」

 そう声をかけるけれども、やはり薄明は何の反応も寄越さなかった。けれども、この人がここにいるんだから、それだけで十分じゃないか、と立花は自分へ向けて言う。ああ、そうだ。自分に自分でそう答えて、立花は口元へ笑みを浮かべる。まずは隣に居る、そのことからだ、と。

 薄明が帰ってきたら、もっと何か、劇的な感情が湧き起こるかと思っていたけれども、そんなことはない自分自身の内側に、立花は驚きながらも、安堵する。もしかすると、単に眠たいだけなのかも知れなかったが、再会の一番はじめを穏やかな気持ちで迎えられたことは、幸いだと、立花は思った。

 顔をあげて、西側の壁を見る。立花が薄明とふたりで暮らす、このさして広くもない居間の西側の壁には、大きなカレンダーが掛かっている。学生が持ち歩くのにごくごく一般的なサイズのクリアファイルを四つ集めた大きさのカレンダーだ。紙の上部には、「11月 November」と大きく印刷されていて、その両脇には、前後の月のカレンダーがこぢんまりとおさまっていた。カレンダーは黄色味がかった白色をしていて、それと違和感がないような少しくすんだ青色と赤色が、土曜日や祝日の表示に使われている。月曜日で始まって日曜日で終わる並びのカレンダーの先頭の列に赤色がはみ出しているのは、今月は二週分だった。そのうちの一つ、くすんだ赤色で印刷された「24」という日付には、太い赤色の線でもって何重にも丸印がつけられている。それと同じ色、同じ太さの線で、「1」から「5」までの数字には、思い切りの良いバツ印がつけられていた。「5」の隣、「6」の上には、同じく赤色だが、細い線を何度も往復させて、バツ印がつけられている。ボールペンでも使ったのだろうかと考えて、立花はソファの上へ寝転がっている薄明の背中を見る。さっきまでと全く同じかたちをたもっている背中を撫でたくなったが、伸ばしかけた手を引っ込めて、ぶらりとさせた。ソファのそばに、大きなカバンが投げ出されてある。そのカバンの口は開いていて、一番上に、布製の筆箱が乗っている。筆箱のファスナーは中途半端に開いていて、赤いボールペンの頭がのぞいているのを、見つけたからだった。

 きっとまた明日からは、自分がカレンダーへ印をつける役割を担うのだろう。そう考えるけれども、もう、立花は平気だった。きっと薄明は、こうしてここへ戻ってきたとはいえども、そう簡単に平気にはならないだろうから、「24」日になるまで、立花は薄明をなだめたり、励ましたり、ときにはからかったりして、一緒に日々を過ごしていくのだろう。そうしてやってくる「24」日をどんな顔をして薄明が迎えるか、まだ立花には見当もつかないけれども、出来れば楽しそうな顔をしているこの人を送り出したいと、考える。

「……ああ、スーツ」

 厳重に丸印がつけられた当日までに準備しなければいけないものを思い出して、立花は思わずそうつぶやく。スーツを買いに行かなければいけない。どこへ買いに行こうか、どんなスーツを買おうか、けれどもそもそも買いに行くのを、薄明が直前になって渋ったりしないだろうか。考えながら、ふと、立花は思いつく。

 思い切り似合わないスーツを選んでやろう。立花が選んで、強くすすめれば、もとより着るものになど頓着しない薄明のことだ、それでいいと頷くに違いない。そうして、自分がどんなスーツを着ているのか、薄明には一度も見せないままで、背中を押して送り出すのだ。その日、招かれている人の大半と、薄明は親しいはずだから、あんまり似合わないスーツを着ていった薄明をからかう人が、ひとりぐらいはいるだろう。もしかすると、三室崎が率先してそれを指摘するかもしれない。ほとんど着たことのないスーツを着ていって笑われたとなれば、いくら薄明だっていい気分はしないだろう。たとえ、他のことが素晴らしかったとしても、その一点だけは、薄明にとってぬぐい去れない不満になるに違いない。帰ってきてから、思う存分、立花へ文句を言うだろう。そして、その日のことを思い出す度に、立花が選んだスーツを着ていったおかげで散々だった、ということも一緒に、薄明に思い出されるのだ。

 その思いつきはとても面白いものに思われた。思わず笑い出して、変にむせて咳き込んでしまうほどに、面白い考えであるように、頭の回らない今の立花には思われた。だから、明日の朝起きてもまだ、今の考えをちゃんと覚えているようだったら、そのときこそ、この思いつきをちゃんと考え抜いて、実行に移そうと、立花は決めた。

「いつ、買いに行くか決めましょうね、薄明さん」

「おお」

 独り言のつもりだったのに返事があって、立花は思わず目を見開く。残念ながら眠気が吹き飛ぶほどではなかったけれども、心拍数が急に跳ね上がるぐらいには、驚いた。しかし、返事はあるけれども、薄明は立花の方を見ない。今の今まで眠っていて、まだ寝ぼけているのだろうか。それとも、顔をあげられない理由があるのだろうか。どちらの可能性も考えながら、立花は口を開く。

「おかえりなさい、薄明さん」

「さっきも聞いた」

「起きてたんだ」

「寝てねえし。でも、もう眠い」

「俺もです。だから、買いに行く日を決めるのは明日ということで」

「分かった」

 薄明の手が、額の下から引っ張り出されて、ソファの背もたれをたたき始める。何かを探すようなその仕草を不思議に思いながら、ああと気付いて、立花は自分の手を差し出した。薄明の指先が立花の手首に触れる。指先はそのまま立花の手首をなぞって、ゆっくり、手のひらへと下る。そっと触れられるとくすぐったい場所を指先が通り過ぎて、薄明は柔らかく立花の手を握った。

「おやすみ、タチバナ」

 薄明しか使わない呼び方で立花を呼んで、薄明は立花の手を離した。寝返りを打って、立花へ背を向ける。すぐに寝息が聞こえてきた。立花は、薄明につかまれた手をゆっくりと、握っては開き、握っては開く。ひどく、手のひらが熱い気がした。

「おやすみ、薄明さん」

 立花が言うのに、もう返事はない。寝息の音に合わせて、ゆっくりと背中が動いている。

 背もたれの上へ手を付いて立ち上がり、立花は一度伸びをする。一番気持ちの良いところで大きな欠伸が出た。二度目の欠伸に、目尻から涙がこぼれる。寝室に行く前に電気を消さなければと考えながら、念のために部屋を見渡すと、南側の窓のカーテンが開きっぱなしであるのに気が付いた。

 立花はその窓の近くへ寄る。窓の脇へカーテンを束ねていた帯を解いて、閉じてしまおうとカーテンの端を掴んだが、少し考えて、手を離した。代わりに、窓の鍵へと手を伸ばす。鍵を開けて、窓を開ける。網戸は逆側に寄せてあるから、すぐそこに、夜の景色が見えた。風は冷たく、首筋を撫でていく。思わず体が震えるのを感じながらも、立花は窓枠を掴んで、少し、ベランダへ身を乗り出し、上を見た。

 黒い空に、星が散りばめられている。誰かに描かれたわけではない遠い星空が、満天の星空が見える。この光は朝になって、太陽が昇るまで、こうして瞬き続けるのだろうと考えて、立花はため息をついた。吐く息は白く、けれどもすぐに、冷たい空気に溶け込んで、見えなくなる。

 ぱちぱちと瞬きをしてから目を凝らし、立花は北斗七星を探そうとする。七つの星が柄杓の形をとった星座は、星に詳しくない立花でも名前も形も知っている。知っている星座の姿を脳裏に浮かべながら、ゆっくりと視線を移動させて星座を探すけれども、いっこうに見つからない。そもそも、南の窓からは「北」斗七星は見えるんだろうか。そんなことを考えて可笑しくなり、口元に笑みを浮かべながら、立花はまだ諦めずに、北斗七星の姿を、遠い星空の中に探す。

 けれども、幾ら時間をかけても、幾ら目を凝らしても、この星空の中に、二つ目の北斗七星を見つけることはないのだ。

 知ってるよ、と自分の声に返事をして、立花は眉根を寄せながら、小さく笑った。見つからない北斗七星の姿を脳裏に浮かべながら星空に目を凝らせば、静かに鼓動を打つ胸が、甘やかに痛んだ。

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