火星人と私

 火星人と暮らしていたことがある。私がまだ制服のスカートを着ていた頃のことだ。

 その夏のはじめ、私は交通事故に遭って、町のはずれの古い病院に二週間ばかり入院していたのだけど、退院して家に帰ったら、火星人が居着いていたのだ。

 彼は一見してそうと分かる姿かたちをしているわけではなかった。映画で見るような火星人、ドーム型の頭にたくさんの触手が生えている、グロテスクな生き物のかたちではなくって、まるっきり私たちと同じ、人間のかたちをしていた。胴体があって、二本の脚が伸びていて、肩があって腕が伸びていて、肩の間には首があって、首の上に頭が乗っかっていた。黒い髪は短く刈り揃えられて、同じ色の縁の眼鏡が、はっきりとした目鼻立ちを幾分か落ち着けていた。眼鏡の奥の大きな目は、あちらへこちらへとよくよく動いて、ひとところに留まることがないようだった。

 そんな様子だったから、入院中の荷物を詰めた鞄を肩に提げたままの私は、家のリビングの真ん中でじっと立っている彼を見たときに、泥棒がそこに居るのかと思って、叫び声をあげそうになったのだ。ただでさえ、久しぶりの家だからということで緊張していたのに、見知らぬ誰かがそこにいて、私の方に注意を向けるでもなく、きょろきょろと部屋の中を見回しているのだから、私の驚きは妥当だった、と思う。ただ、私のせき止められていた息が声として吐き出されようとした瞬間に、彼の目が私を向いたものだから、黒い目が、今度はあんまりじっと動かずに私を見つめたものだから、私はまた、息を止めて口を閉ざしてしまったのである。

 彼の目の黒いのといったら、その時までに私が知っていた誰の目よりも黒かった。じっと見つめられるのを見つめ返していると、そのまま魂を抜き取られてしまいそうな、底の見えない黒色だった。私はそれと同じ黒色を見たことがあった。彼の目は、夜空とまったく同じ黒色をして、ただ、そこにあるべき星の光をまったく欠いていた。満月の夜でさえ夜空には一等星が輝くにも関わらず、だ。だから私は、彼を泥棒だと思ったことも、彼のまなざしに驚いたことも忘れて、彼の目の中の暗い夜空を眺めながら、なんてさびしい空なんだろう、と、身勝手な憐憫を寄せていた。

「はじめまして」

 そう言ったのが彼だと言うことに気が付くのに、しばらく時間がかかったように思う。私が彼の目にばかり気を取られていたせいでもあるし、彼の声が太く低く、安定感すら感じさせるものだったせいもあるだろう。今思い出しても、彼の声というのは彼の様子というのとまったく不似合いだと思うのだ。

 私が詰めていた息をゆっくりと吐き出した声は、彼に向かって「はじめまして」とまるで平凡な返事をしていた。彼がそう言ったのだということに気が付いて、一挙に気が緩んだせいだったのだろう。人が思いがけないことをするのは、大体、ぼんやりとしているときだから。だから私は、目の前に居て私をじっと見つめている彼が、見知らぬ怪しい何者かであることを忘れてしまったみたいに、まるで呑気な返事をして、ソファまで歩いていって、白いクッションの上に鞄を下ろした。学校から帰ってきたときと同じことをしていたわけだけれど、下ろした鞄が白いボストンバックで、その開いた口からのぞいているのが淡いピンク色のパジャマだったのが、ふと私に現実を思い出させた。ひさしぶりに帰ってきた家に、見知らぬ誰かが居るという現実だ。

  鞄の口を手で寄せて閉じておいて、私は彼を振り返った。彼の夜空の目はまだ私をじっと見つめていた。最初に見たときにきょろきょろとしていたのが嘘みたいに、彼のまなざしは私に向かってまっすぐだった。

「どちらさま?」

 私はうわずった声で彼に尋ねた。そのつもりだったのだけど、彼は私の質問に答えずに、ただ、私をじっと見つめるばかりだったから、もしかして私が声を出したのは気のせいだったんじゃないだろうかと、妙なことを思った。勇気を出してもう一度「どちらさま?」と口にしてみる。さっきよりも声は落ち着いていた。そのせいだったかは分からないけれど、彼はゆっくりと大きく、三回、瞬きをした。私の思い出す話の他のどこかには、きっといくつかの間違いもあるだろうけれど、このときに彼が三回瞬きをしたということだけは、絶対に正しくあったことだ。三回の瞬き、というのはとても大事な役割を持っているものだから。

「今、火星と地球の間の距離が一番近くなっているんだ」

 彼の落ち着いた声が、今日のお天気を話すぐらいの気軽さでそう始めた。そうは人に知られていないだろうし、仮に知られていたとしても重要視はされていないだろう、そんな星の話を始めた彼に、私は自然と、頷きをもって答えていた。世の中にとってはそうでなくっても、火星と地球の距離というのは、私にとってはひどく大切なことだった。とても珍しいという程ではないけれど、ありふれているとも言えない、そんな天文のイベントを自分の目で確かめに出たために、私は交通事故に遭ったのだ。夜中に無断で家を抜け出したことを、望遠鏡を持っていった目的を、両親には咎められたけれども、私は自分が悪かったとはちっとも思っていなかった。敢えて言うのなら、運が悪かっただけだ。

 夜空と、ちらつく人工衛星の光と、大きい星の影とを脳裏に思い描きながら、私は彼を見つめ続けた。彼の目の中にはやっぱりなんの光も映り込んでいなかった。星のことをしゃべっているにも関わらず。

「つまり、遮る物がないから楽に来られるんだよ」

 彼のゆっくりとした声が続けることに、今度は私が瞬きをした。彼の言葉をそのまま受け取れば、彼は、地球との間を遮るものが何もないこの間に、火星からやってきたということになる。突拍子もない話だ。今ならばそうして一笑に付して終わりにすることも出来るだろうけれど、まだ制服のスカートを穿いていた私は、彼のそんな言葉を疑いこそすれ拒絶はしなかった。いや、疑うという結果は信じようとする過程から生まれるものだから、私は彼を信じようとしたのだろう。ただ、出身地に火星という場所を据えることは、ひどく常識から外れてはいたもので、流石にそのまま彼の話に頷いているわけにはいかなかった、ということだ。

 私が戸惑いを隠さないで彼を見つめ続けていると、彼は軽く閉じていた唇を開いて、息を継ぐ気配すら感じさせずに、とても落ち着いた声で、続きの言葉を口にした。

「僕は火星から地球に来たんだ。火星人と呼ばれるのかもしれないね」

 彼はにこりともしなかった。そういう風に、ユーモアの欠片も見つけられない彼の言い分を、私は、結論から言えば、信じることにしたのだった。


 火星人たる彼がうちに来た事情というのはいまいちよく分からなかった。両親がそれについて口を噤んでいたからである。私の居ない間の他のことには、不機嫌そうでも答えはするのに、「彼はどうしてうちに来たの」という問いには、二人そろって唇をきつく閉ざし、そっぽを向いた。

 それである日、彼に両親へ尋ねたのと同じことを聞いてみると、彼は三回瞬きをしてから、右手の人差し指を天井へ向けた。

「神様に言われたんだ」

 かみさま、という言葉を人の口から聴くなんて滅多にないことだから、「かみさま?」と思わず聞き返した私の声は、うわずってひっくり返る直前だった。彼が火星人だということよりも、彼が口にした「神様」というものの方が、私にとってはよっぽど信じがたかった。だって、火星はちゃんと空に浮かんでいるけれど、神様の居場所はどこにも決まっていないんだもの。

 けれど、彼は自分を火星人だと名乗ったときと同じ、にこりともしないまま、真面目な調子で続けてみせた。

「お前の居場所はこの星にはない。残念なことだが、仕方がない。だが、あの青い星に行ってごらん。地球という星だ。この赤く煤けた星とは随分と様子が違う星だ。あそこに行ってごらん。きっと、お前は大切なものを見つけられるだろう。そうしたら、またこの星にお前の居場所も見つかるだろう」

「……それは、あなたがかみさまに言われたこと?」

「うん」

 彼は頷いて、天井に向けていた指を動かし始めた。指先はゆっくりと円を描いていた。私の目はその指先を追いかけていて、目は回らなかったけれど、ゆっくりと、意識が軽くなっていくような気がしていた。

「あの星の上は寒いんだ。地面はいつも凍っている。風は刺すみたいに痛い。とても散歩なんてできやしないだろう。火星人の家はその寒さをしのげるぐらい立派に作ってあるから、家の中はとても暖かいんだ。でも、ある日僕の家が壊れてしまったんだ。ひどい嵐がきて、壊れてしまったんだよ」

「壊れたなら、直せばいいじゃないの」

「材料がないんだ。火星は資源不足でね、人が増えすぎたから。だから、壊れた家を直す材料なんて無かった。僕を住まわせてくれる家だって無かった。それで僕は途方に暮れていたんだ。丘の上で、他の星がよく見えるところだった。そうしたら、神様が僕のところにやってきて、そう言ったんだ」

 低く落ち着いた声が語ることには、まるで嘘なんてないみたいだった。彼が火星にいたことも、火星の上が寒いということも、彼の家が壊れてしまったことも、困っている彼の前に神様が現れたことも、全部が全部本当のように聞こえた。疑わなかったわけじゃない。けれども、あくまでそれは疑いだった。私は彼の言うことを信じようとしていたのだし、結局、信じることにしたのだ。「大変だったね」と言うと、彼はまた、にこりともせずに「全くだ」と頷いた。

 そうして、彼が地球にやってきたのは火星で居場所をなくしたからだということが分かったけれど、彼がどうして地球の中でも私の家を選んでやってきたのかは分からなかった。分からなかったけれども、そんなことはもうどうでもよくなっていた。すぐに怒鳴り始めるお父さんより、いちいち私のことを咎めるお母さんより、彼とすごす時間の方が、私にとって心地の良いものだった。彼がここに来たわけを分かるよりも、彼と一緒に今、過ごすことの方が私にとって大切だったのである。


 そうやって、彼と過ごす日々はいつのまにかひと月近くにもなっていて、八月がもうすぐ終わりを迎えそうになっていた。九月がやってくる。九月がやってきたら、学校が始まる。私は、それを思って憂鬱だった。学校が始まったら、制服を着なければいけない。シャツを着て、ボタンを一番上まで留めて、ネクタイを締めて、ベストを着て、スカートを着て、白の靴下をはいて、革のローファーを履かなければいけない。私が嫌なのは、スカートをはくことだった。その頃の私はまだ制服のスカートを着ていたのだけれど、スカートを着るのが本当に嫌だった。どうして嫌だったのか、理由を説明しようとしても、それにぴたりとくる言葉というのは、未だによく分からない。ただ、スカートの裾から伸びた自分の白い足が目に入ってしまう度に、目眩がしたし、吐き気がひどくて立っていられなくなるほどだった。梅雨の明けた頃からそんな調子だったから、私はほとんど学校には行っていなかった。両親はそんな私の様子を煙たがっていて、そう感じているのを隠そうともしなかった。ズボンを履いて夜に出かけることは平気だったから、余計にそうだったのかもしれない。だから、私が夜中の道路で事故に遭ったときには、ふたりとも私を責めたのかもしれない。

 部屋の鏡の前には、制服が吊されていた。夏服のベストの下に、灰色の、タータンチェックのスカートがある。それ着ている自分を想像したら、やっぱり吐き気がした。九月からはちゃんと学校に行きなさいと言うのが、両親の口癖のようになっていた。私はそれに頷いていたし、何より、私自身だって学校に行きたかった。部活動の時間は好きだったし、授業だって遅れに遅れていたから。ただ、制服を前にして想像をしてみると、これを着て学校に行くことなんて不可能のように思えた。

 憂鬱を腹の底に溜めながら制服をじっと眺めていた私の頭に、不意に、おかしなアイデアが舞い降りた。制服がなくなれば、学校に行かなくても良いんじゃないだろうか。そんな思いつきだった。その思いつきは正しく思われた。学校に行くには制服を着ていなければならないのだから、制服がなければ学校に行けないというのも正しいだろう。

 そうと決まれば、私の行動は早かった。制服をカーテンからひったくって、部屋に転がっていた紙袋に詰め込んだ。その紙袋だけ持って、階段を駆け下りて、玄関に向かった。制服を捨てに行こうと思った。サンダルを引っかけて、ドアを開けようと思ったら、ドアノブが遠ざかった。ドアが開いて、彼が家に入ってこようとしていた。

「おかえりなさい」

「ただいま。出かけるのかい」

「うん。制服を捨てに行くの」

 彼相手だったから、私は何も考えずに、今からしにいくことを正直に伝えた。彼は私の持つ紙袋をじっと見つめた後、今度は私の顔をじっと見つめて、「そうか」と頷いた。怒っている様子はなかった。咎められる気配もなかった。ただ、「僕も付いていってもいいかい」とだけ、彼は言った。断る理由もなかったから、私は彼が支えてくれているドアから外に出た。かんかん照りの太陽が眩しかった。八月の真昼というのは、眩しくて暑くて仕方がないものだ。汗を流してでもその中を歩くには相応の理由が必要だと思うけれど、その日の私にとっては、制服を捨てに行く、というのが大きな目的だった。それを達成するためには多少の暑さは我慢が出来たし、汗で着ているシャツがびっしょり濡れてしまっても、我慢が出来た。ただ、ほんの少し歩いただけでそんな有様だったから、毎日歩きに行く彼はすごいなあ思った。そのとき一緒に歩いている彼は、汗一つかいた様子がなかったから、火星人というのは暑さに強いのだなあと考えていた。

「どうしてまだ着られる服を捨てに行くんだい」

 彼が歩きながらそう言った。曲がり角を曲がると、彼の影が私の方に落ちてきて、ほんの少しだけ眩しさと暑さとが和らいだ。私は瞬きをして、紙袋の中に視線を落とした。制服がくしゃくしゃに丸められて、紙袋に押し込まれていた。私の悩みの種はこんなにも小さくなってしまうものなのか、と思ったけれど、そう考えた瞬間に紙袋が随分と重たくなったような気がした。

「着たくないの」

「そう」

「……それだけ?」

「だって、着たくない服を捨てに行くなら、普通のことじゃないか」

 彼の言うことはもっともだった。確かに、もう着ない服を捨てる、ということはとても普通のこと、当たり前のことで、誰かに後ろめたいようなことではない。けれど、自分のしていることを彼にそうして肯定されると、何か妙な反発心みたいなものが芽生えて、私は後先考えずに「でも」と逆説のための言葉を口にしていた。その後何と言うかは、本当に何も考えていなかったから、私は一度唇を閉じてしまった。でも、彼が全く私から目を逸らしてくれそうにないから、何と言うかを考えながら、私は口を開いた。

「でも、私は高校生だから学校に行かなくちゃいけないんだよ。学校に行くには制服がなきゃ」

「行きたくないなら行かなくていいだろう。それとも、学校には行きたいのに、制服を着たくないの?」

 彼の問いかけというのが、あまりに的確に私の核心を突いてきたので、私は思わずその場に立ち止まった。彼は私より三歩先に行ったところで立ち止まった。そして私の方を振り向いたけれど、いつものように、黒い夜空のまなざしが私を見るばかりだった。私は考えるしかなかった。彼に尋ねられたことを、それへの答えを、私は一生懸命考えた。立ち止まった場所はちょうど影のない場所で、むき出しになった肌に日射しが痛かった。

「……制服は着たくない」

「うん」

「でも、学校には行きたい」

「行けばいいさ」

 彼がそう言うと、私の思っていることと言うのはまるで簡単に実現できることみたいに聞こえた。そうでないのは私が一番よく知っていた。だから、彼の答えに腹が立って「学校に行くには制服を着なきゃいけないの!」と声を荒げた。私の立たされたジレンマというのはそういうことで、だから私は身動きがとれなくなっていた。それを彼が分かっていないような気がして、私は声を荒げたのだ。そして、私の感じたことというのは、またも全く正しくて、彼は私のジレンマにはちっとも理解を示していなかった。代わりに「どうして制服を着るのが嫌なんだい?」と、私の立ち止まっていた悩みごとに、するりとメスを入れてきた。

 そうやって改めて聞かれてみると、そして正しいことを答えようとしてみると、本当に難しかった。制服を着て、学校に行っていた頃のことを思い出そうとした。薄暗い階段の踊り場に、大きな鏡があった。私が階段を急いで駆け下りるときには、スカートの裾がふわりと翻っていた。それが嫌だった。

「スカートを着たくない」

 私はそうして彼に答えた。彼はゆっくりと三回、瞬きをして、「そう」と落ち着いた声で言った。私の言ったことを否定しなかった。それに私はほっとして、膝の力が抜けてその場にくずおれそうになった。そうしなかったのは、彼が「じゃあ、行こう」と言うと、私に背中を向けて、歩き始めたからだった。私は慌てて彼を追いかけた。彼が歩き始めた理由がよく分からなくて、びっくりしていた。彼の行く方向は私が行こうとしていたのとは当然、逆方向で、駅前の商店街に入る道を選んでいるようだった。迷う様子もなく細かく角を曲がっていく彼を、私は軽く走りながら追いかけた。彼とは脚の長さが違うから、彼が大きな歩幅ですたすたと歩いていくなら、私は走りでもしないと、すぐに彼を見失ってしまう。

 裏道を過ぎて、商店街の大通りに出ても、彼の歩調は緩まなかった。人並みの隙間を縫って、すたすたと歩いていくから、私はやっぱり軽く走りながら彼を追いかけた。もしかすると知っているひとが私たちのことを見ているかもしれない、という考えがちらりとは頭の隅をかすめたけれど、それどころじゃなかった。やっぱり、彼の目的というのがまだ分からなかった。

 それがおぼろげながら理解できたのは、彼がある店の前で立ち止まったからだった。そこは、学校の制服を売っている店だった。近所の小学校や中学校の制服は、あるいは指定の体操服はこの店で売っていて、この辺りに住んでいる子どもたちはみんなここのお世話になるのだ。彼はじっとその店の看板を見上げていたけれど、私が少し遅れて彼の後ろに立ち止まると、私をの方を振り向いた。

「ここで、スカートじゃない制服を買えば良いよ」

 私はぽかんとしながら、彼が言うのを聞いていた。彼の提案は、私の悩み事を解決してくれそうな、たったひとつの冴えたやり方だった。制服は何もスカートだけじゃない、それは私が一番よく知っていることだ。私と性別の違う子たちはみんな、制服のズボンを着ている。それで学校に通っている。確かにそれと同じようにすれば、私はスカートじゃない制服を着ながら、学校に通うことが出来る。妙案と呼んで差し支えないだろう彼の提案を、私がすぐには承諾しかねたのは、色々のことを考えていたからだ。彼の提案を受け容れたときに起こりそうなことを考えていた。

 両親はひどく怒るだろう。あれだけのぞんでいたことなのに、私が学校へ行くことを必死になって止めるかもしれない。先生たちも怒るかもしれない。風紀が乱れる、とかなんとか言って。クラスメイト達は、遠巻きに私を眺めているだろう。仲の良かった子達も、その遠巻きの壁の中に入っているだろう。

 けれどひとり、たったひとり、私がそうしてスカートじゃない制服を着ていったところで、今までと何も変わらず、一緒に部室の絨毯に寝転がって、天井のプラネタリウムを眺めてくれそうな奴が思いついた。そいつは私の味方じゃなかったけれど、敵でもなかった。私が学校に行かなくなっても家に会いに来ることなんかなかったし、病院にお見舞いに来てくれたのは一回きりだったし、そもそも私の心配なんかしない奴だった。でも、誰より私の隣に居てくれる奴だった。そいつは、私がズボンを着て学校に行ったって、驚きも何もしないで、「似合うじゃん」とでも言って笑っているだろう。

 だったら、構わないか。そう思った。スカートじゃない制服を着ても胸を張っていられるような気がした。平気で、学校に行けるような気がした。

「じゃあ、そうする」

「そうかい」

「でも、ここじゃ買えないよ」

「どうして?」

 彼が本当に不思議そうに首を傾げた。その様子が可笑しくて、私は久しぶりに笑った気がした。

「だって、ここで売ってるのは中学校までの制服。高校の制服は、売ってないの」

 私はそうやって説明したのだけれど、彼はいまいち分かっていないようだった。私のもつ紙袋の中身と、店の看板とを見比べて、また首を傾げていた。私はやっぱりその様子が可笑しくて、彼がたっぷり五回はその動作をし終えた後に、「別の駅に行こう。そこで買えるよ」と今度は私が彼を誘った。彼はしばらくの間、じっと固まって、私の顔を見ていたけれど、もう一度店の看板を見上げてから、ゆっくりと頷いた。


 彼と私はそのまま電車に乗って、ふたつ隣の駅で降りた。その駅は私の通う学校の最寄り駅で、広場には私が紙袋に詰めたのと同じ制服を着た女の子達が、集まっておしゃべりをしていた。私の知っている子かは分からなかった。今度は私の方が前に立って歩いていたから、彼がちゃんとついてきているかを確かめるのに一生懸命で、その子達のことをちゃんと見ている余裕なんてなかった。

 広場を通り過ぎて入ったビルの地下の洋品店で、学校の制服を取り扱っていた。八月の終わりだからなのか何組かの親子連れが店の人と相談をしていた。私と彼はその横をすり抜けて、店の中に入って、折りたたんで棚に置かれている制服のズボンを見つけた。スカートに使われている生地よりもシンプルな、灰色一色のズボンだった。サイズが何種類かあったけれど、ちょうど一着残っていた一番小さいサイズが私にぴったりのようだった。私がそれを棚からとると、後ろから、手の空いたらしい店員さんが「おきまりですか」と声をかけてきて、私は振り向いたのだけれど、エプロンをつけた店員さんは、私の持っているものと私の顔を見比べて、不可解そうな顔をした。

「これをください」

 そんな店員さんの様子などまったく気にしていない様子で、彼の低い声がそう言った。その声がなかったら、私は店員の様子にひるんで、ズボンを棚に戻してしまったかもしれない。彼が言ったのへ、店員さんはびっくりして、瞬きをくり返していた。

「これを、ですか?」

「そうです、これをです」

 彼は店員さんの動揺した様子をまったく気にしないで、私の持っている灰色のズボンを指さした。そして、店員さんが動かないのをどう思ったのか、「お金ならちゃんとありますよ」と、言葉を続けた。

 そうしたら店員さんはようやく自分の仕事を思い出したのか、私の手からズボンを受け取ると、レジの方へとせかせか歩いて行った。お金は、どこから出したのか分からないけれど、彼が自分の財布から支払った。「後で返すね」と言うと、彼は黙って頷いていた。そして、店員さんがビニール袋に入れてくれたズボンを受け取ると、それを黙って私にくれた。

「ありがとう」

 彼は、返事をしなかった。ただ、珍しく、口元を少し緩ませて、微笑んでいた。

 買ったズボンを紙袋に入れて、私と彼は来た道を戻った。広場に出ると、制服を着た女の子達はまだおしゃべりを続けていて、気のせいか人数も増えているようだった。日はまだ高かった。来たたときとは逆に行く電車に乗って、ふたつ隣の駅で降りた。降りたホームには、私と彼以外の誰も居なかった。

「火星にはどうやって帰るの」

 ふと、私はそう尋ねた。どうしてそれを、そのときに聞こうと思ったのか、私はまったく覚えていない。誰も居ないホームを、影の落ちたコンクリートを、遠くで鳴く蝉の声を、八月の終わりが近付いていることを、ふと切なく思ったせいかもしれなかった。彼も八月のように、遠くに行ってしまうのかもしれないと、不意に思いついたせいかもしれなかった。

 彼はゆっくりと三回瞬きをして、「分からない」と言った。それから、人差し指を青い空へ向けると「神様が迎えに来てくれるから」と当たり前のように言った。「だから、僕が分かっていなくても、大丈夫」という彼の声はやっぱり低く落ち着いていて、嘘を言っている風には見えなかった。だから私は、きっとそうなんだろうと、彼を信じることにした。そして、彼は神様が迎えに来るまではここに居るんだと、安心していた。

 駅を出て、商店街を通り抜けて、私と彼は家には向かわなかった。むしろその逆の方へと、私が前に立って歩いていった。私が事故に遭った場所、中学校の裏山へ、私たちは向かっていた。彼はそんなこととは知らなかっただろうけれど、私の後を黙ってついてきていた。時折、道の小石にけつまずいているようだった。彼は意外と不器用みたいだった。

 中学校の校庭の横の道路を通り過ぎると、裏山への入り口がある。山の天辺を過ぎたところに小さなお社があって、鳥居も何もないけれど、それへの参道ということだった。石の階段をその通りに登っていった途中で、右の方に逸れる。林をかき分けてすすむ形になるのだけれど、入り口の藪を越えてしまえば、後はもうほとんど道が出来ている。私が、楽に通るためにした工夫だった。入り口はばれないように、けれども、なるべく楽に先へ進めるようにしたかったのだ。

 ひとりが通るのがやっとの狭い道を抜けると、木の倒れて少し開けている場所があって、そこは私の秘密の場所だった。切り株を椅子の代わりにして、星を見るための場所だった。ただ、私はもうひと月近くもここへ来ていないのに、最近人が来たような跡があった。新聞が転がっていたり、草が一ヶ所不自然にむしられていたりする。

「ここは、君の場所だったのか」

 私の後ろで彼がそう言った。「いい昼寝の場所を見つけたと思っていたんだが」と彼は続けて、それから「君に悪いことをしたな」と、口元を押さえて言った。

「あなたならいいよ」

 私は彼にそう言った。すると彼はぱっと私の方を見て、夜空と同じ黒い目で私を見て、ゆっくりと一度、頷いた。「ありがとう」と言って、彼は近くの木の幹にもたれかかる。切り株の上には、私の持ってきた紙袋が置かれている。

 紙袋の中の一番上に置かれたビニール袋から、灰色のズボンを取り出す。履いているズボンを脱いで、真新しいそのズボンを履いた。タグがひっかかって邪魔だったけれど、ウエストはぴったり、ちょうどだった。スカートは避けておいて、Tシャツの上からシャツを着た。シャツのボタンを一番上まで留めると、息苦しい上に暑かったけれど、我慢して、ネクタイを締めた。それから、夏服用のベストを上から被った。膝をあげてみる。降ろしてみる。逆の膝もあげてみる、降ろしてみる。違和感は特になかった。大丈夫だった。

「似合う?」

 私は彼に聞いた。彼は私の格好を足先から頭の天辺までさらりと眺めると、首を傾げて、頷いた。

「おかしくはない」

 答えになっているのか、なっていないのか、いまいちはっきりしない言葉だったけれど、私はそれが聞けて満足だった。九月からはこれを着て学校に行こうと、改めてそう決めた。

「余った服はどうするんだい」

 彼が言っているのはスカートのことだとすぐに分かった。彼が紙袋の方をじっと見ていたから。確かに私がこういう風に制服を着るとスカートは余ってしまって、どうするも何も決めていなかった。私が答えかねて黙っていると、彼は紙袋を指さす。

「僕が着てみてもいいかい」

 断る理由はなかった。でも、彼の言い出したことは私の想定を越えていることだったので、私はすぐには声が出なかった。ただ、首を動かすことは出来たので、ゆっくり一度頷いて、彼に返事をした。

 彼は、切り株の上の紙袋から、私の制服のスカートを取り出した。彼の手がスカートを広げて、ウエストのホックを外し、チャックを下げた。それを膝の辺りまで降ろすと、脚を片方ずつスカートのウエストの輪の中に入れて、それから、スカートを腰まで引っ張り上げた。彼はそこでホックを留めようとしたようだったけれど、しばらく手元を動かして、諦めたようだった。チャックだけを閉めるから、ホックのところが浮いて、ウエストがそこだけ妙な形になっている。

「似合う?」

 私が聞いたのと同じことを、今度は彼が聞いた。灰色のタータンチェックのスカート。膝よりも上の丈で、その下からは、ジーンズをはいた脚が伸びて、地面を踏みしめている。靴の爪先は外を向いていて、スカートをはいているのにがにまたになっていた。

「おかしいよ」

 私は感じたままをそう伝えた。彼は、自分の足元と、自分のはいたスカートを順にじっと見つめて、それからまた私を見た。「そうかな」と彼が言うから、私は「そうだよ」と返したのに、彼は私の言うことが腑に落ちないみたいに、もう一度、自分の足先と、スカートとをじっと見つめているようだった。

 本当におかしかった。あんまりおかしかったから、私はそのスカートを彼にあげてしまうことに決めたのだ。


 そして九月がやってきた。

 両親は早くに仕事に出かけてしまうから、私が最後に家を出るのだった。彼がどうするのかは分からなかったけれど、玄関まで私を見送りにきてくれた。私は制服のズボンを着ていた。彼は今日は、スカートははいていなかった。

「行ってきます」

「いってらっしゃい」

「学校でどんなだったか、報告するね」

 私が言うと、彼はゆっくりと頷いて、口元を少し緩ませていた。黒い目の端に、きらりと何かが輝いた気がした。その輝いたのが何なのか、私は確かめたかったけれど、電車の時間が近づいていたから、すぐに家を出なければいけなかった。名残惜しさを感じながら、私は玄関のドアを開けて、外に出た。ドアを閉めるときに、隙間から見えた彼は、私に向けて手を振っていた。

 いつも乗っていたのと同じ電車に乗って、いつも降りていたのと同じ駅で降りて、いつも歩いていたのと同じ道を歩いて、学校に行った。校門を入ってしばらく入ったところで先生につかまって、始業式の間中問い詰められた。それは、私が制服のズボンを着ていったからだったけれど、私が彼と生徒手帳を確認して打ち合わせた通り、「校則のどこにも、女子がズボンを着てはダメとも、男子がスカートを着てはダメとも、書いていません」とだけ言って、後は黙っていると、ホームルームが始まる頃には解放された。

 誰も居ない廊下を歩いて教室に入ると、クラスメイトの視線が一斉に私を向いた。一瞬、ざわめきが大きくなって、それからすぐに静かになった。いや、私の方に声が聞こえないように、みんなが気をつかっているようだった。やっぱりなあ、と思いながら、私は自分の席に向かった。窓際の隣の列の、一番後ろ。他が埋まっているのにそこだけが空いている席。その左隣の窓際の席に座っている奴だけが、教室に入ってきた私をじっと見て、視線を逸らさなかった。

「はよ、亜子」

「お早う、薄明」

「どーしたん、その制服」

「まあ、ちょっとね。似合う?」

 カバンを机の横にかけて、椅子に腰かけながら私がそいつに尋ねると、そいつは「うん」と、何のためらいもなく頷いた。

「似合うじゃん」

 そう続けて言うそいつの笑顔が何だか憎らしくて、私は「そっか」と呟いてから、そいつのことを肘で小突いたのだった。


 それが私——いや、僕が、学校に制服のズボンを着ていくことになった経緯だった。一通りを語り終えて、僕は喉の渇きを感じていた。ただ、残念なことに、机の上のコップは空になってしまっている。はじめ、コップのお茶を用意してくれた相手は、僕の話を聞き終えて、黒い目を興味深げに僕の方へ向けているから、おかわりを頼むのも頼みづらかった。そうだ、この子の目は彼によく似ている。ふと、そんなことを思った。

「面白い話だったけど、火星人は?」

 空が不思議そうに首を傾げてそう言った。もっともな疑問だと思う。ただ、その答えとして僕が返せる言葉ときたら「さあ、どこへ行ったんだろうね」なんていう、曖昧なものでしかなかった。

「その日僕が家に帰ったら、もう居なくなっていたから、分からないんだ」

 続けて言ったことというのはまるっきり本当のことで、僕がそうしてズボンを着て学校へ行った日、家に帰ったら、そこには誰も居なかったのだ。彼が居たことがまるで夢だったみたいに、彼の着替えも、彼のコップも、彼の歯ブラシも、家のどこにももう置かれていなかった。ただ、僕が彼にあげたスカートも一緒になくなっていたのだけが、彼がそこに居たことの名残のようだった。

 なんともしまりのない幕切れだが、火星人と僕の話は、本当にそれでおしまいなのである。実際にあったことがこれなのだから、仕方がない。仕方がないけれど、未だに二年と少しごとに、彼のことを思い出しては少し寂しい気分になる。火星が赤く、夜空に輝く頃だ。

 今年ももうすぐその時期がやってくる。火星が地球に近くなる時期、火星人が地球にやってくるのに最適な時期。彼にもう一度会えるだろうかとほんの少し期待をして、そして期待を裏切られる時期が、やってくる。

「あ、お茶、おかわり、淹れるね」

 ぼんやりと僕の方を見ていた空が、そう言って、コップを持って立ち上がる。

「ちゃんと、火星に帰れてると良いね。その火星人」

 空はにこりと笑ってそう言ってから、台所の方へ歩いていった。自分の部屋じゃない部屋にぽつんとひとりで残されて、居心地の悪いような気もしたけれど、それよりも、空の言い置いたことが、僕の胸を穿っていた。

「……そうだね」

 僕の呟きは自分にやっと聞こえるぐらいで、台所に居る空には聞こえないだろうし、当然、火星にも届かないだろう。それでも僕は、彼と過ごした日々を感謝しているし、彼が今も何処かで健やかであることを願っている。そして、もし彼の目の中に幾らかの星が光っているのならば、それだけで充分だと、最後に見た彼の姿を思い浮かべながら、祈っている。

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