三章
リカバリー
兄が帰って来た。
いつものように真夜中に近い時刻に。
ただ、いつもと違って、兄は猫を連れていた。
来ているスーツと同じ、黒い色の猫を、腕に抱えていた。
「ただいま」と兄が言って、「お帰り」と私が答える。
そこまではいつものことだったが、「風呂に入っても良いか」、と兄が尋ねたのは、いつもと違った。「シャワーで良いなら」、と私が答えると、兄は「それで良い」と言って、フローリングの廊下を抜け、リビングに腕の中の猫を放してから、脱衣所に消えた。
猫は、その場所から動かなかった。
兄の着替えに、父親の衣服を脱衣所に持っていった時、それだけ脱ぎ散らかされた黒いスーツに、わずかに血の染みがついているのを、見つけた。
それから一週間、一人と一匹は、この家に居着いている。
朝は私が登校する頃起きる。兄も、猫もだ。
兄は猫を抱えてリビングのソファで眠り、猫も兄の腕から逃げないのだ。
兄が起きると、一緒に猫も起きる。ベッドの横の床に降りて、前足で顔をこする。その横で、兄は大きく伸びをする。
朝食を食べるようにだけ言い残して家を出る。兄はまだ少し寝ぼけた風に、玄関先で少し手を振った。猫は兄の足下できちんと座っていた。
そして、下校すると、兄はまだ帰っていない。朝食の食器が、乾燥機にはいっている。
猫は、私が帰って来てもはしゃがない。きちんと座って、ソファの下に隠れている。
不思議なことに、猫は兄にだけじゃれついて、私には懐こうとしなかった。私がいても寄ってこないのはもちろんのこと、餌や水を置いておいても、それらに口を付けることはない。懐かない、というよりは、信頼されていない、というのか。
ソファの下で、じっと座っている黒猫を、色々の家事をこなしながら、私は見た。
動いている猫を見ることになるのは、兄がどこからか帰って来てからだ。兄が扉を開く前に、足音を聞いてだろうか、猫は、ソファのしたから玄関まで、一直線に走っていく。そして、兄が入ってくると、その足下にすり寄っていく。兄は少し驚いて、そして嬉しそうに、一番最初に猫に挨拶をする。
次に、その時間大抵は台所にいる私に。
夕食の時には兄が猫の食事を用意して、私が人間の食事の支度をした。
食卓ではあまり会話はなかった。私と兄が食器を動かす音や、猫が餌を食べる音が、静かなリビングで良く通った。
時々話すことといえば、その日の天気のことや、夕食のメニューについてだった。互いに互いの生活を詮索することはない。聞こうと思えば聞けることはいくらでもあったが、私も兄もそうしなかった。私は、学校も仕事もこの街にはないはずの兄が、昼間どこに行っているかなんて知るよしもなかったし、兄にしたって、私が一人で家に残ってまで通っている学校でどんな顔をしているかなんて知らないに違いない。
別に一緒にいるだけで、暮らしているなんて思っていなかったからか。
そういう意味でならば、私と兄よりも、兄と猫の方がよっぽど一緒に暮らしていた。
何故私が兄の存在を許容しているかといえば、それはここが兄の家でもあるからだ。兄の生家と私の生家がたまたま同じだっただけ。血の繋がりや肉親の情なんて感じていない。ただ、帰って来るべき場所が同じだけで、きっと、いつも電車で同じ車両に乗り合わせる人、ぐらいの重要性しかない。
どの車両に乗るかを決める権利は、私ではなく兄にあるのだ。だから、兄がここにいることは否定しない。
兄の分の家事も私がしたが、それだって自分の生活リズムを崩されたくないからだった。余計な介入をされたら困る。それは兄も同じ気持ちではなかったか。
ただ、スーツについた血の染みだけは、私にはどうしようもなくて、仕方なくクリーニング店に持って行った。
丁度一週間、引取りの日である。
土曜日だったので、いつもと同じ服を来て、出かける準備をしていた。
洗面所で髪を整えていると、兄が目元をこすりながら入ってきた。私は少し体を右によける。
兄は無言で、コックをひねって水を出し、顔を洗った。私はその間手を止める。
壁にかけてあるタオルで顔を拭き、手ぐしで髪を整える。そして、少し首をかしげながら、私の方を見た。
「……相変わらずの格好だな」
兄には言われたくなかった。しかも、苦笑を浮かべながらなんて、最悪だった。
相変わらずならば、兄の方が当てはまる。帰ってきてこの方、ひげをそっているところも髪をちゃんとくしで梳かしているところも見たことがない。
それを口に出してやろうかと思ったけれど、止めた。
「髪、結ってやろうか」
兄が、私の手の中のリボンを指差して言った。少し考えた後、頷く。兄の左手が私の手から黒のゴムと、リボンとをとった。
他人の指が髪を梳く。何となく、くすぐったい感じがする。
「くし使えばいいのに」
「少しぐらい適当な方が良いんだよ。……高さ、これぐらいで良いか」
頷くわけにもいかず、うん、と答える。兄は、ゴムで髪を束ねて、白のリボンを束ねた髪の根元に巻き付けた。
「弓兄、どうして猫を拾ってきたの?」
ふっと、私はそんなことを口にしていた。何の意識もなく、自然と口から出た言葉だった。水面に浮かんでいた泡がはじけたように。
しかも、どうして帰ってきたかではなく、どうして猫を拾ってきたかだった。
そう、どうして、猫と一緒に暮らす気になったの?
口にした後に、自分がそれを疑問に思っていたことに気付いたくらいだったけれど……
兄はリボンを結びながら、俯いていた。
「——似てたから、な」
そういう声には、どことなく弁解の色があった。
髪を結ってもらった後。いつものように朝食を準備してから、家を出た。
まずクリーニング店で兄のスーツを引き取る。それをそのまま駅のコインロッカーに預けて、電車に乗った。
周囲の視線は多少気になるけれど、無視することが出来るようになった。電車の窓ガラスに映る自分は、髪を結ったリボン以外に、身につけているものは全て黒い。黒といっても、素材によって光沢や、しわの寄り方も違うから、同じ色には見えないが。
昔は毎日兄に髪を結ってもらっていたものだ。昔、まだ兄と一緒に暮らしていた頃は。
別に悲しくも懐かしくもなかったが、溜め息が出た。きっと、また一つ泡がはじけたのだろう。
電車を降りて、繁華街に向かった。待ち合わせまでは三十分あったので、ベンチに座って、もってきた本を読んで時間を潰すことにした。
帰ってきたのは夜の十一時。何故か家の中は暗かった。
両手に、兄のスーツも入っているのだが、荷物を持っていたので、電灯をつけるのに苦労をする。
手探りで廊下とリビングの明かりをつけると、私はまずリビングに向かった。
兄が、ソファにもたれかかっていた。
腕の中には猫がいて、兄はその顔をのぞきこむように、下を向いている。
寝ているのかと思って、物音を立てないように、両手の荷物を床に置いた。
「糸」
起こしてしまったのかと思って、びくりとしたけれど、兄は下を向いたままだった。寝言かと、一瞬、考える。
「どうして、俺は、こういう風なんだろう」
再び、兄が下を向いて言ったので、寝言ではないのだと分かった。そしてようやく、兄の声が僅かに震えていることに気がつく。
少し、ソファに近づいた。
「ほかにも色々選択肢はあるはずなのに、いつも同じ物を選んでしまうんだろう」
兄の腕の中の猫の、黒くて艶のある毛並みが見える。猫の胴には、対照的に白い兄の腕が添えられていた。
ただ、奇妙なことに、上を向いているはずの猫の、緑色の目が見えなかった。
「糸、俺は……」
私は、兄がいるのと反対側のソファの端に腰掛ける。ほんの少し、反発力。その抵抗感が大切。
ただ。兄は少しも動かず、猫も少しも驚かなかった。
私は、目を凝らして見る。
「俺は、捨てられた猫になりたい」
兄の腕の中の猫は、安らかに目を閉じて、眠ったように死んでいた。ようく見ると分かった。その猫の背は、呼吸で上下していなかったから。
「誰で良いから、拾ってくれる人がいるかも知れない、捨て猫になりたい」
兄は、猫の死骸を抱きながら、いつの間にか震えの消えた声で、言った。
猫は、死んだというのに綺麗だった。
「糸、俺は、猫になりたいよ」
兄が言う。私は、兄の腕の中の猫の死骸を見ていた。その視線さえ拒否されたように感じた。
でも兄は、この猫にだって捨てられてしまったのだ。
それでも、兄は気付かないのだろう。兄がしたのと同じように、たくさんの人が全てを捨てていくことには、気付かないのだろう。誰も、それを悲しいとも懐かしいとも思わない。誰かを恨んだり、忘れないと誓ったりはしない。その傷痕を風化させて、痛みを麻痺させていくのだ。
私は自分の疑問に自分で答える。
何故猫を拾ったのか。それは、捨てられたことを忘れていなかったからだ。
兄は、決してそれを忘れない。
次の朝、兄の姿は家になかった。猫の死骸も一緒に消えていた。
私の荷物の中にあったスーツまできちんとなくなっていて、針金のハンガーとビニールだけ、ダイニングのテーブルに残されていた。
そのハンガーの下に、メモが一枚挟まれていた。
帰る、と一言。名前を添えて。
それと一緒にそろえられていたのが、私が毎朝兄に作っていたのと同じ、朝食だった。
「何のつもりだよ、全く……」
舌打ちをしかけて止める。代わりに、メモをくしゃくしゃに丸めて、ごみ箱に投げた。ふちに当たって、床に落ちる。
一瞬だけ、ごみを捨てなおすのが面倒になった。
首を振って天井を仰いでから、ごみ箱まで紙くずを取りにいく。
本屋の白いビニール袋の中に、猫のものと思しき黒い毛が、大量に捨てられていた。まさか死骸から毟ったのではあるまい。掃除できなかったソファの周りに落ちていた分を、兄が手で拾って捨てたのだろうか。それはなかなか、面白い光景だ。
見たところ、猫の痕跡はそれ以外、何も残されていないようだった。
兄は、黒いスーツの内側に隠して、猫の死骸をどこまでつれていく気だろうか。
私の知ることではないけれど……
窓の外の青空を見た瞬間、ふっとまたひとつ、泡がはじける。
きっと兄の愛する人は、段ボールの中の猫を、傷を省みずに拾いあげるような人に違いない。全てを切り捨てることが出来ない人に違いない。
そして兄は、その人の前でも全てを捨てて、猫になるのだ。
きっと、その日にも、空は晴れている。
そう考えると、少し笑えた。
兄が作っていった朝食を、どこで食べようか。一週間まともに座れなかった、あのソファに腰掛けて食べるのも、良いかもしれない。
さぞかし、気分が良いことだろう。
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