取り下げ
「取下願」と題された一枚の書類に受付印を押して、二つ穴パンチで穴を開けた。ほどいた綴り紐の先を穴に通し、続いて、記録から取り外していた紙の穴にも、綴り紐の先を通していく。最後に、穴と穴の真ん中辺りで綴り紐を結んで、相川は、記録をひっくり返した。「藁山島」が申し立てた「失踪宣告」の事件の記録。取下願を綴り込んだこの記録を書記官に返還すれば、相川がこの事件の記録に触れることはもうなくなるだろう。消化がしきれない部分が残っているだけに、名残惜しいような気がした。
急に掛かってきた申立人からの電話は、要するに、不在者が死亡したことが分かったので、失踪宣告の申し立てを取り下げたい、という内容だった。異時死亡の判明、と相川はすぐさま考えた。正確に言えば、不在者に対してまだ失踪宣告はなされていないので、不在者の死亡が判明しただけ、ということになる。
事情を書き添えた取り下げ願いを出してほしいと頼むと、申立人は「分かりました」と答えた。その後も、電話が切られるわけでなく、繋がったたまま、少し時間が経った。申立人の妹との面接が自然と思い出されたのか、相川は、受話器を少し耳から離して、申立人の言葉を待った。ふっと、小さい笑いが聞こえた。
「八百円で人を殺そうとした、バチが当たったんですかねえ」
ふふ、と笑い声が続いた。相川は、何も言えなくて黙ったままでいた。申立人が来庁しての手続き説明のときも同じだった。八百円ぽっちで人が殺せる。申立人は、そうではないことに安心している風だったのに。
相川がやっぱり何も言えないままで黙っていると、申立人は「じゃあ、取下願と、改めて戸籍を、お送りしますね」と話した。相川は、なんとかそれに相槌を打った。その後すぐに電話は切れて、以降、相川は申立人の声を聞いていない。当然、申立人の妹の声もだ。
相川が裁判官に宛てて作った報告書は、結論だけを変えて提出することになった。「不在者の死亡が判明したため、本件を却下するのが相当である」という結論だ。相川からことの顛末を聞いた裁判官はたいそう驚いていた。「大変だねえ、相川さん」と同情めいた声を掛けられたのに、何故だか罪悪感を覚えた。
今、事務室には相川一人だけだ。電話が鳴っても困るし、誰かが戻るまでは待っていようと相川は考える。自分の席に座ったまま、記録の表紙をぼうっと眺める。
厚紙に印刷された表紙をめくる。予納郵券の袋。申立書。申立書の右上に貼られた八百円分の収入印紙。消印が押された、八百円ぽっちの収入印紙。
思い出すのは、明るい黄色のカーディガン。赤い髪。顔面を毒々しく彩る青痣。相手はそこに居るのに誰とも話していないかのような会話。身の置き所のない、自分の輪郭がどんどんと拡散していってしまいそうな不思議な感覚。沈黙を通り過ぎていく電車の音、申立人の小さな笑い。
相川は、記録を閉じる。目を閉じて、ゆっくりと息を吐く。指先の感覚を、記録の表紙の上に確かめる。大丈夫だ、と心の中で唱えて、目を開けた。
八百円で人は殺せる ふじこ @fjikijf
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