後編 わたしは、青菜。


 改札を通り抜けて、駅前にでた。


 そう大きな街ではないけれど、それなりに賑わっている。洒落たカフェやファッションビルがいくつか並んでいる。晴れた土曜日とあって、ひとどおりも多い。


 目指すカラオケボックスは、駅を出てすぐに見つけられていた。おおきな看板がビルの壁にでていたからだ。


 点滅する歩行者信号。小走りでわたる。渡り切ったところで、向かいのビルの鏡面ガラスに、わたしが映る。


 三十代もなかばを過ぎた、しごとと生活に疲れたおんなの顔がそこにあった。とても気に入っていたはずのブラウスがどうしようもなく褪せてみえた。


 あおいは、いない。


 いつでも元気で、愛らしいことばづかいと子供っぽい態度でらいりんの仲間たちに愛される高校二年生の女の子、葵は、どこにもいない。


 今日、いなくなる。


 謝ろうと思って家をでてきた。


 最初はやめようと思った。なにか適当な理由をつけて、今日はいけなくなったといえば、それで済むはずだし、みんな許してくれると考えた。


 なんども迷い、たちあがり、また座り、服を着替えて顔をつくっているあいだにも、いや、玄関のノブに手をかけたときでさえ、まだ、迷っていた。それでも、けっきょく、出てきた。


 どうしても、会いたかったのだ。


 ももちゃん、黒虎くん、紅緒さん、シロさん、に。

 

 会って、楽しむためじゃない。これからもうまくやっていくためでもない。言い訳をするつもりも、あたらしい関係を作りなおすつもりも、なかった。


 ただ、ただ、ありがとうと、いいたかったのだ。今日で終わってもいいから。


 わたしの人生に、こんなにたくさんのいろを与えてくれて、ありがとう。


 叶わないはずの想いを、みんなで叶えてくれて、葵をいっぱい愛してくれて、いろんなことばを贈ってくれて、あんなに鮮やかでひろくて、澄みわたった風景を、たくさん、たくさん、一緒にみてくれて、ありがとう。


 それだけ言って、それから、いままで騙していてごめんなさいと頭をさげて、出てこようと思っていた。


 カラオケボックスの建物は、一階が可愛らしい小物やさんになっていた。ショーウィンドウ越しに覗き込む。が、だれも店にいない。店員さんの姿もみえない。


 街がこんなに賑わっているのに、と、すこし不思議な気持ちになってビルにはいってゆく。


 エレベータに乗り、七階に向かう。ビルのエントランスにも、エレベータにも、それから、降りた七階にも、だれの姿もみえない。


 カラオケボックスの店舗はきらびやかに光っていて、営業中であることを示しているが、受付も無人だった。


 いまはネット上で予約と入室の手続きができるカラオケボックスも多いときく。だから、この店もきっとそういう店舗なんだろうと思った。


 でも、どの部屋にはいっていいかわからないのは困ったな……と思っていると、携帯がぽこんと、音をだした。らいりんの書き込み通知の音だった。


 『あおいちゃん、お部屋は七十七番だよ。あたし、先にはいってるから』


 わたしの到着を見越したようなタイミングで、ももちゃんがログノートに書き込みをしてくれた。


 『うん、ありがと。もう着いてる。いま、行くね』


 わたしはそう書いて、送信し、おおきく息を吸った。ゆっくり、ゆっくり、細く吐き出す。葵でいられる時間は、あと、数分間だ。


 廊下をあるき、部屋番号を確かめてゆく。七十五、七十六……あった、七十七。


 ちいさくガラスが嵌め込まれた、しろいドア。なかは暗く、様子が見えない。音もしない。だれも歌っていないようだ。それでも、ももちゃんは中にいる。


 このドアをあければ、葵は、おわる。


 ノブに手をかける。心臓が爆ぜる。


 かちゃっ、と、細く、ドアをあける。


 と、風。


 草木と、夜露と、それから……焦げ臭いような匂い。


 ふわっと風がたち、えっと思った瞬間、わたしは部屋のなかに引き込まれた。背後から強い気流がたたきつけたように感じた。


 倒れてしまう、と感じて、支えになるようなものを手でさがした。部屋がくらく、何もみえない。手にはなにも触れない。床にうちつけられることを予想して目をぎゅっと瞑る。


 が、いつまでたっても、衝撃がこない。


 強く瞑った目を、ゆっくりと、あける。


 くらがりになれた目が、星を捉えた。


 月も浮いている。薄く紅く光る月と、やや小さい、蒼い月。


 ……ふたつの、月?


 身体が、夜空に向かっていた。上をむいて、横になるような姿勢だったのだ。だが、背中に床の感触はない。


 と、そのとき。


 「あおいさん!」


 すこし離れた場所から声をかけられた。知らない、男性の声。


 「ごめん、ちょっと予定が狂っちゃって……ごめんついでで、ほんとにごめんなんだけど、ちょっと、神力、解放してくれないかなあ」


 どこから聴こえるのか、と、首をひねる。右の斜め下、二十メートルほど離れたところで、黒い虎が、浮いていた。


 とおい国の宮殿のような、いくつかの尖塔をもつ優雅な城を背景に、人型の黒い虎がこちらを見ている。どうしたことか、わたしにはその虎が照れたように微笑わらっていることがみてとれた。


 その横には腰までの桃色の髪をゆらめかせ、白い甲冑で身を包んだ少女。手にもった細身のながい剣を振る。と、その周囲が淡い光輝につつまれ、次の瞬間に鋭い光の矢を形づくり、鋭く飛んでいった。


 少女は、わたしの方に向き直り、おおきな笑顔で手を振った。


 「あおいちゃん、ひさしぶりい! でもゆっくり挨拶してる余裕なくなっちゃった、へへっ! いまシロさんが閉鎖空間にやつを封印してる。あたしと黒虎くんで援護するから、悪いけどさあ、紅緒さんとふたりで、決戦神力、叩きつけてやって!」


 「……えっ、あ、なに……?」


 と、わたしの横に、しゅっと空気を裂くような音と共に、全身を紅いマントで包んだ人影が現れた。短い金髪、端正な輪郭。が、女性とも男性とも判断がつかない。


 「あおいちゃん、とうとう最後まで僕のこと、べにちゃんって呼んでくれなかったねえ。残念だなあ」


 わたしの耳元で、やさしく囁く。


 「本当はちゃんと、お別れするつもりだったんだ。みんなで、カラオケでね。あおいちゃんが前の魔王との対決で大怪我をして、シロさんが創ったかりそめの世界でたましいの再生をしてるあいだ、僕たちはずっと待ってたんだよ」


 「あなたは、かりそめの世界……地球で、青菜あおなとして、暮らして、傷が、すっかり癒えるころ、おはなしを、書いて、この世界への扉を、あけるはずだった。すべての、記憶を、思い出して、戻ってくる、はず、だった」


 いつのまにか、白く輝くおおきな翼をもつ女性が、おなじように純白の髪をそよがせ、わたしに微笑みかけていた。


 「でもなあ、あおいさん、記憶の扉、開かなかったんだよ。それはね、あおいさんが、向こうの世界を選んだ、ってことなんだ」


 「なんかかなしいけど、でもでも、嬉しかったよ。あおいちゃん、いろんな辛い目にあったのに、莉奈りなちゃんとふたりで、向こうでしっかり、がんばってて」


 いつのまにか、黒い虎と、桃色の少女も横にいた。


 「だから、僕たち、ちゃんとお別れをして、送り出してあげようって相談したんだ……よっ、と!」


 紅いマントのひとが、ことばを遮るように飛翔してきた大きな刃のようなものを弾き飛ばした。眩しいひかりを放つ円陣が、その手のひらの上に浮いている。


 「せっかくだから、みんなでカラオケ歌って、楽しくお別れしようってなってたのになあ」


 「ほんとだぜ。まさかこのタイミングで、新魔王の来襲ってさ……とほほ。ああ、カラオケ、歌ってみたかったよ」


 「あたしもお! あの可愛いアイドルさんの歌、練習したのになあ」


 「ふふ。わたし、も、演歌、うたって、みたかった」


 「シロさんっ、演歌って、渋すぎぃ!」


 四人のことばは、どれもはじめて聴く声なのに、どれも、懐かしかった。らいりんのコメント欄の書き込みとおなじ口調。そうして、とおい記憶の向こうにある、たくさんの思い出の声。


 桃色の少女……ももちゃんが、こちらにまっすぐ、向き合う。髪とおなじ桃色の瞳は、わたしは、らいりんの画面の向こうになんども見ていた。


 「……だから、ね。ここで、おわかれ」


 黒虎くんは、鋭い猛獣の目を少し歪めて、横を向いた。涙がうかんでいるように見えた。


 紅緒さんは、やわらかくわらいながら、右手を差し出してきた。


 「ながい、旅だったね。そしてこれからも。がんばってね」


 ふわりと、わたしたち三人を、巨大な白いつばさが包む。


 「……シロさん……ごめんね、わたし……」


 わたしは、蒼く長い髪を揺らして、シロさんに抱きついた。なつかしい、ひかりの香り。シロさんは、深い海とおなじ色に戻ったわたしの瞳を覗き込んで、ほほを、やわらかく手のひらで包んでくれた。


 「あおい、ちゃん……ん、青菜さん。あなたは、いい子。いつも、いつも、がんばってる、だから……」


 シロさんが、わたしを抱きしめる。わたしの長い尻尾がシロさんの邪魔にならないように上手に畳んで、なつかしい育ての親の腕で、すこしの間、まどろんだ。


 「……だから、あなたが、いつでも、いつでも愛されていること、さいごのひかりへの道はずっと、ずっと、続いていること、わすれないで、ね……」


 そのとき、ももちゃんが素っ頓狂な声で叫んだ。みな、顔をあげる。


 「あっ、結界、破られかけてる……!」


 「わるい、青菜さん、さいごの仕事、たのんでいいかな!」


 黒虎くんが叫んで、構える。ももちゃんと並んで、ひかりの矢を浮かび上がらせる。


 「青菜さん、僕とちから、あわせて」


 紅緒さんがわたしの腕をとる。ふたりの腕を中心に、眩しいひかりの粒が舞う。


 「青菜さん、おねがい、ちから、貸して……」


 シロさんがわたしから離れ、祈るようなしぐさをする。


 「あおいちゃん……青菜さん!」


 「青菜さん!」


 「青菜さん……っ!」


 みんなの声が、わたしを包む。


 涙をみせないように努力しながら、手のひらを天にかざす。


 「……みんな……ありがと、ごめん、さよ……なら」


 ひかりが視界を埋め、世界が轟音とともに、裂けた。


 ぽん、という、メッセージの着信音。


 テーブルから、顔を起こす。うたた寝をしてしまっていた。


 パソコンの画面はまだ、ついたままだった。そのまま、らいりんの画面を呼び出す。ログノートにはいくつかの新規メッセージがあった。

 

 くろとら、もも……と、呟きながら送信者の名前をさがす。なんの名前だったかな。自分でも思い出せないが、目が、いくつかの文字を探してしまっている。


 返信を書いて、パソコンの画面を閉じた。


 いつのまにか窓の外は暗くなっていた。月が、浮かんでいる。


 その数をわたしは確認して、なにをやってるんだろと、苦笑した。

 


 <完>


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