第7話 刃

(先生はどんな生活をしているのかしら?)


フィオナはソファでお茶を飲みながら考える。先生は大抵午前中に来て講義をしてくれる。講義の後に二人で昼食を食べ、すぐに診療所に向かう。たまに仕事で王宮へ行くこともあるが、基本的に大半の時間を患者の診療に費やしている。


(先生は爵位をお持ちなのかしら?妹さんが侯爵夫人ということは貴族だと思うんだけどご家族は?ずっと診療所で働いていて大丈夫なのかしら?)


先生の診療所に来るのは怪我や病気をしても治療費が足りず他の診療所から見放された患者ばかりだそうだ。基本的に無料なので患者が押し寄せ、先生は夜遅くまで患者を診ているらしい。診療所が忙しいのか、最近先生の顔に疲労の色が濃くなった。講義に訪れる回数も以前より減っている。


(忙しいんだろうな。私の家庭教師が負担になっているのかもしれない)


先生が来なくなったら?と想像するだけで、膝が震えるほど恐い。こんな状況でも希望を持てるのは先生がいるからだ。信頼できる味方がいるという安心感のおかげなのだ。


だけど、脱走する時に先生を巻き込みたくはない。先生の大切な人たちを犠牲にしたくないから。だから、一人で逃げてみせる。それまで・・・お願いだから少しでも長く先生と一緒にいられますように。


前世日本人のことを告白してから約三か月経過した。先生は相変わらず医学の話を熱心に聞いてくれる。フィオナにとって先生と過ごす時間は、ただ幸福で何にも代えがたい喜びであった。心の深いところから瑞々しい想いが溢れてくる。先生にとって現世十一歳は恋愛対象外なのは分かっているが、だからといって自分の気持ちを抑えられるものでもない。


ふと耳をすますと、扉の向こうから足音がした。いつもより足を引きずっているように聞こえる。


ノックの音がして、フィオナの声に応じて静かに扉が開く。


部屋に入ってきた先生は疲れ切った様子で、目の下に真っ黒なクマができている。『それでもやつれたイケオジの色気がダダ洩れだけれども・・』という心の声を振り切り、慌てて先生に駆け寄った。


「先生、大丈夫ですか?」


「ああ、すまない。大丈夫だ。ちょっと忙しくてね。徹夜だったんだ。あまり近づかない方がいいよ。体を洗ってないから匂うかもしれない。君に嫌われるのは辛い」


と恥ずかしそうに言うイケオジ。可愛い。


「先生、お疲れでしょう。私の講義はお休みでいいので、どうかご自宅にお戻りになって、お休みください。」


「い、いや、私は君と話をするのを楽しみにしていたんだ。私は診療所に住んでいるから、帰っても結局また仕事だよ。ここに来られると思ったから徹夜でも頑張れた。頼むから追い返さないで欲しい。」


(え、今何て?)


何かとても嬉しいことを言われた気がする。頬が熱い。胸を弾ませて、いそいそと先生のためにお茶を入れた。


先生はお茶を一口飲んで大きな息を吐いた。


「美味しい。ありがとう。ところで、フィオナの言った通りだったよ。君の助言のおかげで例の患者は一か月以上症状が出ていない。」


どう治療すればいいか分からない患者がいると聞いて、フィオナなりに考えて先生にアドバイスした。何か役に立ったのだろうか?


それは頻繁に湿疹、呼吸困難、下痢などの症状が出るのに原因が分からないという患者だった。食事が原因ではないかと先生は疑っていたが、全く同じものを食べている家族には症状が出ない。


フィオナはそれを聞いてピーンときた。


診療所は港町に近いそうだ。海産物が豊富で多くの家庭で魚介類が食されていると聞く。


甲殻類アレルギーではなかろうか?


その患者の家庭では海老や蟹をよく食べるそうだ。だから、甲殻類を完全に排除して様子を見るようにアドバイスした。甲殻類が他の材料についただけでもアウトなので、家族も完全に遮断するしかない。


先生にアレルギー反応や自己免疫疾患の説明をしたら、熱心にメモを取りながら聞いてくれた。自己肯定感の低い人間は、人の役に立つことで充足感を覚えることがある。そのせいかもしれないが、フィオナは先生が喜んでくれることで満ち足りた気持ちになっていた。


そして甲殻類を止めて一ヶ月以上症状がないということは、やはり原因はアレルギーだったようだ。


「他にもフィオナの助言を受けて新しい治療法が効果をあげている疾患がある。ジュリアン王太子やシモン公爵からもお褒めの言葉を頂いた。全部フィオナのおかげだよ。君の功績だと表立って言えないのが申し訳ない。いつかフィオナの功績だと発表するつもりだ」


「先生。私はそんなことは望んでいません。それに実際に患者を助けているのは先生です。私は先生のお役に立てるだけで嬉しいです。」


「いや、他にも沢山役に立つ助言をしてくれているのに・・・」


「少しでも役に立てて良かったです。」


先生は微笑みながら


「本当にありがとう。フィオナの知識は素晴らしい財産だ」


と頭を撫でてくれた。


幸せだなと思うのは変なのかな。・・・監禁されているのに。



*****



「ところで、フィオナが欲しがっていたものだが・・・すまない。もう少し待ってもらえないだろうか?」


先生にお願いした鎖が切れる刃物はやはり簡単には手に入らなさそうだ。やはり無理を言ってしまったとフィオナは反省した。


「先生、ご迷惑をおかけして本当に申し訳ありません。無理ならどうか気になさらず・・・」


「いや、心当たりはある。絶対に手に入れてみせる。ちょっと時間がかかるだけだ。心配しなくて大丈夫。ただ、それを使ってどういう風にするつもりだい?」


「私なりに考えています。ここでそういう話をすると・・・」


「ああ、忌み言葉になってしまうと困るな。君は賢い。自分でちゃんと考えているのだろう。ただ、私が助けられることがあったら何でも遠慮なく言って欲しい」


「鎖を切る刃物を手に入れて下さるだけで十分です。本当にありがとうございます」


脱走に先生を巻き込みたくない。刃物をお願いした時点で十分巻き込んでいるのは分かっているんだけど・・・。


「ああ、それから・・君の願いが叶う時には厩舎の方角を目指すといい。厩舎の位置は分かっているね?背後に森があるんだ。その森の先を目指すといい」


「はい!分かりました」


「刃物が手に入れられたらすぐに持ってくる。幸い私は医療道具を持ち歩いているからね。身体検査されても問題ないだろう。ただ、この部屋のどこに置く?隠す場所はあるのかい?」


「はい、隠し場所は作ってあるので大丈夫です。」


「さすがだね。でも、気をつけて。見つかれば君もただでは済まない。」


先生の目は真剣だ。本気で心配してくれているのが分かる。


「先生こそ・・・どうか無理はしないで下さいね」


侯爵にバレたら何をされるか分からない。先生は危険を覚悟して約束してくれた。


(どうか私が逃げ出しても先生と妹さんたちが無事でいられますように・・・)


フィオナは心から願った。

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