第4話 前世の秘密

先生は治癒士で医師だ。


治癒士というのは魔法で怪我を治癒させる資格で魔法学校での訓練が必須らしい。戦争が多く、魔獣なんてものもいるこの世界では死因ナンバーワンは圧倒的に怪我なのだそうだ。


医師も資格を取らなくてはいけないが、治癒士に比べるとマイナーだという。治療と言っても薬草を煎じたりするくらいなんだって。薬剤師も兼ねている感じなのかな。


でも一つ確実なのは、この世界で医学は全く進んでいないということ。


前世地球の人類は魔法を持たなかったから、医学を発展させて人命を守るしかなかった。この世界では治療の基本は魔法で、医学という分野は未だ開発途上にある。


私は浴室で裸になった時に、届く限り自分の体の隅々まで調べてみた。前世の人間と違った特徴があるかもしれないと思ったからだ。鏡で喉の奥までも見た。結論としては、何ら差異を認められなかった。人体の構造と機能は全く同じだと思う。なぜ魔法が使えるのかは全く分からないが。


治癒士と医師の両方の資格を持っている先生はエリートだと思うが、常に謙虚で自己肯定感が低いように感じる。自分のことを年寄りと呼ぶけど、前世日本人の私の感覚だと三十代前半にしか見えない超絶美形紳士だ。薄茶色の瞳は知的で誠実そうな光を映しているし、形の良い鼻梁の下の唇はいつも穏やかな笑みを浮かべている。


先生は多くの知識を与えてくれる。私の意見を聞きたいと言ってくれる。褒め言葉も沢山くれる。前世では、頑張ってもそれが当然という風潮が私の周囲にはあった。だから先生から頑張ったことを褒められるのがとても嬉しい。子供みたいだけど(実際子供だけど)先生に褒められるために頑張ろうと思える。


そんな先生との時間は何より尊いものだけど、時折邪魔が入る。


侯爵というゲス男がたまにこの部屋を訪れるからだ。



*****

                          


侯爵は今日も偉そうに私の世界に入ってくる。貴族らしくインテリっぽい風貌はしているが、傲岸不遜という言葉がピッタリで「人が虫のようだ」と嗤った某大佐を思い出す。


その男を見るだけで身震いがして気分が悪くなる。吐き気がするくらい嫌だ。


先生と一緒の時はなんとか耐えられる。先生が居ない間に侯爵が来たせいで失神したり嘔吐したりしたことがある。そのためか奴は先生がいる時を見計らってやって来るようになった。


先生と侯爵の会話を聞いていると見えてくることがある。


この男は侯爵であることをとても誇りに思っている。年を取って息子に侯爵の座を奪われることが怖いのだ。また、不老不死とセイレーンにものすごく執着している。純血種のセイレーンの力を使って若返り、永遠に侯爵の座を守りたいのだろう。


二人の話によく出てくる「シモン公爵」のように。


シモン公爵夫人、つまりシモン公爵の奥方は純血種のセイレーンで、番に選ばれたシモン公爵は五十歳近いのに二十歳くらいにしか見えないほど若々しく精力的に実務を行っているらしい。シモン公爵は国王の弟で、宰相として国政を担っているそうだ。


侯爵の言葉からはシモン公爵への嫉妬がダダ洩れしている。


「たまたまセイレーンと結婚しただけで」

「僕だって国王陛下の従弟なのに」

「早く若返れれば、僕だって」


などと呟きながら、いやらしい視線を私に向けるのだ。その度に先生は私の姿を隠すようにして釘をさす。


「あなたが下手に手を出したら、彼女の力はなくなります。ここまで苦労して育ててきて、それを無駄にしていいのですか?」


「純血種のセイレーンが、番に不老不死の恩恵を与えられるのは身も心も健やかに成長した時のみです。なので、健やかに成長できるよう侯爵もご協力下さい」


侯爵は面倒くさそうに手を振って「分かった、分かった」と言うが、その後ぞっとするような低い声で


「しかし、待てるのは初潮が来るまでだ。初潮が来たらすぐに夜伽を命ずる。よいな。」


と先生を睨みつける。


先生はうつむいて「御意」と言う。その声には何の感情もこもっていない。


侯爵は私の顎に手をかけて俯いている私の顔を自分に向けさせた。吐き気がするほど気持ちが悪いのを抑えて何とか笑顔を作る。頑張れ、私。


侯爵はにやりと笑いながら、


「躾はできているな。乗馬を許そう。準備をさせろ。」


と部屋を出て行った。


護衛の騎士たちも一緒に出ていく。


扉が閉まって、ようやく二人きりになった私と先生は顔を見合わせて、ふふっと笑った。


「ようやく馬に乗れるのですね!」


私が声を弾ませると先生も嬉しそうに笑う。


先生は今年五十一歳になるが、依然として美丈夫だ。艶々した黒髪だったが、ここ数年で急激に白髪が増えてきた。私のせいだよな、と申し訳なくなる。


それでも、端整な顔立ちと優しい笑顔は変わらない。普段は怜悧な茶色の瞳が、笑うと目じりに柔らかい皺ができるのが好きだ。


この世界での男性の平均身長は分からないけど、先生は部屋の外で護衛している騎士よりも身長が大きいので、きっと背が高い方なのだと思う。


私が背伸びをして見上げようとすると、先生は必ずしゃがんで視線を合わせてくれる。


先生は私を孫のようだと言う。結婚もしたことがない自分に孫のような存在ができて嬉しいと頭をぐりぐりと撫でられた時は、嬉しいような不満なような複雑な気持ちになった。


ノックの音がして先生が扉を開けると、侍女のアンナが乗馬服を持って入ってくる。


ワクワクしながら乗馬服に着替え部屋を出た。首輪と鎖を外す許可は出なかったが、先生が私の歩きやすいように鎖を持ってくれている。それでも先生は罪悪感があるようで、いつも哀しそうな、怒っているような顔をして鎖を握りしめている。


でも、ずっと閉じ込められていた頃に比べたら、犬の散歩スタイルだろうが、外に出られるだけで嬉しい。


先生が「健やかに育つには外で運動をしなくてはいけません」と掛け合ってくれたおかげだ。


最初は一日十分程度の散歩で息が切れるくらい、私はひ弱で筋肉も体力もなかった。


毎日少しずつ歩く時間を増やし、徐々に体力もついてきた。部屋でも毎日体操、筋トレに励んでいる。


初潮が来る前に絶対に逃げ出してやる、という決意は固い。


純血種のセイレーンは初めて処女を捧げた人を番として認識し、感情的にもその人を好きになり離れられなくなるのだそうだ。


あの侯爵を!?


好きになる!?


離れられなくなる!?


ありえない。気持ち悪い。絶対に嫌だ。絶対に絶対に絶対に逃げ出してやる。


そのためにはまず体力だ。沢山食べて、運動して、体力をつけて、知恵を絞る。


乗馬も習っておいたら役に立つかもしれない、と先生に相談した。


先生はすぐに侯爵に伝えてくれたようだが、奴はさんざん渋っていたらしい。半年たって、ようやく許可が下りた。


先生のいつもの「健やかに」攻撃に加えて、


「いずれ侯爵夫人になったら淑女の嗜みとして乗馬も必要となるでしょう。シモン公爵夫人も乗馬がお得意とか。」


という一言も効いたのかもしれない。侯爵はいずれ私を正妻にしたいようだからライバル心を煽ったのだ。


侯爵夫人になるために、先生が私の淑女教育も担っている。教養だけでなく、立ち居振る舞いやダンスまで教えてくれる。先生は万能だ。


鎖をカシャンカシャン鳴らしながら、浮かれてついスキップをしてしまった。


先生に目で注意され、慌てて淑やかに歩き出す。


いけない。侯爵が気に入るような淑女のふりをしないと。


先生は以前辛そうな表情でこう言っていた。


「残念だが、君の生殺与奪は侯爵が握っている。生かすも殺すも彼のさじ加減一つだ。だが、彼は君をとても気に入っている。君は特別な力があるだけでなく、可愛いし、頭も良いからね。だから、嫌だと思っても、彼には笑いかけなさい。そうすることで彼は君の願いを聞いてあげようと思うようになる。」


それ以来、嫌だけど侯爵には笑いかけるようにしている。嫌だけど。


でも、先生に「可愛くて、頭が良い」と言われたことは嬉しくて、その夜は眠れないくらいだった。


先生は家庭教師として多くの知識を与えてくれる。


歴史、地理、科学、文学といった分野だけではなく、約束通り魔法学も教えてもらっている。といっても、私には魔力封じの腕輪が付けられているから実際の魔法は使えない。


先生は熱心に魔法学を教えてくれるが、私が魔法を使えるようになるかは分からない。でも、いつかこの厄介な腕輪を外せる日がきたら、絶対に魔法を使って逃げてやる。


いつか来るかもしれない日のために私は頑張るのだ。


先生は自分で魔法を使って見せながら、この筋肉をこう動かしてとか、お腹のこの部分に力を入れて、とか詳細にやり方を教えてくれる。実際に触らせてくれたりもするので、ついつい私は喜んでしまう・・・反省。


先生はけっこう筋肉質で細マッチョなのよね~などと能天気なことを考えながら、鎖を握る先生を見つめた。


先生は左足を引きずるようにして歩く。むかし大怪我をしたのかもしれないと思ったけど、質問したことはない。先生は自分のことをあまり話したがらないから。もっと自分のことを話してほしいのにな。


ちらりと後ろを振り返ると二人の騎士が無表情で歩いている。


私には常に護衛という名の監視役がいるので、厩舎に向かう時にも騎士がついてくる。部屋の外に常駐しているのは一人だが、出かける時は二人になるらしい。


どの護衛も無口で無表情で言葉を交わしたこともない。正直顔の識別もできない。


ただ、私と先生が必要以上に親しいことを侯爵に知られたら、先生から引き離されるだろうし、下手したら先生の命も危ない。


だから、先生とは会話もせず無表情で厩舎へ向かう。先生からも、人前では口をきくな、笑いかけるな、と注意されている。


私も先生も一言も口を開かず、歩き続けること体感で数分、厩舎についた。案外近い。


侯爵から指示を受けているのだろう、厩番らしき中年男性が現れて、綺麗なクリーム色の馬を出してきてくれた。厩番はハンスと名乗り、馬の名前はメイスだと教えてくれる。


「性格が穏やかなので、初めてでも乗りやすいですが、怯えさせないようにしてください。馬は臆病なので、大きな音や急で乱暴な仕草に怯えます。」


私は黙って頷くと、メイスの方を振り返った。


ゆっくりと近づいて、近くまで来たら背伸びをして、そっとたてがみに触る。メイスは一瞬ビクッとしたものの怯えた様子はない。私はゆっくりとたてがみや首を撫でた。


ハンスが、切ったニンジンを渡してくれたので、手のひらに乗せて、そっと口元に寄せると、もしゃもしゃと食べ始めた。


図鑑でしか見たことがなかった馬に触れて私の気分は高揚した。思わずニコニコとメイスを撫でていると、ハンスと護衛騎士たちが顔を赤くして何だかもじもじしている。


『何かいけないことをしたのだろうか』と戸惑いながら先生を見ると、彼は首の後ろを右手で擦るようにしながら俯いていた。苦笑しているようだ。


やっぱり何か変だったのかな、と思ったが、顔を上げた先生が『大丈夫だ』と言うように頷いたので安心した。


その後は鎖をカシャンカシャン鳴らしながらメイスに乗り、馬場を歩かせてもらった。もちろん、メイスの綱はハンスがしっかりと握り、私の首輪の鎖は先生が握ったままだ。でも、馬の上から見る景色はいつもと違って、高くて見晴らしが良くて、とても楽しかった。


馬場を五周したところで護衛が合図を出したので、この日の乗馬は終了となった。


物足りなかったが仕方がない。また来たいとお願いしてみよう。


メイスから降りる時に先生が手を差し出してくれた。その手を取ろうとした時に、地面に何かキラリと光るものがめり込んでいるのに気がついた。


『あれは蹄鉄の釘!』


先生の手を取るふりをして、わざとバランスを崩す。


そのまま地面に落ちるが、土が柔らかいので痛みはない。先生や護衛騎士が慌てている隙に素早く地面から釘を拾い、乗馬用のブーツの中に隠した。


誰にも気づかれていないと思ったが、先生は私を助け起こしながら意味深に私の顔を見つめている。


先生には気づかれたかもしれない。でも、先生なら大丈夫だ。


服についていた泥を手で払い落すと、ハンスが出してくれた布で手を拭き部屋に戻った。


今日の収穫は上々だ。


部屋に戻ると、先生は仕事があると去っていった。先生は自分の診療所を持っていて誰でも無料で診療しているらしい。王宮でも医師として働いているそうなので、きっととても忙しいのだろう。


部屋で待っていた侍女のアンナは黙って私の泥だらけの乗馬服を脱がし、浴室で体を浄め、部屋着に着替えさせた。鎖をつけたまま乱暴に扱われるので、首が締まりそうな時もある。


アンナの年齢は先生も知らない。六十歳くらいにも、八十歳くらいにも見える。侯爵の乳母だったらしく、普段は無感情の瞳が、侯爵を前にすると愛情が溢れてキラキラしている。趣味が悪いとしか言いようがない。侯爵にとってアンナは口が堅く信用できる存在なのだろう。


セイレーン純血種は希少種として保護対象になっているし、そもそも誘拐・監禁は犯罪である。侯爵は高位貴族だが、それでも罪は免れない。


この屋敷でもごく一部の人間しか、私がセイレーンであることを知らない。


護衛の騎士たちがどこまで知っているのか分からないが、他の侍女や厩番のハンスなどは、侯爵が酔狂で女奴隷でも飼っていると思っているのだろう。


いずれにしても、この侯爵家で働く使用人は、自分たちの生活を守るため、あるいは弱みを握られて脅されているため、どんなことがあっても忠誠を誓い、邸内で起こっていることは外部に漏らさないと先生は言っていた。


外部から私を助けてくれる人はいないだろう。


私は両親も知らない。友人もいない。私の世界のすべてはこの部屋の中の、鎖の長さが届く距離だけだ。逃げ出すために何ができるか、毎日それだけを考え続けている。


アンナが昼食の支度をして出ていくと、私はこっそり乗馬用ブーツから蹄鉄用の釘を取り出した。


私は散歩に出るたびに、割れたガラスだの古いスプーンだの、何かの道具になりそうなものを拾い集めている。正直ガラクタばかりだけど、釘は初めて役に立ちそうだ。


この部屋は毎日アンナが掃除をしつつ、私が何か隠していないか確認している。それこそ、ベッドの下から、ドレスの中まで探りまくっている。


食事用のナイフやフォークも数をきちんと確認して回収されるし、裁縫用の針もハサミももらえない。武器になり得るものは、完全排除である。


拾い集めたガラクタの隠し場所も最初は困った。見つかったら絶対に取り上げられるし、外にも出してもらえなくなるかもしれない。


最終的に、お気に入りの人形の腹の中に隠してある。アンナが人形のスカートをまくっても分からないように気をつけた。私は器用さには自信がある。


釘も同じように隠すつもりだが、その前に試してみたいことがある。


私はこの部屋の床板から壁の羽目板まで、鎖の届く範囲で板を押したり叩いたりして、どこか外れそうなところがないか探していた。


この部屋には窓が一つだけある。窓は当然開かないのだが、その窓枠の下にある羽目板が何となくたわんでいる、というか緩んでいるように感じた。


アンナは当分戻って来ないはず。今のうちだ。その羽目板の隙間にぐっと釘を差し込んでみる。


羽目板がグッと動いた感覚があった。もう一度、今度は角度をつけて差し込むと、ガタンと大きな隙間が見えた。いけるかもしれない。それを何度か繰り返すと見事に羽目板が外れて、その下の漆喰が露わになった。


やった!


釘で必死に漆喰を掘り返すと壁に三センチくらいの穴ができた。とりあえず今日はこれで満足だ。これから少しずつ穴を大きくしてここを隠し場所にしよう。掘り返した漆喰は浴室の排水溝に捨てる。


いずれ何か大きいものを隠したい場合、この羽目板の後ろに入れておけるだろう。羽目板を元に戻すと、まったく分からない。良かった、これで隠し場所は確保できた。


私にはどうしても欲しいものがある。様々な文献を調べて脱出するためには絶対に必要なものだと判断した。ただ、それをどうやって手に入れたらいいか分からない。先生にお願いすれば叶えてくれるかもしれないが、対価もなく無理難題を押しつけるのは申し訳ない。頼まれたら断れなさそうだし。先生の人の良さにつけこむようで罪悪感がチクチクするんだ。そんな悠長なこと言っていられる状況ではないんだけど・・・。


憂鬱な気持ちで冷めた昼食を食べて、頭の中で午後の計画を練る。


明日は先生の授業がある。前回フォンテーヌ王国の郵政事業の仕組みについて調べて、改善点がないかどうか報告書を書くように言われていた。こういう宿題は好きだ。


この部屋には書き物机も置いてある。先生からの課題に取りかかる前に、引き出しから分厚い日記帳を取り出した。これは私の秘密の日記帳だ。前世日本人としての記憶を、日本語で書き留めている。


私はセイレーンの純血種で、前世日本人の記憶持ちという奇跡的な組み合わせの超希少種だ。でも、前世の記憶は少しずつ薄れていくような気がして怖い。だから日記に前世の記憶を書き綴っているのだ。


私は前世の夢を見ることがある。明晰夢というのだろうか?リアル過ぎて目を覚ました時に自分がどこにいるのか一瞬分からなくなるくらいだ。


実は前夜にもそんな夢を見ていた。



**



私は当直医で、夜中に救急車で運び込まれた急患を診ていた。患者は糖尿病で既に敗血症状態になっていた。なんでこんな状態まで放置していたのか・・・。もっと早く処置していたら血流再建が可能で、カテーテルやバイパス手術が出来たかもしれないのに。


患者の命を救うために下肢壊疽となっている左足を切断しなくてはならない。私は小児外科医から救急科専門医になったが、今回の執刀は別な外科医がすることになった。私はお手伝いだ。それでも頭の中で手順を思い描きながら緊急手術の準備をする。



手術後、ロッカールームで着替えていると仲の良い看護師の川島さんが入ってきた。


「平石先生、お疲れ様です。・・・大丈夫ですか?顔色ひどいですよ」


正直辛い手術だったし最近寝不足で疲れているんだろう。


「・・うん、ちょっと疲れたかも」


川島さんは自分のロッカーを開けながら、心配そうに私を見た。手術のことを知っているようだ。


「患者さん・・お気の毒でしたね・・」


私は黙って頷いて着替えを続ける。川島さんは場の雰囲気を変えるように明るい声を出した。


「そういえば、先生。たまにラノベも読むって言ってましたよね?最近、復刻版で出たラノベがすっごい面白いんですよ」


「そうなの?どんな本?」


それほど興味はなかったが、川島さんの気遣いを感じて彼女の話に耳を傾けた。


「1980年代の小説の復刻版なんですよ。昔は青春小説って呼んでたみたいですけど。今読んでも面白くって。『永遠(とわ)の女神』っていうんですけど、私の推しキャラが最高なんです」


「カッコいいのね?」


「そうなんですよ~!クリストフ・シュナイダー伯爵っていうんですけどね。普段素っ気ないのに急に甘くなったり、たまらん感じです~」


「ツンデレっていうんだっけ?」


「うーん、ツンデレっていうほどじゃないんですけど、でも普段無口で何も言わないキャラが急に甘々で口説きだしたら萌えますよ~」


「作者の実体験から書いているのかしらね?そういうのって」


ラノベだけでなく普通の小説でも恋愛の場面を読むたびに「こんなこと現実にあるのかしら?」と思っていた。


「それが作者はちょっと電波で~。確か叔母さん・・・だったかな?作者の叔母さんが別の世界・・・えっと、なんていうんだっけ?あ、そうそう、異世界に行ったらしくて。しかも、異世界にいる叔母さんから手紙がきたんで、その内容を小説に書いたんですって。信じられます?」


「へぇ~。異世界ねえ。信じられないわね。やっぱり話題作りじゃないの?昔、宇宙から来たっていうアイドルもいたくらいだし」


と言っている最中にハッと目が覚めた。



**



一瞬「川島さんは?」「病院は?」とパニックになった。それくらい現実感のある夢だった。


あんな話をしていた私が異世界にいるのだから笑ってしまう。


でも、そんな夢を何度も見た。違う場面だったが、大抵出てくる場所は勤務していた病院だった。友達や同僚と飲んでいる場面もあったが、元カレは出てこなかったなあ。思い出したくもないからいいけど。仕事が忙しくて独身だったけど、過去に付き合った恋人は一応いたのだ。


私は学生の時から勉強は得意だったが、地頭が良いというよりは努力型の優等生だったと思う。典型的なガリ勉タイプ。新しい知識が得られるのは楽しかったし、医師を目指していたので勉強もやりがいがあった。


ただ人見知りで、友達が多いタイプではなかった。勤務先の病院でも上司や同僚とのコミュニケーションでは苦労した。元カレにも「お前と話しててもつまんねーな」と言われたことがある。不思議と現場の看護師や救急救命士とは良い関係を築けていた、と思う。希望的観測かな?


家族とは疎遠だった。実の両親は私が赤ん坊の頃に事故で亡くなり、叔父夫婦に引き取られた。叔父夫婦には一人娘がいて義理の姉妹のようだったが、仲が良かったとは言えない。意地悪されたことはないが親しくもなれなかった。


彼女には娘と息子がいて「あんた医者なんだから」というよく分からない理由で、しょっちゅう無料のベビーシッターや家庭教師を頼まれていた。休みの日はほとんどそれに費やしていたと思う。元々お金なんて取る気はなかったが「ありがとう」の言葉一つくらいあっても良くない?とは感じていた。


ただ彼女の子供たちには懐かれていて、特に姪とはよく会ったりしていたなぁ。ラノベを貸してくれたのもその子だ。だから、悪いことばかりではなかった。


今考えると寂しい人生のようだが、患者さんに感謝されることが嬉しくて生きがいだった。現在のように存在価値が処女しかなく生産活動を一切していないという現実に比べたら、毎日やりがいを感じていたと思う。


私は夢で見たことも日記帳に記録していた。忘れてしまうのが怖いから。日本という国での人生も覚えている限り記録したい。どうせ誰にも読めないだろうから日本語で記入することにした。


日記を書く許可も侯爵から得る必要があったが、先生が「勉強の一環です」と言ってくれたおかげでスンナリと認めてもらえた。


侍女のアンナは日記帳が机の引き出しに入っているのを知っている。ただ、アンナは文字が読めないらしい。だから中身が日本語という特殊な言葉で書かれていることには気がつかないだろう。


乗馬の体験も日記に書く。蹄鉄や蹄鉄の釘、馬の世話や食べるものも前世の世界と変わらない、ということを日記に記した。


日記を書き終えたら、明日の授業で提出する宿題に集中する。本棚から必要な資料を選び、何時間も夢中になって課題を書き上げた。



***



翌日、課題を提出すると先生は嬉しそうにソファに座って読み始めた。


「よく書けている。郵政事業に関して、転移魔法が使用できる場合とそうでない場合の事例の比較も興味深い。転移魔法が使えるのは一握りの人間だからね。魔法無しの想定は必要だ。『主要幹線道路に食事や宿泊を提供する施設を一定間隔で設け、伝令は一定距離を走った後、その施設で次の伝令と新しい馬に交代し情報だけを受け渡す』という考え方は斬新で効率的だ。現在は魔法が使えない状況だと、一人の人間が早馬でひたすら走るしかないからね。警備上の問題にも触れているね。民間の郵便に関して半官半民で商家などと提携して物品の輸送と併せて事業を行うという考え方も面白い」


先生は何度も頷きながら褒めてくれる。純粋に嬉しい。頑張った甲斐があったよ。


私は「先生の指導のおかげです」と頭を下げた。そこで口を噤んでおけばいいものをやっぱり浮かれていたんだと思う。


「ローマ帝国時代の郵政事業に興味があって、大学時代に一般教養でレポートを書いたことがあるんです。」


思わず調子に乗って言ってしまってから、慌てて口を押えた。


先生は怪訝そうに「ローマ帝国・・・大学・・・レポート?」と呟いた。


この世界には存在しない言葉だ。


私はあたふたと言い訳した。


「あの・・寝不足で・・変な夢を見て・・・変なことを言ってしまいました。すみません・・忘れて下さい。」


見守るような視線のまま、先生は穏やかに私に語りかける。


「君の話はいつも興味深いよ。たまに今まで聞いたことのない話や言葉も出てくるね。夢で見たって言っているけど、面白そうだ。以前、妙に現実的な変な夢を見ると言っていたね。今でもその夢を見るのかい?白い服・・白衣をきて働いていたんだろう?」


よく覚えているなぁと感心する。夢を見始めた頃に先生に話したんだ。


「あ、はい・・たまに・・」

「そんな夢の話も日記に書いたらどうかと勧めたのを覚えている?まだ日記は書いているのかい?」

「あ、はい。日記は毎日書いています。」

「そうか。それは良かった。何語で書いているんだい?生まれついての語学の天才が何語で日記を書くのか興味あるよ」


先生がいたずらっぽく笑う。そうなのだ。来たばかりの頃は気がつかなかったけど、私はこの世界の言葉は習わなくても全て分かることが判明した。異世界転生チートとはこういうことをいうのかしら?


フォンテーヌ王国で標準語のロマネ語、スミス共和国のアングロ語、シュヴァルツ大公国のゲルマン語、コズイレフ帝国のスラヴィア語、精霊族が使うケルト語を先生は教えようとしていたらしい。しかし、私にはなぜか全部理解できた。理解できるだけでなく、話す、読む、書くことも全く問題なかったのだ。


それを知った時の先生は、驚きはしたものの「セイレーンの特殊能力なんだろうな」と独り言のように呟いてなんか納得していた。謎だ。


でも、今の質問は困る。日本語というここに存在しない言葉で書いていると知られたら困る・・・あれ?知られたら困る・・・のかな?


先生にはいつか前世のことを告白しようと思っていた。「実は私はこの世界の人間ではないのです」と。だったら今言ってもいいんじゃないの?


そんなことを考えていたら頭が混乱してきて「え!?あの・・・それは・・」と口ごもった。


すると先生は何かを勘違いしたらしい。


「そうだよね。日記のような私的なことを訊ねるなんて不躾だった。すまない」


先生は恥ずかしそうに頭を下げた。


いえいえ、先生は何も悪くないです。謝らないで下さい。


私が唯一信頼できる先生には、前世の秘密を話してもいいんじゃないかと思う。ただ、もし信じてもらえなかったら?と思うと怖い。


でも、今は良い機会かもしれない。先生はやみくもに嘘つきよばわりするような人じゃない。


「先生、実は・・あの・・お話があるんです。私の日記を見て頂けますか?」


突然の私の言葉に先生はたじろいだ。


「日記を見る?」

「はい。これが日記です。」

「本当にいいのかい?」


先生が躊躇いがちに日記帳を開くと、その目が驚愕に見開いた。


「これは・・・今まで見たことがない文字だ。どこでこの言葉を覚えたのかね?セイレーンにだけ伝わる文字なのかい?」


私は覚悟を決めて、これまでのことを全部話した。先生の反応を見るのが怖くて下を向いたままだったが、前世で事故に遭って目が覚めたらこの世界にいた、という事情を早口で捲し立てた。


ただ、平石理央の記憶「しか」ないということは言えなかった。元々この体にあったはずのフィオナの意識が全くないということは言いづらかった。なんとなく他人の体を盗んだみたいで・・・。


先生は一言も口を挟まず最後まで聞いてくれた。私の話が終わった後も先生は黙って自分の顎を撫でている。不安で胸が締めつけられた。何を言われるんだろう・・?


先生はゆっくりと日記帳を閉じると、サイドテーブルにそれを置き、私をじっと見つめながら言った。


「君は前世、医師だったのかい?」


気になったのそこなんだ!?


「は、はい。この世界とは全く違う医療制度でしたが・・」


「どんな風に違うんだい。魔法がない世界なのだろう?治癒魔法もなく、どのように治療を行っていたんだい?」


「医療技術は大変進歩していました。治療の手法は確立していました。手術を行ったり・・」


「例えば、事故や戦争で腕や足を切断してしまった場合はどうするんだい?魔法がないとつなげないだろう?」


「例えば、鋭利な刃物で切断された場合、八時間以内に切断肢を適切な状態で病院に持って来てもらえれば、再接着の手術は可能です。その場合、動脈、静脈、腱、神経なども、縫合手術で元の状態に修復することができる可能性が高いです。切断面が挫滅状態だと再接着は難しいかもしれませんが・・。こちらの世界では、切断した四肢も治癒魔法で元に戻せるのですか?」


「どうみゃく・・じょうみゃく・・?非常に興味深い。魔法無しで切り取られた手足をつなげるなんて信じがたいが・・。私は治癒魔法を使って多くの患者の手足をつないできたよ」


先生は微笑みながら言う。


「そんな治癒魔法!私も習いたいです。」

「そうだね。今度の魔法の授業で治癒魔法を取り上げよう。」


先生が当たり前のように話をするから私の方がちょっと焦った。


「先生・・・私の言うことを信じて下さるんですか?こんな荒唐無稽な・・・」


「私はこれまで君をずっと見てきた。君は誠実な子だ。嘘をつくような子でないことは分かっているよ。それに納得できる部分が多々ある。君はずっと一人で何かを抱えていると心配していたから、話してくれて嬉しいよ」


先生の言葉に安心した私は目の表面に涙の膜が張るのを感じた。しかし、先生は私の涙目にも全く気づく様子がない。相変わらずマイペースだ。興味のあることだと周囲が見えなくなるのよね。


「さっき君は私の知らない単語を使っていた。どうみゃく・・とか?」

「前世の世界では、解剖学といって、人体の内部の組織全てに名前がついていました。動脈も静脈も血管の名前です。」

「解剖・・・人体解剖を行っていたのかい?こちらの世界では禁忌なんだが・・」


禁忌と聞いて自分の顔が青ざめるのが分かった。


先生は私を安心させるように続ける。


「大丈夫だよ。別な世界の話だろう。ここで人体解剖を行わなければ問題ない。それより人体の構造がどうなっているのか非常に興味がある。君のいた世界は医学が遥かに進んでいたようだ。大変厚かましいお願いだが君の医学の知識を私にも分けてもらえないだろうか?」


喜んで『もちろん!』と言いかけて私は考えた。


これは大きなチャンスではなかろうか?先生は私の知識が欲しいと言っている。もしかして、それがお願いした時の対価になる・・かな?圧倒的に先生に不利な無理難題だけど・・・。


「先生、私の知識を喜んで共有させて頂きます。でも、その代わりにお願いがあるんです。」


「お願い?」


「はい、そうです。どうしても欲しいものがあるんです。とても難しいのは分かっています。だから無理だったらそう言って下さい」


先生の目を真っ直ぐに見つめると、彼もすぐに真剣なまなざしになった。


「分かった。何が欲しい?」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る