第9話 危機

ある日の午後、血相を変えて先生が部屋に飛び込んできた。


余程急いできたのだろう、ゼエゼエと息を切らしている。


「フィオナ、つい先ほど王宮に通報して君の保護をお願いした」


唐突に言われてフィオナは狼狽した。


「・・・え、どういうことですか?それで大丈夫なのですか?妹さんと甥御さんは?」


「大丈夫だ。王宮でリュシアン・・シモン公爵に呼び出された。シモン公爵が二人を見つけて保護したそうだ。ただ、王宮もすぐには動けない。侯爵に気づかれないように内偵を進めるところから始めるらしい。今まで君に我慢させて本当にすまなかった。謝って許されるものではないが・・・」


「先生が謝ることありません。本当に良かった。大丈夫です。逃げる準備を手伝って頂いてこちらこそ先生に感謝しています」


突然のことでフィオナは気が動転していたのだ。


先生の『しまった』という表情を見て自分の大きな過ちに気がついた。


(どうしよう?!忌み言葉だ!)


刹那、大きな警報音が聞こえた。乱暴な足音とともに騒がしい声がして扉が大きく開く。


護衛騎士というには柄が悪い男たちがゾロゾロと入ってきて先生を拘束した。先生は反抗せず床に押さえつけられるが、男たちはニヤニヤしながら先生のお腹や顔を蹴り上げている。


『やめて!』と悲鳴をあげそうになる。


(どうしようどうしようどうしよう私のせいだ私のせいだ)


自分を責めて取り乱すフィオナに先生は目で合図をした。


声を出さずに


『落ち着け』


『抵抗するな』


『逃げろ』


と口の動きだけでフィオナに伝えた。


先生の必死の表情を見てフィオナは冷静になった。


(そうだ。今は落ち着け。どうするべきか考えろ。敵は侯爵。油断させて逃げるんだ)


深呼吸をして出来るだけ先生の方を見ないようにしていると侯爵が部屋に入ってきた。いつものように人を小馬鹿にしたような笑いを浮かべている。


侯爵が先生の顔を思い切り蹴り上げると床に赤い鮮血が飛び散った。


「ようやく、馬脚をあらわしたな」


(やめて!幼女趣味のゲスが先生の顔を蹴るなーーー!!!)


フィオナは泣き叫びたいのを堪えるのに必死だ。


「アレックス、孫のような娘に心を奪われるとは滑稽だな。お前のような爺さんなら安全だと思っていたんだが」


侯爵が憎々し気に先生の頭をガンガンと踏みつける。


「お前たちが何の話をしていたのかは興味ない。アンナに盗み聞きさせても小難しい病気の話ばかりしていると言っていたしな。いいか、お前は逃げられない。絶対に僕のものにする」


体がビクッと反応しそうになるのを堪えた。落ち着け。落ち着け。


「忌み言葉の魔法を知っているか?この部屋の中で『逃げる』に類する言葉を発するとすぐに警報が鳴るようになっているのだ。おおかた二人で逃げる算段でもしていたのだろう。愚かだな」


得意げに話し続ける侯爵の顔を見るだけで殺意が湧いてくるが、今は戦う時ではないと必死で怒りを内側に押し込めた。


「そもそもその鎖はオリハルコンでもない限り、切れないようにできている。はっ!お前みたいな小娘がオリハルコンなんて知らないだろうがな。最強の武器だ。現存するオリハルコンは国宝に指定されている。王家の宝物庫でのみ管理されているものだ。つまり、鎖を切るのは不可能ということだ。分かるか?」


(オリハルコン!?国宝だったの?!先生は一体どうやって・・・?)


フィオナは先生が無理をして刃物を手に入れてくれたことを悟った。盗んだりするような人ではない。凄まじい苦労をしてようやく手に入れてくれたんだ。


「いいか。お前が許可なく扉の外に出るとすぐに警報が知らせてくれる。窓にも魔法がかかっている。窓は開かないし衝撃を与えるだけで警報が鳴る仕組みだ」


(窓はダメなのね。わざわざ教えてくれてありがとう)


「魔力封じの腕輪もついている。お前は無力だ。腕輪はオリハルコンで作られているから、たとえオリハルコンでも切れない。どうやってもお前はここから逃げられない。諦めろ。お前は何もできない小娘だ。それに比べ、僕にはコズイレフ帝国の支援だってある。もうすぐ閨事もできるようになるだろう。お前の価値はそれだけだ。初めての夜は、アレックスにお前を可愛がる姿をたっぷり見物させてやる」


(うわ・・・キモ・・・)


高笑いする姿に嫌悪感が最高潮に高まる。


(よくもまあペラペラと動く口だ。できるならこの世から存在を消してやりたい!)


しかし、貴重な情報はあった。


『感情を表に出すな』と自分に言い聞かせながら、どうしたらこの醜悪な男を懐柔できるか必死で考える。


フィオナは艶然と笑みを浮かべて侯爵の目を見つめた。


「絨毯にシミができますわ」


「なに?」


「その老人を早くこの部屋から連れ出して下さらないかしら?私はここから逃げるつもりなんてありません。『逃げたいか?』と聞かれただけですわ」


これからすることを先生には見て欲しくない。


侯爵は途端に相好を崩し、男たちに命じた。


「すぐにその男を連れ出せ!」


「侯爵閣下、ありがとうございます。アレックス先生は、私に逃げるよう勧めたのではありません。尋ねただけですので手荒なことはして欲しくありませんわ。医師としても家庭教師としても大変優秀な老人でいらっしゃるので」


先生を「老人」と言う度に、侯爵が勝ち誇った顔をする。バカめ!


「そうか。お前は僕のものになることを望んでいるのだな?」


フィオナが恥ずかしそうに頷くと、侯爵はニヤニヤ笑いながらフィオナの顎をつかみ唇に口づけた。


(キモっ!でも、我慢だ)


嘔吐しそうになるのを必死で堪える。


そのままベッドに押し倒されそうになりフィオナは焦った。しかし焦る気持ちを隠して、落ち着いた声で侯爵を諭す。


「いけません。セイレーンの能力を発揮するためには、時が満ちるまで完全に清廉でなくてはいけないと先生は仰っていました。まだ初潮は始まっていませんわ。これまで我慢なさってきたのに、あともう少しのところでダメになってしまったら・・」


「ちっ」


と舌打ちしながらも侯爵は立ち上がる。


「アンナ、これからはずっとこの部屋に居てフィオナを監視するように」


(それはまずい!)


フィオナは慌てて、媚びるように侯爵にすり寄った。


「閣下・・実は私、アンナが怖いのです。笑った顔を見たことないし・・。一人の方が安心できます。常に監視されていると緊張してしまって、不安になります。緊張や不安で初潮が遅れることがあると医学書にも書いてありました」


「なに?アンナ、こっちに来い。フィオナは私の大切な妻だ。彼女に向かって笑ってみろ!」


アンナは慌てて私たちに近寄ると、無表情のまま口だけでにぃぃっと笑う。


その笑顔が恐ろしくて真剣に「ひぇぇ」という悲鳴じみた声が出た。それを見て侯爵もさすがに困惑している。


「本当に一人で大丈夫なのか?」


ダメ押しとばかりにフィオナは侯爵を上目遣いで見つめてコクコクと頷いた。


「私は本心から侯爵閣下のお側でお仕えしたく思っていますので、監視されるのは心外です・・」


「分かった。アンナ。フィオナを怯えさせたくない。できるだけこの部屋には入らないように注意しろ」


アンナが部屋から出ていくと、侯爵は私を振り返りもう一度口づけした。さりげなく尻を触っている。クソが!


「僕は後片付けがあるからもう行く。ゆっくり休め」

「ありがとうございます」


フィオナは完璧な淑女の礼を取り、笑顔で侯爵を見送った。

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