第6話 先生の事情 その1
「アレックス!」
呼びかけられて振り向くと、若者らしく溌剌としたジュリアン王太子が手を振っていた。傍らにいるのはリュシアン・シモン公爵だ。王太子と同年代に見えるが、実は私と同じ年である。やはり不老不死は羨ましいと思ってしまうのは人間の弱さだろう。
フィオナのことを隠している罪悪感と後ろめたさを抱えながら、ゆっくりと彼らに近づいていった。王宮の廊下にカツンカツンと足音が響く。
「王太子殿下、シモン公爵閣下、ご機嫌麗しく。何かございましたか?」
「アレックスの診療所の噂を聞いたんだ。思いもよらない新しいやり方で患者を治したと聞いたぞ!」
ジュリアンが興奮した口調で言うと、リュシアンが穏やかだが他人行儀な表情で補足した。
「ブーニン侯爵の所領で庶民でも通える診療所を開いたのは知っている。患者が押し寄せているのに治療費も取らずに診療しているとか。さらに新しい手法を導入して患者を治療したと聞く。何があったのか近いうちに話を聞かせて欲しいものだ」
「ブーニン侯爵は傲慢でいけ好かない奴と思っていたんだが、アレックスの診療所を支援してくれたんだろう?意外にいいところがあるんだな。えっと・・アレックスとは義理の親戚なんだっけ?」
ジュリアンは子供の頃の家庭教師だったアレックスの前では気が緩むようだ。ざっくばらんな喋り方になる。
「はい、妹が侯爵と婚姻しております」
「そうか、後継ぎのマキシムは評判がいい。二人は息災か?」
妹のマーガレットとマキシムの話題は心臓に悪い。表情には出さないように注意したがリュシアンがじっと私の顔を見つめている。彼は昔から勘がいい。
「はい、おかげさまで」
「それは良かった。いずれにしても、アレックスの功績は素晴らしい。子供の頃、アレックスに家庭教師をしてもらっていた俺も鼻が高いよ。」
ジュリアンは何も気がついていないようだ。リュシアンも沈黙している。内心で胸をなでおろした。
「いえ、偶然の産物で私の手柄ではないのです。たまたまですよ。恥ずかしいので、あまり吹聴したくないのです。どうかあまり人には仰らないで頂きたいのですが・・」
ジュリアンは「相変わらず謙虚だ」と笑いながら手を振り、リュシアンは軽く会釈をして去っていった。リュシアンとは幼馴染だが、事情があってもう何年も疎遠のままだ。
一人になった私は、悔悟の念に苛まれた。今すぐフィオナのことを報告し彼女を救出すべきだ。何年も前にそうするべきだった。
しかし、マーガレットとマキシムのことを考えるとどうしても躊躇してしまう。おまけに診療所の患者たちも人質と同然だ。私が通報したら、あの卑怯者は診療所を滅茶苦茶にして患者を害することも辞さないだろう。まず患者を安全な場所に避難させてから・・・。
アレックスは肩を落とした。
そもそもブーニン侯爵の口車に乗ったのが間違いだった。診療所を開くための費用を支援してくれるなんて話がうますぎた。私を取り込むための手段だったに過ぎない。
フィオナを守るための努力はしている。フィオナが小さかった頃は、短気な侯爵が暴言を吐くこともあった。暴力を振るおうとしたこともある。
暴言・暴力行為は健やかな成長を妨げ、フィオナのセイレーンの能力が発揮されなくなると何度も侯爵を説得し、表面上は平和に過ごすことができている。
しかし、初潮が始まったらどうする?フィオナを犠牲にすることなど絶対にできない。
その前に診療所を閉めて患者を避難させ、マーガレットたちを逃がさなければならない。しかし居場所も分からないマーガレットたちをどう逃がせばいいのか?
自分の無能さに怒りがこみあげてくる。
私は無力だ。少女一人救うことさえできない。
ただ一つ心に決めていることがある。現実にフィオナの身に危機が迫ったら、私は妹と甥ではなくフィオナを優先させる。
(母上、申し訳ありません・・・)
両親に失望されてばかりの人生だった。
父親であるエヴァンズ伯爵には正室と側室がいた。私とマーガレットの母親は正室で、異母弟のオスカーは側室の子だった。
正室から生まれた長男の私が爵位を継ぐはずだった。しかし自分は父の期待に応えられなかった。「お前には失望した」と罵倒された苦い記憶を思い出す。
そんな父は母の猛反対を押し切ってオスカーに爵位を譲った直後に病死した。
母は元々マーガレットだけを溺愛していたし、廃嫡された不肖の息子なんて厄介者でしかなかったろう。家族とはずっと疎遠だったが、母が危篤だと連絡があり慌てて屋敷に戻った。
母は亡くなる直前まで私の手を握り「マーガレットを頼む」と涙を流しながら何度も繰り返していた。
しかし何があってもフィオナを犠牲にはできない。必ずフィオナを守る。その決意は揺らがない。
(それなら、なぜ今すぐ国王に報告しない?)
自嘲気味に考える。私は臆病で決定的な結論を先延ばしにしているのだ。
いや、それだけではない。
フィオナは素晴らしい。あんな過酷な状況にあっても前向きに努力を続けている。前世の話を聞いた時は驚いたが、不思議と納得もできた。決してあきらめない強靭さ、冷静な判断力、大きな包容力はとても少女とは思えない。・・・いや実際、中身は成熟した大人の女性だったわけだが。
フィオナは尊敬すべき稀有な女性だ。絶対に助けなければならない。しかし、今すぐ王宮に助けを求めない理由には、人質の存在だけではない醜い利己的な理由もあることを認めざるを得ない。
現在、私は最もフィオナの近くにいる。彼女は私に全幅の信頼を寄せ、前世の秘密まで明かしてくれた。前世で医師だったと聞いて驚いたが、それ以上に喜びを感じた。フィオナから教えてもらえる知識は、一生分、いやそれ以上の幸運に値すると思う。
もし王家にフィオナが保護されたら、彼女は私には手の届かない存在になってしまう。
もうフィオナと二人で過ごすことはできなくなるだろう。
結局それが怖いのかもしれない。少しでもフィオナと過ごす時間を引き延ばしたいのだ。医学の知識が欲しいから、という理由だけではない。もちろん恋愛的な意味でもないが、ただ彼女と一緒にいたい。
(なんと利己的で、醜くて欲深い・・・)
自分で自分が嫌になり、立っているのも辛いほどの自己嫌悪に襲われる。
よろめきながらも明日フィオナに会えるのを心待ちにしている自分が嫌でたまらなかった。
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