最後の選択

A―1 純粋すぎる愛の物語

 今読んでいるのは、純愛の――純粋すぎる愛の物語。

 私は生まれつき、上唇うわくちびると鼻にまたがるように、大きな腫れものがあったらしい。小さい頃に切除手術をしたので、呼吸や食事、発声には、ほとんど問題が無い。

 しかし、口と鼻を大きく切除したことによる、口元が不自然にゆがんだ見た目は悩みだ。

 普段はマスクで隠しているのだが、食事の時や、写真撮影をする時なんかにマスクを外すと、初めて私の顔を見る人を驚かせてしまう。

 誰のせいでもないから仕方ないけれど、人と違うことは悲しいし、つらいと思うこともある。

 高校二年生にもなると、数少ない友達には、次々に彼氏ができていく。

 しかし私には、事務連絡以外のことを話してくれる男の子すらいない。

 きっと、心から私を愛してくれる人なんていないんだろうな。

 両親が私を可愛がるのも、きっと、私がこんな顔をしているのを可哀かわいそうに思っているからだ。

 はーあ。

 私は、だめだな。

 顔がちょっと変だからって、そんなことでくよくよして。

 世の中には、私よりもっと大変なハンディを持ちながらも、堂々と世界に発信している人だっているのに。

 私は、そんな風には強くなれない。

 他人の視線に怯えて、マスクなんか着けて。

 こうやって、『自分へのご褒美』で満足していることにして、物語の世界――嘘の世界に逃げ込んで。

 ……なんか、苦しくなってきた。

 誰も見てないし、ちょっとだけ、マスク外そう。

 ……ふう。

 あぁ。

 いい匂い。

 雨の匂い。

 秋の匂い。

 あ、そうだ。

 マスク外したついでに、チーズカレーまん食べちゃおうか――

「落としましたよ」

 不意に耳元で振動した声に、飛び上がる。

 慌てて振り向くと、そこに立っていたのは、コンビニ店員の彼だった。

 いつもの怠そうな口調とは裏腹に、深みがあって、優しく、しかし緊張した声。

 そして、手入れのされていない前髪の下から覗く、やはり緊張した笑顔――。

 あ……!

「「驚かせてすみません!」」

 私は大急ぎでマスクを着け、彼はぺこぺこと頭を下げる。

「すみません……!」

「すみません、すみません……!」

 彼の顔は、だ。

 普段はずかしがりなのを、コンビニ店員という役に入ることによって、おおかくしているのかもしれない――。

「すみません、すみません、すみません……!」

「すみません、すみません、すみません、すみません……!」

 あぁ……。

 こんなに、すみませんばかり言っていても、仕方ない。

 彼が、何か――確か、『落としましたよ』って……。

 彼は、私が落とした何かを拾ってくれたのだろう。必死に心を落ち着かせ、彼の手元を見る。

「あの、これっ……、落としましたよっ……」

 彼は、まだ少し赤い顔をうつむかせ、手に持っていたものを差し出す。

 あ……。

 栞……。

 お気に入りの、桜柄の、和紙の栞――。

 それが、雨で濡れた地面まで飛んで行っていたのか、ぐっしょりと濡れている――。

 あぁ、もう……。

 私が、どうでもいいことに気を取られているから、大事な物が――。

「ありがとうございます……」

「あっ、待ってくださいね」

 栞を受け取ろうと手を伸ばしたのに、彼は手を引っ込めてしまう。

「すみません。元のようには、ならないと思いますけど……」

 彼はそう言って、ベージュのズボンのポケットから、タオルの、紺色こんいろのハンカチを取り出す。

 そして、くにゃくにゃに水を吸った栞を、ハンカチで優しく挟むようにして、き始める。

「あっ、いや、そんな……。もう、捨てますから……」

「これ、栞ですよね。紙が丈夫そうですから、乾かせば、また使えますよ。……はい」

 彼の笑顔に、さっきの緊張の影は、あまり無かった。

「ありがとう、ございます……」

 渡された桜の栞は、彼の大きな手の形に、少しだけ歪んでいた。

「雨、強くなってきましたね」

 彼が、さらに光量の減った空を見上げる。

「そうですね……」

 大人と天気の話をするなんて、どうすればいいのか分からない。私も空を見上げ、えずの返事をしてみる。

「おうちの方に、連絡できますか? 暗くなってきましたし、おむかえ、頼んだ方がいいですよ」

 彼が、長めの髪を揺らして屈み込み、私の顔を覗き込む。

「そう、ですね……」

 整った顔が、こんなにも近い。

 それに、マスクは戻したとはいえ、歪んだ口元を見られているようだ――。

 非常に落ち着かなくて、目を離す口実に、腕時計に目を落とす。

 午後六時四十二分。

「あの……でも、あと二十分くらいしないと、帰ってこなくて……。だから、もう少しだけ、ここで待たせてもらってもいいですか……」

「あ、そうなんですか」

 こくこくと頷いた彼が体を起こし、彼の視線は、私の顔の真正面から外れる。

 あぁ、良かった……。

「じゃあ、イートインスペース、使ってください。この暗いのに、外では危ないですから」

 彼はそう言って、自動ドアの前に立ち、扉を開ける。

「でっ、でも、長居ながいは……」

「いいんですよ。他にお客さんはいませんし、何より、あなたが危険な目にう方が、ぼくいやです」

 だめだ。

 こんなことで、きゅんとしてしまうなんて。

 彼は大人として、当然のことをしているだけだ。

 周りの恋愛事情に過敏になっている私が、変な風に考えてしまっているだけ。

 それに、この顔を見られたのだから――

「ほら、風が吹いてきましたよ。本も濡れてしまいますから、早く」

 彼の声と笑顔に引き寄せられるように、私は彼の後について、自動ドアを通ってしまった。

「はい、どうぞー」

 再び温かな空気の中へ入ると、彼に促されるままに、心地よい狭さのイートインスペースに並んだ丸椅子まるいすに腰掛ける。

「では、ごゆっくり……あ、そうだ。それ、すぐ食べますか? 裏の冷蔵庫、入れときましょうか? あと、それ、あっため直します?」

 彼が、私の持っている二つの袋を指差して、いそがしくしゃべる。

「あっ、お願い、します……」

「はいっ」

 彼の勢いにされるままに袋を渡すと、彼は軽い足取りで、レジの方へと走っていく。

 そして、すぐに駆け戻ってくる。

「これ、栞が乾くまで、代わりに」

 彼が差し出しているのは、レジ横のマシーンの、カフェドリンク一杯無料のチケット――。

 あぁ。

 この人も、私を可哀そうだと思っているんだ。

「いえ、申し訳ないので……」

「でも、あの、レシートとかよりは、ダサくないかなって、思ったんですけど……」

 彼はまた、顔を少し赤くして、俯く。

「それと、その……」

 彼の顔が、今度は、ぼっと真っ赤に染まる。

「はい……?」

「また、来てほしくてっ……」

 消え入りそうな声でそう言うと、彼は、私にドリンクチケットを押し付け、逃げるように走り去ってしまった。

 彼がぎゅうっとにぎめていたコーヒー豆柄のチケットは、桜柄の栞よりも、もっと歪んでいた。

「ありがとうございます!」

 レジカウンターの向こう、長めの髪の隙間すきまからちょっとだけ見える、真っ赤な耳に向かって叫ぶ。

「はぁい……」

 恥ずかしそうに震える声。

 その声を、私はこの先ずっと、そばで聴き続けるんだな。

 心のどこか、確かな場所で、私はそれを知った。



          END1 愛のゆがみ

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