第5話 涙火


「お前さん、名前は――」

 若林鉄真って言うんだろ、男はそう以蔵に言った。


 既に支倉の姿はなかった。

 男と以蔵が拳と剣を交えた僅かな隙に、姿を眩ませたのだ。

 この場には、動かぬおりんを抱きしめ座り込む以蔵と、それを見守るようにして、焚火に背を向ける男しかいなかった。


「ば、馬鹿な、わ、わしは――」

 岡田以蔵じゃと、否定したものの、以蔵はひどく落ち着かない。


「わ、わしは――と、土佐の、お、岡田以蔵じゃ……」


 言葉を言い澱むのは、口の中がずたずたに傷ついているからだけではない。

 腕の中で冷たくなった、おりんの静かな顔を見つめると、ますます心もとなくなる。

 最早、以蔵からは、先ほどまでの鬼気迫る兇気は嘘のように無い。

 むしろ全てが抜け落ちたのか枯れた抜け殻のようだった

 男の掌底に込められた氣が、以蔵の中に満ちていた瘴気も、それに呼応した古兵の怨念も、全て払い落としたのだ。


「少なくとも、俺はそう聞いたぜ」

「そ、そう――なのかのぉ……」

「だがしかし、あんたのいう事ももっともだ。あんたは京都所司代同心、若林鉄真であり、土州郷士、岡田以蔵なんだよ」

「ど、ど、どう言うことぜよ?」


 あまりにも不可解な男の言葉に、以蔵が顔を上げる。


「そこんところの裏をはっきりさせるのに、時間が掛かっちまった。おかげで――」


 死なせちまった――と、男は眼を伏せた。


「若林――いや、以蔵さんと呼ぶべきか。俺が調べた限り、あんたは一度死んでいるんだぜ」

「ば、馬鹿を言うな!い、一度も二度もあるか!人間は死んだら、そ、それで終いじゃろ。た、確かに死にかけたことは――ある――」

 ――いや、死んだのか?


 袈裟がけに肉を裂かれる感触。

 突き抜ける熱。

 火箸を刺されたように、左眼がずきずきと痛む。

 この痛みは――誰の痛みだ?


「京都所司代の同心だった若林は、お役目で土佐の岡田以蔵と斬り合いになり、見事打ち取った。だがな、若林自身も左眼を突かれて絶命したらしい」

「ひ、ひだり……眼――?」


 この痛み――以蔵が掌で左眼を覆う。

「岡田以蔵の遺体は土佐の連中が回収した。だが、なぜか現場には若林の遺体も無かった。その結果、所司代では若林鉄真を行方知らずと処理するしかなかった」


 だからこの眼が――


「おりんさんは、若林鉄真の御内儀だったんだよ」

「――えっ? お、おりんが――」


 以蔵の左眼が指の隙間から、男を見つめた。

 確かに、初めておりんを抱いたときの事を思うと、とても初対面とは思えない驚きと、懐かしさがあった。

 それに喜びと、何とも言えぬ深い後悔の念が浮かんだことを、今でもはっきりと憶えている。


「若林の死後ひと月ほど経った頃、いきなり家禄を没収され、おりんさんは着の身着のままで、組屋敷から放逐されたらしい」

「な、なぜ?」

「攘夷派不逞浪士の仕業と思われる人斬り事件で、若林鉄真の姿が確認された。それも一度や二度ではない……」


 男は言葉を濁らせた。


「岡田以蔵を斬ったことによって、人斬りの悦びに目覚めた若林はご公儀を裏切り、刀の錆びを求め過激派攘夷浪士に身を堕とした――それが京都所司代が最終的に下した沙汰だった」

「し、知らん。わしは、そんな――など」


 以蔵は呻いた。


「死んだと思っていた亭主が生きていたのなら、せめて一目会いたい。だがあの何よりも優しかった亭主が、血の味を覚え人斬りに目覚めたなど信じたくない――夜鷹に身を堕としながらも、おりんさんは懸命に若林を探した」

「――だから……」


 わしを受け入れたのか――


「女の直感てなぁ恐れ入るな。お前さんが若林ではない事は、直ぐに分かったらしい。姿は自分の亭主なのに、中身は全くの別人。狐か貉、妖にでも憑かれたのではないかと思い、藁をもすがる思いで俺のところに来たのさ」

「――おんしは?」

万屋よろずやさ。やっとうチャンバラから、憑き物呪い妖怪退治――まぁ、荒事なら何でもござれだ」


 男の顔に太い笑みが浮かんだ。


「土佐の奴らは、手前ぇらの都合の良い状況を作るために、まだまだ人斬りが必要だった。長州でも薩摩でも無く、土佐の為に――もっと言えば土佐勤王党の――いや武市半平太、子飼いの人斬りがな」

 ――と、呆れるようにため息をつく。


「だから、類い稀なる人斬りの天才、岡田以蔵を失いたくなかった。まだまだ天誅を続け、攘夷派の中で地位を築く為にる為に、あんたは必要だったのさ」


 確かに――命令された相手を斬れば斬るほど、武市は悦び、以蔵を褒めちぎった。だが同時に、勤王党の仲間からは遠ざけられた。

 以蔵の孤独は強くなっていった。


「若林鉄真の剣の腕前が、これまた一級品だったのが不運に拍車をかけた。連中は外道の呪術を使い以蔵、あんたの業を留め、魂魄を眼球に封じ込めた。ボロボロに傷ついた肉体を破棄し、痛みの少ない若林鉄真の身体に移したんだよ」

「そ、そんな馬鹿な……」


 以蔵が力なく首を振る。


「外法の呪によって死に損なったお前さんが、こんな未練怨念たっぷりの古戦場なんぞで刃傷沙汰起こしゃあ、あの世に響いて憑りつかれようもんさな」


 眠るように瞼を閉じたおりんの顔に、以蔵の顔が覆いかぶさるように項垂れた。


「わ、わしは……わしゃぁ――おまんの亭主の身体をした――」

 死人だったんか――と、以蔵は肩を揺らし嗚咽した。


 ふぉろぉ――

 ふぉろぉ――


 以蔵の嗚咽に、森の奥で猛禽が哭く。


「――――わ、わしを……こ、殺して……殺してくれ――」


 臓腑を絞り出すような悲痛な叫びは、殆ど言葉をなさなかった。


「それは俺の仕事じゃない」


 冷たく突き放す言葉の中に不思議と、どこか温度が感じられた。


「お……おぁ――りん――お、おりんよ……ゆるし……ゆ、許しとうせ…わしは――わしは……おりん、おり――んよ――」

「さて俺ぁ行くぜ。あの野郎をみつけて、さっきの仕事料きっちりと貰わんとな」


 その口調からは、冗談とも本気とも推し量ることは出来ない。

 だが、小さく丸めた背を揺らし咽ぶ以蔵を見つめる眼は、思いもよらず優しかった。


「じゃぁな」


 男が背を向ける。


「――お、おりんは……わ、わしと若林――い、いや、何をを想って、一緒におったのかの――」


 男が脚を止め――


「さぁな。俺には分からん。でもな、おりんさんが俺に依頼したのは――」

 あのひとを救ってほしい――だったぜと、背を向けたまま男は言った。


 ふぉろぉ――


 はっ――としたように、以蔵が顔をあげた。


 梟と鵩――


「――どっちがどっちでも……良いのか――」


 おりんを抱いたまま、以蔵が身を震わせ泣いた。

 その時、背を向けたままの男が片手を上げ、そのまま歩き出した。


「まっ、待っとうせ」


 そのでかい背に向かい、以蔵が叫ぶ。


「お、おんしの名を聞かせてくれんか?」


 男が振り返る。


「俺かい?俺の名は――」

 眼横の刀傷をかいて、葛城柔志狼は嗤った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

幕末陰陽傳 古戦場火 猛士 @takeshi999

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ