第4話 怨武者
吹き上がる血飛沫が、爆ぜる火の粉のように以蔵に降り注いだ。
火の粉のように熱い雫の一滴が――以蔵の左眼に
「ええぇい。夜鷹めが!おんしの始末は以蔵の後じゃち言ぅたろうが!」
しゅっ――
その瞬間――支倉の頬に冷たい風が奔った。
と、一瞬遅れて温かいものが頬を伝わっていく。
顎先から地面に滴るそれは、頬を流れる血だった。
だが、支倉にそれを確かめる余裕は無い。
「――――お、おおおおんし…い、以蔵。以蔵――――」
眼前の以蔵から眼が離せない。
恐怖で身が凍てつき、瞬き一つできない。
左腕に、血染めのおりんを抱き、いつの間にか右手には抜き放たれた白刃が、妖しい剣気を放っていた。
かぁぁぁ――――
いつ刀を手にし、いつ抜刀したのだろうか。以蔵は手にした剣先を、だらりと落として構えている。
以蔵の――いや若林某の身体に、以蔵の左眼が炯と朱く光を放つ。それはこの世のモノならざる、禍々しき輝き。
かぃぃぁぁ――――
ぽっ。
――ぽっ。
……ぽっ。
熊笹の間から湧き出るように突如、ゆらりとゆらりと、火玉が浮かび上がった。
ひとつ……
ふたつ……
みっつ……
よっつ……
それは焚火の炎とは根本的に違うもの――
蒼白く揺らめく鬼火。
「ひぃぃぃぃ――――な、なんじゃ。なんじゃ以蔵!以蔵!」
支倉の表情は先ほどまでと変わらない。
嗤いがこびり付いたままだが、その身は哀れなほどに震えている。
邪悪な瘴気が凝り、以蔵の左眼を彩っていく。
以蔵の腕の中から、おりんの身体が力なく崩れ落ちた。
と、以蔵が
鬼火がまるで露払いのように、以蔵に先んじて奔る――
以蔵の眼の禍々しさが移ったかのように、刀身が鈍い光を放つ。
ひゅっ――
「――ひっ!」
腰を引き、刀を突き出し支倉は後退る。
支倉の剣をすり抜けて、鬼火が走り抜けた。
「な、な、な、な……ん、なんじゃ――!」
ぞぶりと、鬼の顔をした火球が支倉の胸を通り抜けて行く。
精力を根こそぎ奪われた様な虚脱感に、支倉の膝が震える。
次の瞬間、刀を持っていた肘から先が喪失した。
「あ?」
呆けたように見つめる視線の先には、刀の代わりに噴き出す血飛沫があった。
「――あぁっぁぁぁあ………」
支倉の顔に嗤いとも、泣きとも言えぬ表情が浮かぶ。
以蔵の魔剣が、鬼火を纏って支倉の腕を斬り捨てたのだ。
鳥肌が立つような愉悦の表情を浮かべた以蔵は、狂気すら超越した人ならざる者――燐と光る左眼が妖しく瘴気を放つ。
支倉に止めを刺そうと、以蔵が禍々しく剣を上段に振りかぶった。その瞬間――白くて柔らかなモノが、以蔵の頬にぶつかった。
すると、朧気な光が以蔵の頬で淡く弾けた。
――――!
その瞬間、声にならない悲鳴を上げて以蔵が仰け反った。
いつの間にか、森の中から一人の男が姿を現していた。
「饅頭喰うかい」
以蔵の頬で弾けたそれは、柔らかな饅頭だった。
饅頭がぶつかっただけで、悪鬼と化した以蔵が苦しんでいるのだ。
「伏見の銘店の逸品だぜ。旨いだろ」
男がにやりと、なんとも小癪な笑みを浮かべた。
髷は結っていない。短く刈った髪は職人のようでもある。
腰に大小は見受けられず。黒衣の小袖に黒の皮袴。
悠然と現れた男は、大樹から削りだされた仁王像のように、どこか荒々しくも、静かな佇まいを纏っている。
饅頭を齧りながら、太い笑みを浮かべた様は、この状況においてひどく場違いだった。
だが男の持つ、強烈な磁場のような何かが、場を支配する暗澹たる空気を一瞬で掻き消した。
「――う、うで腕……うで――ワシの――腕が……」
先ほどまでの威勢は見る影も無く、支倉が無くなった腕を抱え込み、縋るように男を見つめる。
ふふん――と、左眼の横に走る傷を撫でながら、支倉を呆れたように見下ろしている。
だが血を流し、動かぬおりんの姿を見た途端、男の表情が一変した。
「――間に合わなかったか」
異質なほど陽気だった男の顔から一瞬、微笑が消えた。
「戦国の戦場跡か――古戦場火にあてられて堕ちたか……」
辺りに朽ちる古兵たちの残滓を見やり、男が溜息を吐いた。
「――――た、た、たす――助けて、助けてくれ!」
失った手首を押さえ、支倉が狂ったように呟く。
自業自得だろ、と一瞥する男に、以蔵から放たれた三つの鬼火が襲い掛かった。
鬼火は、揺らめきながら形を変えると奇異な事に、男に達するころには人の姿を有していた。
「人斬りの業に踊らされ、己が無念を思い出したか」
その姿はまさに戦国期の鎧武者。
武者の如き大鎧を纏い、その手には槍を手にしている。
兜の鍬形を形作る炎が、まるで鬼の角のように禍々しく踊る。
三騎の鬼火武者が破竹の勢いで男に襲い掛かった。
この世のものならざる冥界の怪異に、男にはなす術も無いと見えた。
だがその瞬間――それはまさに刹那の、一瞬の光景だった。
頭一つ先頭を走る鬼火の武者が、豪槍の如く伸ばした炎の先端を男に突き込む。
そこに逃がさんとばかりに、半拍遅れて鶴翼の如く広がった二騎の鬼火武者が迫る。
左右に逃げ場は無い――といって、引くも意味をなさない。
だが男に躊躇は無かった。
ゆるりと滑るように前にでた。
鬼火の群れより尚も疾く――迅雷の如く男が奔った。
正面の鬼火武者が突き込む豪槍を、掌で捌きながら体を躱す。
淡く光を纏う掌で炎の槍を掴むと、男は刹那の体捌きで武者を投げ落とす。
左右から押し包むように襲いかかる武者に対し、無手でありながら、抜刀するように手刀を一閃――
青白い燐光の軌跡を残し、左右から襲い掛かった鬼火武者が一瞬で霧散する。
そこに、支倉を襲った鬼火が姿を成し、太刀を振りかぶり、頭上から襲い掛かった。
気が付いた男は、一瞬早く掌底で迎え撃つ。
と同時に、腰を落とし、投げ落とした鬼火武者を踏みつけた。
男の身体が一瞬蒼白く、仄かな燐光を放つと、鬼火は爆ぜて宙に霧散する。
「くはぁ――」
全てが一呼吸にも満たぬ刹那の出来事だった。
地を踏みしめ、拳を天に突き上げるその姿は、まるで悪鬼を調伏する金剛力士――
「……た、たの頼む、たす、助け――」
支倉が狼狽えながら、這い擦るように男に近づく。
「悪りぃけどな、こっちは仕事なんだ。銭にならない事は後にしてくれ」
冗談とも本気ともつかぬ口調で、男が突き放す。
「か、金か?銭なら払うきに、助けとうせ!」
失った方の手で懐をまさぐると、たちまち胸元が血に染まった。
「あぁ嫌だ。嫌だ――なんでも銭勘定で片をつけようって根性」
男は大仰に肩をすくめた。
「それに、お前さん土佐モンだろ?俺の知ってる土佐モンは銭勘定の話してても、もっと漢気があって肝っ玉座ってるがな。桂浜の荒波も知らない似非者か」
と、嗤った。
その時――
「てぇぇぇ――天誅ぅぅっぅ――――!」
裂帛の気合と共に、殺気の塊が迸る。
「ちぃ!」
男が支倉を突き飛ばした。
その空間を、どす黒い凶刃が切り裂いた。
以蔵が振るう凶剣は人斬りの妄執と、古戦場の兵の怨念に彩られ、どす黒く濁った瘴気を揺らめかせる。
それは掠めただけで血肉を腐らせてしまうような、禍々しさを纏いながら妖しく光る。
地獄の業火の如き怨念に燃えた左眼が、獲物を求め妖しく光る。
返す刃が蛇のように支倉に迫る。
ひぃぃぃぃと、無様に腰を抜かす支倉。
「仕方ねぇな」
寸前のところで、男が以蔵の手首を掴んだ。
「別口だ。仕事料はきちんと貰うぜ――」
男が冗談ともつかぬ笑みを浮かべたとき――
「――天誅ぅぅぅ!」
みちみちと、鳥肌の立つような音をたて、以蔵の剣があり得ない角度で男を襲った。
靭帯や肉が千切れるのも構わず、以蔵は掴まれた手首を力任せに捻り、無理やり剣を斬り返した。
「ほぉ」
だが男はその剣を、身を躱して難なく避けた。
その掌には、以蔵の手首が収まったままである。
男は以蔵の剣を躱すと同時に、体捌きで以蔵を地に叩きつけた。
「因果霧散――」
天を睨む以蔵の顔面に、追討ちとばかりに、淡い燐光を放つ男の掌底が叩き込まれた。
「――――んちゅ……ぅ――」
以蔵の眼に灯っていた魔界の炎が霧散し、瘴気が――消えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます