第2話 陰火


 ぱちりと、薪が爆ぜた。


 紅い火の粉が、光の粒子となって宙に踊る。

 それが以蔵には痛いほど眼に沁みる。


 ふたりの前で赤々と火が燃えていた。

 焚火には古びた鉄鍋が乗せられており、そこには湯が沸いている。

 その周囲には、串に刺した魚が既に焼きすぎて燻され、夜気に何とも香ばしい匂いを漂わせていた。

 ふたりは、身を寄せ合うようにして揺れる炎を見つめている。


「――お、お、お前んは、ここ、こ、怖くないがか?」


 一瞬――以蔵のことを覗き込むように見つめ、おりんが頷く。

 はいと、応えるおりんの姿が、ぐにゃりと歪む。


 何時からだろう。

 なんの予兆も無く、視界が歪むことがある。

 物を掴もうとするとき、距離感が狂う時がある。

 そんな時、左の眼と右の眼が、まるで別々のものを見ようとしているかのような違和感を覚えるのだ。

 日常生活に支障がないとは言い難いが、騒ぐほどのことでは無い。

 なにより、以蔵が仕事人斬りをするときだけは、絶対に歪むことはなかった。

 むしろそんな時は、覚者の眼でも宿ったのかと思えるほど、絶妙に良く観えた。


 相手の怯える表情は勿論、その額から噴き出す汗の雫。

 口吻に溜まる唾。

 相手のひくつく、筋の脈動まではっきりと見て取れた。

 むしろ以蔵の仕事にとっては、まさに慧眼だった。


 だが、今は駄目だ。

 おりんとの、日々の中では視界の歪みが酷くなる。

 この眼は平穏な暮らしなど、求めていないということなのだろうか。


 所詮は血塗られし――――と、以蔵は首筋の後ろの産毛がぞくりと疼いた。

 冷え切った指先で、そっと撫でられているようだった。

 殺気――以蔵にとっては女の吐息以上に馴染みのあるアレかと思った。

 だがそれは違った。


 殺気とは異なる、もっと異質で重苦しい空気。

 氷で出来た鎖が、傷をこじりながら浸み込んでくるような冷気に、堪らず以蔵は振り返る。

 背後にはうっそうと茂った樹々がそびえ立ち、足元を熊笹が埋め尽くしている。


 今宵、何度振り返った事か――

 熊笹の間から、錆びた板状の金属が突き出している。

 それは朽ち果てた兜の鍬形だった。

 闇に眼を凝らしてみれば、樹々の間草々の間に、朽ちた具足が見え隠れしている。

 枯れた蔦が巻き付いているのは、かつての槍の骸だ。


 ここはかつての戦場の跡。

 兵どもが夢の残滓――名も知れぬ古戦場だった。

 それは以蔵が憧れていた、いにしえの武士の誉れ――夢にまで見た兵どもの晴れ舞台。

 だが今は、それがたまらなく――おそろしい。


 以蔵とて最初から好んで、このようなところで夜を明かそうとは思ったわけではない。

 疲れ切った身体で火を起こし湯を沸かし、途中手に入れた魚を焼き、腹を満たし落ち着いて、初めてここが、そのような場所だと分かったのだ。

 だが気が付いたところで、慣れぬ夜の山道を強行に歩いたおりんに、これ以上の無理を強いるわけにはいかない。

 それに何より、これ以上の夜道を歩くだけの気力は以蔵にも残っていなかった。


 結果、二人は腹をくくり、ここで夜を明かす覚悟を決めたのだ。

 だが、そう決めてみても、以蔵は堪らなく落ち着かなかった。


 がさり――


 熊笹が音をたてて揺れる。


 がさり――

 がさり――


「ひ、ひぃ…」


 びくりと、身を震わせたのは以蔵だった。

 傍らにある刀の柄に、つい手が伸びる。

 今年は冬が遅く、未だ雪も無い。

 大方、栗鼠りすでもいたのだろう。


 まさか本気で古戦場の鎧武者が、化けて出たとは思わない。そもそも、そのようなものがこの世に居るわけがない。

 先程、おりんに言ったばかりである。

 もしも、死人が化けて出るなどと言うことがあるとしたら、自分など、ここに居るわけがない。

 そう、当の昔に憑り殺されている――

 自分が未だに生きていることが、亡霊などいないという、何よりの証であろう。

 それでも以蔵は、身がすくみ上がるほど怖い。


「そんな顔をなさらないで」

 わたくしも怖ろしくなりますからと、刀を掴もうとした以蔵の掌に、おりんが自分の掌を重ねる。

 そしてそっと、以蔵の眼を覗き込む。


「そ、そ、そそうか、そうじゃな。わしがついちょるきに、お、怖ろしゅうもんなど無いきの――し、心配いらんな」


 おりんの手に、震える自らの手を重ねた。


「はい」


 おりんが微笑むと、以蔵の震えも不思議と落ち着く。

 歳は以蔵よりはいくらか上なのだろうと思う。


 どこか浮世離れした佇まいは、元々が武家の御内儀だったと言われれば、そんなものかと納得した。

 夜は……怖ろしゅうございます――と、以蔵を見上げる瞳には、ぞくりと、匂い立つような艶気がある。

 それは元来、おりんに備わっていたごうであるのか。

 それとも辛き日々を行く抜くために身に着けた、処世の術であるのか。いずれにせよ、以蔵にとってはどうでも良い事である。

 だが、そんなおりんを見つめると、以蔵の左の眼から決まって一筋の涙が頬を伝うのだ。

 おりんはそれを見ると、なぜか悲しそうに眉をよせ、微笑む。


「お、おりん――」


 以蔵は覆いかぶさるように、おりんを押し倒した。

 焚火の炎に、ふたりの影が大きく踊る。


「――りん。おりん――わしは、わしは――」


 己の裡の恐怖に耐えられなくなると、以蔵はおりんの温もりを欲した。そんなとき、おりんは必ず以蔵の眼を見つめる。

 その視線は、以蔵の心の裡を深く抉るようにまっすぐだった。

 だがそれは以蔵を見つめているというより、瞳を通してなにか深淵の奥にある虚ろを覗いているようで、以蔵はとても悲しくなった。

 それもほんの一瞬のことで、おりんは静かに眼を閉じると、いつでも以蔵の全てを受け入れた。


 ごつごつとした指を、白く柔らかい胸元に、乱暴に潜り込ませる。


 あふっ――と、おりんの口から声にならない吐息が漏れる。

 これで今夜も怯えずに眠れる――以蔵の裡に安堵が広がりかけた瞬間――


「こそこそと逃げ回ってるクセに、お盛んなことじゃの」


 焚火の向こうから、揶揄するような声が響いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る