8,光あるうちに光の中を歩め
赤錆のにおい。
乾いた血のにおいだ。
(母さんはここで死んだ。僕が気を失っている間に、リーパーが体を運んだ……)
その瞬間すら気づかなかった。目覚めたときの暗さを思い出しそうになって、また打ちのめされそうになるのをぐっとこらえた。
ランタンをつけて、箱の中を照らす。赤黒い床は、
「エレベーターで《
ツルネは中に入らず、しきりに背後の通路を気にしている。
リーパーのたてる、「かちゃり」という足音が、少しずつ、しかし確実に近づいてきている。
「あたしたちが使おうとしても反応しなかった。でも、ランタンがあれば動くかも。だけど……」
ツルネが聞きたいことは、自分だけ逃げるつもりなのか、ということだろう。
ランタンという特権を手にしたものだけが脱出できても、彼女にとっては意味がない。もしトオルが《都市》へと一緒に連れて行こうとしても、断るだろう。
「ううん。上に上がるんじゃない」
昇降機の操作盤を確かめる。そこには――トオルが思った通り――上下へと操作するスイッチがあった。
ランタンの光をかざすと、ボタンにもまた光が宿る。
「下へ降りるんだ」
🔦
《基礎》の最深部――トオルが二十四時間前にいた上層部からどれだけ離れているのか、想像もつかない。
そこには、光があった。暗い《基礎》とは違う。《都市》の上層部と同じく、天井部全面が光を放っている。暗さに慣れた目には、まぶしすぎるほどだった。
黒々とした機械と繊維に覆われた基礎とは違う。その場全体が光に覆われているように思えた。
「基礎の下にこんなところがあったなんて」
ツルネは帽子のつばを抑えながら、その空間を見渡していた。
エレベーターに乗らないことも選べただろう。だが、トオルだけを見送ることを彼女はよしとしなかった。その理由は好奇心なのか、責任感か。おそらく、両方だろう。トオルとしても、リーパーが迫る通路へ彼女を置いていくのは気が進まなかった。
そしていま、二人は共にいた。
清潔な空間には数え切れないほどの機械と配線が集まっている。
その様式は、トオルがよく知っているものだ。巨大で複雑だが、上層部でも広く使われている機器と同じように設計されている。
そして、その機械たちは低いうなりを上げて動作し続けていた。
「たぶん、《基礎》自体が巨大な装置なんだ。《都市》の排出物を再生するための装置。《都市》の管理部は上階にあるから、《基礎》を管理するための場所が下にあるんじゃないかと思ったんだ」
確信はなかった。だが、この空間の実在がトオルの想像が正しかったことを裏付けている。
「ここで……どうするの?」
それはトオルがもっとも聞かれたくない質問だった。
「実は……考えてなくて。ここに来たら、何かわかるかも知れないと思っただけなんだ」
「頼りないなあ」
「返す言葉もない」
ツルネは大きく息をついてから、肩をすくめた。
「まあ、でも、リーパーがいないならゆっくり考えることも……」
かちゃり。
ツルネの言葉をさえぎるように、足音がした。
柱のように並ぶ機械の間から、ぬっと影があらわれた。この空間にふさわしくない襤褸をひらめかせた異形。気づくとそこにいて、緩慢に、しかし確実に迫るもの。
リーパーはドスの顔を貼り付けた頭部をこちらに向けていた。
「……そううまくはいかない、か」
その異形と何度も向きあってきたツルネの声には諦観の色があった。
巨体がエレベーターの前をふさいでいる。不器用にもがくような動きで脚を動かし、ゆっくりと迫ってくる。
逃げ場はない。
「奥に
トオルは、自分でも不思議なくらいに落ち着いていた。単に恐怖を先送りしているのかもしれない。ツルネとともに、制御室の奥へと向かっていく。
通路をいっぱいに塞いだ異形が迫る。リーパーが追いつくまでは5分もないだろう。
「動いてくれよ」
制御盤は使いなじみのあるキーボードに似ていた。用途のわからないキーがいくらかあるものの、基本的な使い方はわかりそうだ。
目の前にはモニターがあった。だが、その画面には大きく「ロック」と表示されているだけだ。
いくつかのキーを叩いても、表示に代わりはない。
「パスワードやコマンドでロックを解除するんじゃないのか? どうすれば……」
かちゃり。かちゃり。かちゃり。
機械が立てる低いうなりにリーパーの足音が重なる。
「トオル。これ……」
ツルネが袖をひいて、一角を指さした。入力装置の中心部に、くぼみがある。どこかで見たような形と大きさ。
「ランタン!」
父が母に託し、母がトオルに託したもの。それはぴったりと入力装置のくぼみにはまり込んだ。
途端にモニターが動いた。「ロック」の表示が消え去り、代わりに、ごく簡素なメッセージが表示された。
『再生装置の再起動を実行しますか? Y/N』
「は……ははっ」
引きつった笑いがこぼれる。すぐ後ろにリーパーのかぎ爪が迫っていた。
「《基礎》は、ただ誰かが命令するのを待ってただけだったんだ」
どんな不具合で再生装置が停止したのかはわからない。その不具合を解消するためには、誰かが――ランタン、すなわち認証キーを持った誰かが――ここで命令を実行する必要があった。
だが、誰も正しい命令の下し方を知らなかった。
上層部は《基礎》の停止を隠し、緊急措置としてザイニンを《基礎》へ送り続けた。そのために何人が犠牲になったのか……誰も数えてはいないだろう。
かちゃり。かちゃり。
「トオル!」
リーパーがかぎ爪を振り上げていた。
やるしかない。
「終わってくれ!」
トオルは「Y」のキーを叩いた。
誰でもできるはずなのに、誰にもできなかったことが実行された。
モニターがひらめき、命令が実行されたことを示した。
かぎ爪を振り上げた異形は、ぴたりと動きを止めていた。
(こいつは……《基礎》が《都市》を生かすために作り出したんだろうか?)
恐ろしい怪物に見えたリーパーは、明るい空間では哀れなできそこないのように見えた。
「助かった……の?」
壁際に背を押しつけるように立っていたツルネがつぶやく。
「たぶん」
互いに力が抜けそうになって、二人は体を支え合った。
「すぐに上層部が気づく。村に戻って、皆と一緒に下層部に隠れないと」
「ついに悲願の脱出……か」
ツルネは視線を伏せた。リーパーの最後の犠牲者の顔を見ることができなかった。
🔦
《基礎》全体が震動している。
「何が起きてるんだ?」
「ツルネたちは無事なのか?」
ザイニンたちが不安げに視線を交わす。
(何かが変わった。何かが終わったんだ)
チエは立ち上がって、大きく息を吸った。空気で胸が膨らむ感触を久しぶりに思い出した。
リーパーの顔を見てしまった。異形はよく知った人の顔をしていた。決して見てはいけないと言われていたものを見た罰が降ると思った。今まで、何人ものザイニンたちが受けてきたのと同じ罰が。
でも、チエはまだ息をしていた。弱々しい足に体重を感じていた。
自分の命の重さだ。
胸に手を当てる。リーパーと向き合って、止まっていた鼓動が再び動き出した気さえする。
最後の鼓動どころか、いつも脈打っていることさえ感じられなくなっていた。
(何かが始まるんだ)
「みんな!」
暗いホールに、ツルネの声が響いた。
「ここから出よう。《都市》に戻るんだ!」
ランタンの
でも、チエは目を閉じなかった。
そして、光の差す方へと歩いていった。
ザイニンの灯 五十貝ボタン @suimiyama
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