12.狂気のための愛と死(2)

 蝉が、けたたましく鳴いている。

 寧子はふと泣き止むと、呆けたように口を開けたまま成臣を見上げた。

「おみくん、やっぱり櫂人に連絡して」

「しないでとかしてとか、どっちなの」

「だって、この状況なら櫂人来てくれるよね」

「は?」

「様子見に来るよね。あんた気に入られてるみたいだし、居てくれてちょうどよかった。櫂人を呼んでちょうだいよ」

「なに言って……」

 肌に纏わりついていた汗が一気に冷えて、背中が震えた。寧子は成臣に縋りついて顔を輝かせる。

「だってわたし悪くないもの。襲われたから抵抗しただけ。こういうのって大丈夫なんでしょ。それより警察沙汰になるほうが櫂人は嫌がるよね。そうだよね」

「待って寧子、待って」

 成臣は寧子の両肩を強く掴んで揺らす。

「なにをされたか、わかってるのか」

 ひどい問いだ、と成臣は自分が嫌になる。わかっていないはずがないのに、わからずにいることも許してあげられないのは自分の無力さゆえだった。そうするほかに、どうやって寧子の手を取ってあげればいいのか成臣にはわからなかった。

「櫂人はおまえを捨てたんだ」

「ちがう」

「物みたいに、こいつらにやってしまったんだ」

「ちがうもん……」

「だったら、違うならどうしておまえはずっとひとりなんだ、寧子」

 ぱんっと、頬を打つ音が響いた。軽い火傷のように肌がちりちりと痛むはずだが、いまの成臣には正しく痛むことができない。

 目の前に寧子の赤く滲んだ両のまなこがある。それはもう、人の持ち得てよい目ではない。獣の目をしていた。感情を牙のように剥き出しにして、瞬きを忘れ、言葉を失くし、咆哮をあげるしかできない眼差しが、成臣の喉に噛みつくようだった。成臣はなにも言い返せず、されるがまま、脚の上に乗り上げてきた寧子に胸倉を掴まれ、見下ろされていた。

「その顔で言わないで」

 ほつれた茶色の髪が震えて、成臣の頬を撫でる。きっとほんとうに泣きたいのはいまなのではないかと、ぼんやり考える。涙を手段にし続けた寧子には、自分の心のために流せる涙の用意がない。

「もうなにもないんだね、わたし」

 ため息をつくようにして、言葉をこぼす。誰かを追い詰めるためでも、誰かの同情を買うためでもない、どこか他人事のような呟きだった。だからこそかえって疲弊しきった寧子の素顔が垣間見える。

「おみくん、今度はどこへ越そうか。また山の見えるところがいいかな。海のそばはすぐに錆びちゃうからしばらくやめておこうね。大都会のまんなかでも楽しそう。寒くなったらお鍋作って、春になったら川の桜を見にいくの。わたし、おにぎり握るから、おみくんはたまご焼いてね。失敗してもいいから、一緒に食べようよ」

 寧子は成臣の首に抱きついた。

「大好きだった……。あの人のいのちになりたかった」

 血と汗と精液でべとついた寧子の肌は、氷のように冷たい。

「そんなにたくさんのものを欲しがったつもりはないのに、どうしてだろうね、もう、ほんとうに、なにもないんだよ、なにも。手にしたと思ったら失って、その繰り返し。櫂人のための体まで失くして……、なんでだろうね、わたしそんなに悪いことしたかな……、どうすればよかったの、これからどうすればいいの」

 首に絡みついていた寧子の腕に力がこもる。

「それともこれが運命なのかな」

「寧子……」

 細い指の感触が喉に張りついた。吸い付くような、互いの肌の境目がわからなくなるような感覚があった。かつてひとつだった肉片がもとへ戻ろうとしている。

「運命って逆らえないんでしょ、定められてるから運命なんだもんね」

 寧子は反動をつけるようにして成臣の体を強く押し、ささくれだった畳の上へ押し倒した。

「だったらわたし、これでいい。もうなにも欲しがらないから、代わりに櫂人の運命になる。こうすればもう失くさないし、絶対に覆らない。それが運命でしょ、だからこそ運命なんだよね」

 仰向けになった成臣の胸にまたがり、寧子は誰に話しかけるでもなく喋り続ける。その両手は成臣の首をじわじわと締めあげていた。

「やめろ、はなせ寧子」

 掠れた声で訴えるけれど、寧子に届いている様子はない。成臣は寧子を引き剥がそうとして手首を掴んだが、そのあまりの頼りなさに思わずためらった。

 寧子は腰を浮かせ、両腕に体重をかける。

「おみくん、お願い。ひとりにしないで」

 あの夜から、成臣は寧子をお母さんと呼ばなくなった。だがなんと呼ぼうとも、成臣にとって寧子は母親でしかなかった。母親だったから疎ましく、母親だったから苛立った。

 愛と死の境界を見失ったひとりの女を見つめながら、脳裏には古い写真のなかの少女を思い浮かべていた。切なく、かなしいひとだと、静かに落ちる雨だれのように感じ入る。その感慨はもはや清々しいほど純粋で、まったくの他人のもので、成臣はいままさに母親を亡くしたのだと知った。そのことが息苦しさとともに自覚されて、おかしみが込み上げた。

 成臣は寧子の手首からするりと力を抜いた。

 どうかしていると、みずからを笑った。

 好きな食べ物も、好きな音楽も、好きな服も違う。たぶん母子という関係がなければ出会わなかった。寧子をはねのけるのは容易い。けれど、その縁の行き着く先がここならば、もう、身を委ねようと思ったのだった。

 ふいに祖母の言葉を思い出した。

 ——おみくんは寧子の宝物だから、体を大事にして、どうかあの子をよろしくね。

 別れ際、靴紐を結んでいた成臣のズボンに祖母は一万円札を押し込んだ。

 思えば似たようなことを礼司も言っていた。

 ——ありがとうな、成臣。あいつのそばにいてくれて。

 耳もとで蝉が盛大に鳴いているようだった。雨音もだんだんと強くなる。視界には部屋の天井や壁などもあるはずだが、霞んでしまってよくわからない。ただ、寧子だけが見えた。半袖の白いブラウスと膝丈の青い幾何学模様のフレアスカートに、白いサンダルを履いていた。ファミレスへ行くよ、と手を差し出してくる寧子はいまより若い。成臣の視点もずっと低く、後頭部ではなく愛らしい顔がよく見えた。泣き腫らした目をしながら、今日は食べたいものを全部注文していいんだよ、お母さんたくさんお金あるからねと珍しく成臣の体を抱き上げた。おっきくなったね、もうすっかりお兄さんだねと頬を押し付けあって笑う。

 頼まれたからそばにいたのではない。ただ、彼女の笑顔が好きだった。

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