黒橡のダ・カーポ

望月あん

1.ガソリンと梔子

 この街は寒すぎると彼女は言う。

 昨日から雨が降り続いている。じっとしているだけで汗ばむような梅雨のさなかだった。

 成臣なるおみは床に頬杖をついて、天井を見つめる彼女の横顔を眺めた。つんと上向く鼻すじが高潔で美しい。

「だって誰もわたしのことを忘れてしまうから」

 人と人の繋がりを指しているらしい。だが責める口振りではなく、むしろ快く思っているような、それを愛しているような、歌うような囁きだった。

 深夜、閉店後のガソリンスタンドの事務所の床で折り重なり、雨の旧道を走り抜けていくトラックやバイクの音を聞いていた。

 壁紙やソファに染みついたガソリンのにおい、彼女の汗とシャンプーのにおい、あとは退屈と不可分になった夜が湖畔の水際のように静かにリノリウムの床に満ちていた。

 灯台のあかりのように差し込むヘッドライトが、壁に貼られた標語を撫でていく。

 夜はやがて必ず明ける。だがここにはその兆しが微塵もない。まるで時間が止まっているような重たげな夜のなか、今という瞬間だけが脈打ち連なっている。

 以前は成臣もこのガソリンスタンドでアルバイトをしていた。彼女は成臣の半年先輩で、教育係だった。ほどなく成臣はクビになったが、彼女との半同棲は続いていた。市内の大学へ通いながら他にもアルバイトを掛け持ちしていたため、会える時間は短かった。けれどそれ以上を求めはしなかった。会えないあいだの詮索をすることもなかった。

 彼女の眼差しはいつもずっと前だけを見ている。そうしながらときおり手探りで成臣の指に触れて微笑む。ただこの夜の淵でともに息をしている。それだけのことを互いに求めていると感じていたし、なによりそれが成臣には心地よかった。

 けれどどんな夜もやがて明けてしまう。

「伊沢はたとえ世界が滅んでも変わらずに生きていそうだね」

 言わんとすることがわからずにいると、彼女は成臣の腕に噛みついた。

「いつか、いやでもわかるよ」

 街路樹のくちなしが不意に強く香る。隙間なく敷き詰められていた夜が綻ぶ。

 半日疼いた噛み跡は、きれいな楕円形をしていた。

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