2.深海

 降り続けた雨は明け方に止んだ。成臣は数週間ぶりに母が住む家を訪れた。

 通りの裏手にあるドアを開けると、潮のにおいにも似た風が揺らいだ。それは足もとを覆ったかと思うとみるみるかさを増していき、成臣をすっぽり包み込んでしまう。体は重く、手足は緩慢に、視界は歪み、呼吸が不規則になる。

 ここは海の底だと、来るたび思う。

 着ていた服をすべて洗濯機へ放り込んで、一畳ほどの風呂でシャワーを浴びる。髪からは仄かにガソリンのにおいがするようだった。

 近所のスーパーマーケットから持って帰ってきたレジカゴに衣類が積み上がっている。そこをあさって、タオルを引っ張り出し体を拭く。すこし湿ったような臭いはしたが、洗ったあとの洗濯物の肌触りがした。どうやら母はまだいくらか正気でいるようだと、成臣は安堵でも落胆でもないため息を短く吐いた。いつからか、虫刺されのようなかすかな苛立ちがずっと頭の隅に引っ掛かっている。

 風呂場の真向かいにぴたりと閉じられた襖がある。素足で触れる廊下の床は潮風を含んだ湿気でべたついていた。襖に手をかけ、息を殺して耳を澄ます。中に人の気配は感じられなかった。

 短い廊下の先には母がママを務める小さなスナックがある。ドアの上部に嵌め込まれた明り採りの磨りガラスには仄赤い光が滲んでいる。母はそちらにいるようだった。きっと酔い潰れて眠っているのだろう。成臣は襖を開けた。

 点々と穴の空いたカーテンに朝日が透けて、四畳半の和室が薄ぼんやりと浮かび上がる。ずっと敷いたままの布団、吸い殻が溢れるビールの缶、脱ぎ捨てられたブラウスとストッキング、一度濡れて皺だらけになった新聞紙、端を結んだコンドーム、乾ききったグラスとペティナイフ。建て付けが悪く、隙間風の絶えない家でよかった。密室だったなら、あちこちに染みついた痕跡に耐えられなかった。ハンガーラックにかかる男物のジャケットだけが散らかった部屋のなかで他人のような澄まし顔をしていた。

 黴臭い押入れからスポーツバッグを引きずり出す。成臣の荷物はここにあるだけですべてだった。着替えを探すけれど、鞄のなかはいっそう暗く判然としない。できればカーテンは開けないままでいたかった。ここは深海、海の底だ。分け隔てなく光を浴びてよい場所ではない。しばらくはそのまま続けたがやがて成臣は舌打ちをもらすのも億劫でゆるやかにうな垂れた。仕方なくカーテンを掴んで引っ張り、下着とデニムとTシャツを探し出した。

 ことりと何かが転がる音がして振り返ると、押入れの奥から金属バットの先が覗いていた。短い、子ども用のバットだ。持ってみると記憶よりもずっと軽い。グリップには通っていた小学校の名が記されている。はじめから盗むつもりはなく、返すつもりだった。だが祖母と母が喧嘩別れをしたのは深夜で、荷物をまとめるだけでも精一杯で、学校まで行く時間はなかった。

 野球が好きだったわけではない。ただ、みんなとおなじになりたかった。同級生とおなじように野球クラブへ入って、毎日放課後に練習をして、毎週日曜日には甲子園決勝のような試合をして、帰り道にはやかんの水を浴びながら泥んこになって笑いあってみたかった。けれど誰かにそれを話すことはなかったし、叶えられるとも思わなかった。だからバットだけは振っていた。そうしていればほんのかすかにでも彼らの世界と繋がっていられるような気がしていた。

 成臣はバットを持ったまま、じっとみずからの手を見つめた。もっと懐かしく、感傷的になるはずだった。過去の記憶はまどろみながら観た映画のようだ。断片的な場面が思い浮かぶだけで、いまの成臣へと繋がるものは何もない。長屋の路地でバットを振っていた少年はもうここにはいない。

 バットを部屋の壁に立て掛け、スポーツバッグを小さな玄関のそばに置く。そのまま出て行こうとしたが、靴を履く手前で空腹に気づいた。思えば昨夜ファストフードを食べたきりだった。

 廊下の奥を振り返る。冷蔵庫も母の財布も店内にしかない。成臣は廊下を進んだ。和室の襖を開けたときのような躊躇いはない。店で寝ているのなら母ひとりきりのはずだ。できれば会いたくはないが、櫂斗カイトがいないならそれでいい。

 チューリップを模したランプシェードから白熱電球の灯りが落ちる。仄かに照らされた店内は、作り物の夕景に飲まれたまま時が止まっている。成臣はこのランプシェードが嫌いだ。

 灯りを消し、小窓にかかったカーテンを開ける。砂利道の水溜まりには白々しいような朝日が反射していた。

 ソファ席には、体を小さく丸めるようにして母が眠っている。眉間にしわもなく、穏やかな顔をしていた。普段より一回り幼く見える。彼女は十六で成臣を産んだ。寝顔のほうが年相応なのかもしれなかった。

 成臣はテーブルにあった煙草に火をつけ、母の肩を揺すった。しかし起きる気配はない。

寧子ネイコ

 呼びかけてさらに強く肩を掴むと、ようやく小さな声が洩れた。

「かいと、さん……?」

 成臣の手をたどたどしい手つきでたぐり寄せ、ようやく瞼をあげる。色素の薄い寧子の瞳には少女のような煌めきが息づく。

 けれどそれもほんの短いひと呼吸のことだった。

「ああ……なんだ、おみくんか」

 成臣と目が合うと、寧子は深くため息をついて寝返りを打った。

「わたし、さっき寝たところなの。もうすこしいいでしょ」

「だったら布団に行けば。どうせまた首が痛い肩が痛いってなるんだろ」

「んん、もう一歩だって動けない」

「あ、そう。声はかけたからな」

 呆れて離れようとすると、シャツの裾を掴まれる。

「なんだよ」

「あんたその煙草、櫂斗さんの?」

「さあ。ここにあった」

 成臣がテーブルを指差すと、寧子は体を起こして確認した。

「開けさしばっかり溜まってく」

 寧子は煙草の箱を成臣へ押し付け、カウンターの上を指した。

「そこ、入れといて」

 示された先にはクッキー缶があった。蓋を開けるとおなじ銘柄の煙草の箱がいくつも収まっていた。何層にもなった腐葉土のような匂いが強くなる。すぐそばに櫂斗がいるような気がした。成臣は手にしていた煙草をまだ長いまま灰皿に押し付けた。

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