3.血が繋がっている、だけ
冷蔵庫をあさって、スティック状のチーズと残り物のサラミをひとまず口に入れる。他にも肉じゃがやきんぴらごぼうが鍋のまま冷えていたが、それらには触れずにドアを閉めた。
カウンター内で腰を屈めて財布を探す。以前は棚の奥に隠されていたが、見当たらない。
「ねえ、おみくん」
寧子は寝起きとは程遠い、しっかりとした声をしていた。
「あんた学校には行ってるの?」
成臣は屈んだままの姿勢で静止した。
もう、乱されない、と心に決めている。名前のある感情は車窓の景色のようにすっかり過ぎ去ってくれるようになった。どんなに大きな感情でも汗ばんだ肌くらいの不快で終わる。ただ、名前のつけようがない、そもそも感情であるかもわからないような嵐に出会ってしまうと、成臣には為す術がない。
喉の奥に衝動がつかえている。この衝動をどんな言葉に置き換えたら楽になるのか見当もつかない。噛みしめた歯の隙間から試しにどの面でと呟いてみるが、あまりにも子どもじみていて虚しくなるばかりだった。
「ねえってば、聞いてるの」
「行ってる」
「うそ。こないだ先生から電話あったんだから」
シンク下にひどく焦げついた鍋が不用品のように置かれていた。傾けて覗くと、長財布が放り込まれていた。紙幣を数枚抜き取ってもとに戻す。
「知ってて聞くとか」
「わたし言ったよねえ、学校だけはちゃんと卒業して、って」
担任だったつばさの尽力でどうにか二年に進んだものの、いまの出席状況では補講や奉仕活動をしたところで卒業どころか進級も危うい。
「たかが高校だろ」
「わたしは行きたかった。あんたは何の障害もなく通えるでしょ。恵まれてる自覚を持ちなさい。お腹にあんたがいたわたしとは違うんだから」
立ち上がって寧子を振り返ると、彼女はソファに座って成臣を睨みつけていた。親らしく子どもを叱っている気分なのだろうが、成臣の目には恨み言と嫉妬にしか映らない。
「だったら産まなきゃいいのに」
「なんてこと言うの」
「おれ頼んだか」
「ふざけないで、命懸けで産んだのよ!」
寧子はテーブルを叩いて声を荒げた。重ねてあった皿が衝撃で揺れる。成臣は持っていた紙幣を乱暴にポケットへ突っ込み、寧子に構わず廊下へ繋がるドアへ向かった。
「待ちなさい!」
ピンヒールを鳴らして寧子が詰め寄ってくる。
「わたしがあんたのためにどれだけ苦労してきたと思ってるの、どれだけ我慢してきたと思ってるの。それなのに、なにあんた、何様のつもり」
寧子の目から涙がこぼれる。こらえているのだろう、彼女はきつく唇を噛んでいた。
かつては泣いている母を見たくなくて、許しを乞うたものだった。だがいつからだろう、お母さんと呼ばなくなり、頼りにすることもなくなり、形のよい頭頂部を見下ろしながら憐れな女だと思うようになった。それは、寧子が若い母親だからでも、女手一つで子どもを育てているからでも、実母といつまでも折り合いがつけられないからでもなかった。
「櫂斗に振られた?」
ぱんっと大きな音がする。頬をはたかれても、成臣は眉ひとつ動かさなかった。
男がいないとひとりきりでは息もできない寧子は、溺れる者が藁を掴もうとするように男を求める。だからといって、男に従順なわけでも献身的なわけでもない。どこまでも我儘に、自分都合でものを言う。女王のように振る舞ったかと思えば、物乞いのように縋りつく。男を飼い慣らし繫ぎとめることなんてできるはずがない。
「昨日だって来てくれた」
和室の様子からふたりの関係が続いていることは事実だろう。だが成臣の頬のひりつく痛みが教えてくれる。寧子と櫂斗のあいだには体では埋められない深い溝があるのだと。
成臣は腰をかがめて寧子の顔を覗き込んだ。
「おれ出て行くから」
「え……」
「だから好きにすれば」
「嘘でしょ」
「なんのための?」
ドアを開け、薄暗い廊下を進む。成臣の足ならものの四歩で玄関まで辿り着いてしまう。うしろから寧子がピンヒールのまま追ってくる。
「なんで、どうしてよ」
「仕事見つけたし、そこに寝床もあるから」
「わたしのこと捨てるの」
成臣は置いてあったスポーツバッグを肩に担いだ。
「自覚あるんだな」
「やだ、いやよ、おみくん」
冷えた指が成臣の腕に絡みつく。夜明け前、くちなしの香りを刺青のように彫り込んだ歯型が歪む。
「ねえ、行かないで。わたしのことひとりにしないでよ」
ろくに家に帰ってこない息子にも軽々しく執着するなら、はたして櫂斗に対してはどうするのだろうと成臣は寧子の涙を見下ろす。
「なにも変わらないだろ。これまでだって毎日いたわけでもないのに」
「ちがう、全然ちがう。お願いだから行かないで。出て行くなんて言わないで。だってもう帰ってきてくれないなんて、そんな、待つこともできないなんてひどすぎる」
「……待つ? 寧子が?」
成臣は思わず掠れた笑い声を洩らした。
ポケットに押し込んだ紙幣を取り出し、寧子へと差し出す。
「洗濯機の服は適当に捨てていいから」
受け取ろうとしない皺だらけの紙幣を靴箱の上に置き、成臣はドアを開ける。寧子の指を強引に振り払うことはしなかった。ただ、一片の迷いなく一歩を踏み出す。
「おみくん……、おみくん!」
血よりも濃く塗られた爪が、成臣の肌を引っ掻きながら離れていく。それでも追い縋ろうとした寧子は玄関の段差を踏み外して膝から崩れ落ちた。
視界の端に、うずくまる寧子が見えた。よろけたときに靴のヒールが折れてしまったようだった。
「やめて、おみくん、行かないで……わたしをひとりにしないで、おみくん!」
悲鳴じみた懇願の声はドアが閉ざされても薄い壁越しに耳鳴りのように響いた。成臣はその声が聞こえなくなっても二度と振り返ることはなかったし、寧子が追ってくることもなかった。
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