4.夜の底

 終電車が出たあとの駅周辺は、金曜日ということもあり長閑で牧歌的ですらあった。タクシーで帰るくらいなら始発でいいと、電車を逃した人々は緩慢な足取りでネオンのほうへと引き返していく。

 コンビニエンスストアで買い出しを終えた成臣はガードレールに腰をおろしてロータリー越しに駅前の様子を眺めていた。大学生、会社員、男、女、それら混合、さまざまなグループがあり、大抵はすぐに次の行き先を決めて駅前から離れていく。だが中にはどうにも煮え切らないグループもいた。会社員風のワイシャツ姿の男ふたりが、どうしたものかと時間を持て余している。

 そこへ近づいていく若い金髪の男がいた。成臣は預かってきた携帯電話で覚えたばかりの番号を押す。

 衛星中継のようなタイムラグを一呼吸挟んで金髪の男が携帯電話をひらいた。立ち止まり、しばらく画面を見てから、十コール目で着信に応える。

「高梨っす」

「おつかれさまです、成臣です」

「ああ、なんだ、おまえか。どうかした?」

 高梨はあからさまに安堵した様子でふたたび歩き出した。成臣はレジ袋のなかを見下ろしながら、はいと返事をする。

「買い出しを頼まれたんですけど、高梨さん、なにかありますか」

「あー、どうすっかなあ。おれ事務所戻れるのだいぶ遅くなると思うんだわ」

「釣れそうなの、あんまりいない感じですか」

「そうなんだよー。蒸し暑いし雲行きも怪しいし、礼司さんには今日は期待すんなって言っといてよ」

 わかりましたと成臣が言うより早く、高梨は通話を切った。それもそのはずで、彼はワイシャツ姿の男ふたりに陽気な身振りで声をかけていた。

 成臣は高梨を見失わないように目で追いながら、手にしていた携帯電話を見もせずに操作をして耳にあてた。

 一コールで電話が繋がる。

「おう、成臣か」

 そう応える声が携帯電話以外からも聞こえてきて、成臣は声がしたほうを振り返った。そこには四十がらみの男が立っていた。細身のひょろりとした男で、シャツや眼鏡など身なりは一見してやくざ者だが、いつも寒そうに肩をすくめているせいでそれらしい威圧感はあまりない。

「礼司さん……?」

「おれ以外に誰に見えるんだよ」

「どうしてここに」

「そりゃあ、おまえの働きぶりを見に来たに決まってるだろ」

「はあ……。はあ? あんたがいるなら、おれがここにいる意味なくないですか」

 携帯電話を閉じて、成臣はレジ袋から取り出した烏龍茶を飲んだ。礼司はそれを妙ににこにことしながら見ている。成臣はあからさまに眉をひそめた。

「なんですか」

「いや、初めて会ったときはろくに目も合わせてくれなかったのに、なあ、こんなに顔を見て喋ってくれるようになって嬉しいんだ」

「まあ、見るからにやくざなおっさんとなんて誰だって距離置くでしょ」

 成臣は横目で駅前を見やった。高梨はワイシャツ姿の男の肩を親しげに叩いて話しかけている。

「へえ。おれは気づいてたけどな、成臣はおれを避けてるんじゃないって」

 礼司は成臣とおなじようにガードレールに腰かけて、成臣が提げているレジ袋のなかを覗く。

「おまえはさあ、成臣、誰でもよかったんだろ、それがやくざだろうと、……いや、いっそやくざくらいでちょうど良かったか」

「は?」

「たいていの高校生はな、やくざと並んで座って話し込んだりしないんだよ」

「あんたが言うか。そっちが引き止めたんだろ」

「そうだったか? だったらまあ、そういうことにしておくか」

 缶コーヒーのタブを押し開けながら、礼司は痩せた頬にくしゃくしゃと皺を寄せて笑った。

 むかつくと呟こうとした声は喉の浅いところでラムネ菓子のように砕けて、吐き出されることはなかった。烏龍茶を流し込んでも、明け方に見る夢のように内容を思い出せないまま手触りだけがいつまでも残った。

 礼司は猫背をさらに丸くして煙草に火をつける。

「そういやおまえ、あのとき読んでた本はどうだった」

「さあ。最後まで読んでないから」

「おれがつまらないって言ったからか」

「じゃなくて、返した。引っ越すから」

「引っ越すって大げさな。ただの家出少年が」

「おれじゃない。向こうが。だから別れた」

 煙草を持った手で太腿に頬杖をついていた礼司は、成臣を覗き込むようにしてじっと見つめる。

「彼女にはなんて言われたんだ。引っ越すから別れようって?」

「いや、ただ引っ越すとだけ」

「それにどう答えた」

「……どうって、わかった以外になにかあるか?」

「はあぁ?」

 礼司はため息とも非難とも取れる声を洩らして成臣のすねを革靴で蹴りつけた。

「ばかだなあ、それは一緒に暮らそうって話だろうが」

 思いがけない解釈に、成臣は返事もできずに眉を寄せた。呆れた様子で礼司は続ける。

「自分たちのことを誰も知らない新しい街に行こうとしてたんだよ。まあ、知らなきゃ誰も、おまえが高校生だなんて思わないだろうし、サツに面も割れてないし、やくざと付き合いがあったりもしない」

「おれのせいか」

「そうだな、おまえが捨てたことになるな」

 ペットボトルに巻きついたラベルがパキパキと音を立てる。成臣はペットボトルを握る手を見下ろしながら、血の気が引くようにして顔から感情が抜け落ちていくのを他人事のように眺めていた。

 最後の夜に彼女が残した歯形はもうどこにあったのかさえ判然としない。

「おまえが振ったんだ、成臣。賢くて、あんなによく働く子を、おまえが」

「何度も言わなくてもいい」

「うるさいか」

「ああ、うるさい」

「なら、これに懲りたらもう女を捨てるようなことするな。別れるときには捨てられろ。男はそのくらいでも女から貰いすぎなくらいだ」

 いっそもっと傷つけあえたなら、いまよりずっと傷つかずに済んだのか。行かないでくれ、行くならおれを連れていってと縋りついたなら、いまも一緒にいられたのか。

「あんたはそうしてきたのか」

 礼司は片目を眇めるようにして微笑むと、どこか遠くを見やりながらくわえた煙草を揺らした。

「やくざの首輪を嵌めるくらいなら、女の犬になればよかった。そうすれば捨てられるそのときに殺してもらえるのにな」

 まともに答える気はないらしいと成臣は察する。

「ああそう。話を聞いたおれがばかだった」

「おまえは正しいよ、成臣。誰でもいいなら、やくざくらいがちょうどいいんだよ。この、排気ガスくらい曖昧で有害ないのちくらいが軽くていい」

 短くなった煙草を缶コーヒーの飲み口に押しつけて、礼司はガードレールから立ち上がった。

 礼司の視線の先を追うと、高梨がワイシャツ姿のふたりを連れて歩き出すところだった。

「客ですか」

「だといいけどなあ」

 深夜とはいえ蒸し暑い七月の街角で、礼司は汗ひとつかかずに涼しい顔をしている。街灯で濡れた眼鏡の奥は、つい先ほどの笑顔なんてかけらも結びつかないほど冷え冷えとしていた。死んだ魚だって、もう少しましな目をする。

 成臣は思う。この男はもうずっと昔から息の仕方を忘れているのだろうと。

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