5.虚構の光
夜更けから雨になった。
ゴミ捨てから戻ってきた成臣の耳に届いたのは、ありきたりな怒号だった。雨音にまぎれて非常階段まで響いている。
戦後すぐからあるような薄汚い雑居ビルの四階には、名前だけはポップなローン会社と、エース企画という会社が入居していた。声は後者の事務所から聞こえてくる。
カンカンと音を鳴らしながら階段をのぼれば、足元が明るくなったり暗くなったりする。遅れて遠雷が空気をふるわせた。雑多な街の隙間から明るい夜空が覗く。濃く塗り潰されたはずの夜の素顔が強引に鮮明になる瞬間はいつまでだって飽きずに見つめていられた。厚く垂れ込めた雲は昼間に見るよりずっと繊細で、暗くなってからも目に焼き付いた光を夜空に重ねた。
ぱち、ぱちん、と頭上から、なにか弾ける音がする。見上げると、両端が黒くなった蛍光灯が明滅していた。それに合わせて周囲には影が落ちる。稲光はあまりに遠く、成臣の足元を照らさない。
腕を伸ばして蛍光灯の根元を軽く叩くと、死に際の蝉のような声を洩らしながら点灯したが、やがてすっかり点かなくなった。
ひと月前、礼司と出会ったころには、この明かりで本を読んでいたはずだった。
ビルの一階には彼女のアルバイト先だった居酒屋が入っている。営業時間を過ぎて、壁に取り付けられた細長いネオン看板は消灯していた。
その日成臣は彼女のアルバイトが終わるのを待っていた。以前は駅前で待ち合わせたが、一度警察官に補導されてからは店の周辺で待つようになった。彼女が好きだと話していた文庫本を持っていたので、通り雨を避けようと見つけたのがこの場所だった。
はじめに話しかけてきたのは礼司のほうだった。
「なに読んでんだ」
背後でドアの蝶番が軋む音は聞いていた。降りてくる足音もわかっていた。だが人ひとりが通るだけの幅はあけていたので、まさか話しかけられるとは思っていなかったし、成臣が腰掛けている斜め上に座り込むとも思っていなかった。爽やかな柑橘系のフレグランスが香る。視界の端に見えた黒い革靴が梅雨時期のわりにいやによく磨かれていたので、成臣は肩越しに後ろを振り返った。どんなときでも新品のような革靴を履く男を、成臣はひとり知っている。その男とおなじ人種かもしれないと思ったのだった。靴だけでなく、黒地のスーツや黒いシャツも、一目でそうらしいとわかる着こなしをしていた。胸から上は見えなかったが、きっと櫂斗とおなじやくざだ。成臣は顔を文庫本へと戻した。
「小説」
「まあそうだろうなあ。ここからでもそのくらいわかる。そうじゃなくてタイトルとか作者とか」
「なに。ここは立ち入り禁止だった?」
「そんな話、してないでしょ」
口振りは軽妙で気安い男だった。同時にどこか浮世離れした、なににも執着していないような、生き物としては不自然なほどの冷ややかさも感じられた。
「妙な場所で読書するやつがいるもんだな」
「べつに。雨宿りだから」
「人でも待ってる?」
成臣は下の階を指差した。男は、女かぁと呟く。カチリとライターの音がした。
「学生? 大学生?」
「高二」
「はぁ、若いねえ、羨ましい」
「どこが」
「ばか言うな。おまえは寝起きに関節という関節が凝り固まってるなんて経験したこともなければ想像したことだってないだろう。そういうところがだよ」
「あ、そう」
文章を目でなぞってはいたけれど、頭には入ってこなかった。ここから離れたほうがいい気がしていた。この街にどれだけのやくざがいるのか知らないが、どこで櫂斗と繋がっているかわからない。あの男とはできればこれ以上関わりたくない。
風にあおられた霧雨が時おり頬に触れた。背後から流れてきた煙草の煙が散り散りになる。
成臣はその場から動こうとはしなかった。火傷の痕が残る手首を捻って、雨をよける。そのときに表紙が見えたようだった。
「ああ、おれもおまえくらいのころに読んだわ。くそつまんねえぞ、その本」
「は? 読んでるんだけど」
「だったら、わかるだろ」
もうずっとおなじ一文を繰り返し読んでいることを見透かされている。
「言いかた……」
「くそつまんねえし、くそみたいな話なんだけど、……なんでか、腹立つっていうか、くそみたいな環境にいるくせにそいつの見てる世界がいやにきれいで、たぶん羨ましかったんだ」
つまらないという言葉とは噛み合わない感想が奇妙で、成臣は思わず振り返った。ひょろりと手足の長い、頬の薄い男と目が合う。
彼は冷たい眼差しのままやわらかな笑顔を浮かべて続けた。
「本、濡れるだろ。事務所来いよ、茶くらい出すぞ。一階の閉店まで居たらいい」
断ったとしてもきっと礼司はそうかと言うだけで、煙草を吸い終われば非常階段を去っただろう。そう感じながら、成臣は彼からの誘いを断れなかった。
たぶん、髪を濡らす霧雨にうんざりしていた。
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