6.いきなずむ
ドアを開けると、すぐ足元まで血が飛び散っていた。床には金色の髪を振り乱して高梨がうずくまっていた。男ふたりに腹や背中を蹴られるたび、空気の抜けたドッジボールのように鈍い音を立てて床に転がる。ソファでは礼司がさして旨くもなさそうにカップ麺をすすっていた。
事務所の奥へ向かおうとすると、片足にきつく絡みつくものがあった。
「成臣、てめえ……」
片目は腫れあがり、前歯が折れ、すっかり人相の変わってしまった高梨が、這いながら成臣の足首を掴んでいた。
「監視してやがったな、くそがき」
したくてしたことではない。礼司にそうしろと言われたからしたまでだ。そう言い返すのも面倒で、成臣は黙った。
「すました顔しやがって。どうせおまえだってこいつから金借りてて、身動き取れなくなってここで使われてんだろ。いくら借りてんだ、毎週いくら返してる。いいか、教えてやるよ。おまえが返してると思ってる金なんて利息の一部でしかないからな。そのうち借り入れが増えて、増えて、増えて、最後は腹んなか売るしかなくなるんだ。こいつら相手にどんなに尻尾振ったって使い捨、……っ」
高梨の必死の罵倒は最後まで続かなかった。礼司が食べかけのカップ麺を高梨の頭にぶちまけた。
「まあそう喚かずに、これでも食えよ高梨」
「くそやろう……」
「いらいらするのは腹が減ってるからだろ。それとも、もっと熱いほうがよかったか」
礼司は高梨のそばにしゃがみこむと、高梨の頭の上へ腕を差し出した。湯気を吐くやかんを握っている。高梨はさっと顔色を変えた。
「やめろ、くそ!」
「押さえてろ」
背中から床に押さえ込まれて高梨が呻き声を洩らす。
「高梨ぃ、おれはな、なにも昨日今日のことをどうこう言ってるんじゃないんだ。そりゃあ、たまには違う店に案内することだってあるだろうよ。うちの呼び込みバイトが? しっかりした足取りで? ……まあいいよ。行き先がよりにもよって安堂んとこかとは思ったけどな、それでもまあ人間だからな、間違えることはある。だけどなあ、先週おまえが返済したあの金、あれは実際どこから出てきた。受付の真由ちゃんには、じいちゃんの遺産の分け前って話したらしいなあ」
礼司はやかんの注ぎ口をわずかに傾ける。成臣の場所からはいまにも湯が溢れそうになっているのがよく見えた。
「じいちゃん、元気にラーメン屋続けてるらしいじゃねえか。なあ? おまえ食いに行ったんだろ」
高梨を押さえつけている体躯の大きな男が、礼司の問いに頷く。
「うまかったか」
「はい、まあまあ」
「そうか、じゃあおれも行かねえとな」
「やめ……」
「腕」
半袖のシャツから伸びる高梨の腕は、血とラーメンの汁で濡れていた。礼司はそれを洗い流そうとでもするように湯をかけた。
高梨が悲鳴をあげる。痛みに耐え兼ね、釣り上げられた魚のように全身を激しく震わせた。
「じじいの腕も湯がいてやろうか」
「や、やめろ……やめてくれ……」
「なあ高梨、おまえいま、おれが小せえ小金のことでぎゃあぎゃあ騒いでると思ってんだろ。なあ? 顔に書いてあるもんなあ」
「そんな、こと……は」
「いやいや、いいんだよ、おれも同じこと思ってるから。でもなあ」
這いつくばった高梨の指先にやかんの底を押しつけて礼司は身を乗り出す。
「たとえほんの数百万のことだってなあ、おまえがおれに引っかけた泥はしっかりここまで届いてんだよ」
高梨は意識が朦朧としているのか、もう声を上げることはなかった。礼司に髪を掴まれても人形のように為すがままだった。
ドアの向こうから、礼司さんと呼ぶ声がした。すぐにドアを開けて、スーツ姿の男が顔を覗かせる。いつも礼司の運転手をしている男だった。
「いらっしゃいました」
「わかった、すぐに行く」
礼司は軽く手をあげて応えると、重たげなため息を吐きながらゆっくりと立ち上がった。
「おまえら、おれが戻ってくるまでくれぐれも動くなよ」
事務所にいた男たちが低い声でわかりましたと返事をする。その言葉はどこまでも澄んでいて、疑いや不安を抱く余地もない。
成臣はひとり黙ったままどこか羨ましいような心持ちで彼らを眺めた。
運転手の男が開けたままのドアから礼司が出て行く。その背中を見送っていると、ふと頬に視線を感じた。
廊下にはもうひとり男がいた。おそらく礼司がこれから会う相手の連れなのだろう。すぐに礼司とともに階段を降りていった。
床を雑巾で拭きながら、あれは櫂斗の運転手だと思い出した。
黒橡のダ・カーポ 望月あん @border-sky
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