10.因果の外側

 路地に車が停まっていないことを確認してから、スナックの裏手へとまわる。窓越しに人の声が洩れ聞こえる。言葉らしいものは聞き取れない。女の声は寧子だろうが、男のほうがわからなかった。男だということ以外判然としない。

 裏口のドアを開くと、玄関から廊下へと靴跡が続いていた。寧子の声はくぐもっていたが明らかに悲鳴のようだった。男は荒い息遣いの合間にだらしなく笑う。

「あー、櫂人さんが通うわけだわ。はははっ、殴られて感じてんでしょ」

 成臣は鞄を置き、なかへと忍びこむ。ドアを閉めても隙間風が音を立てていたが、足音に気をつけて土足のまま廊下を進む。途中、壁際に立てかけられていた金属バットを握った。

 和室の襖は開け放たれていた。寧子に覆い被さる男の尻がよく見える。部屋には他に誰もいないようだった。成臣は男の背後へ歩み寄り、むかしのようにバットを大きく振りかぶった。白球よりたやすく、バットの芯に肋骨がヒットする。

 軽々しく骨の砕ける音が響く。男はあまりの痛みと衝撃に声をあげることすらできなかった。みるみるうちに体中を縮めて、路上に落ちた蝉のように畳の上に転がった。

「おみくん……」

 呼ばれて見下ろすと、寧子の顔は左半分が腫れあがっていた。着ていたワンピースは大きく裂け、胸や腹、どこも直視できるような状態ではなかった。成臣は足もとに落ちていた毛布を靴で押しやった。

「知り合いか?」

 訊ねるが、寧子は呆然と成臣を見つめたまま何も言おうとしない。成臣は寧子の返事を諦めて、男の髪を掴み上げた。涙と鼻水でふやけていたが、顔に見覚えがある。何度か櫂人が連れていた若い構成員だ。

 なぜと思うと同時に、その問いが虚しくなるほどあまりにも明瞭な答えが浮かぶ。その内容と、その答えに辿り着いてしまう自分の頭のなかがひどく不快で、成臣はたまらず眉を寄せた。

「櫂人はどこだ」

 男は池の鯉のように口をひらくけれど、ついぞ言葉にはならない。成臣は舌打ちを洩らして、男の髪から手を離した。頷くくらいはできるだろうから、浮かんだ答えを成臣のほうから話したなら答え合わせは叶うだろう。だが寧子が見ている前で、櫂人から下げ渡されたか、とは成臣にも言えなかった。

 指のあいだに絡まる男の抜け毛を見下ろしながら、これまでの櫂人の言動を思い返す。どうにか彼に連絡を取りたかった。寧子の携帯電話からでは出ないだろう。店の電話もおなじだ。だがスラックスのポケットに押し込んだ礼司の携帯電話からならどうだろう。

「寧子、携帯はどこ」

 バットを布団の上へ放り投げ、ポケットに手を突っ込む。

 なぜ櫂人に連絡を取ろうだなんてしているのか。なにを確かめるつもりなのか。成臣の想像が正しかろうとそうでなかろうと、寧子と櫂人の関係が修復されることはおそらくない。電話が櫂人に繋がったところで、いったい何を話そうというのか、成臣自身にもわかっていなかった。

 何度も礼司の顔が浮かぶ。昨日の別れ際、いったいどんな目をしていたのか。あのときもっとはっきり見ていたなら、櫂人ではなく礼司に電話をする今があったかもしれない。

 携帯電話をひらきながら、成臣は寧子の顔を横目に見やる。母は、成臣の後ろへと目をこらしていた。

「ねい……」

 視線を追って後ろを振り返ろうとするが、それより早く背後から回ってきた腕が首に巻きついた。視界の隅には変わらず男が倒れている。どうやらもうひとりいたようだった。

 締め上げられて、手から携帯電話が滑り落ちる。相手のみぞおちを肘で抉ってどうにか拘束から抜け出すけれど、呼吸がままならず視界が一瞬白く飛ぶ。たまらずふらつくと、足をかけられ畳へと押し付けられた。

 腹の上に酒樽のような男が馬乗りになっている。成臣の制服の襟を掴んで殴りながら、うずくまっている連れに大丈夫かしっかりしろと声をかけていた。成臣は幸い両腕の自由が利いたので頭と顔をかばって抗ったが、殴り返そうとするたびこめかみに食らって目眩がした。次で落ちる、その恐怖心から男の太い腕にしがみつき、なんの勝算もなく闇雲に男の顔のほうへと手を伸ばした。

 快音というには鈍い金属音が響いたのはその時だった。

 うっ、という声を洩らして男は後頭部を手で押さえた。手のひらが赤く染まる。振り返るとそこには金属バットを持った寧子が立っていた。男が何かを言う間もなく、寧子は刀のようにバットを振り下ろした。

 男の体はぐにゃりとして成臣のすぐ横に倒れこむ。成臣は体を起こして男の下から抜け出した。そうしているあいだも、寧子は畑でも耕すように何度もバットを振り下ろした。頭に命中せず背中や畳を叩くこともあったが、男の頭は空気が抜けたドッジボールのようになっていた。

「寧子、もういい。やめろ」

 成臣は寧子を抱きしめ、星空のようなネイルの手からバットを取り上げた。どこにそんな力があったのか疑うような細い腕も引っくるめて胸に抱いて、成臣は腹の底から深い息を吐いた。

「なんでこんな……」

「わかんない、わかんないよ」

 寧子は肩を震わせて泣いていた。あとからあとから溢れてくる涙が成臣の腕を濡らす。

「気がついたら、夢中で」

 かすかに笑うように掠れた声で呟くと、寧子はその場に座り込んだ。成臣も引きずられるようにして膝をつく。

 隙間風が吹くような部屋のくせに、血のにおいが息詰まるほど濃い。

 絶対に櫂人に連絡を取らねばならなくなったとぼんやり考えながら、存外冷静な自分がいることを成臣は面白おかしく感じていた。もう、頭のどこかが壊れているのかもしれない。いまこの状況だけはそうであるほうがまっとうに思えた。

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