7.褪せない

 礼司が事務所へ顔を見せたのは、それから十日ほど経った八月初めのことだった。

 暇つぶしに行ったコンビニエンスストアから成臣が帰ってくると、事務所前の歩道に礼司の姿があった。誰か、若い女性と立ち話をしている。近隣の飲食店の店員かと思ったが、後ろ姿に見覚えがある。すぐそばの車道脇には赤い軽自動車が停まっていた。高校教諭のつばさだと気づいたときには、成臣は来た道を引き返していた。

 駅前のロータリーをぐるりとまわってあらためて雑居ビルまで戻ると、ふたりの姿も軽自動車も見当たらなかった。いつものように薄暗い路地から非常階段をあがる。

 セロファンを透かして覗いたような夕景が広がっていた。室外機や換気扇の吐き出す熱が昼日中の太陽を倣って街を煽る。

 これからあと何日、何年、何十年も、こんな贋作めいた世の中を生きるのかと思うと、陰鬱とすることすら億劫になる。

 今日が明日になったところで些細なことに思う。いっそこの赤く染まった空が剥がれ落ち、雪のように降りでもすればすこしはましだろうに、ビルの隙間から射し込む西日はじりじりと肌を焼くだけだった。

 非常階段の三階を過ぎたあたりから、にわかに磯の香りが漂ってくる。訝しみながら階段をさらに上がると、礼司が七輪で姿がそのままの立派なするめいかを炙っていた。そばには日本酒の一升瓶と湯呑みが並ぶ。

「よお成臣、おかえり」

「なにしてんだよ」

「中で焼くと臭いって怒られるんだ。旨いのにな。どうだ、おまえも食うか」

 ゲソを千切って渡され、成臣は断ることもできずに受け取る。座れよと促され、階段に腰かける。

 礼司はあぐらをかいて背を丸めていた。もとより痩せ形の男だが、ほんの十日でさらにやつれたように思う。シャツ越しでも肩や背中の骨が浮き出て見える。あの雨の夜から高梨の姿は見ていない。死んだという噂も聞かない。礼司が被った泥はいまもそのままなのかもしれなかった。

 なにか話しかけたほうがいいのだろうかと考えるけれど、成臣にはやくざの世界のことはわからないし、そもそも愚痴の聞き手として適任とも思えない。成臣もまた膝に腕を置いて背を丸めて、するめいかを黙って食べた。

 視線を感じて顔をあげると、礼司と目が合う。西日が礼司の頬を深く抉っていた。

「成臣おまえ、たしか伊沢だったな」

 事務所では伊沢と呼ばれることのほうが多い。それを礼司が知らないはずもない。妙な問いだった。

「それがなにか」

「ああ、いや、若頭がおまえのことを……」

 話しながら礼司は頭を強く掻いた。

「わるい、忘れてくれ」

「まだなにも聞いてないのに? おれはなにを忘れるの」

「おまえは……時々いやに強引だな」

 面白くなさそうに礼司はするめいかを噛みちぎる。歯軋りでもするように咀嚼すると、非常階段の鉄柵にもたれかかって燃えるような西日に目を向けた。

「伊沢寧子は、おまえの母親だな」

 礼司の口から出てきた名前が、成臣にはとっさに理解できなかった。訝しがる成臣に、礼司はすまないと微笑む。

「櫂人から聞いた」

「案外プライベートなことを話すんだな」

「古い、馴染みなんだよ」

 礼司は欠けた湯呑みに安物の日本酒をなみなみと注ぐ。

「馴染み? やくざになる前の?」

「そう。あれからもう二十年くらいになるのか。若頭とは西高のツレでね、おれが二年上の」

「へえ。寧子も?」

「あいつはそのころ中坊だよ。でも中学へは行かずに、櫂人と西高へ登校してた」

 寧子は通っていたピアノ教室で櫂人と出会ったと祖母から聞いたことがあった。音楽なんてさせなければよかった、どうせなんの役にも立たないのに、ろくでもない男との縁だけができてしまったと嘆いていた。

「中学の制服じゃあ目立つからって、店で働いてる女から西高の制服貰って、リボンがださいからって柄物のスカーフ巻いて、さも高校生みたいな顔して屋上でだらだらしたりしてさ。当然バレてるから生徒指導に強引に引っ張られるんだけど、あいつ腕に噛みついて暴れてなあ、吸血鬼みたいに口のまわり血だらけにして。結局そのあとはもう見て見ぬふりだよ」

 当時のことを思い出しているのか、礼司は肩を揺らして静かに笑う。

「人形みたいなかわいい顔して、狂犬みたいな女だったね」

「想像つくんだけど」

「変わらず元気そうで何よりだよ。ありがとうな、成臣。あいつのそばにいてくれて」

 礼司という男について成臣が知っているのは、やくざであることと、おなじ本を読んでいたことくらいで、その他のことはほとんど何も知らない。それでも礼司の瞼にそっと降りる微笑みのかたちは彼の体の奥深くから、たしかに彼の心だけを映してこぼれたものに感じられた。

 ふと、幼いころに荷物の奥で見つけた一葉の写真を思い出した。写っている若い女は寧子だとすぐにわかったが、ともに写るふたりの男に見覚えはなかった。自分のよく知る母が、成臣の見知らぬ男ふたりと肩を組んで楽しげに笑っているさまは、まるで知らない女の裸を見たような気持ちにさせた。見てはいけないと思うが、目をそらせない。男のうちひとりは冷たい蛇のような目でこちらを睨みつけ、もうひとりは寧子に片耳を引っ張られてはにかみながら中指を立てていた。

 いまわかった。あれは櫂人と礼司だ。

「そのころの写真、見たことあるかも」

「あー、クラスのやつのカメラで何枚か撮った気がする」

 あのカメラどうなったかなと呟きながら、礼司は頬を緩めた。彼の視線の先にはきっと写真のころの彼らがいる。

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