第7話
「はあ?」
「わからないか? 時空が歪んでいるどころの騒ぎじゃないんだよ」
「……ちゃんと説明しろ」
するとイヌーティルは床を
土塊昇天球は穴だらけで、正直なところ気味が悪い。無数の小さな穴が開いてぼつぼつした表面を見ていると背筋が寒くなる。できるだけ顔を背けて画面に集中している風を装った。イヌーティル自身はまったく気にしていない。
「この星に開いた穴はすでに一億を超えてる。崩壊するならとっくの昔に崩壊してるぞ。穴が開きまくった
「まあ、そりゃあ」
「なのになんで崩壊しない? 星が頑丈だから? 星が大丈夫でもこっちは大丈夫じゃないはずだ。宇宙の中で質量がどんどん軽くなったら、重力の大きさも変わるはずだろ」
あ、と声が出た。確かにそうだし、宇宙天文学の本で読んだことがあった。宇宙は一種の弾力性のあるメッシュのようなもので、星はそこに置かれた球だ。質量によってメッシュは歪み、星は陽の周りをめぐる──自転と公転が生まれ、重力が生じる。
画面に映る土塊の群れ。これほどの量を消失した星は相当に軽くなっているはずで、陽の外周をまわる土塊輪の軌道にも変化が生じるはずだ。遠ざかるか近づくか……星の周りをまわる陰とぶつかってもおかしくない。
「思い切り
私は画面から目を離し、イヌーティルを見た。
「確かにそうだが」
「でも実際にはそうなってない」
そうなのだ。我々はとっくの昔からいつ崩壊してもおかしくない緊張状態にいながら、平穏な顔で生きている。
「納得できる理論はただ一つ! この星に開いた穴じゃないってことだ」
「……なるほど?」
イヌーティルは胸を張り、
「古代から現代に至るまで、我々の全員がいわば幻覚に惑ってきたとでも?」
「同じようなもんだろう。どうせ解明しても意味はない」
〝役立たず〟の異名を誇るイヌーティルはそう
「少なくとも我々は答えを見られない。このレベルの科学技術じゃね。まあ、百陽年後ならわかるかも」
さっきやつが読んでいた歴史の本を思い出す。そうやって大勢が、現象の正体を追っては消え、追っては消えていった。私もイヌーティルも、今行っているこの観測も、このデータを欲しがっている星塊物理学者たちも、流れの一粒にすぎない。
本当に無意味なのだろうか、私たちの好奇心は。
終業のベルが鳴る。交代要員に任務を任せ、研究室を出た。白衣を着た研究員たちと何人もすれ違い、
研究所を出ると、空は赤と青に染まり、夕暮れがあたりを包んでいた。よく晴れていて、あの画質の悪いコンピュータ画面よりも、土塊の帯が美しく見える気がする。帯の上にうっすらと青い陰が浮かんで、まるで土塊を見守っているようだった。
駐車場までの道をイヌーティルと並んで歩いていると、アスファルトで覆われた道に穴が開き、ゆっくりと土塊が浮上しはじめたが、行き交う人の誰も気に留めない。近頃は特に、どこにでも穴が開くので、何ひとつ珍しさがなかった。
「……確かに〝最初〟の人は驚いたのか、気になるな」
星塊哲学者たちが長年〝最初〟にこだわっていることを、以前はかなり馬鹿にしていた。好奇心の純度が濁るのは当然で、子どもが何を見ても驚き、何に触れても怖がるのは、純度が透明な状態だからだ。ごく当たり前に「〝最初〟の人は驚いた」と答えられる。
だがそれは答えを教えてくれる親が、先達がいたからではないか? 「これは普通ではない」と比べてくれる誰かがいたからではないか? 恐れも驚きも、所詮は
まるで合わせ鏡のようだと思う。見えたと思った先にまだ自分がいて、どれが本当なのかわからなくなる。星塊哲学者はいつもこんな気分なのだろうか。
「宇宙が何かを我々に伝えようとしてるだなんて、思うなよ」
イヌーティルは車に乗る間際にそう言うと、軽快なエンジン音を鳴らして、私の前から去った。
私は自分の二輪自動車にまたがり、ヘルメットをかぶりながら空を見上げた。切れ目なく流れていく土塊輪の、いったいどこがはじめで、いったいどこが終わりなのか。それともいつまでもこのまま、はじまりも終わりもなく続いていくのだろうか。
エンジンをかけようと片足を持ち上げたその時、足下にぽこんと穴が開いた。またいつものように土塊が浮遊して、私の目の前から、真っ直ぐ天へと向かっていく。まるで空に帰りたがっているように。
私は穴に手をかざした。つちくれは軽く、ぽこぽこと手のひらに当たっては、元の軌道へ戻って空へ昇っていった。
その感触は
(「空へ昇る」了)
(他の作品は単行本『空想の海』でお楽しみください)
空へ昇る 深緑野分/小説 野性時代 @yasei-jidai
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