空へ昇る

深緑野分/小説 野性時代

第1話

 かい昇天現象を一番はじめに目撃した人物は、異常と感じただろうか?

 古代、あるいは原始の時代に時間を巻き戻してみる。大地に直径二そうほどの穴が突如として開き、そこから無数の土塊が浮かび上がり、ぐ天へ昇っていく様を見て、驚いた者はひとりでもいただろうか?

 百ようねん続くせいかい哲学学会は百名の天才鬼才異才を有しているが、現在に至っても、この疑問の答えにたどり着いていない。誰かがその疑問をぽつんとつぶやけば、哲学者たちはぎょっと目を見開いて、天井を見上げたり、爪でいらたしげに机をたたいたり、かすみ煙草たばこの煙をすぱすぱとくゆらせて思案のもやに包まれたりしたが、抜きん出た才覚をもつてしても、真相はわからなかった。

「まわりが何ひとつ浮かんでいないのに、急に土だけが空へ浮かんだら、比較の問題から驚くのは予期できる反応だろう」

「そうは言うが、君は生まれてはじめて土塊昇天現象を見た時、驚いたのかね?」

「……いや、何も感じなかった」

しかり。みなそうだろう。つまり我々は生物として〝最初〟から、あの不可解な現象にらされているのだ。つまり遺伝子だ」

「待ちたまえ、〝最初〟とは何だ? どこを指す? 仮に現象の情報が我々の遺伝子に組み込まれているとしたら、なおのこと〝最初〟があったはずだ。この現象が我々人類にとって奇妙であるからこそ刻み込まれたのだ」

「やれやれ、君たちは遺伝子まで持ち出すのかね。生まれた直後の赤子はいんようを知らないが、陰陽を見て怖がる子どもはいない。空には陰と陽のふたつの星があり、陰がまわれば夜が来て陽がめぐれば朝が来るのは自然の摂理だと、いつの間にか理解している。ただ日常を過ごすうちに馴れていくだけさ」

「だとしても〝最初〟はあったはずだ。はじまりのないものなどない」

 星塊哲学と正式に名付けられたのは百陽年前だが、この問答、そしてそこから発展した星塊学の基礎は、二千陽年以上も前から続いている。ただ、いつの頃からか学問の道は分かれ、星塊学は星塊哲学、星塊物理学、星塊天文学の三本柱によってそれぞれに考察されるようになった。いずれも基本的には土塊昇天現象を研究するが、土塊学ではなく星塊学という名称がついたのは、浮かび上がった土塊が宇宙へ達し、この惑星のまわりをくるくると回るので、「つちくれなどというわいしような名前より、宇宙も包括できる規模の名前がよいだろう」という、学会設立当時もっとも著名であったひとりの天才学者の、明るく屈託のない意見のせいだった。

 しかし同じ星塊学といえど、交わることはほとんどない。むしろいがみあうばかりで、たとえば「はじめて土塊昇天現象を見た者は異常と感じたか」という疑問に対して、星塊物理学者は「これだから哲学者は」と鼻で笑いがちだった。

「異常と感じたから何だと言うんだ? そもそも、仮に〝最初の人〟がいるとして、他人が気持ちを読み取れるだろうか? しよせん想像の範囲を出ない。不毛な議論そのものだ」

 星塊物理学者たちは、その名がつくよりもずっと前から、観測と数式を用いた理論を使い、人間の感情は考慮しなかった。驚こうが驚くまいが、現象は起きる。日々、世界中のあらゆる場所、あらゆる地面に、大人の指が二本入る程度の小さな穴が穿うがたれ、そこから指の先ほどの小さな土塊がふわふわと浮かび上がり、重力を無視して天へ昇っていく。つちくれは大気の層を越え、ついに宇宙へ飛び出すと、きよくしやくに吸い付けられるかのように方向を変えて一列に並び、星の周りを囲う細い輪──かいりんとなって、ゆっくりと回転する。

 それはずっと昔、想像も及ばぬくらいはるか遠い、太古の時代から現在に至るまで、永続的に続いている現象だ。

 惑星に住むすべての生物がこの現象に馴れていた。奇妙だなと思いこそすれ、陰はなぜ冷たく、陽はなぜ温かいのか、むしはどうして我々と姿形が違うのか、そういった疑問と同じくらいの奇妙さでしかなく、「そういうものだ」と割り切ってしまえば良かった。あるいは、植物をはぐくみ時に枯らす陽をおそれ敬うように、土が重力に逆らって天へ向かう現象を、神の存在のあかしだと信じればいい。実際、救世主を名乗る男が星の宗教をせつけんし、神を決めつけてしまうまで、かなり多くの人々が土塊昇天現象をあがめ奉っていた。この頃はまだ、土塊輪は地上から確認されず、大地の欠片かけらが空におわします神のもとへかえっているのだと考えるのが自然だった。

 ともあれ、いつの時代も疑問を持ち続ける者たちはいた。ごく当たり前の自然現象だと片付けられず、かといって神と重ね濁すこともできなかった彼らは、やがて学問の道を進む。星塊物理学者たちは笑うが、星塊哲学者たちの言う「異常と感じた者」は、一番最初ではないにしても、自分たち自身を指していた。

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