第6話

 イヌーティル役立たずは望遠鏡をのぞく私の隣で、『星塊学の歴史』を読んでくれながら、笑いをこらえきれない様子だった。イヌーティルは歴史を好まない。誰がいつどんな研究をして成果を残してくれようと、イヌーティルにとっては「誰かの好奇心の残りかす」にすぎず、我々世代の研究の肥やしになるのみ、と考えているのだ。

 しかし私はそうは思わなかった。人は思考する時、頭の中の歯車を回す。誰かと話す。互いの歯車がみ合って回る。こちらの回転を助けてくれる歯車は、今隣にいるイヌーティルのものでもいいし、見知らぬ誰かの歯車でも、数百陽年から一千陽年も前の人のでもいい。紙と文字の発明は私にとって純度の高い青金よりも価値が高いのだ。

 高精度望遠鏡のレンズの先に、宇宙に浮かぶ土塊輪が見える。帯のように整然と並び、いつも変わらないスピードで進みながら私たちの頭の上にいて、晴れていれば昼でも夜でも肉眼で確認できる。

 土塊輪は星々よりも間近に見え、普通の天文学者にとっては邪魔でしょうがない異物となるが、私のような星塊天文学者にとっては飯の種になる。

 宇宙の星々の謎を解くよりも土塊昇天現象の謎を解きたいと考えるのは子どもばかりで、大人になってもなお星塊天文学に夢を見続ける者はとても少ない。それでも国から補助金が出続けているのは、きっかけを作ってくれた純粋物理学者、宇宙へ出た後の観察が面倒になった星塊物理学者たちと、今もなお〝最初〟の議論を続けている星塊哲学者たちのおかげだろう。

 純粋物理学は一度、この世に〝最初〟は存在しないという結論を出し、星塊哲学者たちを震え上がらせた。陽間、つまり時間というものは、不変ではなく各地でねじ曲がっていて、存在や出来事が連なっているにすぎず、一方に流れていく〝時間〟なる概念は、人の思い込みであって実際には存在しないのだ、という。

 それを大変みつな計算法と論文によって世に知らしめたのは、〝異端児〟と呼ばれ、途中で研究を純粋物理学に切り替えた者に教えを受けた弟子で、我々の学問に〝星塊学〟と名付けた天才だ。

 穴は、我々の星に本当にあるものではない。天才は私たちにそう教えた。この土塊は確かに星の土と性質は同じだが、穴の中の時空が歪み、同じ地層を何度も繰り返し排出しているのだ。つまり〝最初〟は定義できない。どの穴が〝最初〟であってもおかしくなく、〝最後〟であってもいい。すべてが〝途中〟だと言ってもよかった。

 思索と議論の大前提を崩されかけた星塊哲学者たちは嘆いたが、先端技術を手に入れた星塊天文学者たちが、異を唱えたのだった。宇宙望遠鏡や宇宙飛行士たちが星を周回する土塊輪を詳細に観察した結果、宇宙の真空状態によって冷やされた凍結の具合と土質の状態から、土塊自体には時間が存在し、古いものも一緒に空を回り続けていることを証明した。すなわち〝最初〟の土塊はある。不可思議なのは現象だけであって、土も宇宙も実在しており、天空を破って真空に到達し、奇妙な引力に引き寄せられて一列の土塊輪に加わった瞬間、土塊はこの世の物理法則どおりの存在になるのだ。

 星塊哲学者は喜び、星塊物理学者はむっとしたが、両陣営とも、星塊天文学が継続できるよう出資せよと、国に働きかけてくれた。サンプルや正確な計測情報のない状態に苦しんだ星塊物理学の歴史、そのせいで浪費した時間を、彼らは今も惜しんでいるのだろう。

 ともあれ、星塊物理学と星塊哲学、そして星塊天文学は、土塊昇天現象解明に必要な、互いに持ちつ持たれつの三本柱となった。

 穴は時空を歪める筒だとわかった後、絶望しかけていた星塊物理学者はよみがえり、今度はなぜこんな現象が起きるのか、エネルギーはどこからきているのか、地柱力と天柱力のどちらが正しく、あるいは新たな力が存在しているのか、と問いはじめた。

 結論はまだ出ていない。というか、我々星塊天文学者も関与しなければならない、長い長い実験の最中にあった。

 かつて中世の学者は、土塊昇天現象を応用すれば天を制すると言ったそうだが、まったくもって見当違いで、人は現象をそのへんに置きっぱなしにしつつ、自由に空を飛んだ。エンジンと翼で事足りてしまったのだ。

 まったく、これほど役に立たず意味も持たない現象は他にないだろう。水が沸騰するだけでもエネルギーになるし、爆薬は生き物を殺し、人が笑うエネルギーは人を幸せにする。だが土塊昇天現象は何もない。何のために穴の中の時空が歪んで、何のために星の表層を何度も繰り返し出現させて空へ向かって排出しているのか、宇宙に出るとなぜ一列に集まるのか。通常の自然現象に逆らってまで存在するほどの理由が、これにあるのだろうか。

「そういうものだから」

〝最初〟に会った時、イヌーティルはそう笑って私に握手を求めると、「役立たず」を意味するこのあだで呼んでほしいと言った。しかしやつほど土塊昇天現象にたんできしている者を私は知らない。

 休憩時間の終了を告げるベルの音と共に我々は立ち上がり、イヌーティルは歴史の本をそこらへんに放ってしまう。

「準備はいいか?」

 仲間と交替で無骨なコンピュータの前に座り、ヘッドセットをつけてスタートボタンを押す。宇宙に浮かべた人工えいうんに電磁波を放たせ、周回する土塊に照射して計測し、データを収集しているのだ。やっていることは古代の人々と変わらない。地道な計測とサンプルの収集、その繰り返し。しかしこのおかげで理論は立証できるのだ。

 これでもずいぶん高画質になった画面を睨みながら、土塊の形跡を追う。地表から見れば飛行艇雲が三筋ほど走っているていどの量でも、こうして衛星器のレンズを通せばその実体がよくわかる。もはや数え切れない、おびただしい量の土塊の群れ。これが宇宙にあるのを実際に見た宇宙飛行士は、精神にかなりのダメージを受けるそうだ。

 このままでは星を覆い尽くす。それどころか、穴だらけになった星は崩壊する。

 オカルティックな予言は年々増えていくが、今のところ危機のレベルは低いし、もしそうなったとしてもまだまだずっと先のことだ。

「あり得ないね。穴はそもそもこの星のものじゃない」

 イヌーティルはぼうあめを口にくわえてカラコロ鳴らしながら鼻で笑う。お前の方が意味がわからんよ、と肩をすくめると、こちらの隣まで椅子を持ってくる。

「何だ、仕事をしろよ」

「仕事だよ、れっきとした。考えることも仕事なんだから」

 私は顔をしかめてイヌーティルを睨みつけるが、やつはまるで意に介さない。

「穴は──この星に開いたもんじゃないんだ」

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