ジュラシック・トゥーム

ねこたろう a.k.a.神部羊児

ジュラシック・トゥーム

 オリオンの輝く夜空の下、煌々と輝く野戦照明に土蔵の漆喰が白々と浮かび上がる。

 開け放たれた蔵の入り口で、綿のような雲海が白く輝いている。その光源は曇天の太陽と同じように計り知れない。雲海は波立つようにさざめきながら、決してかまちを超えて流れ出しては来ない。その内側で、閃光が稲妻のように走り、破裂音と悲鳴が響いた。

 陸上自衛隊の普通科隊員が転がるように飛び出してきた。その顔は純然たる恐怖に引きつり、まなじりは信じられないものを見せられたとでもいうようにカッと見開かれている。兵士の友というべき小銃は見当たらず、迷彩服のモザイク模様を上から血がまだらに染めている。衛生兵が飛び出して、譫言のような悲鳴をあげる普通科隊員をバリケードの背後に引きずってゆく。

 厳しい訓練を受けた兵士をここまでの恐慌に陥れる存在とは何なのか?

 土嚢の陰、立ち並ぶサーチライトの陰で銃を構えた自衛官たちが思いを巡らしかけたその瞬間、恐怖が雲海のヴェールを破って現れた。

 高さ二メートルほどの扉の上框のぎりぎりに、ぬっと突き出したのは蜥蜴めいた楔形の、ブルーグレーをした爬虫類の頭部だ。鼻面から頭部まで伸びた派手な色合いの二枚の鶏冠が見るからに凶暴な印象を与える。蛇の目ように割れた瞳孔が、蔵の戸口を包囲した五台のサーチライトの光を浴びて針のように収縮した。

 生まれて初めて目の当たりにした生きた恐竜の姿に、その場を固めた自衛官たちの間からどよめきが上がった。怪物は一瞬、躊躇うように周囲をうかがい、クンクンと鼻を鳴らした。獲物の臭いを嗅ぎ取ると、甲高い声で咆哮し、その後肢を一歩踏み出した。

 肉食恐竜の上半身が蔵の外に出た時点で、小隊指揮官が命令を下した。

「撃ち方始めェーッ!」

 庭のかしこで待機していた普通科隊員が一斉に八九式小銃の射撃を開始する。三点バーストで発射されたアサルトライフルの重奏が、旧正月の華人街を思わせる賑やかさで夜の住宅街に轟いた。5・56ミリ弾の嵐に、太古の世界の怪物の咆哮が被さった。恐竜は一度仰け反って頭を振り、鮮血を芝生と漆喰の壁に撒き散らした。怪物は怒り狂って突進した。体長七メートルの巨体が滑るような滑らかさで庭を横切る。蜥蜴というよりもむしろ魚に似た流線型の、野牛の体重を持った獰猛な爬虫類はその場に居合わせた霊長類の予想を上回る俊敏さで襲いかかってきた。標的になったのは、まばゆい光を放つサーチライトのフレンネル・レンズだ。鋭い牙の間でガラスが砕け、鉄が曲がる。熱くなった覆いで舌を焼かれた恐竜がたまらず放り出すと、放物線描いて飛んだ筐体に追随した電源コードが鞭のように唸りをあげ、足元を掬われた普通科隊員が転倒する。仰向けに倒れた無防備な獲物に、古生代の顎が襲い掛かった。


 同時刻。

 血と硝煙の巷と化した屋敷から三ブロック離れたタバコ屋の自動販売機の前。

 がこん、と硬質な音を立てたのは黄地に黒文字の記された缶コーヒーだ。

 ピピピピピ、と電子音が響き、赤い7の文字が四つ並んだ。

「おっ。縁起いい」

 ヴァージニアは切れ長の目に、にんまりとした笑みを浮かべた。

 光り輝く購入ボタンの頭をタクティカルグローブの指先で撫ぜ、一瞬ペプシの前で止めたが、最後の瞬間で決心を翻し、先ほど押したのと同じボタンを押し込んだ。

 三白眼ぎみの切れ長の目。薄い唇に、尖った顎。頬から鼻筋に浮かぶそばかすが、鋭利な顔立ちにどこか少年めかした雰囲気を添えている。前髪の一房を残して全体を短く刈った黒髪。効率的なトレーニングによって獲得した、しなやかな筋肉質の身体。つや消し黒の行動服。胸板が押し上げるアンダーシャツの上にドッグ・タグが載っている。

 ヴァージニアは二つ目の缶を脇に挟み、手に取った缶コーヒーのプルタブをカリカリとひっかいて失敗すると、グローブの指先を噛んで外しにかかる。

「こんなところに居ましたのね」

 不意に届いた声が中尉の耳朶をくすぐった。

 転がる鈴がいささかの非難をこめて鳴ればこんな音で鳴るだろうか。

「なんだ、ジルか」

 ヴァージニアは言いながらパキリとタブを起こす。飲み口から香気が立ち上る。

 自動販売機の放つ光の輪の内側に、まるで闇が凝ったかのような姿が現れた。

「なんだ、ではありませんわ。勝手に持ち場を離れられては困ります」

 ヴァージニアに向かい、まったくもう、と腰に手を当て、黒衣の少女、ジル・リリブリッジは言った。

 年の頃は十四、五に見える、小柄な娘。大きな目。小作りな鼻と口。

 薄墨で描いたような眉をかすかにしかめた表情にはどこか小妖精を思わせるものがある。卵型の白い顔を、几帳面な直線で区切る漆黒の前髪を髪と同じ色のヘッドドレスが押さえている。セミロングの後ろ髪をレースのシュシュで左右に分けた、いわゆる天使の羽ツインテールの形に結ったその毛先は入念にカールに巻かれ、少女の肩の高さにシンメトリカルな二つのコイルを形作っている。身を固める黒衣は、色彩の欠落を装飾で補うようなエプロンドレス。

 こう見えても、凄腕の狩人ハンターである。

「ひさびさの日本だからさ。こいつ、無性に飲みたくなんのよね」

 そう言いながらヴァージニアは熱くて甘い液体をずずっと啜った。

「自衛隊は行方不明者の捜索を打ち切るそうですわ。引き継ぎが終了しだい、わたくしたちの出番ですわよ」

「そっか」

 ヴァージニアは湯気の立ち上る飲み口を見つめながらそう言った。


 ことの始まりは日本の地方都市S市の旧家、座間見邸の蔵の扉がおよそ半世ぶりに開かれたことだった。一昨年、百十二歳の長寿を全うした故・座間味海軍大佐の曾孫が、相続した蔵をリフォームして古民家風のカフェへと改装すべく、邪魔な骨董品を処分するためだった。

 当初、作業はつつがなく行われていたが、昼前になって事態が急変した。

 目撃者の証言は錯綜しており、正確なところはいまだ不明だが、複数の当事者が「扉の開くような金属音」を耳にしたことをきっかけに、蔵から突然扉から光輝を放つ雲が出現したという。この時二人の人夫が内部で作業中だったが、その後今に至るまで発見されていない。

 家人と回収業者が困惑する中、突如、蔵から巨大な翼竜が飛び出して周囲を恐慌に陥れた。白亜紀の飛翔性爬虫類は、ひとしきり人間たちを威嚇すると庭へと走り出し、四肢を用いた短い滑走を経て空中へと踊り出した。六五〇〇万年ぶりに大空の支配者として返り咲いた翼竜は、白亜紀末期には存在しなかった電線に接触し、一帯を停電させた。

 出動した電力会社社員と警察官が見守る中、光る雲から中型の恐竜が出現し、警察官二名の威嚇射撃を無視して一名を負傷させ、もう一名を光る雲の中に連れ去った。さらに別の中型恐竜が出現、近隣で飼育されていたシベリアン・ハスキーを発達した後肢の鉤爪で殺害し内臓を漁っていたところ、出動した陸上自衛隊コマンド部隊によって駆除された。自衛隊は行方不明者を捜索すべく斥候を蔵の内部に送り込んだが、そこであり得べからざる現象に遭遇し大いに狼狽することとなった。

 框を境として蔵の内側は、巨石造りの地下迷宮と化していたのだ。

 恐竜の出現と、物理法則を無視して存在する地下迷宮の存在に途方に暮れた自衛隊上層部と政府は米軍に支援を求めた。現場に派遣された中央情報局の工作員は、状況の開始以前に蔵から持ち出された諸々の品々を調査し、独逸語で書かれた資料を発見した。

 現在、自衛隊は蔵を中心とした半径四キロメートルを封鎖し、一切の立ち入りを禁止した。表向きには、対戦中に米軍が投下したパンプキン爆弾の不発弾の処理のため、と発表された。

 現在、自衛隊は内部の探索を断念し、ダンジョン内、開口部付近に橋頭堡を確保、時折出現する恐竜に水際で対処するよう専念している。

 専守防衛の理念を墨守しているというわけでは当然ない。

 自衛隊には、巨大生物と戦うための装備もノウハウも欠けていた。普通科部隊の装備する八九式小銃は対人戦闘において威力を発揮する小口径高速弾を使用する。小型恐竜ならまだしも、ある程度の大きさを持つ獲物を狩るのには向いていない。旧式の六四式小銃は威力で勝るとは言え、こちらもダイナソー・ストッピング・パワーは十分とは言えず、据付型のM2重機関銃や対戦車火器である八四ミリ無反動砲カール・グスタフであれば恐竜を制圧することは可能であるものの、機動性の低さやバックブラストの危険といったそれぞれの理由からダンジョン内での戦闘には向いているとは言えない。内部の電波状況の悪さも作戦指揮上をより困難にしていた。

 端的に言えば、それがヴァージニア・メアリ・ブラッドレー中尉とジル・リリブリッジが呼ばれた理由だった。


「日本の兵隊さんたちも大変だよな」

 夜気に冷たくなった耳に、くぐもった悲鳴と銃声、無反動砲の炸裂音が風に乗って聴こえてくる。

 いずこの宮仕えもすまじきものだな。

 ヴァージニアはほろ苦い思いを熱くて甘ったるい缶コーヒーで胃の腑に流し込む。

「それだから、わたくしたちが呼ばれたんですわ。そうでしょう?」

 ジルが薄い胸を張って言った。荒い鼻息が白く凍る。

 こいつ、興奮しておるな。

 中尉は半眼で少女狩人に目をやった。

 やる気があるのはいいことだが、張り詰めた弦ほど切れやすいものだ。ヴァージニアは、未開封の缶コーヒーをひょい、とジルの頬に当てた。

「ひゃえっ」

 冷えた頬に熱々の缶を当てられ、黒衣の少女は悲鳴を上げた。

「あげる。あたしのおごり。アタリ出たからおすそわけ」

「け、結構ですわっ」

 黒衣の少女は顔を真っ赤にしてそう言った。


 靄のヴェールを潜った二人の前に巨石積み様式キュクローピアンの超古代都市が広がっていた。

 石切場、カタコンベ、あるいは、地下調整池を思わせる広大な空間は当然、蔵の中に収まるようなスケールのものではない。冷たく、乾いた空気にはかすかな黴臭さが混じっている。目地の限りまっすぐに続く通路は、高さも幅も三〇フィートばかりはある。床には真鍮の薬莢が散乱し、三指を備えた恐竜の足跡が生乾きの血によってスタンプされている。

「なんだか嫌な感じですわ」

 少女狩人のつぶやきのこだまが陰気な回廊に響いた。

 ジルは壁際に歩み寄り、手袋を嵌めた手で冷たい岩石にそっと触れた。手を滑らせると、埃の下から姿を表した壁画の鰐が、意地の悪い横目で少女の顔をねめつけた。ゴンドワナ大陸の地殻から切り出された岩盤の途方もない古ぶるしさ。あたかも、命のない岩石が、この世界の新参者をあざ笑うオーラを発しているかのように感じられる。

「棄教詩人がここを〈禁断の都〉と呼んだのも頷けますわね」

「人類にはご禁制だとよ。さっそくお迎えだぜ」

 迷宮の奥からのっそりと、肉食恐竜が近づいてくるのを、中尉は右目に装着したデバイスで見ていた。

 暗視装置を兼ねたアイパッチ型の眼窩保持ディスプレイOMDは星の光を増幅して、夜を昼に変えることができる。たとえ全くの暗闇でも肩口に貼り付けた放射性同位体アイソトープ利用の蛍光テープの光があれば、四〇〇メートル先のマンターゲットを見分けられる。光り輝く雲の帳を背負っている今、通路の奥からにじり寄ってくる二足歩行の爬虫類の細長く伸びた口吻に並ぶ歯の数まで数えられそうなほどよく見える。

「〈聖杯〉ダンジョンへようこそ、ってか」

 言いながら、ヴァージニアはXM8のチャージングハンドルを引いて6・8ミリ口径の徹甲弾を薬室に初弾を送り込んだ。

 人間工学に基づいてデザインされた、ぬめっとしたシルエットの突撃銃に取り付けた照準器に肉食恐竜を捉える。銃身の下に装着したHK社製グレネードランチャーのグリップを握って恐竜の頭部に狙いを定めた。

「やりますわ」

 横合いからジルの声がかかる。止める間もなく、少女狩人は駆け出した。

「あっ、こら」

 漆黒を纏う狩人は走りながら手にした折りたたみ式の戦鎌ウォーサイズを一振りする。

 耳に心地よい音を立てて、三つに畳まれていた柄が伸びきり、蝶番が噛み合った。

 刃渡り三フィートに達する大鎌の刀身は紙のように薄く、波紋のごときダマスカス鋼の刃の付け根から鈍く尖った切っ先にかけてリリブリッジ家の家紋である意匠化された百合の花が浅く彫られている。金属の帯で強化されたゆるくうねる黒染めのトネリコの柄と、柄から伸びるグリップを、黒手袋がぎゅっと握りしめた。

 ダンジョンの奥、光を反射して赤く輝く恐竜の眼を見据え、黒衣の少女は矢のように突っ込んでいく。


〈聖杯〉とは、ある種の爬虫類の木乃伊ミイラを指す暗号名である。

 そう名付けたのは、独逸第三帝国のオカルト学者、ヴォルフガング・メルテンス博士である。しかるべき情報取り扱い資格の持ち主であれば、ファージングバレーの資料保管庫の奥底で博士の顔写真付きのプロファイルを見ることも不可能ではない。

〈呪医〉〈オッドアイのノーム〉といった仇名でよばれるこの怪人物は、秀でた額と特徴的な鷲鼻の持ち主だ。たっぷりと蓄えられた口髭と、鉄フレームの丸メガネがポートレートを見る者に父性的な印象を与える。ただし、博士の容貌の最たる個性である、青と褐色の左右で色の異なる瞳をモノクロ写真で見分けるのは難しい。

 代々医師の家系であったメルテンスはベルリン大学在学中に神秘主義的な結社と接触を持ち禁断の魔術書〈イスラムの琴〉を紐解く機会を得たという。彼はハシシに酔いしれた詩人の脳が餓えと渇きの中で紡ぎ出したに相違ない夢想を記した冒涜的な書物にのめり込み、オカルトへの志向を高めてゆく。やがて祖先遺産協会アーネンエルベに参加する中で発言権を増し、棄教詩人の彷徨した砂漠の空虚なる一角ロバ・イル・カリイエの発掘調査を実現するに至った。

 誰もが驚くことに、発掘調査の結果、第三帝国の調査隊は超古代文明の地下都市を発見した。

 未だ人類の足が絶えて踏み込んだこともない遺跡、詩人の言う〈禁断の都〉がそこには存在したのだ。

 調査隊はその奥底で木乃伊を発見した。

 それは人類に先立ち地球を支配した知的生命体——詩人が〈古き大いなるもの〉と呼び、博士が〈上古種〉と呼んだ超古代の生命——が築いた地下帝国だった。この生物が道具を用い、都市を築いたのは、最初の哺乳類が未だ産声を上げぬ太古のことだという。メルテンス博士は驚くべき知性と文明を持ったこの〈上古種〉は盤竜類から分化して発達した生物であるとしている。ペルム紀末期の大量絶滅を生き延びた盤竜類の一種が、その肉体の矮小化と反比例するかのように脳を発達させ、魔術と科学を究めるようになったのだというのだ。詩人が夢で得た霊感をもとに書き上げた書によれば〈古き大いなるもの〉は生命の神秘を解き明かし、病や老衰、一般的な意味での死を克服していたという。

 メルテンス博士は〈上古種〉の木乃伊を調査し、その結果を人間にも応用できると考えていたという。


 音をたてて、体長二〇フィートの獣が迷宮の床に倒れこんだ。

 ヴァージニアは目を丸くして、可憐な少女がいたいけな二足歩行性爬虫類に対して発揮した残虐行為の有様を見渡した。褐色の鱗の覆う胴体のそこここに開いた切創から大量の血液が流れ出し、迷宮の床をまるで屠殺場のように変えていた。

 なんとまあ、美事なものだこと。

 何をする間もなく、少女狩人は肉食恐竜をなますにしてしまった。ほとんど息を上げてもいない。

 この間、中尉のXM8は出番もなく、殺傷力の高いブラウンチップ弾はマガジンの中でお行儀よく二列縦隊ダブルカラムに整列したままだった。

「一丁あがり、ですわ」

 ジルはふふん、としたり顔で軽く袖とスカートの裾を軽くはたき、大鎌をくるりと回して刃の血糊を振り払い、迷宮の床をジャクソン・ポロック風に染め上げた。

 ヴァージニアはジルに歩み寄ると、そのほっぺたをむにー、とつねった。

「ひたいっ」

 うわーやわらかい。ターキッシュ・デライトみたい。

「なーにはしゃいでんのさ、ジル」

 内心の賞賛をおくびにも出さず、ヴァージニアはジルをたしなめた。

「べ、別にはしゃいでなどおりませんけど?」

 つねられた頬を押さえながら、ジルは涙目でキッと中尉を見返した。

 頬をつねられた痛みか、血の滾りを指摘された気恥ずかしさによるものか、元来血の気の薄い少女狩人の頬は常よりも赤みを帯びている。

 リリブリッジ家は植民地時代から獣狩りの免状を世襲してきた、新大陸で一、二を争う古い狩人の家だ。

 その獲物は灰色熊から人狼、食屍鬼に至るまでの、主流派の科学が無視してきた害獣だ。獣狩りを生業にして来た者の血が、恐竜と出会って滾るのは理解できないこともない。

 だが、そうは言ってもジルは局の資産アセットだ。指揮系等上、ジルはヴァージニアに従うことになっている。

「いいかい、あたしら二人でこのダンジョンを攻略せにゃならんのよ。予備も補充も無しなんだからな。あんたが怪我しちゃおしまいなんだぜ」

 ヴァージニアは半眼で少女狩人を見ながら言った。

「それくらいわかってますわ……」

「いーかい、お嬢さん。あんたは身勝手な行動で作戦を危機に晒したんだ。あたしが先任なんだから、あたしの指示に従えないんじゃ、パーティーはお預けだ。おわかりかな?」

 ヴァージニアとジルに期待されているのは、作戦目標の達成であって、恐竜狩りは必ずしも求められていない。

 少女狩人はしばらく唇を噛んで黙っていたが、しまいには小さく頷き、言った。

「……わかりましたわ。先ほどはいささか大人気ないところをお見せいたしましたわね」

 不承不承といったポーズを取りながら、少女狩人はそう言って自分の非を認めた。

「わかればよろしい」

 ヴァージニアはそう言って頷いた。


 戦後、連合国に身柄を確保された祖先遺産協会関係者から漏れ伝わった〈聖杯〉の情報は、二つの超大国に衝撃をもたらした。それを仮想敵国の手に委ねるのはあまりにも危険だと考えられたのだ。

 当時、メルテンス博士と、独逸本国にもたらされた〈聖杯〉は連合軍の戦略爆撃によって破壊されたと考えられており、新たな〈聖杯〉を得るために米ソはそれぞれに調査隊を送り込み、発掘調査という名の代理戦争を繰り広げた。とはいえ、ヴァージニアの知る限り、東西どちらの陣営も爬虫類の木乃伊どころか、その都市の痕跡すらも探し出すことは出来なかった。

 はたして〈禁断の都〉はいずこへと消えたのか。

 砂嵐で吹き寄せられた砂の下に埋もれたのか。調査隊の記録した座標に誤りがあったのか。いやそもそも〈聖杯〉などというものが実在したのか。中には、都市じたいが人類を嫌って逃げ回っているのだ、などということを真面目に主張する者も居た。

 ブラウン大学のフィリップ・ランドー教授の唱えた説はいささか異なっていた。

〈禁断の都〉が、まるで蜃気楼のように消えてしまったのは、それが蜃気楼そのものだから、というのである。

 それは木乃伊の見る夢であり、実際に三次元空間に存在しているわけではない。それは木乃伊が記憶から編み上げた一種の繭のような亜空間であり、それゆえに数千万年の間、外部環境から守られたのだ、というのがランドーの主張だった。隕石衝突や大気組成の変化、海の酸性化、恐竜の勃興といった環境の変化によってもたらされる避けがたい種族の受難の時を仮死の眠りによってやりすごし、星々が巡るのを辛抱強く待つというのが彼らの生存戦略であり、夢見の力はそのための技なのだという。

 永久に眠っていられる存在にとって死は事実上存在しない。

 棄教詩人の文章を引用したランドー博士の小論文は一時期真面目に取りざたされたが、その説を検証する方法などなく、やがて忘れ去られた。今回の件を受けて、極秘資料庫の奥底から大慌てで掘り出されたランドー論文は、限定された冊数が複写され、そのうちの二部はガルフストリーム機の中でヴァージニアとジルの二人に示された。

 仰々しい「最高機密」のスタンプもまだ生乾きのステープラー留め資料を渡された二人は半信半疑の顔で通読した。

 なぜ今になって〈禁断の都〉が出現したのか。第三帝国は日本に〈聖杯〉を運んで何をしようとしていたのか。メルテンスはどうやって蜃気楼の中から木乃伊を回収したのか。そういった当然の疑問に、資料は何も答えてくれない。

「迷宮が蜃気楼だっていうのはまあ良いとしてさ。恐竜は何なのさ?」

 ヴァージニアの質問に、局と協力関係にある専門家は〈上古種〉が使役していた家畜なのだろうと説明した。彼らが復活したのちの世において、自分たちが馴染んでいた環境再構築するために自ら用意した副葬品。ちょうど、古代エジプト人が来世において労働を肩代わりしてくれるように人形の召使ウシャブティを侍らせたように。あるいは、現代人が、未来において役立つように永久凍土に栽培種の種を保管しているように。

 意外な事に、今回の件でエージェンシーは一貫して〈聖杯〉の破壊を方針に置いている。

 亜空間といい、生きた恐竜といい、計り知れないほどの利用価値を持つかもしれない木乃伊を回収しようとしないのはいささか奇妙だ。だがまあ、おそらく、毎度のように、現場の人間が与り知るべきでない理由があるのだろう、とヴァージニアは自らを納得させた。

〈聖杯〉を破壊すれば〈禁断の都〉もまた消え去るだろうとのことだった。用意されたのは、お定まりのテルミット手榴弾。

 浄化の炎というわけだ。


 二人は十字路で立ち止まっていた。

 迷宮の奥から流れてくる微風がうなじの毛をくすぐる。

 このあたりはすでに自衛隊が探索したエリアの外だ。

 まったくの未知の領域の探索にとりかかるまえに、ジルは迷宮の床にしゃがみ込み、十字路の真ん中にさらに砂で十字を描き、その上にビアジョッキほどの大きさの広口瓶を置いていた。

 ヴァージニアは周囲を警戒しながら、ジルが行う魔術の様子を目の端で捉えていた。

 噂に名高い根占師ルートマンサー、リリブリッジ家の末の子が覗き込む金属で強化された広口瓶の中には、まるでバービー人形の代用のように服を着せられ、ミニチュアールの玉座に座った人参が収まっている。ジルは自らの左手の薬指の先にメスを走らせ、腰に下げたフラスコの中にその血を滴らせた。紅い雫がフラスコを満たす透明な液体の中に血の雲を作る。液体どうしのまじりあいから、夜光虫に似た蛍光が発せられ、周囲の壁や床を照らし出した。

 液体の中に沈む人参が、眠りから醒めたようにピクピクと動きはじめた。見る角度によっては人の顔にも見えなくもない部分をぐるりと回し、欠伸に似た仕草を見せると、あたかも謁見に臨む王侯のように周囲を見回した。

 アルラウネ、あるいは処刑台の小人ガルゲンメンライン

 リリブリッジ家に代々伝わる、強力な呪物だ。この人参は日々の世話と血の施しの引き換えに、地下の宝の在り処についての質問に答えてくれる。地に根を張るものであるがゆえ、大地の秘密に通じているのだ。かつて、薔薇十字協会とも浅からぬ縁のあったという祖先の一人が手にして以来、この処刑台の小人は代々のリリブリッジの耳に、数々の秘密を流し込んで来た。そして今、しきたりに習ってこれを相続したリリブリッジの末子が、傷口に手早く包帯を巻きながら瓶の小人にやさしく話しかけた。

「おしえてくださいまし、コーネリアス。この迷宮の宝はいずこに?」

 言葉をかけられたコーネリアス——名付けられ、着飾られた毒人参——は液体の中で身じろぎすると、腕のような根を振り回し、指差すような仕草で迷宮の闇を示し、口のように見える部分を開閉して、プクプクと泡を吐き出しながら迷宮の秘密をジルに話し始めた。

「何て?」

「この先にたくさんの水があると言ってますわ」

 ヴァージニアには、泡のはじける音としか聞こえないが、少女狩人の耳はマンドレイクの言葉がはっきりとわかるらしい。主人と使い魔の絆がそうさせるのだろう。

「地底湖でもあるのかね?」


 はたして地底湖があった。

 突然開けた空間にヴァージニアとジルは目を丸くした。

 ドーム球場を凌ぐ広がりを持った地下空間。天井は数十メートルの高みにある。

 向こう岸まではおよそ四分の一マイルほどだろうか。満々と水を湛えた地底湖はおよそ楕円形をなして広がっていると思しいが、地底湖の水面を幽鬼のような靄が這いまわり、左右の岸は朧に霞んでいる。

 二人の居る開口部と、向こう岸の開口部とを水面から二フィートの高さで石造りのアーチ橋が繋いでいた。橋の左右の岸はなだらかな傾斜で水面に落ち込んでいる。水は有機物が少なく、透明度が高い。

「宝は向こう岸だそうですわ」

 ジルは広口瓶の人参が吐き出す泡の音に耳を傾けながら言った。ヴァージニアの耳には相変わらず、金魚鉢のエアーポンプと大差なく聞こえるのだが。

 中尉は隘路を行くのが気に入らなかったが、地底湖をぐるりと周るのは時間と体力の無駄に思えた。そもそも、迂回できる道があるかどうかは未知数だ。見た所、橋は頑丈そうに見え、通行に支障はなさそうに思える。

「用心するんだよ」

 ヴァージニアはXM8を構え、相棒に先立って進み始めた。

「心得ておりますわ」

 やはり、というべきか。橋の半ばまで渡った時、中尉は水面に不穏な動きを感じ取った。

 ざざ、と右手から水音が響き、突如、闇の中に尖塔のように立ち上がったのは、ひょろりと蛇のように長い頸の生き物だ。頭から滴った河の水が、手すりを超えて道路を濡らした。楔のような頭部に実に恐ろしげな乱杭歯を持っている。

 視線を移せば、水中には流線型の胴体と、木の葉の形の鰭が見て取れる。

 首長竜だ。

 海生爬虫類がぐっと頸をもたげ、二人に向かって噛みかかった。水中に引き込まれればジ・エンドだ。アンモナイトをやすやすと噛み砕く顎に向けて、ヴァージニアは武器の引き金を引いた。

 軽快な音をたてて発射された弾丸が、楔形の頭部を破壊した。

 残った頸がくたくたと水の中へと崩れた。

 それを合図にしたかのように、橋の左右から連続して水音が沸き起こる。

「まじかよ」

 ヴァージニアが目を剥いて呻いた。前方、橋の左右にゆらゆらと首長竜の頸が何本も立ち上がっている。

「一気に渡るよ! 走りな!」

「わ、わかってますわ」

 踵を高らかに鳴らしながら、ジル・リリブリッジが駆けて行く。

 黒衣の少女は走りながら戦鎌の頭を後ろに引いた。いましも、首を延べて襲いかかる首長竜の噛みつきざま、刃を一閃。湿った音とともに、くさび形の鼻面をした頭部が石橋を転がる。

 息をつく間もなく、すぐに第二、第三の首長竜が黒衣の少女に襲いかかる。石突の一撃で一頭の噛みつきをいなし、返す刃でもう一頭の首を斬り落とす。だが、首長竜の群れは尽きることなく次々に襲いかかり、まるで群れ全体で一匹の多頭龍ヒドラであるかのように少女狩人を取り囲んだ。

「何やってんのさ」

「数が、多くて」

「そんなの無視無視!」

 叱咤を受け、ジルは怪物の囲みをすり抜け、対岸に向かって走り始める。狩人の背中を狙う首長竜の後頭部に6・8ミリを撃ち込んだ。

 援護射撃を受けながら、少女狩人が対岸の開口部にたどり着くと、海棲爬虫類どもは頭を巡らせてヴァージニアに狙いを変えた。

「やな目付きだよ、ったく」

 ヴァージニアが駆け出すと、怪物どもが左右から押し込むように距離を詰めてくる。

 一匹ずつ狙っている余裕はない。走りながら腰から手榴弾を取り、ピンを引き抜いて水の中へ放り込む。橋の左右から迫る怪物の腹の下でマーク3手榴弾が炸裂する。ドンッ、と腹に響く音に続き、地底湖の水面に白々とした水柱が立つ。ウォーターハンマー効果によって内臓を破壊された首長竜が物悲しい悲鳴をあげて沈んでゆく。崩れ落ちる水柱が雨のように石橋を洗った。

 ヴァージニアは次々と手榴弾のピンを抜き、左右の河へと投げ込んだ。

 ドンッ、ドンッ、ドンッ。

 水柱が立つたびに、一本、二本と首が消えてゆく。

 ダイナマイト漁の轟音と衝撃波に脅かされた首長竜たちは鰭をバタつかせながら急速に橋を離れてゆく。ヴァージニアはふぅ、と息をつくと、銃のスリングを掛け直し、対岸へと歩を進めた。血と泡が渦を巻く地底湖の水面には首長竜の死骸が浮かんでいた。


 鎧竜の背中でグレネード弾が炸裂した。

 棘だらけの、甲冑を着込んだビア樽型の胴体が震え、雄牛のような悲しげな咆哮が地下迷宮に響きわたった。鎧竜は怒り狂い、ハンマー状の尻尾を、迷宮の通路の幅いっぱいに振り回す。乗用車のタイヤくらいの大きさの骨瘤が、石の壁や床に当たって、ゴンゴンと鈍い音を立てる。

「なんて頑丈さなんだ、ったく」

 ヴァージニアはXM8に装着したグレネードランチャーを、二発、三発と撃ち込んだが、骨の鎧は榴弾に対してかなりの抗堪性を発揮しているらしく、怒れる鎧竜の尾の動きは激しさを増すばかりだ。

 地底湖を渡ってよりこの方、コーネリアスの水際立った案内が功を奏し、驚異的なペースで探索を進めることができた二人だったが、ゴール目前で思わぬ抵抗に遭遇していた。

 一本道の真ん中で、鎧竜が立ちふさがっている。

 恐竜はこちらに尻を向け、二人が少しでも近づくものの気配を見せるだけで、その強力な尻尾をめちゃくちゃに振り回した。疲れる気配がまるでない。そのスタミナはいったいどこからやってくるのか。

 迷宮の左右の壁はいたるところに骨質のハンマーのぶち当たった痕跡が生々しく残っている。

 コーネリアスが根っこの髭をしごきながら自信たっぷりに断言するには、どうやらこの先迂回路はなく、どうあっても白亜紀の戦車を排除して行く他はないらしい。

「〈聖杯〉まであと一歩だってのにな」

 難しい顔をしているヴァージニアの横で、とりあえずやることのないジルは休憩を決め込んで、腰巾着から缶コーヒーを取り出した。すっかりぬるまった缶飲料の飲み口をハンカチで拭くと、黒衣の狩人はプルタブを開けて一口飲み、あやうく口の中のものを吹き出しそうになった。

「……ヴァージニア、あなた普段からこんなもの飲んでますの?」

 口を拭き拭き、辟易するほどの練乳に目を丸くしてジルは言った。

「こんなの常飲してたら、おしっこが甘くなってしまいますわよ?」

「いらないなら返して」

 ヴァージニアは照準器を覗き込みながら言った。

 ポン、と音をたててグレネードが鎧竜に着弾。この鎧竜、まだ死ぬ気配はない。

 ヴァージニアは榴弾の数を数えた。帰り道の分を考えれば、決して十分とは言えない。

「しゃーない。あと一発ぶち込んでも生きてるようなら出直すか」

 そう言ってヴァージニアはグレネードランチャーのバレルを横に振り出して、空薬莢を抜き取った。 

「私にひとつ名案がありますわ」

 なんだかんだ言いつつ、くぴくぴと缶コーヒーを飲みつつ、ジルがそう切り出した。

「さっきのやつはナシだかんね」

 ジルは先ほど、尻尾をすり抜けて、鎧竜の柔らかな脇腹を鎌で切り裂いてみせますわ、と意見具申していた。中尉はそれを言下にそれを却下した。あまりにも危険すぎるし、この恐竜の皮骨の強度を考えると、そうやすやすと事が行くとは考え難い。

「それとはちがいますわ。栄光の手ハンドオブグローリーってご存知?」

「仕事がら、多少は」

 屍蝋化した死刑囚の手首から作った蝋燭には、火が灯されている間、所有者を不可視にする力があるという。よくそのテの不気味なアイテムに触れる機会があるものの、実際に機能する物にお目にかかったことはついぞなかった。

 ジルの目に謎めいたきらめきが浮かんだ。子供が、秘密の遊びを仲の良い友達にだけそっと教える時に浮かべるようなきらめきだった。

「この魔法、他人に見せてはいけないことになってますの。他言しないでくださいましね」

 少女狩人はそっとコーネリアスに囁きかけると、左手の小指から血の雫を広口瓶の中にしたたらせた。

 コーネリアスは恍惚とした表情を浮かべ、広口瓶の中の液体が淡い青に輝き始める。

 ジルは人参を収めた広口瓶の金具を、戦鎌の刀身に引っ掛けた。不気味なランタンが四方の壁を青白く照らし出す。ヴァージニアが訝しく思いながら見守るうちに、毒人参のランタンに焦点を合わせるのが困難になってくる。このランタンには、催眠効果があるのだと中尉は気付いた。

 少女狩人の黒装束がだんだんと立体感を失い、存在感が薄れてゆく。数秒のうちに、はっきりと見分けられるのは髪で縁取られた血の気の薄い卵型の顔だけになった。

「たいしたもんだ」

「姿を消せるのは、ゆっくりと動いている間だけですけれど」

 ヴァージニアの口を突いて出た感嘆の声に、ジルもまんざらでもなさそうだ。この状態で恐竜をやり過ごすことができるなら〈聖杯〉にたどり着くことも出来るだろう。

「そんな便利なものがあるなら……」

「秘伝の技だと申し上げましたでしょう。それに、コーネリアスへの負担が大きいんですの。この子を疲れさせて案内人として役に立たなくなってしまって意味がありませんわ」

「その魔法、やっぱりあたしにはかからないんだろ」

「言わずもがなですわ」

「そんな気はしてたよ」

 ヴァージニアは少女狩人の案を検討した。

 この子を一人で行かせるのは実に気が進まないが、成功の公算はかなり高そうに思える。

「行って、仕掛けて、帰って来るだけ。寄り道はなし。恐竜は無視。可能な限り交戦を避ける。できる?」

 ヴァージニアは言いながら、テルミット手榴弾を懐から出し、使用方法を説明した。タイマーを使わずに発火すれば信管は瞬く間に燃え尽きる。

「よぉく気をつけるんだよ」

「合点承知でございましてよ」

 ジルはにっこりと笑みを浮かべた。不可視の手が灰色の手榴弾を受け取った。

 不可視の魔術が染み渡り、手榴弾も溶けるように消えていく。

「それでは、また後ほどお会いいたしましょう」

 言いながらジルはヘッドドレスの襞からヴェールを引き出し、その白い顔を隠した。

 遠ざかる足音を聞きながらヴァージニアは少女狩人の行方を見送ったが、暗視装置の視界でも、もはや少女と闇とを見分けることは不可能だった。


 目と鼻の先を恐竜が通り過ぎて行く。鳩のように頭を前後に振りながら歩く姿はどこか滑稽味を感じさせるが、頭頂部の高さは成人男性をはるかに超えている。

 ジル・リリブリッジは息をひそめて、恐竜をやりすごした。ふわふわとした羽毛を備えた獣脚類はみるからに敏捷そうに見える。狩ろうと思えばそう難しくはなさそうな相手だ。戦鎌の柄を握る手に無意識に力が入る。

 だが、ヴァージニアと約束した以上、我慢しなくては。

 ピンと伸びた尾がランタンの光の届く範囲を出たのを確認し、少女狩人は歩を進めた。ヴァージニアと別れてより、迷宮の通路が以前にも増して広く、空虚に感じられる。

 コーネリアスの幻燈が、行く手に立ちふさがる扉を照らし出した。


 ヴァージニアは一服つけたくてしようがなかった。

 今、中尉は鎧龍の陣取る通路から後退し、通路が丁字を描く場所で待機していた。ばかすかと撃ちこんだグレネードの音は、さぞかし遠くまで響いたろう。鎧竜との交戦で立てた大きな音に、他の恐竜が惹きつけられ、やってこないとも限らない。

 先ほどまでの移動と時折の戦闘によって維持されていた緊張の糸が、手持ち無沙汰待ち時間によって断たれ、集中を維持するのが難しくなっていた。ヴァージニアはいらいらと腕組みして背中を壁に預けながら、ジルを一人で行かせたことを後悔する気持ちをなんとか宥めるべく、先ほどの決定がベストな選択だった理由を一つでも多くひねり出そうと思考を巡らせていた。

 中尉の意識を一瞬にして戦闘モードへと移行させたのは、闇の中に不意に浮かび上がったシルエットだった。

 丁字路の右。ジルの進んだ迷宮の奥からふわふわの中型恐竜がゆっくりと近づいてくる。

 ヴァージニアはほっと息をついた。無傷の恐竜を見るのは良い兆候だ。ジルが魔法で恐竜をやり過ごせているということだから。

 あの子、ちゃあんと言いつけを守っているらしい。

 一方で、ヴァージニアには透明化する魔術などはない。こいつの相手をしなくてはならないということだ。ヴァージニアは恐竜の様子をじっと観察した。長い後肢を備えた、見るからに敏捷そうな恐竜だ。華奢なように見えるが、それでも、馬ぐらいの体重はあるように見える。人間など手頃な獲物だろう。ヴァージニアは息を潜めながら、アサルトライフルの照準を恐竜の頭に合わせる。

 恐竜は空気の匂いを嗅いでいる。仕草からして、人間の存在にうすうす気が付いているようだが、正確な場所までは突き止めていないらしい。ヴァージニアは自分の居場所が知られるまで待つ積もりなどさらさらなかった。

 銃爪に指をかけ、射撃を始めようとしたとき、中尉は音に気付いた。

 腹の底に響くような振動。嫌な汗が背筋に滲んだ。この周期的に響く足音は、巨大獣脚類のストライドが生むもの以外には考えられない。

 丁字路のもう一方からぬっと姿を表したのは、驚くべき巨躯を備えた肉食恐竜だった。

 暗視装置の視界に浮かんだのは、高さ一三フィート、体長は優に五〇フィートの巨大な生き物だ。巨大な地下迷宮のスペースを狭苦しく見せるほどの体躯。開いた顎の間に、鮫のような牙がずらりと並んでいるのが見える。左右に狭く、上下に高い頭部はそれだけで長さは五フィート以上ありそうだ。例によって身体の規模に比べて前肢は貧弱だが、三指を備えたそれは、獲物を抑えるのには重宝しそうだ。ヴァージニアは脂汗を流しながら、丁字路の最後の一本へと、じりじりと後退を始めた。

 そのままこっそりと移動して、この怪物をやりすごすつもりだったが、そううまくは運ばない。

 中型恐竜が巨大肉食恐竜にちらりと視線を投げると、その前を通り過ぎ中尉の方に向かって走ってきた。すぐに彼我の距離は一〇〇フィートを切る。羽毛恐竜は鼻先を上げ、犬が吠えるような声で鳴くと、威嚇するように牙をむき出しにした。

 ヴァージニアは舌打ちをして決断すると、アサルトライフルの銃身の下に取り付けたグレネードを発射した。

 ポン、と軽い音を立てて飛翔した榴弾は中型恐竜の喉頭に飛び込んで炸裂した。

 恐竜の頭が爆発し、脳漿と羽毛とを迷宮の廊下にぶちまける。

 轟音とグレネードの発射炎に、巨大肉食恐竜は咆哮した。そのときにはすでに、ヴァージニアは踵を返して逃げ出していた。

 榴弾を再装填する暇はない。ここは逃げの一手だ。巨大恐竜を撃たなかったのは、足が速そうなほうを確実に排除しておく必要があったためだ。第一、このデカブツをグレネードの一撃で無力化出来る保証もない。この巨大恐竜が、巨体に見合った鈍重な足腰の持ち主であってほしいとヴァージニアは心から願っていた。

 咆哮に続き、リズミカルな足音が想像していたよりもかなり短い間隔で背後から追ってくる。

 ヴァージニアは身体がすくみ上がりそうな恐怖と同時に、うなじの毛が逆立つような興奮を同時に感じていた。


 重い扉が、きしみをあげる。

 隙間からこぼれ落ちる砂塵が、ジルのヘッドドレスにパラパラと降りかかる。

 予感めいたものに突き動かされ、ジルは扉を押し続けた。

 扉が開ききる前から、その先に広がる空間と、そこに佇む存在を少女は見て取っていた。

 古代ローマの闘技場アリーナを思わせる、柱で囲まれた丸天井。格納庫を思わせる広大な地下空間。床の所々から、巨大な生き物の骨格が突き出している。それらの周りで床面を埋め尽くしている白い破片をよく見れば、これもまた生き物の骨だ。ジルはアリーナの中心へと向かった。少女狩人が踏み出す一歩一歩が、枯れ骨を踏み折った。

 しゃく、しゃく、しゃく、と足音が地下空間に木霊し、舞い上がる塵埃が航跡のように宙を舞った。

 これでは、マンドラゴラの幻燈も役に立ちませんわね、とジルは内心でつぶやいた。

 骨たちの中央で、うずくまったものが、ゆっくりと身体を起こした。

 それは異形の恐竜だった。

 丸々とした胴体に、太く短い尾。恐竜はその身体に比してかなり小さな頭部を持ち上げ、狩人に顔を向けた。左右で違う、青と褐色の瞳が、少女狩人をじっと見据えた。

 怪物は羽毛の生えた両腕を広げ、衣を裂くような甲高い声を上げると、そのたくましい後肢ですっくと立ち上がった。小さな楔形の頭部が、高さ二〇フィートの天井近くにまで達する。身体を起こしたシルエットは、どこか恐竜というよりも、SFX映画の怪獣を思わせる。驚くべきことに、八フィートほどの高さから下がった腕のその爪の先を床に触れんばかりの位置にある。その手の三指には、三フィートにも達する恐ろしく長い爪が備わり、一見、滑稽にも見えるアンバランスな姿に、恐ろしげな迫力を付け加えている。

 鎌の遣い手同士、一騎討ちということですわね。

 少女狩人はコーネリアスを納めた瓶を鎌の先から取り外すと、ご苦労さま、と呟いて毒人参をねぎらった。そのまま瓶を腰の定位置へと戻し、戦鎌のハンドルを握りなおして狩りの相手に向き合った。

 キュ、と長手袋が鳴く。内心の高揚を抑えながら、懐から取り出した塊状の毒軟膏を戦鎌の刃に滑らせた。毒人参の進出物と蝦蟇の脂とを混ぜ合わせた獣狩りの秘薬が、刃の表面で仄かな紫炎をちらちらと上げ始めた。


 焼け付くような肺の痛み。

 うなじにかかる超巨大肉食恐竜の吐息。

 ヴァージニアは全力疾走しながら、通路の左右に目を走らせていた。ここまでの道のりで、迷宮には幅も高さもまちまちの通路が無数に存在しているのはわかっている。巨大肉食恐竜が通過できない箇所はかなり多いはずだ。

 問題はそこまでたどり着けるかどうか。

 歯を食いしばりながらヴァージニアは走り続け、ついに素敵な開口部に巡り合った。プロポーズでもしたくなるような魅力あふれる戸口は縦横七フィートほど。巨大肉食恐竜が潜るには狭すぎる。

 ヴァージニアはワールドシリーズの三塁ランナーのように開口部に滑り込んだ。

 中尉のすぐ背後で、超巨大な顎がトラバサミのように閉まり、ガツン、と背筋の凍るような音を立てる。怪物は屈みこんで鼻面を突っ込んできたが、やはり通り抜けるには狭すぎるらしく、鮫の歯に似た牙で歯噛みした。

「おう……ザマ見やがれクソデカチキン野郎が」

 床に仰向けに倒れこんだヴァージニアは肩で息をしながら、怪物の鼻先にむかって中指を立てた。

 命の危険を感じながら全力疾走したせいで全身が汗みずくになっていた。スポブラの肩紐が擦れた部分がむず痒い。

 恐竜め。さすが気嚢システムを備えているだけはある。喫煙の悪習によって肺機能の低下した哺乳類は不利だ。人が真剣に禁煙を考えるのはこういう時だろう。

 ヴァージニアは大の字で横たわったまま、荒い呼吸を三分ほど繰り返した。

 息が整うと、懐からメンソールタバコを取り出して咥えた。

 部屋の開口部を見ると、巨大恐竜は諦めたのか、すでに姿を消していた。

 のろのろと起き上がってライターの火を付けたヴァージニアは、オレンジ色の光に浮かび上がった光景にポカンと口を開いた。唇からタバコが落ちて迷宮の床を転がった。

 そこは、ちょっとした体育館ほどの大きさの部屋だった。テニスコートが二つほど入るだろうか。天井の高さは二〇フィートほど。砂岩の壁に掛けられているのは、赤い布地に白の円と黒で描かれた鉤十字の、見間違いようもない第三帝国の旗だが、ヴァージニアはほとんどそれを見ていなかった。壁のラッチに掛けられたガンメタルと、床を埋め尽くす木箱。

 慌ててケミカルライトを折りそこらの床に放り投げた。木製のラックに立てかけられたStg44。壁に掛けられたMP40。弾薬と一緒に棚に置かれた防盾付きのラケッテンパンツァービュクセ。

 そこは武器庫だった。


 逸る気持ちを抑えながら、ジル・リリブリッジは怪物に向かい、優雅な一礼を贈った。

「どうぞ、お手柔らかに」

 そう言い終えた瞬間には、すでに駆け出していた。

 湾曲した長大な刃を武器に持つ両者は、メイルシュトロムの渦の底へと呑み込まれゆく二艘の小舟のように、ブーツと肉蹄が砕骨を踏んで互いに向かい駆け寄った。

 恐竜は三指を備えた両腕を伸ばし、ただの一撃でも致命傷となる鉤爪を右、左、右と繰り出した。

 漆黒を纏った少女狩人は、独楽のように踊りながら、致命的な一撃を紙の一重で避けてゆく。

 掴みかかる一撃をバックステップで躱しざま、前に出した戦鎌の刃で鉤爪のケラチン質を引っ掛け、断ち割った。続く怪物の裏拳を冷静に見切り、叩きつける一撃をくぐって間合いの内へと入りこむと、股の間を走り抜けながら、怪物の腹に刃を打ち込み引き斬った。劇毒が傷口で血と混じり、刃が幽鬼に似た炎を上げる。

 怪物の喉を振り絞る叫びが四方の壁に反響する。血の雨をかい潜って、ジルは一旦距離を取り、鉤爪の範囲の外で呼吸を整える。

 恐竜は頭部を左右に振って少女狩人の姿を探し、恨みのこもる咆哮をあげて突進を開始した。


「なんだかあたしゃ不気味になってきたよ」

 そうヴァージニアはひとりごちた。

 武器庫から回廊で繋がれたいまひとつの部屋で、もうすこし大型の兵器類が窮屈そうに並んでいた。

 ケミカルライトに浮かびあるのは、独逸の工業が産み出した傑作の数々だ。

 四輪の軍用車から、菱形のシルエットを持つ装甲偵察車の数々。

 信じがたいことに、Ⅳ号駆逐戦車L七〇ラングまでが並んでいる。車両群はサスペンションのへたりも見られず、タイヤの空気圧に至るまで完璧な整備状況だった。ゴムタイヤが七〇年間も持つなど、聞いた事もない。当時の状態から変化していないのは、間違いなく〈聖杯〉の力のせいだろう。

「これ、やっぱ最後の大隊ラストバタリオンってやつだよな……」

 大戦後期、敗色濃厚になった独逸が国家崩壊後も闘争を続けるため、兵器や兵士を密かに疎開させていたという噂だ。たいてい第三帝国の残党は南米か月の裏側に逃げたことになっている。終戦後にUボートがアルゼンチンやブラジルにたどり着いた事実もあるが、映画や小説のネタとしてはともかく、Uボートのような輸送力の限られる乗り物ではたいしたものは運べない。亜空間でも使えば話は別だが。

 メルテンス博士は〈聖杯〉の力を制御できていたらしい。それが可能であれば〈聖杯〉の生み出す〈禁断の都〉に最精鋭部隊を収納し、Uボートで極東の同盟国に運び込むのは無理な話ではないだろう。だが、なぜか最後の大隊は新天地に到達していたにもかかわらず〈聖杯〉に封じられたまま、戦後七〇年にわたって蔵の中に死蔵されていた。

 それはなぜなのか。

「連中はどこに行ったんだ?」

 その疑問を口に出した瞬間、奇妙な胸騒ぎを感じながら、ヴァージニアは足早に進んだ。

 木製の扉があった。内側から、大きな力で蹴破られている。

 明らかに人間の手で作り付けられたものだ。

 ヴァージニアは腰から一〇ミリ口径のポリマーオートを抜き、部屋に入り込んだ。

 兵舎だ。

 ずらりと並べられた二段ベッドのシーツはどれも乱れ、褐色に変化した染みが広がっている。ベッド脇にはブーツが転がっており、中には几帳面に揃えられた姿勢で立っているものもある。

 最後の大隊は靴を履かずに消えたのだ。

 いったい何人の人間がいたのだろう。物陰に潜んでいるかもしれない小型恐竜を警戒しながら、ヴァージニアは兵舎を奥へと進んだ。


 ジルの予想を上回る素早さで、鉤爪を備えた怪物が暴走機関車のように突っ込んできた。

 巨大な生き物が大きく踏み込み、薙ぎはらうように腕を振る。三つの爪が枯れ骨を砕きながら迫り来て、脆弱な哺乳類の骨格を打ち砕かんと襲いかかる。

 骨の砂の間に埋まった剣竜類の板骨をと、たんっと踵で強く蹴り、ふわりと高く跳んだ黒衣の少女の足の下を殺戮の鉤爪が通過する。

 ふわり、と着地した狩人は脚を折って跳躍へのばねに変え、悪い足場を物ともせずに上体を倒して前にのめるように跳び、手首の内側へと潜りこんで刃を振るった。掌の中のハンドルが確かな手応えを伝える。鋼の刃は切り裂いた血管と筋肉に劇毒を流し込みながら、万骨枯れる床の上に、真紅の飛沫を散らした。

 怪物は懐に飛び込んだ哺乳類を踏み潰そうと脚を上げる。

 ジルは転ぶように前に倒れ、上げられた足裏の下に身を投げ出す。シフォンの鞠が転がるように踏みつけ躱し、膝立ちで上体を起こすと、あやうく怪物に踏まれかけたスカートを手繰って避難させる。一瞬前まで狩り装束が占めていた空間を、巨大な足裏が踏みしめ、砕けた骨をさらに砕いた。

 かたや、裾を放した黒手袋には、乙女の隠しどころから抜き取った毒メスが三振り、魔法のように現れた。

 少女狩人は、ちょうど怪物の鉤爪のパロディのように手挟んだ三つの手術刀で恐竜の脛を切り裂き、手首を返して刃を膝裏に突き立てた。


 ヴァージニアは新たに発見した部屋を覗き込んだ。一目見て個人の部屋だとわかった。

 家具はベッドの他に本棚とデスクくらいしかないとはいえ、個室を与えられているのだからそれなりの地位にあった人物なのだろう。大隊の指揮官の部屋だろうか。よく整頓されている。というよりも、物が少ないという印象だ。本棚に並べられた大判の書籍はどうやら医学書の類だ。

 デスクに革装丁の本が置かれているのにヴァージニアは気付いた。

 恐ろしく古い本のように見える。綴じられたページは紙ではなく、羊皮紙だ。本のタイトルを確かめる前から、ヴァージニアはこの部屋がメルテンス博士の私室なのだと悟っていた。

 中尉が禁断の魔導書をこわごわと取り上げたとき、ページの間に挟まれていた手帳がばさり、と落ちた。

 まるで何者かの意思が介在しているかのような薄気味悪さを感じながら、ヴァージニアは手帳に手を伸ばし、書類に素早く目を通した。すぐに、それがメルテンス博士の手稿であると確信した。

 いやはや。

 金釘流で書かれた、読みにくい独逸語を、OMDの自動翻訳アプリケーションの力を借りながら斜め読みしてゆく。

 そこに記されているのは〈聖杯〉の探求と研究の物語だった。覚書のような文章の端々から、木乃伊の復活にかける博士の情熱がにじみ出ている。博士は明らかに古代の木乃伊に無限の生命力が宿っていると信じていたらしい。

 禁断の魔導書は、遺骸から生命の本質を結晶として抽出し、その本質から生きた実体を再合成する秘儀について記している。博士はその魔術を用いて〈上古種〉の再生を行おうとしていたらしい。

 次のページをめくった瞬間、ヴァージニアは呻きに似たつぶやきを漏らした。

「嘘だろ、おい」

 ページに貼り付けられた、モノクロの写真。それは生きた爬虫類を写したものだった。それを見た瞬間、ヴァージニアはなぜかしら、背筋にうそ寒いものを感じた。

 おそらく、実験室のような場所で撮影されたのだろう。陶器のバスタブの内側を半ばみたした暗色の液体の中に、その生き物は腹ばいになっていた。鱗に覆われた胴体は扁平で尻尾は太く短い。

 身体の横から突き出した腕は現生の鰐に比べて華奢な作りをしている。特に前肢はほっそりとしていて、その先端に人間の手を思わせる長い指を備えた掌を備えている。細く突き出した吻はインドガビアルを思わせる。鼻腔は口先ではなく吻の付け根近く、眼窩の前方に開いている。角のある頭部はほとんどドーム状に近く、爬虫類にしては異常なほどに盛り上がり、その頭蓋骨の内側にある脳の容量を考えると空恐ろしい気持ちにさせられる。さらにその頭頂部に開いた第三の目の存在が、この生物が極めて古い時代の生物であることをほのめかしていた。

 鰐の三つの目に奇妙なほどに悪意の漲る表情が浮かんで見えるのは気のせいだろうか。今日見てきた多くの巨大爬虫類の獰猛な姿と比べれば、ずっと貧弱な体つきをした生物の姿に寒気を覚えるなどおかしな話なのだが、それでも、ヴァージニアはこの生き物の姿に宇宙的な邪悪の雰囲気を感じずにはいられなかった。

「これが〈上古種〉だっての? ただの蜥蜴じゃないのさ……」

 つぶやきながらヴァージニアはザッピングするようにページをめくった。

 ページの間から邪悪な爬虫類の薮睨みの目が睨めつけてくるような印象がつきまとう。読むのをやめようかと思った時、目の中に飛び込んできた思わせぶりな単語にヴァージニアは手を止めた。

『ジークフリート計画』

 ヴァージニアは仔細を読み始めてすぐ、こんな手帳なんざ見つけるんじゃなかったと後悔した。


「あなた、ちょっとしぶとすぎですわよ……」

 ジルのつぶやきに応えるように、身体の羽毛を血の赤に染めた怪物が咆哮する。

 恐竜の身体の刃の届くあらゆる箇所には、少女狩人の戦鎌が深い創傷を与え、致死の猛毒がたっぷりと塗りつけられている。印度象であればすでに三度は死んでいるはずの手傷を物ともせずに恐竜は鉤爪を振るい、ジルは危ういところでそれを避けた。恐竜の動きの合間を捉え、二歩三歩と飛びすさって距離をとる。

 たった一匹の相手にこれほど手こずらされたのははじめてだ。

 息を整えながら少女狩人は考えた。

 どうやらこのお相手はわたくしの毒軟膏に免疫をお持ちのようですわね。

 その事実は毒薬に一家言のある少女狩人の自尊心をいささか傷つけるものだった。

「でしたら、本当のとっておきのとっておきをお見せしてさしあげますわ」

 誇り高く、気は短く。それがリリブリッジの家風だ。

 少女狩人は不敵な笑みを浮かべた。


 メルテンス博士は〈上古種〉の生命力の秘密を研究することで医学上の発見を得られると考えていたわけではなかった。〈上古種〉の生命力を、そのまま人間に移植することができると考えていたのだ。

 一億年の死から目覚めた爬虫類の生命力に関する実験の結果〈上古種〉の血液には、奇跡のような癒しの力が宿っている事が詳らかとなった。

 既知のあらゆる病原菌やウィルスに対する抗体を豊富に含み、毒蛇や蠍の持つ生物毒にも血清として働く。そこまでならまだしも、人間の身体の持つ自己再生の力を大幅に高める力を持っていることが人体実験によって確かめられた。ある種の無脊椎動物や、両生類や爬虫類の一部が失った器官を再生するように、人間の身体で同様の治癒を実現したのだ。博士はだからこそ、盲目の百人隊長を癒したメシアの血になぞらえてこれを〈聖杯〉と名付けた。万能の薬という夢。すべての医療を過去のものとする大革命であり、傷痍兵にとっては福音以外のなにものでもない。だが、第三帝国はより攻撃的な用途に〈聖杯〉を用いることを求めた。

 メルテンス博士は不死身の軍団を作り出すように要請された。

 それは、小銃の弾をものともせず、爆発物で引きちぎられた手足も瞬く間に回復する兵士だ。毒ガスを呼吸し、細菌兵器を撒き散らしながら移動する死の部隊だ。砲弾の雨の中を突撃する恐怖も疲れも知らぬ軍団だ。ただ総統の命令によってのみ止める事ができる、絶対無敵の不死の軍勢だ。万物によって傷つけられぬバルドルのごとき身体を備えた、ラグナレクを闘う聖戦士たち。それはまさに、龍の血によって不死身となったジークフリートの再現である。

「ジェームス・ロリンズかジェレミー・ロビンスンの世界だねこりゃ」

 茶々を入れるように口に出した言葉も虚ろに響く。

 狂気の科学者と狂気の軍隊による狂気の実験。

 そう。

 最後の大隊とは〈上古種〉の血を打たれた兵士の部隊に他ならない。


 殺戮の鉤爪をくぐり抜け、怪物の背後を取ったジルは右手を戦鎌のグリップから広口瓶へと移し、その蓋を大きく開け放った。普段は小さな隙間から血を与えられているマンドラゴラを黒手袋で握りしめ、青白く光る液体を撒き散らしながら植物性の小人を空気の中へと引っ張りだした。

 心地よい液体の中から寒い外へと引き出されたコーネリアスは抗議の叫びをあげた。

 耳をつんざく絶叫がアリーナの壁に木霊する。

 だが、この場に死を招くマンドレイクの咆哮を聞く者は居ない。

 恐竜の耳にはマンドレイクの声の周波数は高すぎて聞くことは出来ず、一方、抜かりなく耳栓をしたジルは歯の浮くような空気の振動を浴びながら、聞かん坊の相棒に向かって言った。

「おへそをまげるのはおよしなさい、コーネリアス。ほおら、存分に貪るがよろしいですわ」

 ジルはマンドラゴラを握った手を恐竜に向かって突き出した。許しを与えられたコーネリアスの髭根は、普段なら考えられないほど大量の血液に暴露され、その植物的な貪欲さを爆発させた。

 根が迸った。

 植物的な飽くことのない欲望が滋養を求めて恐竜の身体へと殺到する。

 それはまるで頭足類の狩りだ。

 鉤爪恐竜は根を薙ぎ払ったが、無数に伸びる根はその鉤爪さえもからめ取り、締め上げた。

 血から得た養分を糧に、さらなる血を求めて伸びる木質の触腕が恐竜の身体に開いた傷口を探り当て、その内側に潜り込んだ。細い髭根が瞬き一つの間に指の太さに、瞬き二つの間に手首の太さに、瞬き三つの間に腿の太さにと成長する。破裂した血管からほとばしる血は溢れるよりも先に貪欲な根によって吸い上げられる。生けるまま木に食い尽くされる恐竜があげる断末魔すらも、植物の根によって飲み込まれた。

 今や肉という肉を植物によって置き換えられた恐竜は一本の木としてアリーナに佇立し、恐竜の骨格の眼窩では二つの蕾が膨らみ、青と褐色の花を咲かせた。

 怪物の死を確認したジルは戦鎌を振るい、コーネリアスの髭を剪定した。根は一瞬、驚いたように震えると、急速に生気を失って萎れ始めた。根の先がだらりと垂れ下がる。眼窩で咲いた二輪の花は涙のように花弁をこぼした。

 ジルはもっともっとと駄々をこねるマンドレイクを瓶の中へと押し込み、しっかりと瓶の蓋を閉めた。


 蘇った太古の種族。

 恐竜を支配し、大地に窖を掘り抜き、不浄な生命を永らえるために死のまどろみにたゆたう生き物。その血液の持つ癒しの力と、それを予言した詩人の文に誘われ砂漠へと身を投じた狂気の学者。不意に、ヴァージニアの頭の中で、パズルのピースが音をたてて嵌った。

「連中、恐竜にされちまったのか」

 万能の霊薬である〈聖杯〉。その癒しの力自体が、永き眠りの間に衰えた〈上古種〉が力を取り戻すために後世に仕掛けた罠だったのだ。血の癒しの力を求めて自らに〈上古種〉の血を取り込んだ後世の生物を遺伝子レベルから変容させ、自らが支配していた最良の時代の家畜に作り替え、自らの王国の再興に利用する。

 第三帝国は最終兵器を作り出すつもりで、貴重な一個大隊を知性化鰐の生贄に捧げてしまったというわけだ。いやはや、霊薬のとんだ副作用だ。最後の大隊にはお気の毒さまとしか言いようがない。

「上の連中、十中八九知ってたな」

 そうであれば今回の任務の目的が回収ではなく破壊であるというのも頷ける。この代物は危険すぎる。

 駆逐された種族の、後世に対する呪い。それこそが〈聖杯〉の本質なのだ。

 そんな汚物は炎で消毒してしまえ。

 と、そこまで考えて、ヴァージニアはふとあることに思い至った。単身〈聖杯〉にテルミット爆弾を仕掛けに向かった少女の事を思い出したのだ。

「これはちょっとやばいぜ」

〈聖杯〉は木乃伊ではない。生きた鰐だ。


 ジルはアリーナの奥にある小さな開口部に向かって歩みを進めた。普通に考えれば〈聖杯〉の在り処はここ以外にはないだろう。

 少女狩人の背後で、急速に朽ちゆく木の根に覆われた恐竜の骨格がガラガラと音を立てて崩れてゆく。少女の靴の下で、脆くなったぐずぐずと崩れる。

 いったい、どれだけの生き物の骨の集積なのだろうか。大きなものから小さなものまで。

 わずかに頭蓋骨の印象を留めている物もあるが、生き物の種類を特定することはできなかった。

 開口部の天井は低く、小柄なジルであっても屈まざるを得ないほどだった。日本の茶室は謙虚さの重要性を説くためにあえてそうした形になっているというが。まるで、これから対面する相手に対して、敬意を持つよう求められているように思え、ジルは気に入らなかった。

 短い通路の先に、広がったスペースがあった。奥行きのある、通路のような空間。太い柱が二列に並び、低い天井の重みを支えている。

 柱にも壁にも、異界的なモチーフを表した沈め彫りが施されている。一種の聖所に違いないとジルは考えた。

 はたして、部屋の突き当たりに祭壇があった。

 床のレベルが一段高くなった部分、積み上げられた骨で取り巻かれた四角い箱。骨の中には、真新しい人骨が混じっている。

 これこそ〈聖杯〉に違いない。

 ジルは力を込めて蓋を押した。石の擦れる音が聖所に響き渡る。

 蓋が音をたてて落下した。

 ジルは困惑のうちに棺の中を見下ろしていた。

 中は空っぽだ。

「コーネリアス?」

 ジルはあらためて〈聖杯〉の場所を聞こうとマンドレイクに話しかけた。先ほどの飽食に満悦したご様子の根っこは瓶の中の液体にたゆたいながら、プクプクと寝言のような泡を吐き出している。

「わたくしとしたことがしくじりましたわね……」

 この根っこを働かせるには適度に飢えさせておく必要があるのだ。この分では向こう一月ばかりはこの調子だろう。

 少女狩人は自分の短慮を反省するあまり、柱の陰に潜んでいた爬虫類に不意を突かれた。

 黒衣の少女に飛びかかったのは、大型犬くらいのゴツゴツした生き物だった。むせかえるような麝香の匂いにジルは息を詰まらせた。

 ジルは鰐に押し倒されるかたちで、背後に倒れこんだ。鱗まみれの生き物が体重をかけてくる。無数の牙を備えた顎が、少女狩人の顔を噛み砕こうと開閉する。ジルは鰐の下顎を手で押し上げ、懐から取り出した毒メスを白い腹に突き刺した。鰐が苦痛の叫びを漏らす。

 ジルはその機に乗じて、たっぷり毒に浸したメスで何度も鰐の腹をえぐった。ふと少女狩人が気づくと、鰐はすでにぐったりとしてうごかなくなっていた。

 口角が泡を吹き、身体は痙攣している。放っておけばすぐに死ぬだろう。

 ジルは重い生き物をどかすと、やれやれと立ち上がる。

 その瞬間、迷宮全体がぐらり、と揺れた。中腰の少女狩人はよろけて尻餅をついた。


 ポルシェは軽快にエンジンを轟かせかせながら、異様に小さな段差を持つ階段をスロープのように走り下りた。ヘッドライトに浮かぶ周囲の壁が、飛ぶように過ぎてゆく。

 ヴァージニアは癖の強い四輪駆動車の運転に手間取りながら、可能な限り早く少女狩人を回収しようと焦っていた。

 危惧した事が現実になりつつあるらしい。

 ぐらり、とまた揺れが襲った。

 揺れの間隔が短くなっている。

 まず間違いなく、ジルが〈聖杯〉を傷つけたのだろう。生きた鰐が襲ってくれば、反撃するに決まっている。

 ために、夢の世界である〈禁断の都〉が不安定になっているにちがいない。〈聖杯〉が完全に力尽きた時、何が起こるのかは想像するしかないが、少なくともヴァージニアはあえて試してみようとは思わない。中尉がさらにアクセルを踏みしめると、独逸工業製品の傑作は期待に応えるように咆哮した。

 軍用車は広大な地下空間に飛び出した。タイヤが脆い骨を踏み潰しもうもうたる埃をまきあげる。

 ヘッドライトが迷宮の闇を切り裂いて、アリーナの中央で力尽きた巨大な生き物の残骸をつかの間照らし出す。ヴァージニアはクラクションを鳴らしながら、左右に視線を走らせて黒衣の少女狩人の姿を求めた。

 アリーナの奥に開いた矩形の開口部から、埃と血に塗れたエプロンドレスを引きずって、ジル・リリブリッジが姿を現した。

「ジル!」

 中尉は軍用車のハンドルを切り、少女狩人のすぐそばに車を寄せた。

「ヴァージニア?」

 ジルは目を丸くしてヴァージニアと、彼女の操縦する鉄の軍馬を見比べた。

「乗りな! ずらかるよ!」

「でも、まだ〈聖杯〉が見つかりませんのよ」

 そう言って黒衣の少女はテルミット爆弾を示した。

「つべこべ言わない! すぐに乗る!」

 ヴァージニアのただならぬ様子に、ジルはふわりと助手席に飛び乗った。

「この車、ドアもありませんのね……」

 乗った拍子にむぎゅ、とお尻で押しつぶしたものを少女狩人は確かめた。

「なんですのこれ……?」

 ヴァージニアがオープンカーを急発進させたので、バランスを崩した少女狩人はきゃっ、と小さく悲鳴をあげた。四輪駆動車はアリーナを横切り、階段に入り込む。シャーシがガタガタと激しく揺れ、ジルのお尻は禁断の魔導書の上で鞠のように跳ねた。

 狭い框を抜け、広い通路が目の前に広がる。ヴァージニアはクラッチを蹴っ飛ばしてシフトアップする。行きがけにナチス製の無反動砲で殺害した鎧竜の脇を猛スピードですり抜ける。

「いったい、どういうことですの?」

 揺れる座席で舌を噛みそうになりながら、ジルはバディに理由を尋ねた。座り心地の悪い本はすでに膝の上に移動させている。

「あんた、鰐殺したでしょ、角生えてるやつ」

「毒メスで滅多斬りにしましたわ」

「それが〈聖杯〉なんだよ」

「まあ」

 二人を乗せて驀進する軍用車に立ちふさがるように、そこここの分岐路から、盛大なエンジンの凱歌に釣られた恐竜どもがわらわらと集まってくる。

 眼窩の上に突起のある獣脚類が左手の通路から現れ、口を大きく開けて威嚇した。ヴァージニアは冴え渡るハンドルさばきで恐竜の傍をすりぬける。首をめぐらして噛みつこうとした恐竜はバランスを崩して転倒した。闇の中から浮かび上がった駝鳥に似た恐竜が体当たりするような勢いでとびかかった。

 ヴァージニアはあえて立ち向かう方向にハンドルを切り、小型恐竜を車輪の下に轢き潰した。ドンドンッと前後の車輪が恐竜の胴体を踏み、車体が跳ねる。猛スピードで突き進む軍用車は中尉が先ほど逃げ込んだ開口部の前を猛スピードで通過する。

「ジル、あんた銃は?」

「もちろん、経験くらいありますわ」

 そう言ってからジルは付け加えた。

「二二口径のピストルだけですけど」

「あたしが言ったら助手席のマシンガン撃って」

 そう言われて初めてジルは助手席の右前に据え付けられた棒状の機械を意識した。

「これ鉄砲でしたのね……」

 言いながらジルは恐る恐るMG34に手を伸ばした。

 ヘッドライトに、巨大な肉食恐竜のシルエットが浮かび上がった。

 大きく開いた口には鮫の歯がずらりと並んでいる。

「撃って!」

 言われるままに、ジルは助手席側に取り付けられたMG34の引き金を引いた。

 銃口炎と共に吐き出された7・92ミリの弾丸に、さすがの超巨大恐竜もたじたじと後退った。

 ジルが銃声にびっくりして銃爪を握りしめている間に、独逸製の汎用機関銃はドラムマガジンに納められた五〇発のベルトリンクを瞬く間に撃ち尽くしていた。

 ヴァージニアはひるんだ巨大恐竜の足元をくぐり抜け、アクセルを踏み込んだ。

 コーナーを曲がると、記憶通りに地底湖に出た。前照灯の光の中、まっすぐに続く橋が浮かび上がる。

 橋を渡れば脱出まであと少しだ。

「飛ばすよ、ジル!」

 言いながらヴァージニアは四輪駆動車を橋に突入させた。

「あれ、なんですの?」

 助手席のジルがそう言って前を指差した。

「どれよ……」

 そう言った瞬間、ヴァージニアもまたその存在に気がついていた。

 橋の幅いっぱいに広がった、ずんぐりしたシルエット。半円形のフリルが縁取る顔から、すらりと伸びた二本の角といま一つの小さな角。一本橋の中央に、白亜紀末期の犀が行く手に立ちふさがっている。巨大な角竜は首を振って威嚇すると、二人を乗せた軍用車にむかって暴走機関車のように突進してきた。

「死にますわ! 死ぬんですわ!」

「縁起でもない!」

 白亜紀の猛牛との正面衝突を、ヴァージニアはハンドルを切って避けた。

 軍用車は欄干などない橋から地底湖の上空へと飛び出した。一瞬前までを自動車の占めていた空間に角竜が突っ込んで行く。

 地下迷宮のアーチ橋の路面から飛び出した軍用車は、闇黒の地底湖めがけて放物線を描き、万有引力の法則に従って落下した。ジルの悲鳴が響き渡る。気の遠くなるほどに引き伸ばされた主観時間の落下に続き、二人の周囲で水しぶきが爆発したように跳ね上がった。

 がくん、とシャーシが沈み込む感覚。ボディの縁を超えて流れ込んだ結構な量の水が二人の体を濡らす。それにつづいて、急速に車体が浮かび上がる。ぐらぐらと、ボートのようにピッチングとヨーイングを繰り返しながらも、車体はゆっくりと安定にむかってゆく。地底湖の底に飲み込まれると思ったジルは呆然とした顔でドライバーに目で問いかけた。

「これ、水陸両用なんだ」

 なぜか若干得意げにそう言ってヴァージニアは立ち上がった。車体が重心の変動に合わせてぐらぐらと揺れる。シュビムワーゲンの車体の後部座席に移動した中尉はなにやら鉄の棒を取り上げて、車体後部のスクリューを展開しはじめた。

 迷宮が揺れた。石組みが緩み、砂埃が落ちる。

 ゴリゴリと音を立てて、天井から剥離した岩が地底湖の水面に突き刺さり、大きな白波を作り出した。波に、ぐらり、と車体が揺れる。

「崩壊が進んでる、急がなきゃ」

 ヴァージニアがそう言うが早いか、水音と共に、ワーゲンの周囲に蛇のような首が立ち上がる。

 嫌な目をした海棲爬虫類が貪婪な口を開いて、噛み付いてくる。

「ったくもう!」

 ヴァージニアはとっさに車体に固定されたオールを取り上げた。

 日本の伝説的な戦士、宮本武蔵がライヴァルの佐々木小次郎を下した戦いで用いた戦法に倣い、棍棒代わりに首長竜の頭を叩きのめす。強烈な一撃にたじたじとなった一匹が後退するのといれかわりに、次の一匹が噛み付いてくる。ヴァージニアのさらなる一撃を、故意か偶然か首長竜の顎が咥え込んだ。木製のオールに海棲爬虫類の牙がごりごりと食い込んだ。

 ヴァージニアは腿のホルスターからグロック40を引き抜くと、怒りの一〇ミリオート弾を海棲爬虫類の頭に立て続けに撃ち込む。

「ジル、車の運転は?」

「多少の経験はございますわ」

 ジルはそう言ってから付け加えた。

「水陸両用車に乗ったのははじめてですけど」

「とりあえず運転席に移動して」

 ヴァージニアが指示を出す合間にも、首長竜が近づいてくる。中尉は第三帝国製の柄付き手榴弾の紐を引き、地底湖の水面に放り込んだ。爆発。水柱が立ち上がり、首長竜が逃げていく。

「アクセルで前進、ハンドルがそのまま舵になるから」

「あら、この車、余計なペダルがありますわ」

「ああもう、一番右」

 どるるるる、とエンジンが歌い、ゲンゴロウのような丸っこい車体が水面を小走りの速さで進み始める。

 前輪が湖底に触れる。水陸両用車が岸に乗り上げ、傾斜を登り始めると、ヴァージニアは後部スクリューを畳み、ジルと交代に運転席へと滑り込んだ。ワーゲンはカブトムシが木の幹を登るように、よたよたと坂を登り終えると、平らな床に濡れたタイヤ痕を残しながら、シュビムワーゲンは出口に向かって走り始めた。


 天井から納屋の扉ほどの大きさの岩石が落下して床で砕けた。ヴァージニアは危ういところで岩を避けた。

 地面がひっきりなしに揺れ、地鳴りと岩のぶつかる音がそこらじゅうで鳴り響いている。左右の壁のブロックも次第に緩み、今や迷宮の崩壊が目前なことは明らかだ。脱出に向けた坂を、シュビムワーゲンは苦しげに登ってゆく。

 迷宮の揺れはますます激しく、床を構成する岩にもずれが生じ、所々で大きな段差となって走行を困難なものとしていた。いまや、ワーゲンは歩くよりはすこしまし、といったスピートでよたよたと走っているに過ぎない。かといって、この揺れでは転倒せずに走ることもできまい。

「ジニー!」

「見えてる!」

 前方に輝く矩形が姿を表していた。もはや懐かしいような、光る雲のヴェール。あそこを抜ければ、こんな古生代の悪夢とはおさらばだ。

 地鳴りを圧する咆哮が響いた。

「あとちょっとだってのに」

 ジュラ紀の頂点捕食者たる恐竜が、背後から迫っている。機関銃で負った手傷から血を滴らせながら、復讐にその目を燃え上がらせ追いかけてくる。獣脚類の脚は床の段差をやすやすと踏み越え、揺れる迷宮にふらつきながらも、確実にワーゲンへと近づいてくる。恐竜の鼻息をうなじに感じ、ヴァージニアは思わず観念した。

「クソ……ッ」

 ジル・リリブリッジは揺れる座席の上で、腰巾着からテルミット焼夷弾を取り出すと、時限装置のタイマーをゼロにして、安全ピンを引き抜いた。信管が着火した焼夷弾を肩越しに放り投げた。安全レバーが外れ、くるくると回転しながら飛んでいく。

 シュビムワーゲンの丸い尻の上で、灰色の焼夷弾が跳ね、迷宮の床へと落下する。

 焼夷弾は地割れの隙間に挟まり、そこで炸裂した。

 至純の白。

 華氏4000度の炎の壁が裂け目より吹き上がり、巨大恐竜の胴体を炙った。

 酸化還元反応のハンマーに頭を殴りつけられたかのように怪物はたじたじと後退りした。鱗のあちらこちらが輻射熱によって燃え上がり、生きたままその身を焼かれる苦痛に恐竜は悲しげな咆哮をあげた。


 蔵の框を埋める雲のヴェールを突き破ってシュビムワーゲンが日本庭園の中へと躍り出た。丸っこい軍用車は、芝生の上でバウンドし停止した。

 運転席のヴァージニアは、日本庭園を固めた自衛官たちがアサルトライフルを構えているのに気付き、両手を振り回して「撃つな!」と叫んだ。次の瞬間、連続した銃声が耳朶を打つ。ヴァージニアはとっさに助手席の上に覆いかぶさった。銃声は恐ろしく長く続いた。

「ちょっと……ヴァージニア、重いですわ」

 体の下に押しつぶした少女狩人が苦しげに呻き、はじめてヴァージニアはライフルの合唱がすでに終わっていることに気づいた。

 中尉は恐る恐る顔を上げた。生きているのが信じられない。ヴァージニアは顔を上げ、銃撃が自分とジルに向けられたものではないと悟り、背後を振り向いた。

 窮屈な框から突き出した恐竜の頭部がそこにあった。執念というべきか。鱗は黒焦げになり、大量の弾丸が掘り返した鼻面は割れた柘榴のように無残なものになりはてている。それでも怪物はその歯を噛み合わせ、二人を食い殺そうとしているのだ。

 ヴァージニアは半ば反射的に腰のホルスターからグロックを抜き、怪物の顎に向けて狙いをつけた。フロントサイトの向こう側で、戸口を潜り抜けようとむなしい努力をしている生き物の姿に、ヴァージニアの内側で奇妙な憐憫の情が湧き上がった。恐竜にしろ、SSにしろ、こいつは犠牲者に過ぎない。中尉は銃口を下ろし、愛用のポリマーオートをホルスターに戻した。

「今度こそ、ちゃんと絶滅してろよな」

 ヴァージニアがそうつぶやくと同時に、突然、恐竜が痙攣したように震えた。そして唐突に切断された口吻が地面に落下した。

 中尉の体を押しのけて頭を上げたジル・リリブリッジが見たものは、切断された恐竜の頭部と、輝ける雲海を失ってぽっかりと口を開いた蔵の框だった。

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ジュラシック・トゥーム ねこたろう a.k.a.神部羊児 @nekotaro9106

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