牙剥き出すケモノ
「―――間違いないわ…あの男…絶対、探ってる…私を怪しんでいる……」
調理場へ足を運ぶなり、イレーヌはその場に座り込んだ。
座り込んだ、というよりは力無く崩れ落ちた、に近い。
顔はすっかり青ざめ、無意識に指先は震えていた。
「駄目、駄目……私の秘密…私の願い事が、ばれたらダメなのに…」
指先を這わせ、調理台を掴みながら何とかその場から立ち上がろうとする。
ゆっくりと静かに力を込め、血を巡らせなくてはと、深く呼吸を繰り返す。
「あとちょっとなのに…もう少しで、私の願い事が赤猫様に届こうとしているのに…」
髪を掻き乱し動揺するその姿は、錯乱状態と言っても可笑しくはないほどだった。
台に置かれてあった包丁を手に取るなり、傍らの食肉に奴当たるほどなのだから。
「私は…私は……私を守るためならば、もうなんだってする…!」
構えた包丁が竈の炎に照らされギラリと輝く。
と、雷鳴が遠く、山の向こうで轟いた。
それから間もなく。窓の外から雨音が聞こえてくる。
雨音は勢いよく、窓や屋根を叩き始める。
その中で彼女はもう一度、まな板上にあった肉へとその刃を突き立てた。
「もう…怖くはない…だって、私には赤猫様の幸運が付いているんだから…」
雨音が強まる雷雨の中。
突如、イグバーンの部屋を叩く音が聞こえてくる。
「―――どうかしましたか?」
彼が部屋のドアを開けると、そこには女将が立っていた。
「あの…先ほど貯蔵庫をお見せ出来ないと断ったことが申し訳なく思いまして…それで、せめて貯蔵してあるお酒を飲んでもらおうかと…」
彼女の言葉通り、その手には酒瓶とグラスが用意されていた。
「そんなわざわざ気を遣わずとも。けどまあ、折角ですからお言葉に甘えて飲ませていただきますかね」
そう言ってイグバーンは差し入れを受け取ろうとする。
が、しかし。何故か彼女は渡そうとはせず、ずずいっと部屋の中へ入ってきたのだ。
「それであの、良ければお酌させていただきたいのですが…」
「お酌? いやそれは流石に…」
「いえその…実を言うといつも夫にお酌していて彼が飲む様子を見るのが好きだったんです……ですが夫が亡くなってからお酌することもなくなり…久しぶりに、したいなと…」
女将はそう言うと「お恥ずかしい話ですが」と顔を俯かせる。
イグバーンは少しばかりの間を置いた後、笑みを浮かべて答えた。
「なるほど、わかりました」
笑顔のまま、イグバーンはテーブルの方へ女将を促す。
椅子へと腰掛ける彼の傍らで、女将は酒瓶の詮を抜き、テーブルに置いたグラスへとそれを注ぐ。
ゆっくりと、丁寧に注がれていくそれは、室内に芳醇な香を充満させていく。
「これはこの村の名産品でしたね。先ほども酒場で呑ませて貰いましたよ」
「そうなんですか? 中々強いお酒なのに…強い方なんですね…」
「いやそうでもありません。こう見えて酔いが回っていてさっさと寝ようと思ってたくらいですから」
そう話しながらイグバーンは酒が注がれたグラスを手に取った。
香りを楽しみ、それから一口飲む。
「良い熟成だ…が、酒場で飲んだものとはまた違った癖の強い味わいがありますね」
「ええ、そうですね。この酒は両親が試行錯誤の末、樽造りからこだわってたらしいので…」
「なるほど…」
イグバーンはそう返し、また一口飲んだ。
その後の二人は室内で他愛のない会話をした。
そこで聞き出せたことと言えば、最近ネコたちが宿に近寄ってくれないとか。唯一遊びに来てくれる老ネコの溺愛っぷりとか。最近疲れているのかたまに幻覚や幻聴が聞こえてしまうとか。そんなことを楽し気に話していた。
「―――っと…まだ話していたいところだったが…流石に…そろそろ限界のようです」
それから暫くと経った後。
イグバーンはおもむろにそう切り出すとふらつく足取りでベッドへと倒れ込んだ。
「すみません…話に花が咲いたせいで……」
ぐったりとうつ伏せ状態に寝てしまった彼へと慌てて駆け寄り、女将は心配そうに様子を伺う。
「お水をお持ちしましょうか」
「いえ、お構いなく。もう…寝かせていただきますんで…」
そう言って間もなく。彼は静かに寝息を立て始めた。
間違いなく、確実に寝た。
女将はそれを確認した後、静かに、しかしがむしゃらに部屋を飛び出て行った。
「やっと寝た…やっと…!」
彼女が思わずそう漏らすのも無理はない。
一杯だけで終わると思いきや、彼が泥酔してくれるまでボトル一本まるまる注ぎ続けたのだから。
女将は急ぎながらも慎重に。足音を消しながら、調理場へと駆けていく。
呼吸を荒くさせながら、彼女はまな板の上に置かれたままであった包丁を手に取った。
即座に折り返し、向かう先は一階最奥の―――イグバーンが眠りこけている部屋。
雨風が激しく降り続く中。彼女は更に慎重に慎重を重ね、静かに部屋の扉を開けた。
そうして、寝息を立て眠る彼の傍へと、静かに歩み寄る。
「貴方が…悪いのよ…色々と聞いてくるから……疑ってるような素振りをせるから…そう、そうよ…貴方は運が悪かったの…!」
ポツリと、思わず漏れ出た独り言。
彼女はそれから静かに息を呑みこみ、意を決し、寝ている男の背中目掛けて包丁を突き立てた。
―――はずだった。
「旦那が居なくなったからって、流石にそれは苛烈過ぎやしませんかね…女将さん」
突き立てた刃はベッドへと深く刺さり、裂けた布団からは羽毛が飛び出し、宙を舞う。
女将は驚きを隠せず。目を見開いたままベッドの傍らへと振り向く。
そこには女将からの一撃を寸でで避けたイグバーンが、平然とした顔で立っていた。
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