猫噛むケモノ

   








「私が…天使を…?」

「恍ける必要はねえよ。こっちの方は確定済みだ」


 顔面蒼白する女将。すっかりと腰が抜けているその様に抵抗の余裕はなく。

 イグバーンは即座にそんな彼女の捕獲に動く。

 が、しかし。

 彼が動くよりも先に、女将は突然その場から勢いよく飛び出した。


「い、イヤ…!!」


 自分自身でも驚いている彼女はそのまま、なりふり構わずといった様子で部屋から逃げ出していった。

 転がるように、がむしゃらに。本能のままに。


「まさか…」


 顔を顰め呟くイグバーン。一手遅れてしまったのは酔いのせいか。などと責任転嫁している暇はなかった。

 逃げ出した彼女の向かう先には心当たりがあった。

 彼は急ぎ後を追いかけ、部屋を出る。

 廊下の先では、女将が無我夢中で階段を上がっていた。

 

「助けて…助けて…!」


 必死に逃げるその様はまるでどちらが悪者か解らない程。

 だが構わずイグバーンは女将を追いかけつつ、その懐に手を掛ける。

 女将は何故、二階を目指しているのか。その推測はついている。

 女将は何故、見晴らしが良いはずの二階の部屋をイグバーンに案内しなかったのか。もう夜だったから。適当だったから。そのどれでもなく。

 答えはもっと単純なことだ。





「―――どうしたんですか、イレーヌさん…?」

 

 二階を上った先。奥の部屋の扉から、おもむろに顔を出したのは例の青年だった。

 噂されていた、端正な顔立ちの若い男。

 その片手と片足は包帯で分厚く巻かれており、そんな彼の傍らには何故か老ネコらしき姿もあった。

 外の雷雨から逃れようと入ってきたのか、青年が保護してあげたのか。意外な組み合わせではあったが、好都合だと、不意に彼女は思った。


「カイル!」


 縋るような声で青年の部屋前まで駆け寄る女将。


「助け―――」


 助けを求めようと伸ばした彼女の手には、しっかりと包丁が握られていた。

 先ほどイグバーンを刺そうとしたその凶器は逃げ出す際、布団から引き抜いて持ってきていたのだ。それも無意識のうちに。

 何せ青年以上に驚き、目を丸くさせていたのは女将自身だったのだから。


「イレーヌさん…それ、は…?」

「ち、違うの! これは…その…」


 都合の良い言い訳も浮かばず、女将は言葉を濁すことしか出来ない。

 仮に客の男に襲われそうになって。と言ったとしても、彼女の罪が明るみに出てしまっては青年も流石に味方などするとは思えない。


「カイル…お願い…!」


 と、それまで大人しそうにしていた傍らの老ネコが突如、女将目掛けてその肩口へと飛び乗る。

 いつものように甘えた様子で擦り寄ってみせる。そんな老ネコの首根っこを彼女は掴んで叫んだ。


「私と一緒に逃げて!」


 持っていたその包丁を老ネコへと向けながら。


「は…?」


 心の底から出てきた困惑、といったような声を洩らす青年。

 状況が飲めず、動揺を隠せずにいる青年に向かって、女将は掴んでいるネコへと包丁を突き付けた。


「天使がバレたの! 貴方だって天使なんでしょ? 逃げなきゃ捕まるわ!」

「えっと…どういう、ことですか、イレーヌさん……」

「一緒に逃げてくれないなら貴方が可愛がってたこのネコを殺す! とにかく私を信じて!」





 唐突なことで青年は理解などしてくれないだろう。彼が天使かどうかも一か八かであり、そもそも流石にネコのために青年が言うことを聞いてくれるとは、彼女も思ってはない。

 彼女の目的は一瞬だけの隙き。

 理由はどうあれ、彼の傍へと近付ければ良いのだ。

 そうして、指先一本だけでも貰えればそれで良いのだ。

 それをこのネコにさえ捧げれば―――これで供物は丁度100回目になる。彼女が望んだ幸運はもう目前なのだから。





「ねえお願い私の幸福のためにも信じて! それにこのままだと貴方も大変なことになる。それを私が匿ってあげたじゃない。世話もした。このままだとネコだって可哀想なことになるわ。ねえ、だから…お願い……!」


 その様は最早正常な状態とは言えなかった。

 気が動転していると言うよりも、まるで何かに憑りつかれたかのような姿であった。

 そんな彼女の鬼気迫る様子に、焦点の定まらない双眸に、青年も流石に眉を顰める。

 彼はゆっくりと後退り室内へと逃げていくが、女将もまた必死な形相で青年へと迫っていく。


「イレーヌさん…僕は……」


 鼻先にまで刃物を突き付けられているというのに、知らぬ顔をして低い声で鳴くネコ。

 向けられる女将とネコの眼差し。

 徐々に追い詰められていく青年は、戸惑い始め、呼吸をする余裕すらなくなっていく。

 彼は静かに、その包帯に巻かれた腕を握り締めた。






「―――人質ならぬネコ質ってか? 赤猫信仰の住民とは思えん発想だな…!」


 一方でイグバーンは二階への階段を上り、その間の踊り場まで駆けつけていた。

 青年へ迫る女将へ、彼は懐から取り出した銃を構える。

 が、彼女目掛け撃とうにも階段の段差や手摺が邪魔となり、上手く狙えそうにない。

 そうしている間にも、刻一刻と、二階が緊迫した状況に陥っていることは明白だった。

 イグバーンは顔を顰め、舌打ちを洩らした。

 

「―――迷うなっ!!」


 大きな怒声を張り上げるイグバーン。

 次の瞬間。宿内に銃声が一発。雷雨に紛れ、轟く。

 驚愕した顔を見せる女将。


「……え…?」


 彼女は手にしていたはずの包丁を落とす。それは地面へ突き刺さった。

 そして、轟いた銃声―――放たれた銃撃は、彼女が掴み上げていた老ネコに直撃していた。

 対峙する女将の先。

 いつもとは違い緩く巻かれた包帯の隙間、そこから覗く銃口からは静かに煙が立ち上る。

 そこにあったのは銃を握り締めていた青年の、人間の手だった。


「すみませんイレーヌさん……俺は…本当はネコ、あまり好きじゃないんです」


 そう言い放った青年は先ほどまでの戸惑っていた様子とは打って変わり、氷のように冷酷な双眸で女将を見つめていた。

 

 







     

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