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有池 アズマ

第1話

 一目見て、「ものすごく真面目なのだろう」とわかる出で立ちで、男は席についた。会釈してくるものの、それすら硬い。彼という人物を形で表現したかのような金属製の名刺入れから、一枚が取り出され、差し出された。

「初めまして。この度、田山様専属のアドバイザーを務めます、一木涼と申します。これからどうぞよろしくお願い致します」

「お、お願いします……」

 一木は全く以て、見た目通りの男であった。190cmを超える長身はオーダーメイドのスリーピーススーツのシルエットを美しく引き立てるため適度に鍛え上げられており、キリリと硬い表情は冷たさや熱意よりもどこか威圧感を与えてくる。ワックスでしっかりと撫でつけられた短髪は僅かな乱れもなく、程よいバリトンは声量に関わらず良く通る。


 ああー……やっぱり僕にはまともに働くなんて無理なのかなあ。


 田山は内心で泣き顔を晒していた。

「田山様、それでは早速、この度弊社のアドバイザー経由でのご就職につきまして、差し支えない範囲で動機や志望など、伺わせてください」

「あの、一つお訊ねしたいんですけれど」

「はい」

「五十もとっくに過ぎての就活って、やっぱり、その……珍しい……ですかね?」

「そうですね。フリーターから正社員を目指されるとのことで、傾向としては珍しいでしょう。なにせ、ほとんど諦めてしまう方が多いので」

 事前にネット申込した際の書類のコピーを見ながら、一木は一貫した無表情で返した。

「何か将来のことをお考えになったとかですか」

「まあ、そんなところ……です」

 歯切れの悪い言い返しで田山は苦笑いする。時折視線がチラチラと泳ぐが、その一方では一木と会話する方に集中したい様子も見受けられる。これに対し、一木は良くも悪くも率直だった。

「あの、オフィス内に虫が飛んでいますか?」

「……」

 田山は完全に俯いて閉口してしまった。一木のどこまでもまっすぐな視線は大抵の場合、対人関係においては「威圧」を与えることになる。ここでもその例に漏れなかったというだけのことではあったものの、一木自身も思うところがあったらしく、ほとんど調子は変わらないままだがまた質問をした。

「失礼しました。不愛想な顔をしている自覚はあるのですが、あまり怖がらないでください。それと……やはり、虫が飛んでいますか?」

「虫……では、ないけれど。少し、困ったな。僕は真剣に相談したかったのに……」

「どうされましたか?」

「あの、アドバイザーさん。僕の話は一旦後回しにしても良いですか? 気になって仕方がないんだ」

「?」

 田山が何を伝えんとしているのか、話し始めたいのか、一木にはちっとも見当がつかない。

「構いませんが……」

「そうしたら、大変失礼だけれどね、いまからあなたにデコピンをします。ちゃんとした理由はもちろんあるけれど、しばらくは理由を聞かずに待ってほしいな」

「?」

「はい失礼」

 オールバックの一木の額にスッと伸びる田山の指。宣言通り、一撃がお見舞いされた。ブースの突き当りまでキャスター付きの椅子ごと吹き飛ぶ一木の身体。

「……!?」

額には何の痕も残っていないし、一木本人の感覚としてもとんでもない痛みなどはまったく無い。むしろ何も感じなかったほどに軽く指が触れた程度だ。

「ちょっと身体の調子をみてください。軽くなったんじゃない?」

「……」

 一木は非常に真面目な男なので、まずは重い腕時計をした左手からプラプラ揺らした。それからゆっくり椅子から立ち上がり、肩をグリングリンと回す。

「どうですか」

「非常に爽快です」

「それは良かった。まあ、信じられないと思いますけれど、僕はこういう、少し不思議な力が使えます。そのせいでこんな歳まで定職に就けずフリーターをやってたってことです」

「私に何を?」

「最近、お疲れ気味だったでしょう。アドバイザーさんは見るからに真面目な方なので整体とか病院とか行かれたと思うんですが、治りませんでしたよね。腰と肩なんてねえ、そりゃまずは整体に病院ですよ」

 田山の優しい微笑みに一木は状況を読み取るべく必死である。必死になればなるほど顔付きが真剣になってゆくため眉間のシワが深くなる。考え込んでいるとわからなければとてつもなく不機嫌なように見える。

「デコピンで肩と腰が治るはずはない……患部に触れずに不調を改善……」

 それから田山の略歴の書かれたシートをペラリと見て、

「田山様、副業で整体師などは」

「やってません……あの、確かに身体的に問題が出るレベルだったので治ったんだと感じるだろうけれど、アドバイザーさんに悪さしていたのは心霊現象です。なので追い払っておきました。モテるんだねえ。自覚はないんだろうけれど、同僚の方のようでしたよ」

 急に居心地が悪くなったのだろう。田山はいそいそと立ち上がって苦笑混じりの会釈をした。

「それじゃ……」

「お待ちください」

 さっさと帰ろうとする田山を引き止め、一木は真剣に聞きこむ。それも、業務の一環として。

「よろしければ詳しく説明してくださいませんか。ご就職のアドバイスができるかもしれませんので」

「ええ……」

 田山は驚愕して一歩退いた。只者ではないオーラ(というより、ほぼ顔圧)は出会ってすぐに感じていたが、あまりに一般的ではない行動を起こされ、田山の方が挙動不審になってしまう。

「で、でも、信じないでしょう。オバケの話ですよ? それも、五十路のおじさんが真剣に話す……」

「私は事実を信じます。田山様はいま、私の身に不思議な現象を起こしました。紛れもない私の身に起こったことです。私は真剣に、お話伺うつもりですよ」

「……」

 折れた、や、根負けした、よりも、毒気を抜かれた、という表現が正しいだろう。田山はおそるおそる席に戻ると、絞り出すように話し始めた。

「普通は、怖がるか気味悪がるか信じないか、そんな感じですよ。それに嘘だってついてる。田山は偽名なんです。オバケから身を護るための」

「そうなんですか」

「……なるようにしかならないか……。僕ね、生まれついてからだったもんで、少々難儀な生活をしてきました。半世紀生きてきてようやく慣れたけれど、生きてる人間と死んでる人間の区別が付けづらいんです。どこに行っても視てしまうし、少しでもそういうのがわかるひとからはすごく敬遠されてしまう。学もないし職歴もないので、派遣を転々とするしかなくってね」

 かなりかいつまんではあるようだが「田山」は正直に事情を伝える。

「なるほど、そうだったのですね」

「え……どうして、メモ取るの……」

「え?」

「え?」

 一木がウンウンと頷きながらメモを取ったのを見て、「田山」の方が訝しげにし始める。一木はまたキュッと眉根を寄せてしまった。

「ひょっとして、ご冗談を?」

「まさか! 今更そんなことしないよ」

「ですよね。私もここで働いて八年、少しはひとを見る目がついてきたと自負しています。田山様はお名前以外の何一つを偽ってはおられません。真面目に悩んで私に依頼をしてくださっています。私にはわかります。ですので、いまの田山様のお話は、田山様のキャリアについてアドバイスする際には必ず重要になると考えております」

 「田山」は呆れも困惑もせず、一木がこういう人間であることを噛みしめ、また、そういった人物と知り合えたことに感動して泣きそうになるのだけはなんとか抑えて「そうですか」と零した。

「本当に、真剣ですねえ。なんだか報われた気分だ。ああでも、それ以上の話は特にありません。今回おたくを頼ったのも、もしこんな僕でもきちんと席を置いてもらえる働き口があったら良いなと、思い立ったからって、それだけ」

「充分です、かしこまりました。そうしましたら……失礼ながら私はそういった界隈については詳しくありませんのでお訊ねしたいのですが、そういった職というのはないのでしょうか? 弊社では取り扱いのない業種だったりするのかも……」

 早速事務的になってきた一木の姿勢をワーカホリックと断定するにはまだ早いかもしれない。

「なくはないですよ。駅中で占いやってるひとたちの中には僕みたく天然物の力があるひともいるし。ただ僕は他人様の運命に賭けられるほど高尚な存在ではないので、そういったお仕事はできません」

「占いをするにも資格が必要なのですか」

「いやいや、看板出すのには必要ありません。でもやるからには本気でやらなくてはなりませんから。他人の人生の行く先を握るのだから、自分もそれだけのものを差し出さねばならない。僕にはそんな勇気がないってだけです」

 一木が理解できないことを前提に、「田山」は話を続ける。

「あとは、そうですねえ。神職やら仏門にも向かないでしょう。僕は偉いわけでもなんでもないから、誰かに何かを説くなんてできません」

「なるほど。資格試験の予定もなし、と」

「かといって、他人様にいきなり『あなた呪われてますよ』なんて言えるはずないじゃありませんか。それこそ奇人扱いです。それもちょっと、嫌ですし」

「不審者扱いの上、無実の投獄……フィクションじみていますがありえなくはないですね」

 ブースの外に声が漏れることはないが、ブース近辺を通りがかる社員たちはなかなか面談の終わらない一木のブースを見ては「一木のヤツ、随分と面倒な客に捕まったらしいぜ」とヒソヒソ話している。

 「田山」には、悲しいかな彼ら全員が何かしらに「目」を付けられてしまっているのがわかる。わかってしまう。ドンヨリと暗い雰囲気の漂う場所だと感じてはいたが、オフィス全体からしてそんな場所であることは、入ってみるまではわからなかった。それを感じ取った途端、急激に気分は悪くなる。


 折角ここまで付き合ってもらって悪いけど、早く出たいなあ。


「となると……現状、田山様の技術を活用した職種は」

「ないねえ。それと……申し訳ない、ここはどうにもそろそろ限界だ。また連絡をしても、いいですか」

「? もちろんです。初めにお渡しした名刺に私の直通番号がありますので、是非そちらに。私からお掛けすることも今後はございますので、どうぞご登録をお願い致します」

「ありがとう」

 くたびれた笑顔で、「田山」はブースを後にした。結局、本名を名乗りはしなかった。

「あの」

「はい?」

 一木はなんであれ真面目な男だった。

「私はとにかく全力でサポート致します」

「……ありがとう」



 すっきりと軽い身体を以てすれば、連日押し込められる満員電車とて大したストレスにはならない。改めて今日の出来事を振り返ると不思議で仕方なかった。


 幽霊とかよくわからないが……なんとかあのお客様の希望をかなえて差し上げなくては。


 一木は自他ともに認めるワーカホリックであった。職場に在れば常に仕事のことを考え、効率化や品質向上について頭を巡らせる。ラッシュアワーに在れば踏みしめられる足の痛みから集中力を逸らすために業務の振り返りをする。そして自宅に在れば、古さ故の家鳴りの騒々しさから安眠を勝ち取るためにビジネス書を読み漁る。


 幽霊……子供のお伽噺とか、信じてるひとだってきっと道楽としてだろう。だけど……お客様は真剣に悩んでおられた。アンケートシートを見ただけでもわかる。本気で就職がしたいんだ。


 一木の頭はデータベースに匹敵する。ありとあらゆる求人が寄せられるもののほとんどが入っている。


 交通整備……いや、生きている人間と死んでいる人間の区別が付けづらいのだったか。接客販売も難しいだろう。資格試験の必要な職種も限られてくる。


 様々な求人情報が頭の中で回転式ワードローブのようにぐるぐる回る。一木は回転式ワードローブを見たことはなかったが、求人票がハンガーにかけられているさまはそう表すのが最も適していた。


 データ入力タイプの事務職……できるだけ対人業務の少ないもの……


 仕事のことを考えていれば気が逸れる。普段ならそうだったのだが――


 ベキベキベキ!!


「……」

 いくら築年数が経過しているとはいえ、鉄筋コンクリートのアパートからこのような音がすることは異常だろう。ましてや一木以外の住人のいないこの家でのことならば尚更。

 これらの音に意識が向いてしまったとき、一木は今度は集中して貯蓄を確かめ始める。分散させた銀行の定額預金から貯金箱の中身まですべてチェックするのだ。これは、いつかかなえたい夢である「起業」を現実のものとするための元手である。既に、ある程度の規模の会社を設立させるには充分なだけの額が揃っている。ひとえに一木が無欲且つ無趣味のワーカホリックだからこそ達成できる額だ。ほんのわずかに手を付けるだけで、もっとまともな場所へ引っ越すことくらい容易だろう。一木が、悩んだ末に結局仕事の内容へと思考を戻すのは、彼がともすれば頑固なほどに真面目だからであった。

 ふと、学生時代の思い出が過ぎる。どのサークルにも所属を決めあぐねていた一年次の春、「タダメシ」の文言に連れられて行った珍妙な文化系サークルの新入生歓迎会の会食の場で、顔もろくに思い出せないような上級生がしきりに語り掛けてきていた内容。ほとんど聞き流していたも同然だが、真面目な一木はなんだかんだと話を聞いていた。

「僕ァね、視えないけどもね、信じるんだよ。この世にはまだまだ、オカルトもスピリチュアルもたっぷりわんさかあふれかえるほど存在してる! その中で最も身近なのって、何だと思うゥ? ハハン、わからんよなァ~きみ、見るからに興味なさそうだしィ。いいっていいって、ひとには温度差ってモンがあった方が、面白いよ! あ、そうそう本題ね。あのね、きみィ、ポルターガイストって、知ってるゥ?」

 一木はその話を聞くだけ聞いた。聞いただけで、信じたとか信じないはまったくの別問題だった。

 いま、その話を聞いたという経験だけが一木を行動させている。今日ばかりの「田山」の携帯番号を入力し、スピーカーホンにして、かける。5、6コール後にようやくつながった。

『……もしもし』

「田山様、こんばんは。夜分にすみません。アドバイザーの一木です」

『ああうん……そうだね』

「聞こえておいででしょうか?」

 「田山」の声はどうにも引け腰だ。その理由は、一木の想像可能な範疇を超えて返ってきた。

『聞こえてるって、何が? きみの声? とんでもない家鳴り? それとも、きみの後ろからずうっと何かをブツブツ言ってる女のひとの声?』

 一木に聞こえているのは、「田山」の答えを引用するならば自分の声と家鳴りだけだ。指摘を受けたところで女の声など一つも聞こえてこない。

「あの……」

『わかってるよ、きみには聞こえてるはずないよね。でも、家鳴りがいい加減に気になるって範疇の度を超してきて、咄嗟に僕が思い浮かんだ。きみは僕を疑わなかった上に頼ってくれるんだ。嬉しいよ』

「ああ……光栄です。ありがとうございます」

 なんだか「田山」との距離感がぐっと縮んだように感じて、一木はこんな状況にありながら誇らしかった。

『僕も、きみの信用に応えなくちゃ。常世もまだ捨てたもんじゃないね』

「ええと?」

『県内ですね、そう遠くない。向かうよ。きみは僕からもう一度電話を受けるまで、その部屋を出ないでいてください』

「田山様?」

『僕は必ず電話をかけます。いいかい、チャイムは鳴らしません。扉も叩きません。もちろん、窓に小石を当てたりもしない。これだけ覚えておいてください。それじゃ』

 一木が詳細を聞こうとする前に電話は切れた。直後、家鳴りは過去一番の音量を立てる。まるで「田山」の来訪を拒もうとするようなタイミングだった。

「……本当に?」

 そこで一木はようやく、先程から自分が疑問符ばかりを浮かべていることに気が付く。気が付いてみると、天井から何かがズリズリと這う音にも気付く。それに気付くと今度は食器棚の戸が勝手に開いたことにも気が付いた。グラスがひとりでに揺れ、立て続けに落下する。リモコンを踏んでいるわけでもないのにテレビが明滅し、本棚からも物が落ちる。リビングの、つい先日LED照明に取り換えたばかりの照明も激しく明滅している。

「!」

 原因不明のそれらに混乱したまま十分が経過し、二十分が経過した頃、ドアホンが鳴った。奇妙な音割れを起こしている。カメラがついていない古いタイプのものだがこんな音で鳴ったことはなかった。

『おおい、一木。ちょっといいか、俺だよ俺』

 詐欺の代名詞のように呼び掛けてくる同僚の声。一木はこれまでこの家に業者以外の他人を上げたことはない。同僚たちはそもそも、この家に住んでいることを知ると気味悪がってしまうことの方が多かった。何があっても来訪などしないだろう。

「……」

『一木~、おおい、開けてくれよ。仕事の話がしたいんだ』

 チャイムはしつこく鳴らされている。連打しているのだろう、割れた音が重なり合っていて、汚い。そのうちに拳を扉に叩きつけるような鈍く激しい音に変わってきた。

『なあ、おい! いるんだろ! おい! 一木! なあ! いるんだろう!? 開けろよ、開けろって! 中に入れろよ! 話があるんだよ!』

 カーテンを閉めた窓に小石の当たる音がする。爪で引っ掻くような音もしてきた。

「電話、を」

 異常事態に陥り急激に不安感が襲ってくる。握りしめた電話はまだ鳴らない。部屋全体がギシギシ、メキメキと音を立て始めた。

「電話を、待たなくては」

 壁掛け時計を見たが、針は子供に弄ばれるようにぐるぐる回っているだけでとても役に立ちそうにない。

「電話を……」

 どれほど電話を待ったのかもわからない。玄関も窓もいまにも破られてしまいそうに激しい音を立てている。

 電話は不意に鳴った。

『……えらいね。本当に待っていてくれたのは、きみが初めてです』

「あ……」

『いまから、僕が声をかけます。でも、いいかい。くりかえすものの他は、たとえ僕の声でも応えないでね』

 切れた電話を見つめていると、玄関からの声も窓からの声もふっつりと止んだ。

 そして、「田山」の声で、

「おおい」

「……」

 呆気に取られた一木は酸素の足りていない金魚が如く口をはくはく、動かすだけだ。

「おおい」

「……」

「おおい」

「……」

 「くりかえすもの」が何なのかはわからない。一木には自我らしい自我はほとんど残っていない。

「おおい」

「おおい」

「きみ」

「ねえ」

「僕だよ」

 

違う。


良くも悪くもワーカホリックな一木には、初対面の人間の声を覚えることなど造作も無い。それ故に、「くりかえすもの」が結局理解できなくとも、「田山」の忠告通りに動くことができたのだった。

「おおい」

「おおい」

「ねえ」

「もしもし」

「ッ、はい!」

 しばらくの静寂の後、盛大な舌打ちが響いた。電話が鳴る。

『もう大丈夫。ガラスとか、気を付けて。玄関開けてもらえますか』

「はい……」

 見回してみると、部屋の中は大地震に見舞われたかのような惨状だった。「田山」の言う通り足元に注意しつつ、玄関扉を開ける。くたびれた着物姿の「田山」が立っていた。

「え」

「ここ……すぐにでも引っ越すか、ああ、きみさえ良ければだけれど、大家とか管理会社に文句言った方が良いと思うよ。事故物件ってヤツだからね。わかるかな? 以前何かしらのトラブルがあった物件ってことなんだけれど」

 一木は「田山」の話より、田山の風貌について「雰囲気が変わるのだなあ」としか思い浮かばない。

「オフィスで軽くあしらったけれど、家に本体がいたんだね。それにしてもよく我慢しましたね、えらいよ。いや……というか、すごいね、逆に」

 下駄のまま上がり込む「田山」。ガラスやその他、床に散らばったものたちに気を払い、大判カレンダーのかかった壁に手を当てた。

「そこは……」

 カレンダーの位置が不自然なわけではなかった。

一木は意図的にここへカレンダーを、それも、大判のものをかけるようにしていた。新卒で入社してから八年、ここに暮している。目をつぶっていられるにも限度があった。

「どう、して」

「僕が、来たので。あの……本当にごめん。大家への言い訳は適当に考えてもらえますか」

「え?」

 カレンダーの裏の壁は、何度壁紙を張り替えても染みてくる茶色いシミのある箇所だった。ただ、カレンダーさえかけてあれば、それは見えない大きさだった。

 しかし、どうだろう。「田山」が触れると泥水が流れ出したかのように壁のシミが広がった。「田山」はそこに向かって、どこから持ってきたやらシャベルを叩きつけた。

「賃貸……」

「うーん、でも、これは大家か管理会社が悪いよ」

 一般的には「田山」の言うことが正しい。壁の中から白骨死体が出てくるような物件は、誰がどのように考えても貸与すべきではない。

「このひとがいて、更にきみが会社で随分とモテるので、このひとと会社のひとの生霊さん、そこに引っ張られたいろんなヤツが、ここを寄る辺にしていたようで。家鳴り……すごかったんじゃ、ありませんか」

「ここ……会社の、管理物件で」

「へ」

「社宅制度の……適用物件、で。社宅制度……私しか使って、なくて。皆何故か使わないんです。てっきりここが古いから、だと……」

「……」



 五日後の一木は、自分の人生において初めての無職状態にあった。物件の管理から話が飛躍し、わずかに五日間で会社は倒産に追い込まれた。そんなことがあってたまるかと言いたくなるような、センセーショナルなニュースだ。

「大変スね」

「ええ、まさか脱税とは。そして私の口座には大量の未払い給がやってくるというわけになります」

「労働には等しい対価を! オレらはお兄さんの大切な荷物を大切にお預かりします。つーわけでここにサインやね」

「はい」

 引越業者の青年は快活に笑うと急に真面目な顔になって訊ねた。

「ぶっちゃけ……ここホンマに死体入っててん」

「はい」

「先輩! 後輩! はよ行こ! はよ! はよせな! あー差し入れとかホンマに大丈夫なんで! ご利用ありがとございますー!」

 一木の差し出したペットボトルを丁重に断り、業者は逃げるようにトラックを出した。残された一木は背後の人物に水を渡す。

「ああ、ありがとう……」

「私は所謂ブラック企業という職場環境において就労していたようです。世間で弊社がそのように言われていることで知りました」

「そこそこの大企業だったけれどね」

「構いません。おかげで私はようやく夢を実現できそうです。その方の了承さえ得られれば、ですが」

「? そうなんだ」

 すっかり陰気の抜けたアパートを見上げる「田山」の前に、一木が差し出すタブレットの画面が光る。書面らしき形式の取られた画面だ。

「私、いつか起業してみたいと思っておりました。しかし何の事業を興すのかと問われれば困ってしまう。起業の心得はありますが、取扱う事業ははっきりしない……要するに、私自身がやりたいことはわからないままだったのです。私にできることを考えてみても、事業主というより秘書の方が向いていました」

「なるほど」

 「田山」は今日、「アパートから出て行くことになったのでまた異常事態が起こらないか立ち会ってほしい」と頼まれたのでやってきていた。何事もなく引越し作業が終了したので帰ろうとしていたところで、このように引き止められている。

「家鳴りがなくなり、静かなビジネスホテルで過ごすうちに思いついたのです。私が、アドバイザーとしてできる最後の業務」

「はあ」

「つきましては、田山様。こちらのタブレットに本名でサインを。小さいですがオフィスを借りました。あなたはそちらの社長となります」

 「田山」の手からペットボトルが滑り落ちる。一木はタブレットの画面をPDFの書面からオンライン口座の一つの預金額画面に変更してもう一度「田山」に差し出した。

「大丈夫、元手はあります。本当に良かった。とても良かった。田山様は就業できますし、私も夢をカタチにできる。失業手当なども入ってきますし……ブラック様様です」

 初めて見る一木の笑顔の何と晴れやかなこと。自分は常識ある異常者だと思っていた「田山」は混乱と困惑のせいで見当はずれな質問しかできなかった。

「これ……指で書けるヤツ?」




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