第3話

 事故る瞬間って、マジでエグいくらい脳ミソ回る。一気にいろんなこと考え付く。思い出せるだけでも相当だ。やべ避けらんねー、会社に連絡とか無理だわ、実家帰りてー、これチャリ大破じゃね?、海行きたかったなー、できたらちょっと入院くらいで済みてーわ、家賃……?、保険入っててよかったー!、つーかこんな細ェ道ブッ飛ばしすぎだろテメー、なんで?

 そう! これ。「なんで?」

 いやだから「事故」っつーんだわ。



「万バズいってんじゃん、エグ」

 SNSってマジですぐにバズっちゃうんだなーと思いつつ、通知オフの上機内モード。ギガ死を避けるためだ、フォロワーよすまん。

 てなわけで、あたしの直近の悩みは最悪の形で解決した。いまのクソブラック企業から脱出したくて転活、その道すがら八十キロはゆうに超えたアホカーに撥ねられたら、人生初の入院沙汰にもなるってモンで。

「あれ珍しい、昼間に起きてる」

「いま起きたとこ。二度寝しようと思ってた」

「そーだよォ存分に寝な! 家と違っていくら寝ても誰も怒らんよ」

「イビキでっかくないかな。それだけ心配だわ」

 カーテンで仕切られただけの近隣ベッドからクスクスと押し殺した笑いが漏れている。どうも、あたしたち親子の会話はそれほど面白いらしい。全然、自覚はないけど。

「今日もパパが心配だ心配だってうるさいから、来ちゃった」

「来てても寝るぜあたしゃァ」

「それでこそウチの子だ」

「池之下家は一人娘でしょうがつまりあたししか体現者いねーでしょうが」

「どこでも寝れるっつー特技はパパ譲り。九割の内の一つだね! ……残りの一割にでも、『タフ』を入れておけて、ホントよかったよ」

 軽口叩こうが娘が事故りゃ心配なのがヒトの親。ママはわざわざ毎日面会に来ては、こうしてちょっとシンミリした雰囲気にしていく。当然っちゃ当然だけど、あたしも二十三の立派な大人なんだから、ちょっとくらいほっといたって平気なんだけどなあ。とか言いつつ突っぱねる理由もないし、ちょっと喋るだけなら嫌気はささない。そもそも、二十二年間毎日喋ってきた家族相手に嫌気なんてそんなに、ズンヨリは、しない。

「会社辞めるにも悪くないタイミングだったんじゃない? しかしドライバーあいつはだめだ」

「法律で正しく殴れる相手は殴っとくモンだよねえ。大丈夫、すぐにゴールドのズッシリ入ったズタ袋にしか見えなくなる日がくる」

「いやおカネの表現古いなアンタ何年生まれだよ」

「レトロと言ってほしいね! 今年が二十四になる年だよ」

 新卒カードの貴重な一枚を、あたしはゴミカスのようなブラック企業に使ってしまった。入社前研修でメンタルを病む同期が続出し、入社一か月が過ぎる頃には同期の残機は三分の一に減少。三ヵ月、四か月、五か月と着々と数は減り続け、半年が過ぎるとともに異動転勤ラッシュが始まった。転勤の辞令が下りてから実際に飛ぶまでに与えられるのはたったの二週間。普通にヤバい。それでもまだマシな方で、唯一の良心だった先輩は三日の猶予しか与えられずに日本の東部から西部までビューンと飛んだ。上司とお局からの圧力なんて日常茶飯事で、残業も当然のように法を破っている。極め付けのように、薄給。

 なんでそんな会社に一年もちゃんと残っていたのかというと、質を握られてしまっていたからだ。入社前の「祝い金」――これは、一年以内に退職すると、向こうから勝手に与えてきたくせして取り上げられてしまう。その額が数千円などと生温いわけもなく、ほぼほぼ手取りと変わらぬ額面を恐怖し、我々新卒は耐えねばならなかった。初任地も全国に散るため、親に相談し易い環境の子の方が少ない。新卒たちは「身銭を切ってでも早々に逃げ出す派」か「一年間耐え忍びつつ転職先を探し求める派」か「絶望に心を無として諦めて働く派」の三択を迫られる羽目になるのだった。

 あたしはこのように、基本的には前向き思考の楽天家なので、「一年くらい余裕じゃ!」と高を括っていた。で、必死に転職活動を始め、軌道に乗ってきたいま、こーんなことになっちゃってるわけだな。

「とと、いかんいかん。今日パパ遅いんだった……帰ってマーちゃんのごはんにしなきゃね」

「もうすぐ退院だし、マーちゃんにもよろしく言っといてね」

「たぶん、楽しみにしてるよ。仕事もすぐ見つかるさね! 大丈夫大丈夫。なんてったってウチの子、最強なんだから。それじゃお大事にねン」

「ありがとー」

 マーちゃん……実家の愛犬だ。一年弱会えなかったけど、こんな形で再会することとなるとは。

「……」

 笑顔で手を振って見送った。

 限界だ。

「……グスッ」

 ホントに申し訳が立たない。両親ともすごく頑張って働いてあたしを良い大学に出してくれた。それなのに就活ミスった挙句、病院沙汰……二人が心配してくれる以上に、あたしは、心から申し訳ない。一人娘がこの体たらくじゃ、自分らの将来が心配でしょうがないだろうに、そんなことちっとも口にしない。だからあたしもイキッちゃって、ベソなんてかけないけど、一人になりゃあ話は別だ。

 つらい……マジ限界。

 世間にあふれかえった「しんどい」の言葉に埋もれてくあたしのちっぽけな「しんどい」。変えられない現状も、ジタバタできない身体も、不安しかない心境も、大したことないのかもしれないけど、前向き楽観箱入り娘のあたしにはあんまり慣れないモンだから、他人様のそれよりも重たく感じてしまうのよ。

「ウエェ~ン……」

 わざとらしい泣き真似をしてみせて、自分を落ち着かせる。バイト時代からの慣れで、接客業が長いと人格っつーか、感情っつーか、ペルソナというヤツの切り替え・使い分けが上手くなっちゃうモンなのだ。

「……サイト登録しよ」

 この切り替えの早さ、最早俳優よ。いやいっそ俳優目指すか? ナハハ! アホくさ! さっさと事務とか販売とか営業で応募出しちゃお。

 あ、そういや大手のとこが潰れたんだったか。でも転職サイトなんていくらでもあるしね。



「……本当についてこなくても良かったのに」

「社長の御母堂ですから」

「ごぼ……どこでそんなの見聞するの」

 半世紀生きた身でようやく知り得る語彙だ。一木は丁寧が過剰になると古めかしい口振りになることが多々あった。

「大体ねえ、きみのよく通る声で僕を『社長』と呼ぶのはおやめなさいね。何のために俗称を教えたと思ってるの。目立たないためだよ」

「……トシさん」

「そうそう。よろしくよ本当」

 初めの頃よりかは随分と打ち解けた様子ではあるが、一木の純粋な生真面目ぶりに対してトシが慣れたというのが正しいだろう。そして一木は真面目さ故に、数日経過したいまでも慣れない。

「やはり難があるのでは? 本名とあまり掠ってないじゃないですか」

「難があるのはきみだよ。僕は半世紀これでやってきてるんだよ」

 エレベータは病棟へと二人を送り届けた。面会予約票に「田山 敏」と記名するトシ。当然、偽名である。一木は非常に困惑した表情(とてもわかりづらいが)を浮かべてはいたものの、その下にきっちり、「一木 涼」と書き込んだ。

「いいのいいの。本人確認が必要とか、そういう、行政的なヤツは本名使うから。ね。そういうところの他ではそもそも掠りもしないような名前使わないとダメなんだよって、説明したでしょ」

「俺には無縁なものですから……」

「怪談とか映画観たりとか、しないんだっけ」

「ええ、ほぼありません」

 トシにも少しずつ一木の硬い表情のわずかな変化がわかるようになってきて、いまは自慢げな顔をしているのだ、とわかる。

「定時退社など夢のまた夢でしたし、趣味を作る時間もありませんでしたので」

「次から次へとアレなところが出てくる会社だったね、前職」

「ええ、はい。なのでトシさんに会えたことは本当に素晴らしい。運命的ですらある」

「うーん、それ以上はやめておこうか。僕、ひとに視線向けられるの好きじゃないから」

 一木が気付くことはないが、「ひと」以外のものもトシの視界には入っている。

「それじゃなくても、母さんに会うの……あんまり気乗りしないんだから……」

 目的の病室は近い。



「最終学歴……大学、卒業っと」

 大卒。さぞ甘美な響きなのでしょう。この肩書をあたしがもらえるようにこれまで頑張ってくれた両親のためにも、あたしは普通に普通の暮らしをできる場所にたどり着かにゃならんのだ。あたしのためは、両親のためにもなるんだから。ウチみたいに恵まれた両親の家、そうそうないんだから。あたしはしあわせのループに在りたいのだ。

「いろいろ考えんとなあ……」

 大好物の缶をガララと傾け、無心で舌先を転がす。ハッカは得意じゃないんだけれど、入院中の禁煙のためだ、しゃーない。

 一応、退職については、自己都合ではないんだとか。なぜかというと、あのアホブラック企業が永らえているのは「私がいないと本当にダメになっちゃうから……」とか「この歳じゃ今更どこにも行けないから……」等、可哀想なひとたちがメンタルを削りながら在籍しているからだ。なので、「職場近辺で衝突事故を起こすような視野の狭い人間は当社には不要だ!」という方針が取られたんだとか。つくづくアホじゃんと思う。

「失業手当早めに出るしいいけどさあ……」

 親からもらった「タフ」がどこまでも効いているので、怪我はマジで大したことがない。小学生の頃に運動会ですっ転んだときの方が重傷だったくらいだ。あたしがも~っと物理を信用しなくなる理由にもなった。

「フゥ……」

 煙草はダメなので、またドロップの缶を傾ける。それにしても随分な雨。事故った日はよく晴れててラッキーだったなあ。

「……」

 雨の日の外って、なんでかわかんないけどずっと見ていられちゃうよね……落ち着くってのとも違うし、無意識? ま、昼寝のための導入BGMには最適……

「んっ?」

 あれ?

 え?

 お?

 んん……?

「えっ?」

 いかんいかん。豊富な語彙力を誇るこの頭脳から意味のない言語しか出なくなるだなんてそんな。整理しよ! えーと? お、おおーちょっと待って。我が事ながらめちゃくちゃ混乱してんじゃん!

 5W1H。基本中の基本ね、これ。

 まず、what。わかんない。あれは何だ、何だ、何だ。あれはデビル……いやホント何。わからないマンだね。ここはわからないマンで通そう。

 次、when。たったいま。

 お次、where。窓の……外だなあれは。内側とか、映り込んだんじゃないと思う。

 それで、who。わからないマンだね。

 最後、why。これもこっちが知りたいなあ。

 それと、how。これもこっちが知りたいよ。

 念のため、誰かに伝える用のまとめをしておこっか。役に立つかもしんないね! 大事なのは詳しくは訊ねないことだよ。

 窓の外にわからないマンがいた。

 うん、これで大枠は掴めたよね。もう少し情報の肉付けしよ?

 ここは病棟七階の部屋、です。

「ほほ~ん……」

 あたしが必要以上に取り乱しているのには理由がある。わからないマンに対してではなく、わからないマンを目撃した自分に対して混乱してるのだ。

 池之下家は誰一人霊感がない。キッパリ言い切れる理由はママにある。

 池之下家――つまりパパの血筋は誰一人霊感を持たない。鈍感らしい。が、山田家――つまりママの血筋は、ママも、ママの他にも、霊感持ちがいるらしい。そのママをして、「葵は視えないままだと思うよ」と言われてきた。曰く、「興味を示しすぎてるから」。

 興味どころか、あたしは大学で民俗学かじったほどだ。主に都市伝説とか怪談等の口伝伝承を中心に漁ってきた。そういうところまで見た上でママはあたしに「視えることはないよ」と言ってたの。

 あれか。事故って異世界転生はしなかったけど、血筋が目覚めちゃったのか? もしかしなくても山田家はその血の運命だったのか!?

 落ち着こう。まずはドロップ……

「あり」

 もうないや。ドロップおしまい。終わり。食べちゃった。

 でも、煙草はまだ、買ったばっかだったからさあ、あるんだよねえ。

「……」



「うう、やっぱり来るんじゃなかった。まさか鉢合わせるなんて」

「妹様、全然似てませんね」

「あかねだって、五十路の兄貴に似てるなんて言われたくないと思うよ……美容には誰より気を遣ってたし」

「そういう……ことなのでしょうか?」

 年齢以上に老け込んで見えるほどしょぼくれているトシと、一切変化のない鋼鉄の表情を貫き通す一木。

「お母様も、お元気そうで何よりではありませんか」

「……まあ、ね。もう思い残しはないって顔だったよ」

「お孫様が大学を卒業なさって一年でしたか。もう少し前向きになられては?」

「だからだよ。僕でさえ、姪っ子……あかねの娘には一回しか会わせてもらったことないんだ。あかねの実家嫌いは筋金入りだよ。そんな子が顔出したんだ。孫のことなんて方便さ」

 他人の家の複雑な環境を覗き見してしまうことになった一木はどことなくソワソワしていたが、トシが足早な理由がそれだけではないことに気が付くと、話しを変えるべくさりげなく訊ねた。

「ところで、トシさん。俺には感知できませんが、どういったものが?」

「……うーんとね」

 足早に、喫煙所を目指すトシ。一木は非喫煙者だが、他に行くアテもないのでついてゆく。煙草のにおいはかつての上司たちのもので慣れている。夕方の風が吹き抜ける屋外喫煙所には薄手のカーディガンを羽織った、入院患者らしき女が一人だけいた。一瞬ギクリとした表情を浮かべたが、トシと一木が面会の一般人らしいことを察すると軽く会釈をした。どうやら、本来は喫煙してはならないようだ。

「どういった、かあ。難しいね」

「というと?」

「いやあ、一個体とは限らないからねえ。虫みたいなモンなんだよ。条件さえ揃えば無限に湧いて出る」

「本当に虫みたいですね。あれ、じゃあ、俺の家も……」

「ああ、そうそう。同じことだよ。話が早くて助かるなあ、きみは」

 重めの煙が夕焼けに消えてゆく。

「ここのは、大体窓の外だね」

「ンゲフッ!! ゲッホゲェッホ!! エフッ、ンフッ……!!」

 静かに大人しくふかして(ともすればアパレルブランドのポスター並みに様になって)いた女が横で盛大に噎せたので、トシはともかく一木まで目を丸くしている。

「エッホ、ウッ……じ、失礼……エホッ」

「だ、大丈夫ですか」

「ハイ、ケホケホッ……! はい、ええ、大丈夫。ちょっとびっくりしただけですわ」

 噎せた反動で涙目ではあったが、キリリとした表情だった。そして、涙目ではあったが、完璧な営業スマイルを作り上げる。一流演技派俳優です、と名乗られても信じそうなほど、一分の隙もなかった。

「あの……つかぬことをお訊ねしても?」

 噎せていたときとは別人のような声音で、女は二人に向き直る。

「えっと……はい?」

「窓の外、と、仰いましたよね。私の聞き間違いでなければ」

「はい……」

「その……?」

 まだ半分程度しか吸えていないトシの煙草が灰皿用のバケツに落ちてジュッと音を立てた。



「先程は見苦しいところを失礼しました。私、705号室に入院しております、池之下葵と申します」

「一木涼です」

「……トシさんて呼んでください」

 葵の目がキランと光った(ように、一木には見えた)。

「あの、私……少々、民俗学をかじっておりまして。トシさんはそちらの方面では長い……と、捉えてもよろしいのですね?」

「ええ、まあ。仕事にしたのは本当、つい最近だけれども」

「そうですか、そうなのですね。とても納得です」

 上品な笑顔だが、盛大に噎せていた印象が強いため特に何も起こらない。

「先にお訊ねしたいのだけれど、葵さんには何が視えたんですか?」

「わからないマン……ああいえ、これは、何でもありません。私が視たのは、病室の窓の外に人影でした。横側だけの姿でしたが、前合わせが逆でしたので」

 品の良い笑顔を保ったまま、葵はかなり落ち着いて説明している。とても先程まで、吸い慣れた煙草で盛大に噎せていたとは思えない。誰がどう見ても演技派俳優だった。

「窓に映っていたという可能性はありませんか?」

 一木が口を挟むが、葵はゆるゆると首を横に振った。

「白装束でいらっしゃいましたので。トシさんもご覧になっているのですね」

「同じというか、似たようなもののようです。大丈夫、危害を加えてくるタイプではないですよ」

「まあ、そうなのですか? 実は私、こういった経験は初めてなのです。どのように区別を?」

「勘ですよ。襲ってきたら逃げるか何とかすればいいだけですし」

「あら……フフ、意外な答えですわ」

 専門的な話は門外漢の一木は葵の表情変化の技術に感心するばかりだった。駅ビルの惣菜店に向かうために突っ切るコスメコーナーにいた美容部員たちを思い出してしまう。

 完璧なまでの「作り笑顔」だ。すごく、上手い。

「でも、これまで視たことはなかったんですね。わかりやすい説明だったし、何度かあるのかと」

「実はこうして入院しているのは交通事故に遭ったからなんです。大したことはまったくありませんでしたけど、それがきっかけで視えるようになってしまったのではないかと踏んでおりますわ」

「それはそれは……お大事になさってください」

「ありがとうございます」

「どうでしたか、いままで学問でしかなかった領域が現実になるって」

 人生の先輩としてのトシの問いかけ。一木には、これまで同様の質問をしたことがあるように見受けられた。少なからず葵のような人間に出会ったことがあるのだろうと思わされた。

 葵はしばらく「完璧な笑顔」のままでいたが、スンと真顔になると声のトーンも落として答えた。

「マジありえん」

「……」

「あたし、ホラーは好きだけど映画とかびっくりフラッシュ系はマジでダメなの。ホント無理。びっくりさせられんのが大ッ嫌いなの! わかる? だから邦画とかは本ッ当にダメ。嫌い。でも原作小説とか、そもそも怪談とかは好き。要するに実体験じゃなきゃ大丈夫っぽいのよねー。だから油断してたっつーか何つーか……いやマジでありえんて……」

 一木のキャパシティをオーバーする情報量だったようだ。完全に停止した一木は置き去りに、トシは「そうかあ」と続けた。

「視ないって思う理由があったんだね」

「家系……じゃないかな、たぶん。会ったことはないんだけど、母方の家系に多かったらしくて。実際ママもそうだし。で、そのママに『アンタは大丈夫よ』って言われてたから、余計ビビッちゃってそれがショックで……」

「いやいや良かった。ここまでして深入りしたいってなってたら取り込まれちゃうからね」

「あーやっぱそういう……て、お兄さん大丈夫ですかー? 気絶け」

 緊張の糸が解け素に戻った葵が一木にはかなりショッキングだったらしい。どうやらこうまで完全にペルソナを分離できる能力に対して驚いているようだ。

「大変失礼ですがお仕事は何を?」

「ブラック追放されて無職です! キャッホー!」

 このとき、一木の脳内ではある図式が完成していた。あとは演算結果が出るよう、エンターキーを押すだけの段階である。そしてエンターキーは隣で缶コーヒーを傾けていた。

「トシさん」

「いいんじゃない?」

「池之下さん。突然のことで大変驚かれると思いますが、是非とも弊社にお勤めいただけませんでしょうか?」

「ホ?」

 一木の鋭い観察眼は、葵が元々は接客業の経験者だということを確信していた。そして、現在、社長・トシと副社長(他多種兼任)・一木の他に社員は不在である。どのように募集をかけるかという点で塞がっていたのだ。世に多用な求人票あれど、「霊能力者募集!」などと掲げるわけにはいかない。直接スカウトに向かうしかない、となっていたところに葵が現れたのだった。

「我々は池之下さんのように霊の視える人材を求めております。弊社は表面上、特殊清掃業者と届け出ておりますが、実態といたしましては、霊障被害にお困りのお客様対応をする事業内容です。そこで池之下さんには是非、オープニングスタッフとして弊社に移籍していただきたいのです」

「OK、契約の詳細は聞きます。でもちょ~っと待ってもらっていいですか?」

「はい」

「あたしがこの先もずっと視えるって保障はどこにもないんだけど……それはトシさん的にも一木さん的にもアリなの? 大丈夫?」

「あーうん。一木くんも視えないから」

 葵は難しい顔つきになってしまった。無理もない。突然現れた男性二人組からいかにも怪しい会社への入社を勧誘されている。怪しむなと言う方が馬鹿げている。二人とも重々承知の上で、葵に声をかけたのだ。

「池之下さんにお願いしたい業務は主に事務です。表計算ソフトを使用した経費計算や依頼の受注、電話応対、そして窓口業務です。PCの使用に抵抗はございませんか?」

「おっと早速面接じみてきてない? え? ぜ、全部問題ないです」

「差し支えなければこちらの契約書面をご覧ください」

「いや手際……手際が良いよお……」

 トシにかつてしたようにタブレットの画面を差し出す。葵はおそるおそる覗き込んだが、「待遇」の項目で大きな目を更に大きくして、止まる。

「複雑な業務を多数お任せすることになりますので」

「明日には印鑑を持ってまいりますわ」

「どうぞよろしくお願いいたします」

「こちらこそどうぞよろしくお願いいたしますわ」

 品の良い笑い方で葵は口元を押さえている。

「本音は?」

「即決マジ助かる!」

「あはは……」

 想像に難くない葵の返答にトシは乾いた笑いを浮かべるばかりだ。

「若いねえ……」

「そりゃそうですよあたしゃピチピチの23なんだから」

「え」

 二人の反応で葵は目に見えて不機嫌になった。彼女にとってはおなじみの反応らしい。一木は「すごく顔に出るタイプだ」と思ったし、「見習いたい」とも思った。トシだけが困惑し果ててアワアワしている。

「やーっぱり歳食って見えんだよなーこの顔! 大体五歳くらい老けて見えてんじゃん?」

「そ、それってつまり、大人っぽく見えてるってことだよ。僕もそう思ったんだよ。若いのにすごくしっかりしてるなーって……これも、言われ慣れてるっぽいね」

 ツンとしていた葵だが、だんだんニィ~ッとした笑顔に変わってゆく。二人とも「笑顔はすごく幼さが残るなあ」と思っていた。

「な~んちゃって! そうそう、もう言われ慣れてるんで。どーでもいいんだわ! それに、美人なことに変わりはないでしょ? いいから……! それ、事実だし……! それだけわかってれば、問題、ないから……!」

 シャッターチャンスポーズを次々決めてゆく葵に対し、一木は至極真面目な顔のままコメントする。

「容姿の優れた受付係や接客に対してはクレームの発生件数が低下するそうです。それは確固たる才能ですよ」

「ヤダッ一木パイセンたら! そんなだからなんか後ろに怖い顔の女のひといるんじゃん!」

「えっ」

「うわあ本当だきみもしかして無意識? 呼んじゃう体質なのかなあ」

「ええっ」

「割と根深い問題だったりしてね~」




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