第2話

 都内の数あるオフィスの中でも、特段華やかな区域――から少し外れた、中小企業の事業所が立ち並ぶ場所に、「YT特殊清掃」の事務所は設営される。

「このあたり、久しぶりに来たよ」

「これからはここが我々の事務所になるんですよ」

「毎日電車乗るの、嫌だなあ……」

「慣れてしまえば、大した距離にはなりませんよ。ああ、それとも……」

 横断歩道を渡りながら、事務所の入るビルを目指す。ビルの見えた途端、一木は「いえ」と言葉を切ってしまった。

「なんでもありません。本当は、三階より上も空きテナントと聞いていたので、居住スペースとして借りちゃおうかなとも思ったのですが」

「あ、本当だ。新しくお店ができてるねえ。服屋さんか」

「そのようです。トシさんか俺が住むのに良いかな、なんて。浅はかでした」

「そんなに自分を責めなくていいと思うけど……」

 「田山」改め「トシ」。これが、彼の俗称とのことだった。一木は慣れないなりに、なんとか円滑なコミュニケーションを目指している。

「……うん。ちゃんと、僕のことはトシさんって呼んでくれるね。そのままでお願いね」

「何度聞いても理解が及びません……何故、俗称が必要なのですか?」

「言ってるじゃない。オバケには本当の名前を知られちゃいけないんだって」

 必要書面に署名をするにあたって、一木はトシの本名を知っている。が、本名とはほとんど掠らない俗称を名乗る必要性を、説明ありきの上でもなかなか理解ができない。

「本名を知られることは、弱みを握られるのと同じ……でしたか。ううん……やはり、よくわかりません」

「あっちの世界じゃ、人間社会よりも名前での悪用が通用しちゃうの。名前一つ、って思うかもしれないけれど、あっちで本名を知られることってのは人間社会で名前、住所、自宅携帯両方の電話番号から家族構成まで知られるのと同じくらい危険なんだよ。人間社会でだって、そんな情報が必要なのはお役所ごとくらいでしょ」

「まあ……そう、ですよね。確かに……ううん、とはいえ……難しいですね」

 きゅっと眉根を寄せる一木に対し、トシはへらりと笑いかけた。気の抜けた、どこか安心感を覚えさせるものだ。

「大丈夫大丈夫。これからきっと慣れるからさ」

「俺にも視えるようになってしまう、ということでしょうか」

「それは、わからない。僕は生まれつきだったけれど、他のひとのことは知らないもの。何かのきっかけで視えるようになったってひとも知ってるし、逆の事例も知ってるよ」

 古過ぎず、かといって新築でもない、「丁度良い」を体現したかのようなビルである。

「二階です。丁度良いでしょう」

「そうだねえ。階段昇降にも適度だね」

「中はお得にしました」

「お得?」

 さして段数のない階段を上がり、まだ何の看板も出していないドアを開ける。

「わ、立派」

「に見えるでしょう。予算、かなり浮いているんです」

 必要最低限のデスクにPCや卓上ライト、来客用のテーブルと椅子。事務用の戸棚と、その他家電。事務所としての設えはじゅうぶんだ。

「デスクもチェアも、本来は結構値が張るブランドのものなんです」

「なのに浮いてるの? ……あ、わかった。前の会社……」

「ええ、そう。その通りです」

 トシにも少しずつ、一木の表情変化が掴めるようになってきた。節約術だったり成功談だったり、自慢げなときはわずかに声のトーンが弾む。鼻腔も膨らむ。ほんの些細な変化だが、その些細な部分に気付かない限り一木の表情変化は一切理解できないままなので、ポイントを押さえるように把握を進めていく必要がある。

「叩き売りになるだろうと踏んでいましたので、予想的中でした」

「潰れた会社の備品って、安く売られるんだっけ。確かに、物の状態とか形だけ見れば良品だよね」

 ブラインドカーテンを開けてみる。昼の日差しが射しこんできて、空中の埃がキラキラと反射する。

「あとは、お茶やらコーヒーやら、そのあたりを揃えればいつでも開業できますよ。社長的に欲しい備品などはありますか?」

「うーん……冷蔵庫もレンジも湯沸かしもあるし、強いて言うならお茶菓子だけど。あ、和箪笥置くのって変かなあ。着物は普段着じゃないからこっちに置いておきたいかも」

「備品……では、ないですね。あと和箪笥は値段見てみます」

「ごめんごめん。だって僕、こういう、事務所ってところで働いたことないからさ」

 一木が下唇をきゅむっと上げた。初めて見る表情だったので、トシにその真意はわからない。

「……俺も、ここが初めての転職先ですから」

「初めて同士、うまくやってこ」

「はいっ!」

「というわけで軽く除霊から初めていいかな? 事務所にいられたら、嫌だよねえ」

 「どういうことですか」と一木が訊ねるより早く、トシの指先が部屋の隅を指さした。

「きれいな割には、やっぱりここも安かったんじゃない? 首吊ったひとがいるみたい」

「仲介業者に問い合わせしてみます。ついでに、お家賃の交渉もします」

「うん、よろしくね」



「目先の問題は、これにて解決ですか」

「そうだね。あとはお客さんとか、他の従業員さんとか……あ、ねえ、思ったんだけど」

「はい?」

 早速ホームページを開設していた一木に、トシは純粋且つ非常なる難題を投げかけた。

「霊媒師募集します、みたいな文言は、明らかに怪しいよね? これからどうやって従業員さん募集しようかな……」

「……」

 転職・就職に関してはプロも同然の一木が沈黙する。トシの疑問ももっともだった。

 何で俺たちがこの事業を立ち上げたのかって、他にこんな事業所がないと思ったからじゃあないか。

 他、そもそも前例というものがないので、トシはおろか一木にもわからない。

「……ヘッドハンティング、でしょうか」

「僕にその手の知り合い、少ないよ。僕はアテにはならないと思う」

「わかりました。打つ手なしです」

「きみの判断力の速さには本当に感心するよ」

 沈黙。上階のアパレルショップからの控えめなBGMすら聞こえてくる始末だった。

「……しばらくはそんなに仕事も入らないだろうから、二人で回りきれると思うよ。それじゃあなくても、専門分野は僕だけなんだから」

「そう、ですね。従業員を増やすのはまだ先の話にしておきましょう。今後の課題、ということで」

 羽織を打ち掛けたワーキングチェアをくるくるさせ、チラシの裏に、看板のラフをスケッチしながら茶を啜る。学もないし手に職もない、とはトシの逃げ口上だが、その実得意なことは多いようでもあった。一木は単なる生真面目だと自負しているが、トシはどうにも多才である。デザイナーをやっていないだけでデザイン能力はあるし、色彩検定を持っていないだけで色彩感覚もある。鼻歌だけでも歌唱力が高いことは察して有り余るし、読書もするので知識は豊富だ。

 そういった才能を、すべて、霊感というそれだけで発揮できずにいる。一木がトシに対して思うところは幾らかあるが、目に見えないものに苛まれる実力はどれほど惜しいものか、かつて転職・就職アドバイザーとして数々の人生を見てきた経験として思うのである。

「……つかぬことを伺いますが、トシさんは何故、着物を?」

「ああ、たまたまだよ。実家にあったの。父のだよ。襟を正す、って言うじゃない? 僕にとっては着物がそれなの。きみがスリーピースにこだわり持ってるのと同じだと思うな。なんだかシャキッとするよねえ」

 へらりと笑う姿はシャキッとしては見えないが、あの日一木を助けに来たトシも着物姿だった。引越しに立ち会ったときも、そして、いまも。

「良くない良くないとはわかってても、信じてもらいにくいもののことだから、どうしても逃げ癖がついちゃって。でも、やらなきゃいけないときって必ずあって、そういうときに切り替えするのに、僕は着物を着ることにしてるんだ。もっと簡単なものでも良いと思うけどさ。折角あるものだし、ね。ああそうだ、どう? 今度着てみるかい?」

「えっ、と……では、はい。お願いします」



 夕方になると、一木のホームページが完成した。

「わあすごいね。ホームページって、専門業者じゃなくても作れちゃうんだ」

「レイアウトに少し悩んだので、気になる点があれば指摘してください」

 あわあわと手を振るトシ。すっかり気弱な雰囲気に戻ってしまっている。

「きみが作ったものなんだから、僕がケチつけるなんてできないよ」

「違いますよ。ケチつけるわけじゃありません。まず、あなたは社長です。それから、おそらく俺よりもセンスがあります」

「ええ……?」

「看板、ラフ案できたんでしょう? 業者に発注かけてしまいましょう」

「あわわ……最近の若い子すごく積極的……」

 困惑しつつもホームページを眺めるトシ。配置や配色であれこれと考えていると、袂に放り込んであった携帯電話が鳴った。

「え……」

 かなり細い声だったが、電話が切れるとすぐにPCに視線を戻した。

「大丈夫なんですか?」

「え、ああ……うん。母が入院したって」

「大丈夫ではないと思いますが」

「いやいや、大丈夫だよ。妹の片方が面倒見てるんだ。僕はむしろ、勘当されてるも同然だからさ、いまのも業務連絡みたいなものだよ」

 無暗に他人の家庭問題に首を突っ込むべきではないと承知してはいるが、一木は目に見えて困惑している。己は平凡な家庭で育った故に平凡な意見しか出ないが、それが誰しもに通用する観念でないことも承知している。

「いいんだよ。僕が行ったとこで向こうだって嫌だと思うし。想像しづらいかもしれないけれど、世の中には割と家庭環境がまともじゃない家ってあるんだよ。僕もそうなの。そりゃあね、オバケだなんだをいい歳こいてまで言ってる息子は気味悪いだろうから」

「それでも……ほんの少し、覗いてくるくらいは、許されると思います……」

 あくまで控えめに、強く言い出すつもりではなく、個人的な意見として。一木の新しい面を見たトシは、大きな体を縮こまらせる一木に笑いかけた。

「ごめんね、困らせちゃったね。……それじゃ、きみの紹介をしに行こう。仕事がないので作りました、って。どう? かなりいい案だと思わない?」

「!」

「いやいや、本当についてこなくたっていいよ。きみにとっては、知らない家のことだしね」

「そうと決まれば! 今日は早く帰りましょう! 明日は俺が車を出しますので!」

「ええ……きみ本当に判断早いね……支度も早いね」

 使い潰した通勤バッグに書類やUSBメモリなどを粗雑に詰め込み、慌ただしく上着を羽織る。トシはつられるように大急ぎで羽織を取ってきて、足袋を直した。



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