第9話
「それでは、忘れ物はありませんね。これからしばらくは車内ですから、SA・PAのご要望はお早めに。カーラジは譲り合いをどうぞよろしく。ああ、忘れてはいけませんね、申し訳ありませんが車内は禁煙です。ヤニ汚れは取るのが大変ですので……最後にもう一点、シートベルトはしっかり締めましょうね」
「はーい!」
これからの旅路は小学生の遠足、とでも思えそうな口振りについつられてしまうが、ところどころに首を捻る言葉が含まれていることでようやく、一木のマイカー利用による出張業務の直前点呼であることがわかる。
「では、出発します」
「トシさん! カーラジじゃんけん!」
「よしきた!」
カセット・CD・MD・SDカードの入れられるカーラジの整った環境を、二人は大はしゃぎで楽しんでいる。
「やっぱ一木先輩の車ってカスタムすっごーい!」
「ええ! 音響には割と、こだわりが」
「車、本当に好きなんだねえ」
じゃんけんに勝ったトシがCDを挿し入れる。首都高を行く一木自慢のマークXは悠々と中央フリーウェイを通過する。
「ふふ嬉しそう」
「少々気分が高揚しています。お二人を乗せるのは研修以来ですが、落ち着いた状態で行くのは今回が初めてですから」
『研修ゥ? 何やそれ』
「思い出させないで」
何度体験しても、突然出てくる彼らに対して慣れることのない葵はサクマの缶をこぉん、と、軽く弾いて怒る。
「楽しいねえ。仕事だとしても、揃った面子が面子なら楽しいもんだよ。いつか麻雀弔いも実践してみたいねえ」
「それだと……サクマさんが自主的に除霊されちゃわないです?」
『され……る……やろなあ……麻雀はやりたいけどワシはパス』
「麻雀牌を混ぜる音、でしたか。ところで私は麻雀、ルールを知らないのですが」
『ホォ〜ほんならワシが教えたろか』
「毟り取る気でしょ! ダメ! あたしが教えますからねえ一木先輩!」
『小娘麻雀できるんかい』
小学生の遠足バスにも負けない気楽な車が、首都圏を抜けてゆく。滑走路のような道は夜空ではなく、景勝地へと続いている。
ラーメンと(半ではなくあくまで普通盛りの)チャーハン、八宝菜をジョッキの烏龍茶で流し込むように、それでいてがっつくのではなく単純にテンポ良く胃に収めてゆく。一木の昼食風景もそろそろ見慣れたものだった。周囲の長距離運転手たちから驚愕の目線を向けられるのは、向かい合うトシも外見年齢に伴わない量の食事をしているからだ。葵は至って普通のラーメンを注文したのだが、気のせいか、少しばかり自分の丼が小さく感じていた。
「それで……信憑性は、どうなのですか?」
「……ぁえ? あ、ああ! そうですね、うん。なんちゅーかまあ、良くある話ではありますね!」
「山道、それも暗い中、何回もヘアピンカーブがあるような……峠ってやつだね。山道の話は多いよねえ。僕もできれば運転したくない」
「いまならわかります……見分け、つかないもん。後ろが来てるのに飛び出されたりしたら、もう最悪ですよね」
依頼は匿名ではあったが、自称オカルト系動画投稿者とのことで、とはいえ文面からは本気で困惑した内容が伝わってきた。
「事実、彼らのうち数人はいまも病院にお世話になっている状況だ。極めて悪質……って言っても、過言じゃないかも」
「自分たちでは真実を確かめられないから代行してくれってことですし、妥当な案件ですよねえ」
「私に視えるかどうかで対応が変わるような気もするのですが……とりあえず、運転は任せてください。指示はお願いしますが」
コップの水の前に置かれたドロップ缶から相変わらず呆れた様子のため息が響く。
『ワシが出張りゃすぐやのにのう』
「だーめっ。まだまだサクマさんは信用低いんだから。いつ逃げるんだかわかったモンじゃない!」
『逆に聞くがの、自由にやっとったんをとっ捕まえてカンカンに閉じ込めといて、ようそんなこと言えるな?』
「人間相手に好き勝手やってたのを自由って、そりゃ物は言いようだよねえ」
食事を終えた三人は自販機が列を成すアーケード下に立ち寄り、この先を気楽に過ごすためのコーヒーを選んでいる。
「山道で人間を惑わすのって、よくある話なのですね」
「元々山っていうそれ自体がさ、畏怖やら信仰やらの対象じゃない」
「ざっくり言っちゃえば、異世界ですから。別の世界、って見方が根強いんですよ。だってほら、山それ自体が神様だったりとかあるじゃないですか。霊峰なんて呼ばれてたりして」
三人分のコーヒールンバを聞き届け、車内に戻る。葵は未だにルンバのリズムに小さく身体を揺らしている。
「異世界ですか……それもあまり、ピンとこないんですよね」
「いやあきみの前の家なんてまさにそんな感じだったけれどね」
少なくとも八年以上は壁に死体の埋まっていたアパートは、確かに、異界と言ってほぼ差し支えはないだろう。それでも一木は首を傾げる。
「なんというか……ご説明は大変わかりやすいのに、私があまりに事例を知らないものですから……」
「こないだの変質者アパートも同じようなモンですよ。四方を囲って、別の場所って扱いにしてたでしょ? ああやって……例えば、ヒト側の世界と、オバケ側との世界で区切るんです。お互い、干渉しづらくなるような。でも山はその境界があやふやになりやすいんですよ」
「うーん……それは、困りますね」
「ははは。きみにはそれくらいの感覚の方がいいかもね。余計な知識が入るよりも、直感的な方が」
「それでは皆さんのお力には……うーん……」
悩みつつも、ハンドルさばきには迷いがない。かなりのスピードで突っ込んできたのは逆走車であったが、トシと葵が悲鳴を上げるよりも早く、一木はギアチェンジとハンドルとを巧みに操作し軽々と逆走車を避けた。後方からできれば聞きたくないような金属音が響いてくる。
「異世界でもなんでも構いませんが、ああいう事故だけは起こしたくありませんね」
「いま……いまだけこの車……車種変わった……」
「側面に『藤原とうふ店』って書いてるでしょ……」
『やからなんで小娘はそのネタ通じんねん』
ぐ、と身体を伸ばす。大きく胸を開き、新鮮な空気をいっぱいに吸い込む。ヘヴィスモーカーの二人からの呼気は気のせいか紫煙を含んでいるように見えなくもない。が、当の本人たちは、
「あ〜……っ! これで肺が浄化された。まだしばらくは禁煙しなくていいや」
「ですねえ!」
『お調子ヤニカスどもが……』
道中は実に順調であった。急に霧が深くかかったり、野生動物がやたらと飛び出してきたり、サンルーフを激しく叩く音がする等の考え得る異変は一つとしてなく、もうすぐ本格的にやってくる夏の緑に囲まれた山頂は広々と四人を迎え入れる。
「人気の少ない山頂ですね。私もいまは、心地よいドライブ気分です」
「ちょっとしたピクニック気分! 風が気持ちいい〜」
「サクマさん、どうかな?」
『あ〜……いや、おらんな。ワシに気圧されてもうて、ここにゃワシより強いんはもうおらん。けンど……ンン〜? 妙やな』
トシの袂が不自然に揺れ、缶を弾く軽い音がした。葵から預かっているサクマの居城はトシの袂に入っている。
『まあ、癪やけど、ワシがこうまで清い場所でもトばへんのはこの缶に入っとるからや。封印されとるからやな。この缶はワシを外に出さんようにすると同時に外からの影響も受けへんようにしとる。のう小娘、こーんな清い場所に、のう、なんで社の一つもあれへんねん』
「……そうね」
葵は注意深く周囲を見渡した。湖畔に釣り糸を垂らす者、木陰にレジャーシートを広げて弁当を楽しむ者たち等、どこか想像通りな人々の姿がある。サクマの言う通り、道祖神の類や石碑、神社仏閣といった清いものはどこにも見当たらない。
トシと葵の目くばせ。その後、一木の横を固めるように飛びつく。成人二人に抱きつかれてもブレも倒れもしない一木の体幹が密かに見え隠れする。
「一木くん、いいかい、きみの答えにかかってるんだ」
「でも嘘言われても怖いから、ほんとのこと言ってくださいね」
「はい」
一木はきょろきょろと周囲を見回している。そして、
「誰もいません。廃車が何台かあるだけです」
『来る! 退却や退却!』
サクマが大声を張り上げる。佇んでいた人影が一斉に三人と一缶の方を向いて、虚ろな目でニィッと笑った。
「うわうわうわ!」
シンプルな悲鳴をあげてトシごと一木を引っ張る葵は一目散に一木の車へと駆け込む。
「鍵! 鍵開けてください!」
「すぐ開けます!」
「一木くんちょっと急いで! 彼ら足が速い!」
「はい!」
『若造は返事だけやのに声デカいのう』
実体を持たないが故に一人呑気なサクマはともかく、三人の生者は大急ぎで車に乗り込んだ。
バシバシバシ!!
バンバンバンバン!!
ガチャガチャガチャ!!
『えらい騒がしいの』
「ウワーッ! わーっ! 顔怖! 怖い怖い怖い! やだやだやだ!」
「うわわわわ、困ったなあ数が多い……」
「俺の車……」
音だけははっきりと聞こえている一木は頭を抱えてしまった。車検が終わったばかりで、傷もヘコミも勘弁してほしいと思っていた矢先のことだった。そうでなくとも、逆走車を華麗に避けただけでタイヤはそれなりに傷んだと思われる。故にこれ以上の展開は涙さえ誘うだろう。
「どどどどうしよねえねえトシさんこれどうしよ!? あたし無理! なんにもできない!」
「うう〜ん……どうしようねえ、しばらく落ち着かないだろうし……」
『……ははあ、わかったで。そらワシが気付けんはずじゃ』
袂からは取り出され、ドリンクホルダーに設置された缶からどこまでも落ち着いた、むしろやる気のない声がする。
「何がわかって何に気づけなかったの?」
『小僧、ここはワシらン世界じゃ。生きたモンの入る世界とは違うで。見てみィ』
「……フロントガラスに顔と手がいっぱい。一木くん、ワイパー全開で動かしてくれるかな」
「はい……」
「ウッワ……」
一木にはいつもより動きの鈍いワイパーしか見えていないが、トシと葵はワイパーで振り払われてゆく顔と手たちを見送っている。
「本当だ。空の色が違う。さっきより全然暗くなってる」
「え? じゃあそもそも、この山自体、異界……」
「きっとそういうことなんだろう。僕らみたいに中途半端に力のある人間を誘い込んで、どうにかするんだろうね。あの廃車ってつまり、そういうことでしょ」
『こらもう振り切って退却するしかあれへんなあ。いっくら小僧の素殴り一発でぎょうさん消えるてなっても、多勢に無勢が過ぎるで』
サクマの言う通り、ワイパーは忙しなく動いているにもかかわらず、顔と手も忙しなくやってくる。
一木が不意に洗浄液を噴射した。すべてはワイパーの動きをスムーズにするためだったが、これが転機となった。
「! 消えた!」
「うそ、ファブ除霊と同じ原理!?」
『ああまあ……数だけで押しとる低級やし、効くんやろな。洗剤いうたら、塩撒くんと同じ行為や』
助手席のトシと後部座席の葵が顔を見合わせる。ここには上座と下座の観念はなく、好きなところに好きなように座ることだけが決められている。一木はどこか疲れきった目でワイパーを追っていた。
「マッドにマックス……?」
「ワイルドにスピード出しちゃう……?」
『若造の車なんやろ。おどれら遠慮ちゅうもんがほんまに欠けとるわ』
「でも、手っ取り早いよ。僕がまず手を上げるのと同じだよ」
『それがどうやねんちゅうてんねん』
会話の内容を把握しきれていない一木に、トシは丁寧且つ迅速な説明をした。
「一木くん。いまから、彼らのことをスピードで振り切る」
「え? あの、それはつまり、虫が付いてるのをこう……振り切るみたいな感じでってことですか? そんなのできるんですか?」
「うん。むしろこれは強行突破じゃないと無理かもしれない」
普段なら二つ返事で「わかりました」と答えているであろうところだが、今回の一木は目を泳がせてしばらくモニュモニュと口を動かしているだけで、なかなか返事をしない。
「どうしたの」
「私、これでもゴールド免許でして」
「そりゃあ、あれだけ巧ければね」
「無事故はもちろんなのですが」
葵が後部座席から目を輝かせて乗り出す。
「大丈夫ですよ! ここ異世界だから、現実のルールは通用しません!」
「つまり?」
「警察がどうやってこの世界を感知してるんですかってことです! 違反切符、見てもいないのにどうやって切るの?」
『逃げ場ないで、若造』
嘲笑うサクマの言葉で一木はがっくりとうなだれた。ハンドルを握って離さない。
「う~ん……」
うつむいた表情はきっとまだ難しいものなのだろう。この間も車体を叩いてくる音は止まない。
「私……無事故無違反のゴールド免許で……」
「うんうん」
「技術も悪くないと自負しておりまして……」
「すごかったねえ」
ぱ、と顔が上がる。覚悟を決めた顔だが、鋭い三白眼の中に、獣じみた光が宿っているように見え、二人も、ドリンクホルダーの缶も、小さく震えた。一木はそのままカーラジを弄り、ディスクを差し替える。
「ディープ・パープル……『マシン・ヘッド』……!?」
「私、無事故無違反のゴールド免許ですので。ですので……」
ギアを入れ替え、エンジンをふかす。とても、平日の高速道路を悠々自適にドライブしてきた車と同じものには思えない音だ。
テンポよく刻まれ始めるイントロ。
「多少の無理な運転程度でしたら、造作もないかと。フ……ドライバーなら、誰しも一度は憧れるものですきっと。200kmの感覚には、ね」
「にひゃく」
「さて、忘れ物はありませんね。これからしばらくは車内ですから。カーラジは触らないでください。ああ、忘れてはいけませんね、申し訳ありませんが車内は禁煙です。窓を開けられませんので……それではお二人とも、シートベルトは締めましたか?」
そうだった。
トシは急激なGでシートに押し付けられる自分の身体をなんとか支えながら、変えようのない事実を思い出す。
一木くんには彼らが視えないんだから、道路はしっかり見えてる。つまり……事故る要素がどこにもない!
「ッ、フフ……」
堪えきれなかったのだろう、限界を突破したメーターを見た一木の口から実に楽しげな笑いが漏れた。
「どうですか? 振り切れていますか」
「えっ!? ああ、うん! 順調だねえ……うむ、非常に爽快!」
「それは良かった!」
外界は暗く、曲がりくねった山道にはガードレールなども設けられていない。ただ、粗雑に舗装された道路が続いている。それでも一木の目には、明快な道路があるようにしか見えない。暗いとか、山道であるとか、そういった問題は一木には問題と捉えるまでもない。そんなことは運転技術で如何様にもカバーできるのだから。
「すごい! どんどん振り落としてる!」
「少しケツでも振りましょうか」
テールランプの筋が波線を描く。葵は後方に縋り付いていた顔や手が吹き飛んでゆくのを口を開けて見ているしかできない。
『こらええわ! 馬よか速い! ダハハハ!』
「ドリフトしますよ、舌を噛まないように!」
道の切れ目は見えない。が、ルーフを叩く手の音はとっくになくなっているし、気のせいでなければ貼りついている顔たちの表情は困惑している。
「……そりゃあ、びっくりするよねえ」
「トシさん、ひっぺがされてくときにね……『なんで?』って聞かれたんですけど、なんでもこうも、なくない?」
「崖から飛び降りさせたり、ガードレールに突っ込ませたりしたかったんだろうねえ。無駄無駄……だって一木くんには、ちゃんと道が見えてるんだから」
「フフ!」
すっかり運転を楽しんでいる一木。車体は何度もヘアピンカーブをくぐり抜け、ガードレールを掠めてきたのに傷の一つも付いていない。
『ン? おう若造、総大将のお出ましや』
「どこですか。私には普通の道が見えているだけです」
「おいおいサクマさん、まさかとは思うけど」
トシと葵には視えている。並走してくる小さな影があり、それがつい今し方マークXを追い抜いていった一部始終が視えている。
『おう、突っ込んだれや!』
「まだ、異世界ですよね?」
『安心せえワシが保証する』
「突っ込みます、つかまって!」
相手が悪かった。
今回の件は、おそらくその一言に尽きるだろう。前方に立ち塞がったはいいもののむざむざと撥ね飛ばされたゾンビのような見た目の何かが車体後方に落下する。
「後ろに落ちた」
「スーパーバックします」
ドグチャア!
嫌な音が響き車体は何かに乗り上げたが、一木には音は聞こえていないし、「タイヤが石を踏んだかな」くらいの感覚にしか伝わらない。
「どれ、ボディは……やった! 無傷です! どうして……あんなに音がしていたのに!」
うきうきした声だ。トシと葵はタイヤに踏み潰された「元凶」を見下ろしていたが、しばらくは小刻みに動いていたそれも動かなくなり、砂が風に舞い上げられるように消えていった。
「ああ、久々の峠でした。カメラも何もついていないというのは、奇妙ではありますが新鮮ですね! 喉がカラカラです。コンビニ行きましょうか。お煙草も吸えますし」
「あ、ああうん。ありがとう……」
「ありがとうございます……」
まだ呆然とした心地が故に二人とも「久々の」という語が頭に入っていないのでそれ以上追求はしなかったが、そしてサクマも面倒を起こすのはそちらの方が面倒だったので、やはりそれ以上の追求は、やめた。
余談だが、これ以降この山道での事故件数が大幅に減ったという。
続
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