第7話

 葵の足取りは重い。昨夜のミチコとの通話は大いに盛り上がったものだが、それ故に朝を迎えるのが不安だった。

 唖然としたままで、一木共々帰された昨夜、トシは事務所に泊まり込んだという。

「あ、おはようございます、池之下さん」

「あ……一木先輩。おはようございます……」

「見るからにお元気ないですね。無理もありませんが」

 案じてくる一木だが、葵はふるふると首を横に振った。

「ショックとかより、その、トシさんが心配で。何してんだろ……」

「それは、確かに」

 二人が事務所を出るときは、トシは何故か誰もいなくなってしまった古着屋からあるだけ持ち込んだ入れ物の類を床に並べ、例の瓶は社長席に置いて、椅子にゆったりと腰掛けて瓶と睨み合っていた。その口元がこれまでに見覚えのないほどのうっすらとした笑いを浮かべていたので、二人はとうに自分の力量の範囲を超えてしまった状況を置き去りに帰るしかなかった。

「だ、だってあれ、あの中、悪霊入ってるんですよね? 何をどうしたって危ないじゃないですか!」

「正直、まだ理解できていませんよ。確かに触った感触があったのに、何より、私に視えたのに、それが霊というのは、なかなか……」

「うう、トシさん大丈夫かなあ。心配したところであたし、何もできないんだけど……」

 事務所のビルが見えてくる。まず、異変は事務所の上、例の古着屋に見受けられた。

「……なんか、暗くないです?」

「変ですね。普段はもう支度しているようですから灯りも点いているのですが」

「これほんとトシさん大丈夫かな……? 悪霊、思ってたよりヤバいかもしんない……」

 おそらくは開いたままの鍵。ドアノブを握るとやはりすんなりと回る。一木と葵は耳を澄ませ、異変がないかを探る。音は何もなかった。顔を見合わせると頷き合い、勢いよくドアを開ける。

「お……はよぉ〜ございまあ〜〜〜す!!」

 威嚇も含めて大声で挨拶しつつ踏み入る。床じゅうにガラスの破片が飛び散り、コルクもばらばらになっている。まるで、瓶という瓶を内側から破ったような散らかり様だった。

トシは社長席でふんぞり返ったまま、歯を剥いた威嚇状態のカワイは葵を視認した途端襲いかかってくる。

「! 小娘ェ!」

「うえぇ!? 何!?」

「させません!」

 狼狽える葵の前に立ちはだかり、一木は腕を引く。あの締め技を繰り出した腕が伸び、確実にカワイの首を掴む。掴んだはずだが、その手は空を切っていた。

「な、なん、で」

「今日こそ生気吸わしてもらうで!」

「あたしのカワイさんのイケた顔で変態行為すなーッ!」

 葵のビンタの方が、カワイの腕が葵を掴むより早かった。ドバチン!と乾いた音が響いて、

「ダァッ!?」

 あまりに思い切りの良いビンタだったために床に張り倒されるカワイ。そこへトシから、言葉のとどめが刺さった。

「ま、きみはその程度ってことだ。諦めなよ、元・大怨霊さん」

「なん……でやねんほんまッ……! ワシが勝たれへんなんてことあってたまるかいな!」

「そうだねえ。一木くんに視えたほどには、力は残ってるけれど、池ちゃんに張り倒されるようじゃ全盛期とは程遠いってことだよ」

「なんやて小僧!」

「待って待って待って! 何がなんだかさっぱりわかんない! わかんないんだけどー!」

 葵が慌てて二人の間に割って入る。

「全部説明してくださいっ!」

「おはよう二人とも。まあ、見ての通りだよ」

「それがよくわからないのですが……」

 一木はしばらく立ち直れずにいたのだが、葵が筋の良いビンタを繰り出したのがスッキリしたらしい。気を取り直して立ち直る。

「一体昨夜、何があったというのです。ガラス片付けるの大変なんですよ」

「それは本当にごめんよ。手伝ってくれると嬉しいけれど……」

「ああもう、何や貴様ら! 特に小僧!」

 頬に巨大な紅葉マークをつけたカワイがヨロヨロ立ち上がる。背格好は昨日と変わらないが、葵には昨日よりも透けて視えている。悪霊やら怨霊やらと呼ばれている理由にも合点はいく。ただ、一木にも視えているというのが不思議でならなかった。

 小僧、とカワイが指を差したのは一木ではなくトシである。そのトシはおそらくは徹夜だったにもかかわらず、普段の温和なものと違う勝ち誇ったような笑顔でカワイをじっと見ている。

「天然モンでなんちゅう力を持っとる!」

「生まれつきなんだから仕方がないでしょう」

「カワイさん昨日は京都弁だったのになんで今日は大阪寄りなの!?」

「小娘ン気になるとこはそこなんか!?」

「そりゃちょっと、関西いたから?」

「ほんま何やねん!」

 何かを床に叩きつけるような体勢で平手ツッコミを入れるカワイ。気質に染み付いてしまっているらしい。

「ワシが! 勝たれへんなんてこと! あってたまるかいな!」

「同じこと言ったって、実際勝てないモンは勝てないんじゃん。仮にも怨霊なんでしょ? ならあたし程度にぶん殴られちゃだめじゃん」

「ワシがどうかしとるみたいに言うな! おどれらがネジ飛んどんじゃ!」

「喉枯れちゃうよ? お水飲む?」

「小娘ェ!」

 話が通じるようで通じない。葵がトンチンカンな会話をしている間にトシはさっさと着物を替えてきて、今度はケラケラ、気楽に笑っている。

「池ちゃんに殴られる程度ってことだって、言ったじゃない。きみに以前のような力はないんだ。僕が夜通し封じてたわけだし、きみ、その度に脱出してたんだからさ。その度に力を使っているのも当たり前のことだろう?」

「んなッ……」

 一木にはよくわからなかったが、葵はなんとなく察して頷いていた。


 要するに、トシさんは昨日の状態からカワイさんモドキの力をわざと使わせて弱体かけたんだ。


「ワシの力を削ぐためにわざわざあないなことしたんか!? そんなん小僧も力使うやろが! 共倒れ前提やったんかワレ!」

 叫ぶカワイだが、トシはどう見ても平時と変わらない。気味の悪い薄ら笑いからすっかり、快活な笑みに戻っている。

「……嘘やろ」

「本当だよ? 僕はちっとも疲れてない。せいぜい、久々の徹夜が体力的に……ハハ……」

「ワシを……夜通しワシで遊んでおいて……」

「なんかやらしい言い方やめてほしいのだけれど」

「おま、おまッ……天然モンが無限に湧いとるんか、油田か!」

「……彼もしかしてツッコミ担当で入社ですかね?」

 一木の何気ない(天然モノの)小ボケが事務所を笑いの渦に誘った。

「昔よりは落ち着いたつもりだけれども。でも僕はきみに聞き覚えがあったよ。きみは? どうだい? 僕はそっちでも名が知れてるかい?」

「おーおー、ようやっと思い出したで。なんやど〜にも食えへんニンゲンがおるとは聞いとったが、鬼子ちゅうんは小僧やったんか」

「なるほど。その通りだよ」

 若さって怖いね、と、トシは笑うばかりだ。察しの良い葵は「やっぱりトシさん只者じゃない」と思ったが、一木はただただ呆然としてしまっていて、早い段階で理解をやめてしまったようだった。

「昔の話だからあんまりしたくないんだけれどねえ。きみからしてくれる? 多少フェイク入るだろうし都合が良いや」

「なんッでワシが!」

「いますぐきみを完全に閉じ込めちゃってもいいよ。できるから」

「ダボカス! やからなんッでワシが……いや、ええか。若僧と小娘は知らんのやろうな。よう聞いとき、ここな小僧はそらもう昔は来るモンとにかく殴り倒すアホンダラやったんやで。なんやよう知らんけど、前会うたときは『人間とそうじゃないヤツの区別がつかれへん』的なこと言うてたやんなァ」

 トシは恥ずかしそうにはにかんでいる。

「昔の話されるのって、やっぱり恥ずかしいねえ……」

「性根はなあ〜んも変わっとらんちゅうことかいな」

「やっぱトシさん只者じゃなかった……」

 わかっちゃいたけどね?と、誰に言うわけでもなく続ける葵。一木はトシについては本名さえ知っている状況だが、それよりも「過去」というより深い部分を知っているカワイの正体の方が気になり始めたようだ。いろいろと落ち着いてきた頭で考えると、これまでの通例に当てはまらない「例外」が多く存在することに気づいた。

「あの……では、あの、あなたは結局何なのですか」

「やから怨霊て言うてるやないかい! ってワシは言うとらんわダボ!」

「うーわもう完全に大阪のノリだよ〜」

 怨霊というのが、一木にとってまず気になるポイントであった。

「怨霊ということにはつまり、幽霊なのですよね。どうして私にも姿が見えているのですか?」

「ああうん、そうだね。まあ、それだけ彼も存在だけ言えば大きなものってことだよ。力のない君にすら干渉できるほど、力があるってことだね。昨日は触れたでしょ? あのときはもっと力があったってことでもある」

「……そりゃあたしに殴られなんぞしちゃあならんよ、アンタ……」

「なんでワシが言われなあかんの!?」

 カワイ以外の皆で散らかったガラス片を箒で取り払い始めると、事務所はほとんど平素と変わらない様子に変わってゆく。

「……え、そんだけ!? なんかもっとこう……言うことあらへんの!?」

「え? いえ……特にありません」

「あるやろが! もっとなんかあるやろ! どうして怨霊さんの姿は透けて見えとんの? とか! どうして怨霊さんはそんなに強いの? とかァ!」

「かまってほしい小学生かよ〜めんどくせェな〜つーかいつまでカワイさんのカッコしてんの? 怨霊ってからにはなんかちゃんとした姿とかあるんでしょ? その顔でいないでよ怨霊にドキドキしてた自分が悲しくなるから」

「ようボケ三人組でやってこれたな。ツッコミ誰もおらんのかい」

 カワイの姿のままでいたことにようやく気付いたのか、しかし、しばらく考え込むと悪戯を思いついたようにニィ〜ッと笑って、まずは一木に近づいた。黒いモヤに包まれるカワイの姿。それが晴れると、黒髪に金の瞳と、特徴が変わっただけの姿でもう一人、一木が現れた。

「……2Pカラー!? やるじゃん怨霊ーッ!」

「怨霊怨霊てうっさいねんさっきからッ! ハ、まあ、こんなんやったら朝メシ前やんなァ。お〜い双子の兄ちゃんやでェ」

「……兄は十歳年上です」

「も〜やだ! ワシこれ全部捌かなあかんのォ!?」

 驚きのあまり論点のズレた回答しかできない一木。これまで築いてきた常識がどんどん崩されてゆく。心霊体験から始まり、ここへきて本物の幽霊を見ることになるとは思ってもみなかっただろう。

「ほ〜ん、昨日は食らってもうたけど……なるほどこんだけ鍛えとったらそらそうもなるやろな。アホみたいな鍛え方しとんな軍隊か?」

「わかりますか。実際、負荷のかけ方としては自衛隊のメソッドを参考にしている部分はあります。しかしあまりバルクアップしてもスーツが合わなくなりますので、適度に控えております」

「急によう喋るやん。しっかし、ほお。これなら何でもできてまうな〜いっつまでもこないな場所におるんもアホくさいししばらくはこのカッコで好き勝手さしてもらおかな」

「え? えっと……あ!」

 何を言わんとしているのかがわからず、一木はキョトンとしていたが、まさしく双子のような己の姿が事務所のドアに向かって駆け出したのを反射的に追うが止められない。


 あの姿で犯罪でもされては大変だ!


 至極もっともな懸念である。このときばかりは自分が「適度に」鍛えていたことに後悔した。が、

「くらーッ悪さすなァーッ!」

 一木の姿であるにもかかわらず思い切りビンタを叩きつける葵。余程筋が良いのか、またしても見事に頬からドバチン!と派手な音が弾けた。

「ダァーッいった! 痛! 腫れる!」

「性根は怨霊なんだから。うーんでも、瓶だと割れちゃうんだよねえ。もっと軽くて小さくて、ああ! 池ちゃん何か缶とか持ってない?」

「缶? カンカン……えーと……ああ! ちょうどいいのがありまーす!」

「は? は? 何? 何やっとんの?」

 ビリビリと痺れる頬を押さえながら一木の姿のまま後ずさる。トシも葵も部屋の隅に追い詰めながらニィ〜ッと笑っている。葵の手に、今朝方空になったばかりのドロップ缶が握られていた。もう片方の手にはどこから取り出したのかファンシーなマスキングテープがある。

「まさかッ……エ!? 嘘! ワシやぞ!? この大怨霊のワシを!? 冗談やろ!?」

「さあ〜どうかな」

「悪い怨霊はしまっちゃいましょうね〜? あれ待って、悪いと怨霊って意味が二重?」

「やめ……やめて……」

 部屋の隅に追い詰められる情けない自分の姿というのも新鮮なものだと感じている、完全に他人事として物事を見ている一木。これから何が起こるのかの見当がついていないからこその傍観でもある。

「今日からきみの名前はサクマさんだね」

「それがやりたかっただけやろーッ!!」

「だってさっきまでカワイさんだったしそこはまあ、了承してよね」

「嘘嘘嘘ッ……えッほんまに!? え、ちょ」

 トシの大きな手が、新たに「サクマ」と名付けられた怨霊の頭にズンと乗る。

「えいや」

「ウッ!?」

 手に筋が浮かぶほどに力を込めて押し潰す動作をすると、サクマの姿はキュッと圧縮されてしまった。ドロップ缶の口に入るほどのサイズまで、一気に。

「はい、蓋しちゃって」

「テープもつけちゃって、と」

「完成! 怨霊のドロップ缶詰め」

「ウワーッ甘い! 甘いにおいしとるゥーッ! おいダボカスども何してくれとんねん!!」

「3秒クッキングだ……」

 一木はいろいろとショートした頭でぼんやり、それを眺めていた。

「あの……何に使うんですか?」

「そのうち何かに使えるんじゃない? 池ちゃん要る? あげる」

「もらいます! 痴漢避けとかにはなりそう」

「ねえニンゲンなのにニンゲンの心ないの!? ダボカスなんとかせえ! ほんま……ほんまに出して!?」

 必死な声が同情を誘うが、同情する一木はそれをなんとかする力を持っていないのでどうにもできないし、トシと葵はひとの心を持ち合わせていない。

「いいねえ怨霊飼ってる相談所。信用上がりそう」

「あるあるネタですねえ」

「……」

 感覚がズレているのかもしれない。一木は黙ってガラス片を片付け、掃除機を出してきた。

 特に一日としては、変わらない。せいぜいが騒々しかったくらいなので、一木の中では「特に変わりなし」と括られてしまう、そんな非日常であった。

「……えワシほんまにサクマさんになるん!?」




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