第6話

「おお~」

 終業後、葵は一人で、事務所の上階にある古着屋にやってきていた。なんだかんだと来られずにいたが、ふと思い出したように立ち寄っていた。

 アジアンテイストな香りが古着独特のにおいを包み、BGMに気を取られすぎないよう主張の控えめな洋楽が流れている。通路は広めにとられており、全身鏡は多めの設置。足元のスペースにも靴類がディスプレイされ、埃は目立たない。まだ新装開店扱いではあるものの、内装だけ見ればオーナーやスタッフの仕事ぶりは伝わってくる。

「すごいすごい、いいじゃんいいじゃん! わざわざ遠出しなくてもよさそう!」

 古着を適度に取り入れたスタイルで休日を過ごす葵にとってまさに天国のような空間だった。新装開店ともなれば(一木に似た体質の人間でもいない限りは)余計なものを視ることもないだろう。あれこれと見て回り、いくつか手に取ったところでスタッフが声をかけてきた。

「ご試着されますか?」

「あ……じゃ、これ! 試着します!」

「かしこまりました」

 俳優、彫刻、その他さまざまな美の連想をさせる美形の男性スタッフである。葵が目を奪われたのは彼の着こなしであった。


 あたしの大好きなネルシャツコーデじゃん! はあ~推せるここ、推せるぞ。


 試着室から出たところで彼の笑顔に出迎えられてしまえば、レジでポイントカードを手渡されてしまえば、シンプルなロゴの紙袋をサービスされてしまえば、葵の帰路は夢見心地であった。

「やばい」

 そう広くはない一人暮らしの部屋のベッドに寝転がり、葵は紙のポイントカードをじっと見上げている。

「カワイさん……覚えた……」

 「カード発行者」の記名欄に押された苗字のスタンプに釘打つ視線を向け、つい先ほどの光景に思いを馳せる。

「久々に、心の底から『いい男だな』って、思った……最高だ……あんなのが職場の真上にいるのか……? 待って、ダメ、正気で仕事できるか? いや~冷静になれあおちゃん。あおちゃんは落ち着いた行動の取れる子だから、まずは」

 とても冷静とは思えない震える指先は、時間も気にせず親友に電話をかける。出れば出た、出なければ出ない。適度な距離感の親友は今夜はすぐに電話を取ってくれた。

『なしたァ』

「転職こそ天職!」

『それ仕事決まってへんな? いやにテンション高いやん……どうせろくなことにならんのやしはよ仕事慣れとくんがええやろに。どないした?』

「なんだかんだ言いつつ聞いてくれるからミチコ好き!」

 在宅デザイナーのミチコは葵と年齢と学年こそ同じだが、インカレサークル活動のためだけに葵と親交を重ねた友人だ。

『どや、現職は。早かったやんね?』

「良縁ってやつだよ! 入院先でスカウト受けたの」

『は? いや……アンタの運の向き方やっぱわけわからんな』

 葵の突飛さや日常のテンションに慣れているミチコは軽く流して受け止める。葵はミチコの、深追いしない姿勢を気に入っていた。

『で、何の仕事なん。ダークな加減はどうよ』

「新しい事業なんだー。だからあたしどころか、みんな研修だよ! ダークサイドは……ある意味、あるけど」

『またそういう会社やんなァ? いっそのことアンタも学校通ってフリーランスやりゃええのに。なんで接客とかにこだわるん? 好きなんはわかるけど、正直、将来性薄いやろ』

「まーねー、身体壊したら終わりだしね。あ、でもでも、なんか今回は違ってさー! あのねあのね、心霊現象を解決する会社なの!」

『ゴフッ……』

 電話越しにミチコが盛大に咽せる声が聞こえる。さすがのミチコにも想定外の返しだったようだ。

『な、なにて!?』

 完全に落ち着きを取り戻すよりも前にミチコは葵に問う。詰問のスタイルだ。ミチコにしてはかなり珍しい。

「へっへーん! まああたしにもついに能力が発現したってわけよ。その血の運命だったってわけよ。や、あれ、ただ視えちゃうだけなんだけど。なんもできないんだけど。だから会社ではほとんど電話対応とかだけなんだけど……」

 どんどん尻すぼみになってゆく葵の自慢だが、ミチコはあまりに驚いたのか口を開けたまま停止していた。

『ア……アンタ、やって、そういうん大好きやけど視えへんから寂しいって、言うてたやん……!』

「事故ったショックかなんか知らないんだけど、急にねー。てかさすがはミチコだね、普通信じてくれないよ」

『アンタがそないつまらん冗談言わへんのは知っとるて。しかし……そうか……そないな企業かあ……マジにあるとは思てへんかったな』

「まだ開業したばっかなんだって! てゆーか、それで電話したんじゃなくってさ! いやちょっと関係あるけど!」

 葵が興奮状態で電話をかけてきたことをすっかり忘れていたが、ミチコは話を続けてやる。

『あー、そういや、なんやっけ?』

「ラブ・トーキン!」

『……達郎?』

「達郎じゃなくてマジの方! や〜もう、まさかこのあたしが! でもでもとにかく最高で!」

『おいおい待ち待ち、置いてくな』

 ミチコは冷静に、葵の高ぶるテンションをこれ以上上げないように話をさせる。こと、葵の扱いには長けている様子が見て取れる。

「会社のビル、上の階に古着屋さんが入っててさー! うちらと同じでまだ新規開店なんだけどね? そこの店員さんで……もう、ほんと、サイッコ〜のお兄さん……会っちゃって……! 運命感じたね、うん!」

『ムチャクチャ惚れっぽいとこ何も変わらへんねんな』

「えへへェ」

『褒めてへん』

 ミチコのため息が電話口に吹きかかる。経験則上、葵の気に入る異性は「ろくでもない」か「とんでもない」のどちらかだ。それもそのはずで、葵は自他共に認める面食い気質であった。それ故に、関係性を発展させるにつれ、相手に保険の営業をかけられたり、高額転売の片棒を担がせられそうになったりと、実害はいまのところ出ていないものの失敗続きではある。そしてそのたびに泣きつかれるミチコとしては、もう葵には異性という前提から変えてしまうべきでは?とすら提言したかった。自分の負担が減るからである。

『どーせまぁたろくでもあれへんのやから、やめときや』

「いや〜わかんないよ〜!? 今度こそ、今度こそいいひとかもしんないじゃん!」

『これまでの経歴でようそない自信持てるなアンタ』

「いやいや、だからこそだよ! 目が肥えたってゆ〜か?」

『あかん、もうあかんわ』

 完全に諦めた調子のミチコ。彼女にできることはもう、葵がとりあえずは良い縁に恵まれるよう祈ることだけだった。



「いらっしゃいませ……あ、お姉さん! 今日も来てくださったんですか。ありがとうございます」

「え、えへへ! 来ちゃいました……!」

 葵が照れくさってはにかむとカワイも微笑み返した。そして、

「昨日のコーデ、素敵でした。似たテイストのアイテムって結構お持ちですか?」

「あ、えと、まあ……好き、ですね……」

「よかったら新作見て行きませんか? バックにあるんで、お見せしますよ」

「是非っ!」

 天にも昇る心地とはこのこと、と、葵は幸福を噛み締める。彼女にとってそれはザラメ煎餅のザラメを噛み潰すときや、カップの底に沈んだガムシロップがなだれ込んでくる瞬間と同じである。


 あ〜今日も最高のコーデ……見惚れちゃう……


 高い背をふんだんに活かした、シルエットの目立つコーデ。身長が細身に見せるぶん、靴は大きめの形を選んでいるバランスが良い。葵にとって、あまりに、理想的すぎた。


 毎日……毎日見れるのよ、この顔と、コーデを……!


 カワイがバックヤードからいくらかを見繕って戻ってくる。どれもこれも葵の理想に近い品であり、葵は今日も散財をして帰路についた。



 日を重ねるごとに、葵とカワイの距離感は近づいてゆく。寂しくなった財布はともかくとして、葵は幸福であった。もやしを炒めて食らうだけの生活でも死にはしない。それよりも強い幸福が、会社の上に待っている。

「池ちゃん、上のお店ってどんな感じ?」

「い〜い感じです……見惚れちゃうくらい……」

「お好きな感じなのでしたっけ。それは嬉しいですね」

「ホント、その通りですう……」

 日を重ねるごとに、葵の「恋する乙女」度合いは深まってゆく。最初は「返事がぼんやりしているなあ」程度だった、恋愛経験の乏しい男二人にも、葵の変化に気付くほどには、葵は普段の調子を失いつつあった。具体的に言うと、煙草の本数が明確に減った。香水の香りを目立たせるためである。

「池之下さん……」

「はいぃ」

「こ、この案件、どうでしょうか」

「これはたぶん請けた方が良さそうですねぇ」

「そ、そうですか……」

 それでも仕事には影響が出ていないのは不思議の極まるところである。葵がぼんやりと天井を眺めているところを男二人はこそこそと抜け出し、吹きさらしの非常階段で最大限に声をひそめて話し合う。

「ど、どしたんだろ……普段と全然調子が違って、なんかもう、正直見てられない」

「そうですね……いえ、もしかしたら彼女の本質は現在の様子にあるのかも。普段のペルソナ分離が特殊すぎますから……」

「あれが本質なんだとしたら彼女普段どれだけ役者なの!? ていうかごめん嘘だ、僕が慣れないや」

「私も同感ですよ」

 とはいえ案件が舞い込むようになってから事務所に直接相談に来る客も増え始めた。その対応を現状の葵がすると、短期間でのリピート率が高い傾向が一木の分析では弾き出されている。業務を取るか従業員の変化を受け止めるか、何にせよ効率に変化はなく、むしろ後者の方が儲け自体に直結しているのがリアリティを感じる結果だ。

 辛抱たまらずトシは煙草をふかしてしまったが、二人は議論の末、今日の終業後に葵にくっついて上の店に乗り込んでみることにした。自分たちも服を見たくなったと言えば、あの状態の葵が訝しむこともないだろうと踏んだのだ。

「いいんじゃないですかあ? うふふ」

「だ、だよねえ。僕もちょっと新しいファッションに手を出してみようかな、はは、あはは……」

「いいですねえ。じゃ、上がりましょっか〜」

「お、お疲れ様でした……」

 葵は一足先に事務所を後にする。気のせいか、ヒールの音がスキップを踏んでいるようなテンポのように軽い。

「……僕らも、閉めたら……行こうか」

「は、はい。行きましょう」



「カワイさん!」

「こんばんは葵さん。今日も早いですね」

「今日のカワイさんコーデ、早く見たくって……」

 ミチコの助言(と言うより、ため息)をすっかり忘れた葵はぽうっと頬を赤らめてカワイを見つめている。今日も、いいえ、いつ見ても本当にステキ。そんな顔だ。

「そうそう。今朝、面白いのが入ったんですよ。まだ店頭出してないんですけど、葵さんにだけ、特別に」

 「葵さんにだけ」「特別に」のパワフルなワードをダイレクトに食らってしまい、葵はほぼ正気を失っている。

「試着室開けといたんで、待っててください」

「はぁい……」

 もれなく語尾にハートマークのついていそうな調子で、指示通り、試着室に入る。カーテンを閉めるとかすかにカワイの香水が香った。つい今し方まで掃除やら支度やら、していたのだろう。葵はまたしても舞い上がってしまい、意味もなく髪を整えるなどしていた。

 突如としてカーテンが開いた。山での「研修」を経て尚ビックリ系に弱い葵だが、声は出なかった。目の前の鏡に映る、自分の背後にいるカワイの姿に、一瞬安堵し、すぐさま警戒に変化したのだ。


 なんか、カワイさん……霞んでない?


「……」

「……カワイ、さん?」

「ようやっと活きの良え小娘が掛かったか。待たせおってからに」

「……え?」

 バン!と鏡に叩きつけられるカワイの手。葵より、三十センチはゆうに高い背。それがゆっくりと屈んで、口元が葵の首筋に近づいてくる。

「見たところ、それなりの力はあるようやしなあ……ほなゆっくり生気吸わしてもらうとするか」

 いまになって、ミチコのため息を思い出す。

 ろくでもないか、とんでもない。

 至近距離で見てようやく、カワイの姿は向こう側が透けていると視認できるのだった。


 と、とんでもねえ〜〜〜!!


「か、かわ、カワイさ、きょ、京都の、ご出身な、の?」

「どうやろかなあ……」

 よみがえる、前職の記憶。仕事の早い葵に嫉妬したのか、やたらといびってきたのは京都弁の「お局」であった。

「それにしてもえらい収穫や。下から同業が消えた思たら、掛かったんが将来有望な小娘とは。勿体があらへんな、揉んだらもそっと育ったやろに」

「余計なお世話です!」

「まあもう関係あらへんなァ……?」

「ちょ、え、マジで……!?」

 舌舐めずりして葵の肩を掴む。カワイの笑顔は見る影を完全に消失している。一巻の終わりと思った葵がギュッときつく目を閉ざす。

「悪漢確保!」

「ぐぅ!?」

「は!?」

 一瞬の出来事で、思わず葵が目を開けるとそれは見事なフォームで一木がカワイにヘッドロックを仕掛けて床に捩じ伏せていた。

「え何!?」

「トシさん!」

「うん!」

 トシ渾身のパンチがカワイの鳩尾に寸分の狂いなく叩き込まれる。

「ぐわーッ!?」

「圧縮!」

「な、なん……ッ!? なんッやこの力ァ……!?」

 腰を抜かした葵は呆然とそれを見ていることしかできない。カワイの姿はみるみるうちに、トシの言葉通り「圧縮」されてゆき、霧状になったかと思うと手近にあったアンティークの瓶に吸い込まれて消えた。「Drink me」のタグのついた瓶にコルクでキュッと栓をすると、瓶はしばらく暴れてカタカタ揺れていたが、やがてそれすら止んだ。

「ふー、間に合ってよかった。池ちゃん大丈夫かい?」

「お怪我はありませんか」

「あ、はい、大丈夫……ありがとうございます……な、何が起きたの……?」

「私には何もわかりません」

「だろうね。いやあ、びっくりした。僕も久々に視たくらいの悪霊だよ」

 唖然としたのは一木もである。

「悪霊ォ!?」

「ど、どうして、私にも視えたんです」

「それくらい強いからってことだね。まあ殴ったらなんとかなったけど……」

 口に出せる雰囲気でないので葵は言わないが、「トシさんがめっちゃガチに殴ったからじゃん……?」とは内心の正直なところであった。

「視えないひとに実体があるようにすら視せる力があるんだ。ひょっとしたら池ちゃんの理論で言えば、妖怪の方が近い表現かもね」

「そんなのが……あたしを?」

「力がどうとか言われなかったかな。思い当たる節があるよ」

 トシはこんな状況にも関わらずわずかに微笑みを浮かべている。トシの顔を凝視していた二人だからこそわかることだった。

 雰囲気の良いBGMに取り残されて、奇妙な距離感。




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