赫焔のフュヌイ

山船

正の走光性

 フュヌイの目には、白く塗られた教会の外壁が、あたかも神の尊厳をそのまま象徴するかのようにまぶしく輝いている、そのように思われた。この地の晩夏にしては珍しくすっかり晴れ渡った空から、そうでなくとも強烈な太陽の光と熱とがこの教会へと降り注いでいた。

 彼女の右手がようやく日向から木陰へと引き戻された。薄い汗の層を纏った掌を見て、彼女は微笑んだ。

 嬉しかったのだ。何もかもが。ここには船室の暗さは無い。イベリアの乾きも無い。何より、神の不在がありえない。教会が落成した今日この日に、陽の光は欠けること無くその威厳を放っている。その幸いが何に阻害されようか。彼女はそんな風に思っていた。教会の入り口のところで司祭が手招きするようになっていたことに気づいて、彼女は教会の方に戻った。

 じきにこの教会の落成式が始まる。教会の入り口をくぐると視界の輝きは一気に失われ、薄暗い部屋の明るさに目が慣れるまでの間、盲目になったようで彼女は入り口のすぐ近くに立ちすくんだ。それが治ると助祭が一人で慌ただしく準備を進めているのが見えた。半ば彼の背で隠れてしまっているが、そこには銀の調度品が並び、まだ聖変化を起こしていないワインとパンだけがアクセントとなっている。どの一つを取っても、すべてフュヌイが寄進したものだった。見飽きてまたもう少し中へと歩みを進めようとしたとき、壇の近くにいた男がフュヌイに気づいて顔をそちらに向けた。彼はこの教会の司祭だった。

「スリストゥウさん、この度は本当にありがとうございました、あなたのご寄付を頂かなければこんなにも良い環境にはできなかったことでしょう。寄付を求める立場で言うのもなんですが、あなたの資産もそう多いわけではないでしょうに、本当にありがたく思います」

司祭の、年齢の割には軽く聞こえる声があった。

「いいえいいえ。私が帰るときにちょうど生まれ育ったところにも教会ができる、と風の噂で聞いたもので、お金など持っていても仕方ないでしょう、すべてに変えてしまったのですよ。やはり神のご加護があります、船も沈まず、今日だってこんなにもいい天気で」

こんな小さな、おそらく副王領のどこかで週に1つは落成していそうな教会が風の噂に乗るわけはない。ただ、そんなことはフュヌイにはどうでも良かった。帰り次第適当に目に付いた新しい教会に寄進しようと思っていたら、生家からわずか一時間程度の場所に新しいものができているのだ、これが神のお導きでなくて何だというのだ。それに、僅かな嘘を使って人を喜ばせることができるならそれは正義だ、と彼女は思っていた。どうせ真実は神には筒抜けなのだから、気にするべくもなかった。

「それではもう……失礼ながら、素寒貧に」

「ええ。ですが、お気になされないでください。ここを発ったときと同じに戻っているだけですから。血によって誤った奉仕をするのでなく、財貨によって正しき奉仕がなされる、それが何よりの喜びですから」

「血……ええと、すみません、シフア族の俗習は不勉強で」

「簡単なことです、人を殺して流れた血が神への捧げ物になる、そういうとんでもない誤解が蔓延していただけのこと。そのうちに神の怒りペストが起こってしまいましたから、もう詮無いことです」

「ああ……なるほど。しかし」

「何も悲しくないと言えば嘘になります。ただ、私の血族の中で生き残った者は私ただ一人のみ。これが意味するところ――神の慈悲を、感じ取れないほど弱ってしまったわけでもないのです」

そう言って、彼女は司祭をひとまず黙らせた。彼女は司祭には興味が無かった。より正確には、この場にいる誰にも興味が無かった。神への奉仕の意志を同じくする者であれども、興味を持つほどの義理が無いと、彼女はそのように思っていた。

 あれほど賑やかに動いていた助祭がどこかに消えてしまって、話し声も消えた屋内は、神の御姿が顕れて以来ずっとそうであったかのように、荘厳な雰囲気によって人の口をつぐませていた。そしてそれも千年王国の出現までずっと続くかのように思われたが、すぐに助祭が戻ってきたことによってその静謐も失われた。いよいよ式典の準備が大詰めと見えて、着席するように促された。なるべく興味のない会話を行わないという彼女の小さな企みはここに成功を見せた。

 教会の落成に関する簡単な口上が読み上げられ、多少の感謝の文句がフュヌイに伝えられた。司祭と助祭を含めても6人しか臨席していないこの場では必然的に全注目がフュヌイに集まる。それも事もなげに流され、式はすぐに元の軌道に戻された。

 式は副王領でシフア人を襲ったペスト禍の慰霊に移った。フュヌイの住んでいた集落にもペスト禍は襲ってきたし、彼女も感染していた。その証拠に彼女の左足にはまだ腫れたところの痕が残っている。もっとも、普段から人に見せるような位置ではないから彼女も平気で何事も無かったこのように過ごすことができていた。

 おそらく集落の誰もが感染したのだろう。生き残ったのは何人だったのだろうか。

 『良き報せ』を伝える彼らが来てそう日も経たないころ、フュヌイの弟がペストに罹った。次の日には妹と父親、それからもう一人の弟と叔母にも広まった。その次の日には残りの家族全員もやられた。おそらく他の家でもだいたい同じようなものだったのだろう、フュヌイが起き上がれるようになったときには集落にあった活気というものが、真昼でも深夜にあるかのように一掃されていた。そうして、彼女が気づいたときにはもう集落は壊滅していた。女手一つでは何をしようにもどうしようもない。彼ら――『良き報せ』を持って、しかし当時の彼女には言葉が通じなかった彼ら――に脅され、もしくは促されて、否応なしにフュヌイはイベリアへと渡った。

 それから4年が経って彼女は戻ってきた。4年という月日は人をまるで別人に変えてしまった。彼女の言葉も、信仰も――彼女はこれから何をするかさっぱり決めていなかったけれど、廃墟になっているであろう集落を見に行ってもさして罰も当たるまいと、そう思っていた。暇ができるようであったら見に行こう、と彼女は決心でもない決心をした。

 フュヌイが静かな瞑想的な思考の探索にあるうちに、式は終わった。彼女は緊張の糸が切れたように、あたかも油断しきっているかのように、司祭の近づいてくるのをすんでのところまで気が付かないようなふりをした。

「今よろしいでしょうか、スリストゥウさん」

「ええ、ええ、どうぞ」

「大したことでは無いのです、ただ、スリストゥウさんがこれからどうなさるのか、と。私などは世間知らずですから、てっきりあなたが身を守れるほどの財産を纏って、副王領でも商人業を続けるものだとばかり思っていましたから、そのつもりで言伝もお伝えしようと思ったらさっきでしょう、あなたの意思を聞いておかねば私も動けなくて」

「まあどうとでもなりましょう。無一文でも、この足さえ動くのであれば商人というものはできます故。野盗などに出くわすのは困るところですから、護身具だけは残してありますし、護衛だって交渉はできましょう」

「それは良かった。それで本題なのですが、ここから南に2日ほどのところにちょっとした都市がありまして、そこに王の雇った軍がひとつ駐屯しています。その隊長さんから、商人が来るなら取り次いでくれ、と頼まれていまして、明日到着する予定になっているのですよ。そういうわけですから、もしよろしければ今日は泊まっていかれませんか?」

「渡りに船というものです、お言葉に甘えましょう。今日は野宿とばかり思っていましたから」

司祭はせわしそうに、人当たりの良い笑みを浮かべながらそれだけで会話を終わらせて別の来客の方へとそそくさ去っていった。別に泊まらなくても良かったが、泊まっても良いとも彼女には思えた。だから面倒を先延ばしにする意味でも、理由なく提示を受け取ることにしてみたのだった。

 しかしながら、泊める客人相手に案内も無しに放り出すとは、とフュヌイは司祭の気の回らなさに少し腹を立ててもいた。咎めても詮無いことであるとはわかっていたし、それで怒るような性格もしていなかったが、彼女はそこで黙って案内を待つほど淑やかでもなかった。司祭の背をすり抜けるようにして、助祭か誰かがいるであろう奥の部屋にノックもせず入り込んだ。小窓と机に何か紙が乗っているだけの簡素な部屋には、まだ真新しい建物なのにどうして埃っぽいような空気があった。

「失礼、助祭さん、わたくしベルトラン司祭の方から今日ここに泊まるようにってご厚意を頂きまして、司祭はお忙しいようですから、ご案内をお願いしてもよろしくて?」

「ええ、ああ、はい……えっと、お名前をお伺いしても?」

「フュヌイと申します。フュヌイが名で、姓はスリストゥウ、シフア人の生まれですが、神を信ずる者です」

「ああ、商人の……いえ、司祭が言っていたのを思い出していただけです。では」

そう言って彼は立ち上がり、フュヌイが扉から退いたのを見て、彼女を先導する気は無いとでも言わんばかりにすたすたと歩いて行ってしまった。商人の、と言った時に何か嫌そうな顔をしたのをフュヌイは見逃さなかったが、何も言わなかった。

 フュヌイは過去にもこの手の対応をされたことがあった。イベリアでは商人といえばムスリムかユダヤ人だった。「真の神を信ずる者なら無辜の人をだまくらかして金品を巻き上げるような賤業はしない」から、とそのときには言われていた。階段を上りながらそのことが思い出されると、彼女の生来の反骨心が育つ麦のようにしなやかにそして確かな重みをもって主張されるのが彼女の心には感じられた。

「これが客間です。司祭には伝えておきますから、あとはご自由に」

「お待ちになって。助祭さんと呼ぶのでは味気ないですから、お名前を教えていただけます?」

「……マティアスです。マティアス・ロペス・デ・ルベイラス。他にご用があれば階下まで」

血を捧ぐのではなく金品によって奉仕をする、それが彼女の理解であった。神に仕えているという意味では聖職に就いている者と大差ないどころかその下支えをしているのだからより崇高だろうとさえ思っていた。それを理解できない人には、こうやって少し嫌がらせをするのが彼女の悪癖だった。

 部屋の小窓からは遠くに大きな雲のあるのを認めることができた。僅かな間彼女はそれを眺めていたが、すぐに司祭が泡を食って平謝りしにきたので、それを面白いと思ってすっかり空への興味は無くなってしまった。

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