きりきり

 不正義は正されなければならないものだから不正義であるのだ。誰が正さなければならないのかと言えば、それは真の信仰を持つものすべてであった。とりわけ王であった。王はあくまで神の地上に対する権力を代替しているに過ぎず、しかも副王は王に任命されてさらにそれを代替しているのだ。副王にこの道義的責任を求めることは、フュヌイにはまったく難しいことではなかった。副王に働きかけ、シフア人に対するすべての悪しき取り扱いを副王の権力によって即座に中止させようと迫る、フュヌイが首都まで上ってきたことにはそのような魂胆があった。

 しかしフェリペ副王の宮殿は広かった。宮中の人物はそれ以上に幅広かった。予想以上に多くの人々が階層を為して、陳情を聞かせるにもそれを可能にする通路の無い状況であったので、この首都まで来てここで足止めを食らった格好になったフュヌイは少なからず苛立ちを覚えていた。

 それで、彼女が使える手札はそう多くなく、しかしその中で最も有力なものがエンリケの伝手であった。もちろんエンリケはここから3週間の遠さのフアリキにいるのだし、彼の顔を見せて誰かに繋ぐこともできなかったが、待てば話を伝えられる窓口のようなものはどうやら存在した。そこに紋章旗を見せれば信用など些細な問題になる。そこまで来て初めて、フュヌイはエンリケ相手に口火を切ってしまったのが迂闊なことであったと反省した。もっとも、彼女自身の内省によれば、あのシフア人たちの待遇を見ては沈黙していることなど到底困難であって、エンリケを目の前にして話さずにいることは不可能に近いことであった。どんなに感情を彼女の表情の鎧の下に置いて守ろうと思っても、目に焼き付いた光景とエンリケの紋章旗がおそろしく密接に関わってしまっていた以上、それはフュヌイの大海のような我慢の、その限界を超えるようなことでもあった。

 今、フュヌイは宮殿の一室でそのの来るのをただ待っていた。何を話すのかなど、首都に来るまでの間に時間なら掃き集めて畑に撒けるほどあった、その間に決めきっていないわけがなかった。なので、フュヌイはここで待たされていても、ただ夏の日差しに焼かれるように、不安とも怒りともつかない感情がじわりじわりと膨らんでいくのだけが感じられていた。

 こんなところで何の役にも立たない焦燥を募らせて何になろうか。副王が暴政を働いているのであれば、この不徳を廃するための最短経路はすなわち副王を排除し、殺し、あるいは廃人になるよう手を回し、フュヌイ自身が政務を乗っ取ることではないのか。そのような、全く真の神の望まれないことにまで思いが馳せられていった。

 待っていた時間は10分にもならなかったはずだが、フュヌイを疲弊させるには十分な長さがあった。ようやく人が入ってきたとき、フュヌイはその男とまったく初対面であったのに、彼女にしては珍しいほど素直に笑みを浮かべることができた。

「やあやあすみませんね、閣下の政務補佐官ってのをやってるシモン・メディナです、肩書聞けば分かったこととは思うけど私も忙しいんでね、手短にお願いしますよ」

「スリストゥウ・フュヌイと申します、エンリケ・ラグナルソンの御用商人をさせてもらっています、福音を知る物です。今日は副王へお伝えしたいことがあって参りました」

浮薄漢だ、というのがフュヌイのシモンに対する第一印象だった。忙しいという主張が真実なのかどうかは判然としなかったが、何であれそのようなことを正面切って言う時点で、フュヌイのことは相当雑に扱っても構わないだろう、と彼が考えていることはフュヌイにも伝わってきた。客人――その数はフュヌイの想像の及ばない多さであって、そのおびただしささえフュヌイの知るところとなれば、このような態度を取ることにも納得はできたはずだが――に対して表面を取り繕うこともせず、まるで警戒心の無いようなこの男が政務補佐官とやらであれば、この宮殿がいかに見掛け倒しで実際の正義を遂行する能力に欠けているかわかろうというものだった。少なくともフュヌイはそのように思ったので、この男に取り入ってしまおうと企んだ。

「名前からするとシフア人ですよね、スリストゥウが名字?」

「ええ。しかし、私がシフア人であることと嘆願の中身は関係ありません。ただ、地上に神の正義を介在させていただきたいのです」

「……というと?」

「……シフア人らの間に神の怒りペストの蔓延ったことのあるのは、ご存知ですね。その当然の帰結として、おそらく全ての村ででしょう、村としてやっていけるほどの人数は生き残りませんでした。それ自体は過ぎたことですし、誤った信仰の帰結ですから、仕方のないことです。それでも生き残ったシフア人たちは、新しく村を作っていました。それで……」

ここで一度フュヌイは言葉を切り、シモンに憐憫の情を引き起こさせるため、なるべく媚びた目線をシモンに送った。表情こそ変化しなかったが、シモンも必ずや心動かされたに違いないとフュヌイは確信していた。それは遠からずとも近からず、そのあたりだった。

「シフア人の村の一つが、つい先日焼かれました。実行者はエンリケ・ラグナルソンとその軍勢でした。無論私はその大悪をすぐに糾弾しましたが、彼は住民の通報と副王からの命令で仕方なく行った、と言っていました。彼もまた王の騎士、王の代理人たる副王の命令には逆らい難いのでしょう、そうならば、なぜ直接副王にその悪行をやめ、また反省するよう進言しないことができましょうか」

「……そうか、それは災難でしたね。ただ……閣下は筋金入りの……その、貴族主義者で。スリストゥウさんが女ってだけで、進言に相当説得力が無ければ可能性も無いだろうと思っていたのに、しかもシフア人だと……」

「そんな理由で、この大いなる不正義を見逃すのですか、神の名の下に平和と良き報せを奴隷に身をやつしたシフア人に届けてやらないのですか! 病に伏し、やっとのことで再建した村からも焼け出され、囚えられ、明日死ぬとも知れぬ労苦を背負わされ続ける彼らになぜ神の威光を与えないでいられるのですか!」

「私としても、可能であればそうしたいですよ。しかしね」

激憤して立ち上がり唾を飛ばすフュヌイに向かって、シモンは事もなげに眉根を下げてわずかに答えた。

「私だって閣下の下で働いてもう5年目になります。私にはわかる、それで閣下が動かされることは、万に一つも無い。無駄なことに時間を割けるほど私は暇ではないので、これ以上無いなら失礼しますよ」

「…………また来ます」

足早に扉を開けて出ていこうとするシモンにフュヌイが出せた言葉はそれだけだった。

 感情が高ぶったとてそれをまっすぐに人にぶつけないことは、フュヌイの短くない商人生活の中で自然に身につけられたものだった。それは行動にはけ口を求めた。すぐさまフュヌイは馬車へ戻ると、首都で夜を迎えてなるものかとばかりに街を飛び出していった。

 教会へ戻る二週間のうちに、フュヌイの怒りは徐々に冷え固まっていった。そしてその火成岩のようになった思いは、しかし風化せず、教会の金の十字が見えたときにはそれがまた熱を持つように思われた。フュヌイは馬車を片付けて教会へと入っていった。

 ベルトラン司祭がにこやかにフュヌイを迎えていた。フュヌイは彼とマティアス助祭に首都でのことを話したが、フュヌイの意志がゆるやかに応援される以上のことは無かった。

 翌朝になって、フュヌイにはスィフニウが見つけられなかったのでベルトラン司祭に尋ねたところ、いつまでも来客用の寝室を貸しているわけにもいかないから倉庫の方にいてもらっている、と答えが帰ってきた。フュヌイは迂闊にもそれが真実であるかどうか確かめずに教会から去っていってしまった。それほどにフュヌイは絶望に満ちながら希望に燃えていた。今度のフュヌイの計画は、シフア人が手酷い待遇を受けているところを見て、そこの産品を集め、エピソードとともに提出する、そのような作戦であった。

 品々はすぐに集まった。スィフニウがいた村だけでなく他の村、フュヌイの知らない村々も副王の魔の手が及んでいると見えて、肉体労働の必要なところであればどこでもシフア人奴隷の姿が見えたからだった。フュヌイは染料工房にシフア人奴隷を見た。岩塩坑にも見た。南のカカオ農園にも、東の海辺の漁村にも、首都からそれほど遠くない金鉱山にすらシフア人奴隷の姿があった。道中の農村でも数え切れないほど、光の不在に喘ぐシフア人がいた。

 フュヌイは短い染布を買った。握り込める大きさの岩塩を買った。袖の中に仕込めるような小さな麻袋にカカオの粉を詰めた。食料の彩りにもなると思って魚の干物も買い込んだ。最後に、イベリアの王の紋章の威信を使って、小麦粉一粒ほどの金を分けてもらった。その全てを伴って、フュヌイは再び宮殿の部屋に来た。

 シモンは前回よりも時間をかけてフュヌイの前に現れた。おそらく15分程度だ、とフュヌイは思った。もし前に来たときにその時間待たされていたとしたら、フュヌイはもしかすると気が狂ってしまったかもしれない、半狂乱で人事不省に陥り、その勢いのまま背中に隠したクロスボウが副王の頭を射抜いて、そしてフュヌイ自身の首もその場で切り落とされたかもわからない。それでは正義を達成できない。なあなあで済まされているものが、副王の頭一つをすげ替えたぐらいで廃されるものか。だからこそ、フュヌイは副王を説得する必要があると痛く感じていた。

「お久しぶりです、メディナさん」

「本当にまた来たんですね、スリストゥウさん……この机の上の乱痴気騒ぎは、一体どういう了見なんですかね」

その言葉をまさに待っていたフュヌイは、罠に獲物がかかった瞬間を見るように、人を怯えさせるような目をシモンに投げ与えた。その机の上にはフュヌイが集めた5種の品が所狭しと並べられ、シモンにいくらかの圧迫感を与えたに違いなかった。

「一つずつ説明しましょう。まずこの染布、その染料はどのように作られているか、それは今シフア人を酷使することによって作られているのです。染料を作るには、この色の場合、野山に生えるある種の植物の葉をすり潰してやる必要があります。もちろん野山に分け入って葉を集めてくるのも、すり潰すのもシフア人がやらされています。しかも大きな布を染めるにはそれなりの量が必要ですから、ひどい時には一日かかっても求められた量が集まらず、飲まず食わずの上夜中その葉を探させられる者さえありました。それだけではありません、その葉をすり潰すと染料になるのですが、すぐに布を漬けなければ染料がだめになってしまいます。ですからシフア人たちは葉を激しくすり潰す必要がありますが、何日も何週間も酷使され、果ては先程申し上げましたようなひどい扱いを受け、それで残る体力などたかが知れていますでしょう、全然間に合わないようになってしまい、それでこっぴどく鞭に打たれてしまうのです。あまりにも非道な話だとは思いませんか?」

シモンはフュヌイの話すのをしんと聞いていた。少なくとも、端から聞く気の無い態度ではなかった。それだけで、フュヌイはもうこの戦術の成功を確信できた。それから続けてフュヌイはもう2つほど話したところで、シモンはフュヌイを止めた。

「もういい、もういい、わかった、閣下に取り次ぎましょう。閣下だって人の子だ、こんな話を聞かされては心が傷まないはずもなかろうでしょう、もう私はそんな陰惨な話を聞きたくはない」

そう言って、シモンが副王へ話を取り持ってくれることになった。フュヌイは無邪気に、大いに喜んだ。心から喜ばしいことだと思った。神の正義は必ず為されるとまた確信を持つことができた。肝心の謁見の日は明後日になるだろうと言われたので、フュヌイはシモンに宿泊先のことを伝えて宮殿から去った。

 フュヌイにとって、1日が余りにも長いと思ったことは、初めてでこそ無かったもののあまり無い感覚だった。次に瞬きすれば一瞬のうちに夜になっていやしないだろうか、そういった妄想が頭の周りを回っていた。ふわふわとした多幸感は、フュヌイを神に次いで万能であるような気持ちにさせた。

 その幸福は、しかし、すぐに消え失せてしまった。

 副王への謁見は成った。いつものように挨拶をするやいなや、フュヌイはシフア人の女だというかどでシモン諸共追い出されてしまった。反駁は逆効果だった。ますます強硬になった副王は、宮殿の衛兵に命じて、物理的に無理やりフュヌイを排除してしまった。シモンの威力があってなおそのような態度を取られるのであれば、フュヌイが働きかけを行える範囲でより効果的に副王を説得できる人物というものはいないも同然であった。見せようと思って持ち込んでいた荷物だけは謁見の間に置き去られたが、それがフュヌイの元へ返ってくることは無かった。

 結局、シモンの予見は正しかった。フュヌイはそのことに打ちひしがれた。三ヶ月前に首都を去ったときの熱意は今のフュヌイに宿らず、ただ失意のまま、おぼろげに馬車を動かしてフュヌイは首都の門を出ていった。

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