聖なる三位一体
冬の二週間はフュヌイの頭を冷やしきり、その凍る鋭さは失意など簡単に貫くものであった。雨のあまり降らない副王領の冬の時間は、教会に着くまでの間にすっかりフュヌイを癒やしきってしまった。彼女が首都を出たときのような、死んだほうがましだとでも思わせるような絶望はもう彼女のどこにも残っていなかった。
さりとて、今の状況はフュヌイには八方塞がりでもあった。副王には言葉の音の一つさえ届かず、シモンにも見限られてしまった。道の僅かな窪みに跳ね返ってきりきりと鳴る馬車の上で、フュヌイはこれからどうすれば良いのかを黙って考えていた。
副王を手に掛けるという発想は、やはりあまりにも焦り、人の苦しみを看取し、その不正義を訴えなければならない、そういった混乱した頭の中でのみ発現し得たものだ、とフュヌイは思った。神はこの宇宙を作られたその時から殺人を禁じていたのだ。自然の法に反するのだ。それしか方法が無いのでは無いから、フュヌイがその方法を選ぶことはあり得なかった。
そうしてフュヌイは教会へ戻ってきた。落成から半年あまり経って、この教会の壁もわずかにくすむようになってきていた。それは自然の摂理であって抗うものではない。フュヌイは不意にそのことが胸に染みるように思った。シフア人が残酷な待遇を受けることも、あるいは自然の摂理なのかもしれない、そう思ったからだった。シフア人すべてが信じた神、それでなければ神に対する奉仕の方法、それがどこまでも誤りに誤っていた以上、その罪を子や孫にまで真の神は贖わせるのだ、そう思うとフュヌイの中には一種の納得があった。
フュヌイはもう慣れた手付きで馬車を停めた。飼い葉桶に水溜めから水を注ぐと、その冷たさでフュヌイの手はかじかんだ。それがシフア人の受ける罰の、ほんの一部分だけであっても肩代わりになっているように思い、フュヌイは馬房のルナを撫でた。そして教会の中へ入っていった。
今日は日曜日の昼下がりだった。ついさっきまでミサの片付けをしていたに違いないその聖堂では、ベルトラン司祭とマティアス助祭が並んで何かを話していたようにフュヌイには見えた。彼女が入ってきた音に反応して、二人は入り口の方へ向いた。
「お久しぶりです。お変わりありませんか?」
「ええ、お陰様で、神のご加護もありますからね、スリストゥウさんは首都へ行ってきたと小耳に挟んだのですが、積もる話もありましょう、ぜひお聞かせください」
ベルトラン司祭がフュヌイの内心も知らずに雑な話をした。こんなのが司祭では神の千年王国は遠いとフュヌイは思った。相も変わらず、フュヌイはこの小太りの、無知の幸福を享受している司祭のことが好まれなかった。
「その前に、まだ居るのならグルイムさんにも挨拶しておきたいですから、グルイムさんはどちらに?」
「まだ倉庫の方に住んでいますよ、ですが挨拶はいいでしょう、マティアス、スリストゥウさんをお連れして」
ベルトラン司祭のすぐ斜め後ろに立っていたマティアス助祭が、スィフニウの話が出た途端に苦しそうな表情で目線をそらしたことは見逃そうと思っても見逃せるものではなかった。しかも高々挨拶をどうしてやめさせる必要があるのか、フュヌイはベルトラン司祭の言うことも不躾だと思った。礼節の軽視はベルトラン司祭の悪徳だとフュヌイは前々から思っていたが、今度ばかりは大っぴらに反抗してやろうという気持ちになっていた。副王への陳情があえなく失敗したのみで、フュヌイの芯の強さまで折られてしまったわけでは全く無かったのであった。
「そうですね、マティアス助祭、私をグルイムさんのところへご案内いただけます?」
「ええ、承知しました」
ベルトラン司祭は虚を突かれた風で、何か言葉を二人へ投げつけようとしていたらしいが、それよりも素早くマティアス助祭はフュヌイを連れて聖堂を出た。その横顔は、満面の笑みと言うに相応しいものだった。
いくら土地を使えるとはいえ、倉庫にたどり着くために10分もかけなければならないような設計は無い。フュヌイとマティアス助祭は倉庫の扉の前に立つまでまったく会話を交わさなかった。いつの間にかマティアス助祭がいつものように口を真一文字に結び、頑なな表情をしていることにフュヌイは気づいた。それは、神の前でこれから審判でも受けるかのような強張った表情だった。そして倉庫の扉が開かれた。
そこにいたのは、すっかり骨と皮ばかりになったスィフニウの姿だった。フュヌイは彼に駆け寄って、気絶していたのか眠っていたのかもわからない彼の腕を取った。軽く持ち上げただけなのに、スィフニウはそこに激痛でも走ったかのように顔を歪めた。彼は教会に逃げ延びてきたときよりも憔悴しきっていた。その様子を見て、フュヌイは顔を捻りきっとマティアス助祭のことを睨んだ。
「……教会権力というものは、上の立場にいる者に逆らえるようできていないのです。神の僕の僕たる教皇猊下より、その権力の代理人として叙階される司教がおり、それがまた叙階する司祭、そしてさらに叙階する助祭、そういった構造なのです。それぞれがより下位の者に対して神の絶対権力を代理するのですから、神に逆らい得ない以上は、その構造を覆すことはできないでしょう」
長々と言い訳じみたことを、とフュヌイは思った。それと同時に、彼女は教会の外からであればこれを打ち破れることも瞬時に理解した。言葉が鋭くマティアス助祭に放たれた。
「グルイムさんに食べ物を持ってきてください。今すぐ!」
彼は駆け出していった。わずかに風のある音が聞こえるほかには何の音も無かった倉庫の中では、マティアス助祭の駆ける音がよく聞こえた。ベルトラン助祭がおいと怒鳴る声が聞こえ、そしてまた駆ける音が戻ってきた。フュヌイの視界に現れたマティアス助祭の右腕の中にはパンとタマネギが、左手には水の入ったスープ皿があった。彼はそれをスィフニウの前にあった机――半年前にフュヌイが寄進したものであった――に置くと、スィフニウはやおら動き出して、その冷え切った水を飲んだ。
「マティアス助祭、そこでグルイムさんを見ていてください、私はベルトランさんに話をしてきますから」
それを見るが早いかフュヌイは立ち上がり、マティアス助祭が今走った道を、彼女は怒りを込めて歩いて行った。
フュヌイはベルトラン司祭を散々に指弾した。たとえ人が教えを拒んだのであっても、人に血を流させる者が司祭に適任であろうはずがなかった。いわんや福音を半ば受け入れているような人をや、ベルトラン司祭の悪行は計り知れないものであるとフュヌイは吐き捨てた。力ずくで司祭の座から排除するためにマティアス助祭の方へ一度戻り、そしてまた聖堂に入ったとき、ベルトランの姿は影も形も見られなくなっていた。
マティアス助祭の協力の下、フュヌイは教会の隅々までベルトランが残っていないかを探した。隠し部屋などというものは無かったから、ベルトランが間違いなく教会の外へ逃げ出していることが明らかになった。懺悔室、ベルトランの私室、廁、そのどこにも忌まわしい残り香を除いては何も無かった。
「……グルイムさんのところに戻りましょう、これ以上は詮無きことです」
そうフュヌイが言ったことをきっかけにして拘束が解かれでもしたかのように、マティアス助祭は膝を突いた。彼は次の瞬間には立ち上がらんとした。頑丈なように倉庫まで歩いて戻ってきたが、そこでついに精神の力が尽きたと見えて、壁で背中を削るようにして座り込んだ。
「……ほんとうは、私だって、そのことが赦されるのであれば、いつだってあの司祭を教会から蹴り出してやりたかったんです。私が副王領に来た理由もだいたい同じようなものなんだ、イベリアで、私が従っていた別の司祭が姦淫していたのを見たので、それを司教に報告したらここへ飛ばされてしまったんですよ、ハハ……それで、こっちに来たら、まあこっちに飛ばされるような人だからってことでもあったのでしょう、気の回らない差別主義者でしたから……」
そこでマティアス助祭は激しく咳き込んだ。倉庫の空気には、いつも彼が使っていた部屋よりも数段塵埃が舞っているように思えた。彼が回復し次第スィフニウを運び出さなければならないな、とフュヌイは思った。
「スリストゥウさん、あなたはもう客間まで行ってしまっても構いません。私は……見ての通り、まあ、暫くしたら直りますから」
「いいえ、私は病人2人をこんなところに置き去っていくほど薄情なつもりはありませんよ。それより、土産話というものがありますから、せっかくですからグルイムさんにもお話しましょう」
そう言って、フュヌイは適当な箱に腰掛けた。それでもまだ2人を見下ろす格好だったので、今ここからいなくなってしまったら本当に2人は死んでしまうのではないかとさえ思った。
それからはつらつらと話すフュヌイの声が倉庫の中に満たされていた。時折3人の誰かの咳き込みがそれに割り入ったが、それは話を邪魔するどころか、むしろ盛り立てるような役割さえ果たした。各地のシフア人の迫害には3人とも熱が入った。首都の賑わいは一服の清涼剤となった。そして、副王の政務補佐官の鈍重さをフュヌイが非難したとき、マティアス助祭の声が挟まれた。
「……あれは、私の古くからの知り合いなのです。シモン、彼は……昔は、それはもう熱意だけで生きているような男でした。それが、今ではそれほどまでに……いえ、今でも熱意はあるのでしょう、そうでなければ政務補佐官にまで上り詰められやしない」
「私知らなかったのですけれども、政務補佐官というのは、そんなに高位にあるのですか?」
フュヌイは純粋な疑問でそれを言った。もし相当高位にあるのであれば、フュヌイはやはり神に愛されて幸運を得たのか、そのように思っていた。
「ええ、高位どころか、副王領では副王に次いで第二位の序列にいます。副王は特段事情が無ければ死ぬまでその職務を遂行しますから、もし副王の身に何かあったとき、イベリアから新しく任命された副王が到着するまでは政務補佐官が副王の立場を代理するのです、そのくらい高い役職なのですよ」
そして、フュヌイはその子供じみた動機からは予想できないほどの衝撃に打たれた。
「いま……副王の立場を代理する、と」
「ええ。それが何か?」
「ちょっと……ちょっとお待ち下さいまし」
フュヌイの頭の中は混乱していた。いや、はっきりとしていた。すでに稲妻のように鮮明に理解してしまったものを、なんとかして理解しなかったことにしようともがいていた。しかしその努力はすぐに失われた。そうと決まり、そしてそれが正しいものだと真に分かってしまったとき、その感情と理性との連合体に抗して行動を起こせるほどの精神力は、フュヌイには無かった。
「驚かないで聞いてください、私……私、副王を暗殺いたします」
その目に狂気は無かった。少なくともこの場の3人は、誰もフュヌイに狂気があると思えなかった。
「……無論、殺人は神の法に反すると」
「知らない訳がないでしょう、ですが、しかし、これは必要なことなのです。シフア人すべてに対する大いなる不正義を止めるために必要最低限度の行い、それが副王を暗殺することでしょう。副王が死ねば、メディナさんが代理となる。それを操れないほど、私は愚かなわけではありません。それにこれまでに穏健な方法でどれだけやってきたかは話して差し上げた通りですから」
「……支援も、支持も、もちろんできはしません。もし弑逆を行えば、それが正義かどうかに関わらず、スリストゥウさん、あなたは地獄行きでしょう」
ええ、とフュヌイは短く答えた。そんなことはとうの昔に了解済みであった。それを見て、マティアス助祭は顔を下に向けて押し黙ってしまった。
フュヌイはスィフニウに視線を投げかけた。副王を殺すと言っても、単にフュヌイ一人が鉄砲玉となったり、あるいはそれを別のシフア人が行うのでは何の意味も無かった。だから、彼女の頭の中には一つの計画ができていた。それにはシフア人が200人ばかり必要であった。そのうちの1人としてスィフニウが使えないか、と彼女は思ったのだった。
そして、目線で答えは知られるところであった。彼の目は刃のように笑っていた。
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