知恵の実の赤色

 それから一年が経ち、また冬が日ごとに主張を強くする時期になっていた。一年のうちにマティアスは首都の司教から正式に司祭に叙階された。司祭であれば助祭をだれか叙階することもできたが、マティアス司祭はそれをしなかった。ベルトランの行方は3人の誰も知らなかったし、調べようともしなかった。

 一年前にマティアス司祭が言った、支援も支持もしないという言葉にはしかし着々と準備を進めるフュヌイとスィフニウを黙認し、集会の場や他のシフア人のことについての相談にまで乗っていた、その彼の行動が矛盾するようにフュヌイには思えたので、ある時尋ねてみたところ、「ベルトランのように人道に悖ることはできません」と強い調子で言ったので、すっかり彼はいつでも信用できる人物となったようにフュヌイは思った。

 スィフニウは一年ですっかり元気を回復し、壮健という言葉の似合う男になっていた。今はフュヌイが集めたシフア人たちのリーダー格として、おそらく毎日のように訓練を重ねているはずであった。そのシフア人たちは、まさか教会で数百人も匿うわけにもいかないので、スィフニウが前に住んでいた、あの焼かれた村から少し森を通ったところに新しく村を建てて住まわせていた。畑は割に多く作られていたが、春と今とではそこにいるシフア人の人数差も相当なものだったので、フュヌイは一年を通してずっと食料を運び込み続けていた。フュヌイの計画には老いすぎている者と幼すぎる者を含めば245人、含まなければ204人がその村では暮らしていた。

 そして、フュヌイは一年を通してシフア人を集め続けながら、エンリケを通して金銭を稼ぎ続けていた。その金はシフア人の村への食料を買い、フュヌイの身の回りのものを整えてもまだ半分以上残るようであったので、その金で何人かのシフア人が奴隷として買われ、村に解放されて加わった。また、フュヌイはある程度幸運を利用することができた。フュヌイがシフア人だと知って縋り付いてくる脱走奴隷や、また村の奴隷すべてで半ば無謀な一揆を起こし、そこからなんとか逃げ延びてきたという者などもシフア人の村にはあった。

 フュヌイは今、エンリケの執務室で彼の前に立っていた。物を彼経由で売り捌くためにたびたび出入りしていたので、彼の部下の中にもフュヌイの顔を覚えてしまった者がいくらかいた。フュヌイが帰ってくるその度に出迎えをやんややんやとやり、それがちょっとした騒ぎになることまであった。謝肉祭の頃にエールで酔っ払ったエンリケの兵たちがどういうわけかフュヌイを胴上げしたことが楽しく思い返していたところで、エンリケがフュヌイに代金を手渡した。

「はい、確かに受け取りました。それでですね、エンリケさん、今日はもう一つお話がありまして、東の教会の司祭が交代したということ、ご存知でした? 助祭だったマティアス・ロペスさんが司祭に叙階されたのです、ぜひ一度エンリケさんをお招きしたいと申しておりまして、もし都合がよろしければこれから教会まで、いかがでしょうか」

「それは知らなかった。ただ、すまん、一週間ぐらいは手が離せない。その後に行くから、よろしく伝えておいてくれ」

「ええ、わかりました、確かに伝えておきます。それでは、私も教会に留まりますので次は遅れますが、よろしくお願いしますね」

「ああ、わかった。すまんな、後がつかえているからワインも出さなくて」

いえいえ、と言いながらフュヌイはその部屋を去った。宿舎も出て、ルナに馬車を引かせ、それでフアリキを出て1時間ほど経って初めてフュヌイは気を抜くことができたと思った。常に周りに誰かがいる都市の空気がここまで尾を引いて、まだ彼女の五臓に残っているかのような気持ちでいた。それが不意にそうではないことを感知して、そんなことなどつゆ知らず歩き続けるルナの背を撫でたくなった。

 エンリケを教会に呼び付けたのは、本当はフュヌイが一つ賭けをしたくなったからだった。ベルトランによるスィフニウの虐待は、あのとき確かにフュヌイの感情を燃え上がらせた。副王への嘆願が失敗し、フュヌイの知らぬところで平和に暮らしていただけのシフア人の村――野盗の根拠地と言われていたが、フュヌイはそのことを大嘘だと断じていた――が焼かれ、フュヌイ一人分の稼ぎでは身売りされてしまったシフア人同胞を全て救う手法など無く、万策尽き、世に正義のなかりせば我ぞ正義を行わめと、そのように思っていた。

 その感情は、半ば当然ながら今のフュヌイの中で揺らいでいた。殺害が無条件の善になることなどない。人を殺した者は、地獄で第二の死を受けるのだ。そして、もしフェリペ副王の排除が善であったとして、殺害までそうなのかはフュヌイには判断ができなかった。

 だから、フュヌイはエンリケにこの暗殺計画を明かしてみることにしたのだった。いくらシフア人たちが鍛錬し、副王の近衛兵ぐらいであれば数の暴力でどうにかできるような軍勢となっても、エンリケに反対されてしまえば、暗殺した上でフュヌイが政務補佐官の人形師となることなど到底不可能になってしまう。エンリケとその部下には騎兵が33騎もいるのだ、きっとその場でフュヌイも殺されてしまうに違いない。だからこそ、そうやって彼が反対し、フュヌイは仕方なしに諦める構図となりたかったのだった。

 そしてむしろ、彼が賛成すれば、フュヌイはそれを行わなくてはならないことがはっきりする。そのこともまた期待していた。それが最後の手段であって、王の騎士の承認も得、それであればこそフュヌイは正面切ってその行いが善性の発露であると言うことができた。

 次の日に教会に到着したフュヌイは、スィフニウのいない時を見計らってこの賭けをマティアス司祭に告白した。フュヌイが言葉を途切れ途切れにさせながら話す間、マティアス司祭は静かに彼女の言葉を聞いていた。彼女の声は震えているようで、それなのに神の意志をそのまま表すかのように曇るところが無く、幼い正義感を持つようで、その内に鉛のような頑固さで包まれた理性の計画が潜んでいる、そのような声だった。

「わかりました」

マティアス司祭の答えは、ただそれだけだった。彼がにこやかに笑っているのを、フュヌイは初めて見たかもわからないと思った。

 スィフニウはしかし未だに福音を受け入れない者で、しかもイベリア人への復讐に燃えていた。フュヌイとマティアス司祭は共謀して、エンリケが来る2日前になってやっとその来訪を把握したかのような言い方をした。慌てふためく彼が少しかわいそうだとフュヌイは思った。しかし止められないことには立ち向かえないのだ、とフュヌイは内心で彼に言った。

 そして、それから二昼夜の後、予定通りにエンリケが教会に現れた。側近を一人伴っていたので、エンリケと秘密で話がしたいから、と言い含めてそれを客間に追いやった。マティアス司祭とスィフニウは、聖堂の少し離れたところで遠巻きにフュヌイを見守る格好になった。フュヌイは一度深呼吸してから、エンリケに事を明かした。

 エンリケは賛成した。いわく、自分は祖先のように封ぜられたまましょっぱいところで燻る器ではない、と。いわく、そもそも王の騎士なのに汚れ仕事をさせる副王にはほとほと腹が立っていた、と。その全てに説得力があり、フュヌイはもちろん疑ってかかったが、そこに偽りが潜んでいるとはどうしても思えなかった。

 話がついてしまった。フュヌイは後ろを振り向くと、そこにいたスィフニウとマティアス司祭が呼ぶまでもなくこちらに近づいてきていることを知った。これまではエンリケの軍が使えるか、それがさっぱり分からなかったためにフュヌイの頭の中だけで練り回されていた、その策謀を披露するときが来たのだった。

 計画はこのようなものだった。副王をシフア人奴隷による生産性向上の視察名目でこのあたりまで呼ぶ。途中で護衛をエンリケの部隊が引き継ぐ。それでも近衛兵は残るだろうから、教会の近くまで来てからフュヌイが副王を殺し、スィフニウとシフア人の軍勢が近衛兵を排除する。それをエンリケの部隊が見逃し、シフア人の軍勢が解散してから、シフア人の一揆が副王を殺したと首都まで報告しに行く。そのようにすれば、副王とその周辺以外のすべてを残しながら、彼らだけは粉々に打ち砕くことができよう。そしてそうなればこそ政務補佐官のシモンも副王の業務を代行し、それに口を出し果ては乗っ取るような形でフュヌイはシフア人保護を行えるだろう、そういった計画だった。

「ずいぶんと……大それた事を考えたものだな」

「ええ、そうでしょうとも」

エンリケの言葉からは、彼は実際のところまだ腰が引けているのだということが察せられた。それならば、彼の気が変わらないうちに為すべきことが為されなければならない、とフュヌイは思った。あえて作った居丈高な声が彼を震わせたようで、フュヌイはこのとき自身が万能の錯覚に陥ったのを感じ取ることができた。

「では、早速首都へ向かいますね。エンリケさん、一ヶ月後にはきっと戻ってきますから、それを目処に準備をお願いしますよ、グルイムさんもです」

返事も待たずにフュヌイは歩きだし、その聖堂を後にした。万能の錯覚がこの完璧な均衡を壊してしまう前に立ち去らなければならないという思いと、逆に私が首都へ向かってしまえば誰にも事は止められなくなるから良いのだという計算の2つがフュヌイの頭の中にはあった。

 首都へ向かう孤独な二週間は、それでもフュヌイの精神を蝕んだ。フュヌイが今すっかりシフア人の救済を諦め、副王に服従して生きることを決め、ルナの鼻を後ろに向かせれば、それだけで終わらせることができてしまうのだ。フュヌイは今からやろうとしていることがどういうことなのか、わからないわけにはいかなかった。フュヌイは自身の胃がきりきりと痛むのを感じ、嫌な感覚だと思った。

 それでも、首都までの道では一度として取って返そうとする衝動がこの正義の意志を塗りつぶすことはなかった。フュヌイは自分がまるで撃ち出された矢か何かになったように、前に進まないことはできないと感じずにはいられなかった。

 首都は今年の冬もその賑やかさを全く失っていなかった。首都の南側の境界を画す大河から立ち上る冷気がフュヌイの体を震わせ、それがまた一層フュヌイに賑やかさを求めさせた。フュヌイは駅に馬車を停め、露天に出されていたホットワインを一杯呷った。胃の腑に落ちる熱さを感じて、フュヌイは一年ぶりの宮殿へと足を向けた。

 一年前と同じ様に、フュヌイは宮殿の一室で待たされていた。風を凌げる建物の中とはいえ寒さはフュヌイには凍みるもので、居住まいを正しているのも早々に限界になり、フュヌイは立ち上がってふやふやと動きともならないような動きをしていた。我ながら随分とこの場に慣れたものだな、とフュヌイは思った。そうこうしているうちにシモンが現れ、ちょうど変な姿勢になっていたフュヌイはそれを恥ずかしく思った。

「……誰かと思いましたよ、あなたでしたか」

「ええ、お久しぶりです、メディナさん」

「それで、今回の要件は何ですか、また嘆願しようったってフェリペ閣下にどう扱われたか忘れたわけではないでしょう」

「ええそのくらいは。ですから、逆に副王閣下に来ていただこうと思いまして、ここ一年で効率というものもどんどん上がって行ったので、それを閣下にご視察いただこうと。それを、エンリケ・ラグナルソンの名前を使って取り次いでいただきたいのです」

「なるほど、考えましたね。ですが副王も忙しい身」

「あなたもご存知でしょう、こちらの教会の司祭にマティアス・ロペスが叙階されたのです、顔を立てるとも思ってください。それに、こう言っては失礼ですが、あの閣下が接待を受けるための行脚に応じないと?」

「……よくお分かりだ。そうですね、一年前はあなたに失礼をしてしまいましたから、いいでしょう、今回は私が折れましょう。ですが、今回でもだめだったら、そのときは今度こそですよ」

「ええ、ええ、本当にありがとうございます」

もちろん次回などは無いのだった。そのときのフュヌイの笑みが意地の悪いものになっていやしないか、フュヌイはそのことだけが気がかりだった。

 視察の日程は、それからフュヌイが教会に帰り着くよりも先に決定されたらしく、マティアス司祭とスィフニウにはもう情報が伝わっていた。彼らによれば、それは二週間後であった。

 あと二週間で全てが報われる。全てが正される。そして、フュヌイの地獄行きが決まる。フュヌイはとにかくその日が待ち遠しかった。早く責務を果たしたかった。早く正義を実現させたかった。早く、迫り来る破滅に総身を流されたかった。

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