貧者常衰
幸運にも、スィフニウはフュヌイの馬車の紋章旗を見ることは無かった。馬房代わりに使っている倉庫まで馬車を運んで行くときに表に出ている者は無かったし、木軸の鳴らす音を聞きつけて出てきたマティアス助祭はその音の主がフュヌイだとわかると興味を失って戻っていってしまった。それなので、フュヌイは特に苦労することもなく荷台に紋章旗を隠蔽し、ルナの手綱を地面の杭にくくりつけてからハーネスを外し、飼葉を桶に入れ、そういった馬の世話を完了してからフュヌイは悠々と教会へ入っていくことができた。
フュヌイが馬車を操って現れたという事実は、スィフニウにむしろフュヌイに対する信用を与えたようだった。自称していた商人という職業が元々のシフア人共同体においては存在しなかったことから、新たな職業、すなわちイベリア人の職業だとして強い警戒心を抱えていたと、フュヌイは彼から聞かされた。
フュヌイはまだ鮮明にあの廃村のことに憤激していた。当然と言えば当然のことで、まだ夕暮れ時にしかなっていないのだ、昨日の今日ですらない。吐いた感触でさえ思い出せる。あの村を焼いた者、イベリア人、あるいはエンリケとその部隊、どれでもいいが、それに対する怒りのたけをスィフニウと共有してやりたかった。ただ、それを生粋のイベリア人であるマティアス助祭の前で行うことを賢い行為と弁護することはできなかったし、何より、フュヌイはその感情の糊塗をとても得意としていた。そこから出力されたフュヌイの言葉は、巧妙に熱を帯びたようで、感情が先走った風が装われたものだった。
「そうだ、グルイムさん、私、グルイムさんに教えて頂いた村を見に行きました。……その……私の言葉ではとても足りないように思うのですが……グルイムさんの気持ち、察するに余りあります」
「そうか。俺も……いや、お前らの言う真の神とやらは受け入れられないが……少なくとも、悪い奴らでは無いってことはわかった。飯も寝場所も用意してもらえて、お前の話を信じるなら、見返りも無いんだろう、それは……ありがたいことだ」
「それは良かった、いつまでもいて頂くことは叶わないのですが、ぜひ」
ああ、とだけ返事をして、彼は階段を上がっていった。
フュヌイはスィフニウの音が完全に消えるまで、さも満足げな笑みを湛えたままその場に立っていた。そして扉の閉まるのを聞いた瞬間、その表情は水で洗い流されたかのようにフュヌイの顔から消え去り、その足はマティアス助祭の部屋へ向けて動き始めた。柔らかいノックの音が鳴り、いつかのようにフュヌイは返事を受けずに部屋の中へ入っていった。
「マティアス助祭」
そう鋭く底冷えのする声がフュヌイから放たれた。フュヌイ自身としてはもうすこし物腰柔らかで無害な声を出そうとしたつもりだったので、そんな声が出たことにしまったと思って口をつぐんだ。助祭はフュヌイを一瞥もせずに机に向かったままの姿勢を保って、開かれてあった聖書を読むでもなく読まないでもなく硬直していた。錆びついたような緊張感が自然に解けるのを待つことはフュヌイには無理であるように思われた。
「…………わたしは、不正義を見ました」
今度は、フュヌイの声はうってかわって細かく震えていた。逆に、無理に制御をしない方が助祭の心に訴えかけるものがあるのではないか、という計算からのものでもあった。しかしそれでも、むしろ、その声の調子がまさにフュヌイの本心を表しているので、フュヌイの激情と怜悧さはここにないまぜになって勢いづき止まらないようになってしまっていた。
「村が、焼けていました。腕の切られた骸もありました。村の端の、僅かな大きさの倉庫の、その僅かな中身でさえ、荒らされ、奪われたようでした。そして、そこには……イベリアの旗がありました」
「……大変だったでしょう。グルイムさんのことは、私も力の及ぶ限り援助を惜しまないつもりでいます……司祭も……いえ、こちらの話です、客間は最近使ってもらっている部屋を使えますから、どうぞ」
厳密には嘘にもならないようなほんの小さなことが、やはりエンリケのことが、それでも言うのが躊躇われた。
次の日の朝になって、ようやくフュヌイの頭は平静を取り戻した。今すぐエンリケの元へ行き、あの村のことを徹底的に問うた上でエンリケの責任の無いことを確認したかった。しかし、状況から見て、おそらくそのようにはうまくいかないであろうこと、それをフュヌイの冴える頭は即座に理解せざるを得なかった。なるべく彼を拘束する状況を、換言すれば彼を脅せる状況を作り出さなければならなかった。感情に任せてこのまま即座にフアリキまで帰るなど以ての外である。
ひとまずフアリキを迂回して岩塩坑まで向かうことだけはそう間違った行いではない、とフュヌイは確信できた。別に昼に出ようと今すぐ出ようとここから14日かかる場所、これといった違いも生じなかろうとはフュヌイも思ったが、それでも気が急いて今すぐ馬車を出さなければ気が済まないようになっていた。手早く支度を終えると、フュヌイはまだ水も汲みに行っていない助祭を捕まえて断りを入れ、その勢いのまま馬車はフュヌイを運びだした。
行く先々の村では、やはり前にも見たように、そこで村長格としてフュヌイを応対するのはかならずイベリア人だった。そして、農地の端、道路にほど近いところで休んでいたり手慰みをしていたりするのも、顔をみればおそらくイベリア人であろう人々だけであった。
ただ、一箇所だけ変わっているところがあった。それは季節であった。前に訪れたときにはまだ晩夏の感が強く、収穫作業が始まる前の一休みといった雰囲気が広がっていた。それが今は収穫の真っ只中の時期になっていた。畑にはやたら大量の人が繰り出している。その中に、いくらか縄に繋がれた人がいた。その全てがそうと言い切ってしまうのは少々蛮勇的だが、おそらくシフア人たちであろう、とフュヌイは推測した。フュヌイの常識からすると、同じ神を信ずる善良な人々を縛り留めて働かせるようなことは明らかに暴君的行為であり、真の神の怒りに触れるものであった。
もしそれが一つの村でだけ見た景色であれば、何らかの罪を犯した集団が奉仕させられているのかもしれないと思うこともできた。むしろ、フュヌイは当初そのように思って、それがシフア人だ、などということは微塵も思っていなかった。しかし、立ち寄った村の半数以上でその景色は見られた。罪人がそんなに大量にいては社会が成り立たない。それならば、奴隷的労働を強要されている人々は同じ信仰を持たない人々、すなわち福音を知らないシフア人であるに違いなかった。
そのような理由があったので、岩塩坑までフュヌイがたどり着いた時、彼女の中に燃える憤りは鎮まるどころかむしろ盛夏の太陽のように激烈なものになっていた。シフア人の正義のために何かをしなければ私だって地獄に落ちるだろう、そのような気持ちすらあった。ところがシフア人の正義と一口に言っても、スィフニウの村が襲われたことと村々でシフア人たちが劣悪な待遇を受けていることは、ここではひとまず別の問題であった。後者をいますぐ解決する銀の弾丸は見当たらない以上、まずは前者についてどうにかすることに心血を注ぐべきであった。
フュヌイは一計を案じた。ここまでの村々で厚意を繋ぎ止めておくために払ったそれなりの量の銀貨と、前回運んだ岩塩の代金、これらがフュヌイの手持ちから失われてしまうと残りは本当に微々たる額と言える程度になる。もちろん馬車に掲げられた旗――今のフュヌイにはありがたい御札であると同時に、いくら睨みつけても穴の空かないのが彼女を苛立たしい気持ちにさせるもの――の威光があれば、今回の岩塩のように支払いを先延ばしにすることぐらいは造作もない。だから、あえてそうしなかった。手持ちに残ったわずか銀貨数枚で買える大きさの岩塩を切り出させ、それを馬車の荷台にぽつんと乗せた。
帰りも行きと似たような景色だった。フュヌイは、闇雲な怒りは何の意味も無いどころか判断を著しく誤らせるものでしかない、ということを知っていた。それなのでフュヌイは意識的に農地を見ないようにしていたが、却ってその意識がシフア人のことを見ずとも意識させた。道端に育つ雑草一つを見ても不正義が思われるようになった。昼の明るさが彼らの苦痛を想像させた。手綱でさえも福音を遠ざける道具のように思えた。
フュヌイは馬車を伴ってふたたびフアリキへと帰ってきた。宿舎の前に馬車が止まると、彼女はその荷台から片手で持てるような大きさの岩塩を事もなげに拾い上げた。エンリケの部下が荷台を見てそれだけかと困惑していたので、これだけですよと返しておいた。
宿舎へフュヌイの足が入った。体も入り、腕も入り、その手に持たれた岩塩も入った。今のフュヌイの心を突き動かしていた感情には不正義への憤りも勿論あったが、少なくない部分に勝負の緊張を楽しむ彼女の性格があった。エンリケがどのように言葉を操ってもかならず仕留めてやる、そう思えるだけの経験と自信が彼女にはあった。
入ってすぐ脇のエンリケの執務室をノックすると返事があり、フュヌイはエンリケの顔を見るのも久々だったことをここでようやく思い出した。
信用による後払いが履行されたという形式的な報告をフュヌイは行った。エンリケは、前にフュヌイが預けていた染布の売上のうちフュヌイの取り分はこれだ、というこちらもやはり無味乾燥な応答をした。そして、フュヌイは間合いに踏み込んだ。
「それで、エンリケさん、一つお聞きしたいことがあるのですが」
「ああ、言ってみろ、金の融通だったら相当余裕がある」
「いいえ、そんなことではありませんよ。……エンリケさん、一ヶ月ほど前のことを思い出してください」
フュヌイの頬は不自然に上がっていた。椅子に座るエンリケと机越しに立つフュヌイでは、本来の体格差がすっかり無視されて、この場でだけはフュヌイが圧倒的な優位を持っているかのように両者の目には映し出された。
「……何の話だ?」
「あらいやだ、忘れてしまったのですか? ……村を一つ、焼いたというのに」
エンリケは、当然ながら、フュヌイがシフア人であることは承知していた。彼は一瞬、人間ができる最大限まで眉を顰めたが、次の瞬間には悩ましげで温和なような眉の形が作られていた。
「……お前にゃ関係」
「きちんと話してくれないと嫌です、さもなくば……そうですね、私の他に御用商人など、そうそう捕まりもしないのでしょう? それで、偶然ですねえ、また取りに行かないと、使えるお塩はこれだけみたいで」
やっとフュヌイは右手に持っていた岩塩をひけらかす機会を得た。このときまで岩塩を鷲掴みにしつづけていた彼女の右手はすでに疲労し、もう少しで彼女の足の上まで岩塩が落とされるところであった。
「……副王の命令だったんだ、野盗の拠点があの村だ、焼いてくれないと困る、と近くの住人から陳情が上がった、とかなんとかで」
そして、無意識のうちに自分と同じくらいのへそ曲がりを相手と思っていたフュヌイは、エンリケの素直さに拍子抜けしてしまった。今のエンリケの発言が真実であるかどうか、フュヌイには確かめようが無かったが、少なくとも実行犯であることを認めた、そのことだけでフュヌイは満足していた。
「そうなのですか……それでは、きっと心中の痛いことでしょう、お察し致します……」
「…………そう受け取って貰えるなら、ありがたい」
そしてまた実質的意味を伴わない会話に戻っていった。小さな岩塩の代わりに、フュヌイには端金が与えられた。
「また岩塩を取ってきますから、馬車お借りしますね」
「あい分かった」
そしてフュヌイはそそくさと部屋を出た。
これでシフア人に関する懸案のうちの片方が無事に終わった。
残りの半分のため、フュヌイが向かった先は岩塩坑などではなく、副王領の首都、すなわち副王閣下の座すまさにその都市であった。
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