災禍の外
しかしながら、貧者への施しは善性の義務であった。朝の明るさがフュヌイの目を覚まさせたとき、彼女はスィフニウに福音を伝える希望に満ち溢れているとともに、その道義的義務を果たすべく行動することを思っていた。寝食の提供のよる保護はすでに教会が行っているので、ほかにフュヌイにできそうなことと言えばいくらか金品を包んで生活を立て直す足しにさせること程度だろうとすぐに思い至ったが、今のフュヌイにはその負担は厳しく思われた。
簡単な支度だけ済ませて、何であれ事情を聞かねば話は進むまいと思ってフュヌイは階下へ降りた。こんな辺鄙なところにある教会では日曜日以外にくる客もそういないと見えて、フュヌイには誰かが動いているような空気が感じられなかった。底の硬い、フュヌイの頑丈な靴と安山岩の階段がぶつかる音が否応なしにフュヌイの存在を伝えるので、普段の彼女であれば何もかもが隠れているところに一人だけ躍り出ているような恥ずかしさを覚えるところであったが、今はあまりにも堂々と足を運んでいた。
そして、フュヌイはマティアス助祭と出くわした。彼はこれから炊事場に向かうような風で、薪をいくらか胸に抱えていた。商人も聖職者も日が昇るが早いか起きるが早いかといった職業であった。
「おはようございます。司祭は?」
「おはようございます。……昨日言ってませんでしたか、司祭はフアリキに行っています。明後日のミサも私一人です」
彼は世のことに無頓着であるかのようにフュヌイの前を通り過ぎ、薪をかまどへ一つずつ放り込んでいった。
「まあ、それは大変でしょう、それで、グルイムさんは?」
「夜の間に脱走していなければ、まだ寝ているはずです。パンと水は貰ってくれましたが、彼は相当頑固ですよ。こんなに施しを受けるわけにはいかないと言って聞かなくて、ふらふらと行っては野垂れ死ぬか、もっと悪ければ賊に捉えられて身売りされるか、それとも獣に食い荒らされるか、そんな風に脅してやって、やっと寝床を使ってもらえたんですから」
かまどに火が付いた。そこに風を吹き込む助祭を眺めながら、しばらくの間薪の弾け崩れる音と、助祭が周期的に起こす空気の音だけが聞こえていた。それからそれほど大きくもない鍋に水が入れられ、かまどの上に乗せられた。
「……マティアス助祭、その、よろしければ……グルイムさんの事情をお教えいただけませんか? 私だって……彼をお救い差し上げたいのです」
「とはいえ、しかし話せることは本当に無いのです。グルイムさんが偶然に、私が水を汲みに行く道で行き倒れていたので保護したまでで、どのような事情があったのか詮索するのは失礼だと思いましたから、スリストゥウさん、あなたが話して聞いた内容が私の知るすべてでもあるのです。それに私はそれほどシフア語に明るいわけでもありませんから……」
「……そうですか」
マティアス助祭がタマネギを切る音が始まった。そこまででフュヌイとマティアス助祭との間の話が終わってしまったので、フュヌイはスィフニウの起きるのを待って、襲撃を受けたという彼の村を見に行くことに決めた。待っている間にマティアス助祭の作った簡単なタマネギのスープにパンに浸して食べた。
スープが冷める前にはスィフニウも起きたらしく、上階で物音があったので助祭が彼の使っている部屋まで行って、二人で階段を降りてきた。スィフニウはフュヌイの顔を見るとただでさえ硬直した顔をさらに重苦しくしたが、彼の村だったものがどこにあるのかという問には答えてくれた。しかし、そこまでだった。事情も一応問うてみたが、昨日言ったのが全てだ、と彼が波濤のような声で言ったので、今の彼から情報を引き出すことはフュヌイには不可能であるように思われた。どの道彼がここを離れることはできなかろうから今は諦めてもかまわないだろう、とフュヌイは思った。
フュヌイはまだ早朝のうちに教会を出てフアリキの町へ戻った。フアリキまでは無理のない行程で行けば1日半かかるが、逆に言えば、無理のある行程であれば1日で行くこともできた。一日歩き通しにはなってしまうが、それができないフュヌイではなかった。月明かりを頼りにしなければならない時間帯には町の十分近くに来ていたので、その日のうちにエンリケを捕まえて馬車を使う許可まで得ることができ、さらにその場で正式に報酬を渡されたので、フュヌイの懐は大変に潤った。今日のエンリケは、教会で会ったときに比べるとやはり機嫌を損ねているようであったが、3日前の彼のような取り乱した様子は無かった。
宿舎を出ようとしたときに、フュヌイは遠目でベルトラン司祭の背姿を見た。すぐに見えなくなった。おや、こんなところでという小さな驚き以上の感情を呼び起こすものでもなかったが、フュヌイは司祭に話しかけずに行ってしまうことを少し勿体ないことのように思った。
フュヌイはせっかくなので、その日は町で3、4番目に高級な宿を選んで
その次の日の昼前に彼女と馬車はフアリキを出た。エンリケの部隊の信用を使って買った岩塩の代金を支払うため、そしてさらなる岩塩と染物をフアリキに持ち帰って売るためであった。ただ、今の彼女には他人に頼らずともしばらくは生存できる程度の手持ちがあった。それにどうせまっすぐ向かっても二週間――正確には12日――はかかるところを、少しくらい寄り道しても構う者は無いだろうという算段もあった。それで、フュヌイは先にスィフニウのいた村に行ってみることにした。
件の村は、教会の近くまでスィフニウが疲労困憊ながらも歩いて逃れてくることができたのだ、やはり教会からそう遠くない、馬車であれば6時間ほどと推定される場所だった。フュヌイは今フアリキを出たばかりで教会の方に進行しているが、教会よりも手前のところで道が分岐する都合、おそらく朝一番に出ていたなら日が暮れる前にそこへ到着することができるだろう、というぐらいの距離だった。もっとも、廃村に夕暮れに着いても日と一緒に途方に暮れるだけであるから一度中間点の村を利用する必要があった。フュヌイが昼前まで出発しなかったのにはそういった事情があった。
馬車の車輪は回転し、すぐに雨の降りそうな、それでいてしばらく冷たい風を吹かすだけの働きしかしないような雲の下、賊の潜む隙も無い大農地の中をフュヌイとその馬はしずしずと進んで行った。その馬の名前をフュヌイは今度こそ訊いており、ルナ・ジェナという名であった。フュヌイは縮めてルナと呼んだ。
そしてフュヌイは村に着き、わずか3日前にも
教えてもらった道は、馬車をこれまで一度でも通したことのなさそうな細道だった。地面は木の根と小石とで激しい凸凹を携え、それを避けるためにルナも慎重に足を置き進めていくので、馬車の速度は歩いたほうが速いほどにまで落ちた。フュヌイは辟易していたが、法則の無いそのような不整の地面を人の顔や王冠に見立てて楽しむことでなんとか気を紛らしていた。
帰りもこの道を通ることを思うと、今日フアリキまで帰る選択肢はもう取れないものとなった。かといって村に戻るのでは、昨日支払ったのと同じような額を期待されるのだろう、エンリケの部隊の威信を損なうわけにはいかない以上、教会へ戻ることのみが取りうる選択肢だ、とフュヌイは思った。
しばらく進んだあるとき、道端に突然エンリケの部隊の紋章旗が刺さっているところに遭遇した。フュヌイは首をひねって頭上の紋章旗と見比べてみたが、やはり記憶にあるそれと道端のとは一致し、しかも頭上のものはしばらくの掲示で雨風を浴びて綻びのあるところ、道端の方はつい最近そこに置かれたようにフュヌイの目には見えた。
フュヌイはその意味を測りかねていたが、回答はわずか数分で訪れた。
森の開けた先には、広い焼け跡とその中に建物の残骸とがあった。焼け跡の中心部、高く掲げられた旗があった。遠目に模様を正確に見ることは難しいものの、その色合いは今さっき見たものと相違点を見つけられないものであった。風を遮る木々も無いからか、その旗は激しくはためいて、フュヌイにはそれが武力を誇示しているもののように見えた。フュヌイは馬車を適当なところに停め、そこから降りて何かスィフニウの事情を知る手がかりが無いか探そうとした。
畑にも焼けた灰が降り掛かっていた。道路は煤で、崩れた建物は炭でできていた。おそらく落ちてきた屋根に潰されて死んだ後焼けたのであろう遺体が、その下半身だけが建物の外へと出ていて、しかし丸焦げになっているので、それが若者だったのか老人だったのか、性別さえもフュヌイにはわからなかった。
また別の道にも遺体が転がっていた。今度は黒焦げにはなっておらず、直接燃えたわけではない道に倒れていたからだろう、煤を被っているだけで、フュヌイにはそれが若い男であろうことが見て取れた。非常に痩せた彼の、その左腕は途中から無くなっていた。彼越しに見える、もう少し向こうの道の上に何か棒のようなものが落ちていて、あれの本来の持ち主が彼だったのではないかと思うと、フュヌイは突然吐き気に襲われた。体を強くひねって視界に煤けた土以外の何も入らないようにし、それでもフュヌイは一度水っぽいものを少しだけ戻した。しばらく呼吸を整えると、やっと吐き気は去り、しかしもう家の方は見られないと思った。
フュヌイが顔を上げた方には畑らしきところが広がっていた。救いをそこに求めるようにして体を起こし、立ちくらみを抑えてそこを見に行った。整然と何かが植わっていた区画があった。植物に詳しい訳では無いフュヌイは、この焼けた草を見て元が何だったのかを知る術を持たなかった。しかし、他の村々で見たよくわからない植物よりも、フュヌイにはかなり見知った姿であるように思われた。
フュヌイは別の区画も見てみた。しかし、そこには何も植わっていなかったように見えた。もう収穫がなされたと考えるにはまだ時期が早すぎるし、そもそも表面に焼けた雑草が居座っていたので、そこに何か、いくらか地面の上に伸びていくような植物があったとはフュヌイには思い難かった。
フュヌイは、あの遺体の彼の様子からこの村の食糧事情を察することができた。それでいて何も植わっていない畑があるというのは、つまり食べるものにも困って種を食べたか、そもそも十分植えられるほどの種を確保できなかったか、そういうあたりに違いなかった。村の端にあった倉庫――これはほとんど燃え残っていた――も覗いてみたが、略奪の形跡があり、そこから特段得られる情報は無いようであった。
フュヌイは勿論憤った。エンリケにこれはどういう了見であるか問い糾さないわけにはいかない、そのような衝動がフュヌイの体全体を走り出させようとした。その一方で、フュヌイの頭の中は彼女自身でも恐ろしいほどに冷静な部分が残っていた。彼女が借りている馬車の持ち主、彼女の庇護者、そして商売の取次先、その全てがエンリケである今、フュヌイは彼と正面から対立するのは得策ではないとはっきり理解していた。いまフュヌイが享受している安定した状況は、ほとんどがエンリケとその部隊の威厳に依っていた。それを失えばどれほど立場が不安定になるか、わからないフュヌイでは無かった。それにもかかわらず、彼に対面したときにこの怒りを形にしないでいられる自信は無かった。
フュヌイは再び教会の方へ馬車を繰り出した。スィフニウに馬車の紋章旗を見せることになるリスクは承知済だったが、感情を爆発させないためにも、あるいはスィフニウ相手にであればむしろ爆発させたほうが得であるかもしれないという計算からでもあった。渦巻く感情を叩きつける相手を間違いなく選ぶ、その冷徹な思考が彼女の芯にはあった。
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